第23話 『月−シャボンの夏2−


  月夜だった。
  満月から数日を経た曖昧な形の月が、海にかかっていた。釣り糸を垂れる水面にも、ひとつ。歪んだ月が揺れている。
 脇には無造作に冷やのコップ酒が置いてあった。月見酒などという風流なものではない。夜釣りはあまり引っかからないから、退屈してしまうのだ。
 では、昼間釣ればいいと言うひとが居るかもしれない。しかし夏の炎天下にそうそう糸をじっと見守っていられるものでもない。
一匹釣りあげる前に、日射病で倒れてしまいそうだ。実際ヤム・クーは、おととい倒れた。
「夜釣りなんて、粋ですわね」
「夜出歩くなんて、不良妻っすね」
 同時に言った。
「あらやだ。静かに忍び寄ったつもりでしたのに」
「背後から、うまそうな食い物の匂いが、ぷんぷんするんですけど」
 ヤムは振り向かないで言った。
「肉じゃがを作りすぎたので、よろしかったら。メガネを探してくれたお礼です。タイ・ホーさんとでも一緒に召し上がって下さい」
「えっ。大好物です」
 ヤムの最初の決意はもろくも崩れさった。ヨシノの気配を感じた時に、冷たくあしらって帰そううと思っていたのに。夜の闇が却っていろんなことを暴露することを、ヤムは経験で知っていた。
「そう、よかったわ。肉じゃがを作るのが好きなので、ついたくさん作ってしまいました。
 メガネを探して戴いたのに、翌日にすぐ出発になってしまって、お礼にもうかがえのませんでした。すみません」
 ヨシノは無骨なごついどんぶりを桟橋に置いた。いい酒のつまみになりそうだ。花火柄の浴衣がぼうっと闇に白く浮いていた。
「いえ、出発に間に合ってよかったっすよ。
 うまそうですね、さっさくいただきます」 ヨシノは右腕に包帯を巻いていた。怪我をしたのは噂で知っていた。厳しい闘いだったらしい。おっとりした顔が、こけてやつれている。今のヨシノには、研ぎ澄まされたような雰囲気があった。嘘やおためごかしが通用しない、死と隣り合わせの者だけが持つ空気をまとっていた。
 そう、厳しい闘いだったのだ。城に勝利の明るさはなかった。リーダーの姉・ナナミの死で、城は重苦しい空気に包まれていた。
「いい月ですわね。地上で誰が死のうが、何が起ころうが、月はいつも通り昇る。不思議ですわ」
「・・・いいコでしたよね、ナナミさん」
「ええ。・・・わたくしたちが、旗を焼くことばかりに気を取られて・・・」
「それを言うなら、おいらはその時呑気に釣りしてましたよ。自分を追い詰めるんじゃなく、ナナミさんを慈しみましょう。残された者にできるのは、それだけだ」
「・・・実はわたくし、無断外出の罰を受けていたんです。それで部屋から出られずにいて、お礼に来るのが遅れました」
「知ってますよ。タイ・ホーの兄貴はカオが広いんでね。聞きたくないようなことまで情報を仕入れて来る」
 ヨシノの頬がぷうと膨らむのがわかった。ヤムは笑う。
「別に責めてやしません。
 おいらもクライブさんとはトランの闘いの頃からの付き合いだ。おれでも、やっぱりサジャまで付き合いますよ。あの頃から、兄と慕う人を殺した犯人を追っていた。ビクトールさん達も事情を知っていたから、同行することに依存はなかったのでしょう。
 ナナミさんに死なれたばかりのリーダーに、クライブさんはサジャに行きたいと言い出せなかった。だから告げずに出て行った。
そしてヨシノさんたちも付き合った。・・・でも、フリードさんに内緒にして行ったのは感心しません」
「だって、反対するに決まっているもの、あの堅物」
「おやおや」
「サジャは決して近い村ではありません。回復役がいないと困りますもの。それに、見届けたかったんです。クライブの決着を。
 彼が処刑しようと追っていたのは、おにいさまの恋人だったひとでした。クライブは彼女を愛していました。追っているのは、
処刑の為なのか会いたいからなのか、自分でもわかっていないようでした。彼はエルザさんを撃った後、一晩中亡骸を抱いていました。気持ちは一言も告げませんでした、だからエルザさんはクライブの想いを知らずに殺されたんです」
「・・・・・・。」
「クライブは、月が好きだそうです。却っていつも形を変えるから安心するのですって。変わらないと思っていたものに裏切られるのが嫌なのですって。
 今も城のどこからか、月を見ているのでしょうね」
 そしてヨシノも月を見上げて、小さなため息をついた。
 ヨシノも、月を見るたびにクライブのことを思い出すのだろう。肉じゃがもすっかり冷めてしまった。グラスの酒は空だった。
 ヤムは恨めしげに月を仰いだ。

   ☆おわり☆  



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