第25話  『シャボンの約束


 竿を握った腕が、ふわりと投げ出されたような錯覚に襲われた。その瞬間ヤムは、背中から桟橋の板きれの上に倒れた。脱げた麦わらが、ゆっくりと顔のそばに落下した。
 糸が切れたのだ。
『くそ、縁起なんて信じねえぞ』
 ヤムは麦わらをかぶり直すと、竿の糸を付け替え始めた。リーダー達は今、ルルノイエ皇都へ攻め入っている。ヨシノもメンバーの一員だった。
 
 出発の前日、カンパチの大物を釣り上げたヤムは、嬉々としてハイ・ヨーのレストランへ向かった。二日ほど雨が続いた三日目の晴天で、中庭ではヨシノが敷布を何枚も干していた。
「闘いの前の日まで洗濯ですか」
 背伸びのポーズのまま、ヨシノは振り向き笑顔になった。
「ヤムさん。まあ、お城へいらっしゃるなんて、珍しいこと。
 雨で洗濯が滞ってしまいました。明日出発でしょう、今やらないと又たまってしまうのですもの」
「いいカンパチが手に入ったんでね。店へ売りに行くとこです。お好きでしたか」
 ヤムは、尾を握ってサカナを持ち上げ、戦利品を自慢げに誇示して笑った。
「まあ、大好きですわ。早速レストランに予約を入れないと。フリードも好物ですのよ」
「そりゃあよかった」
「闘いでもし、わたくしが死んだら・・・最後の晩餐ってことになりますわね」
「ヨシノさんっ」
「・・・ごめんなさい。ちょっと気弱になっているのかもしれませんわ」
 彼女は、籠から、ねじり飴のように絞られた白い布を一つ手に取りほどくと、迷いを断ち切るように勢いよくパン、と広げた。
「凱旋に備えて鯛を釣っておきやしょう。めでタイの鯛だ。勝って帰って、必ずおいらの釣った鯛を食ってくださいよ」
「ありがとう。楽しみにして帰るわ。必ず生きて帰ります。
 うふふ、めでタイの鯛ねえ、何にでもタイなんてつくのに。『死にタイ、逃げタイ、帰りタイ』。あら、全部同じ意味だったわね」
「・・・。」
「ヨシノさーん、ユズにも干すの、手伝わせてー」
「ボクも手伝いますー」
 竿に手も届かないユズとトウタが、敷布を干し始めたヨシノに気づき、駆け寄って来た。
「はいはい。ありがとう。じゃあ、二人とも、この絞ったのを広げてくださる?」
「はーい」
 楽しそうに布を開き、時には芝生に引きずったりしながらも、子供たちは次々にヨシノに干すものを手渡して行った。
「二人と一緒に洗濯物を干すのも、これが最後ね、きっと」
「そんなこと言っちゃイヤだ、ヨシノさん、必ず生きて帰って来てよ」
「そのつもりよ。でも、そのあと。戦争が終わればわたくしはラダトへ帰る。トウタ君はホウアン先生に付いてミューズへ帰るのでしょう? ユズちゃんはおじいさんを探す旅を再会する。みんなとはお別れだわ」
 ヤムには、『クライブはハルモニア神聖国へ帰るの。彼とはお別れだわ』と言っているように聞こえた。
「いやだーっ。ユズはヨシノさんと離れたくないーっ。戦争なんて、終わらなければいいよぉ。いつまでもヨシノさんと一緒にいたいもん」
 洗濯物を放り出して、ユズは泣きながらヨシノにしがみついた。ヨシノは困った顔をして、ヤムに苦笑いで助けを求めた。
「ユズちゃん、ほら、ヨシノさんが困ってるよ」
「だって。おじいさんを捜しに旅に出ても、見つからなかったら? もし、死んでいるのがわかったら? ・・・ユズはまだ、ここに居たい。ここでヒツジやピヨちゃんとずっと遊んでいたいよぉ」
 戦争が終われば終わったで、みんなそれぞれ自分の道へ戻って、歩くことを始めねばならなかった。この城は言わばぬるま湯だった。闘いに浸かってさえいれば、それを言い訳にすべてを先送りにすることができた。
 カクの家では、今でもキンバリーの姐御が女房きどりでタイ・ホーを待っているだろう。水入らずで暮らしたい彼女は、またヤムを邪険にするだろうし、すまなそうなタイ・ホーの表情を見るのもつらかった。そろそろ本気で行き先を考えねばならない。
「ユズちゃん、もしおじいさんが亡くなっていたり、子供の力ではどうしょうもないことにぶつかったら、ラダトへいらっしゃい。フリードは子供が好きだし、駄目とは言わないと思うわ。庭も広いからヒツジでもヒヨコでも何でも連れてらっしゃい」
 ヨシノはそう言ってユズをきつく抱きしめた。
 
 ヨシノ達が帰るまでに、何としても鯛を一匹釣り上げねばならなかった。海は凪で、よけいに焦りを誘う。糸はピクとも動かない。こうして、ただ座って待っている身はつらい。
「くーそーっ」
 ヤムは釣り竿を片づけると、小屋に引き返した。
「おう、ヤム・クー。やっと諦めたのか。この辺りで鯛なんて、無理な話だ」
 昼間っから杯をあおるタイ・ホーに返事もせずに、銛を引っ掴むと外へ飛び出した。桟橋につないだ小舟の縄をほどき、沖へと向かう。
 適当な場所で舟の重りを降ろし、着物を脱いで飛び込んだ。ひやりと寒けがして、それがすぐに心地よさに変わる。ヤムは銛を握り直して目を凝らした。
 ヨシノは生きて帰ると約束した。ヤムの目は、薄紅の大きな影を求める。自分も必ず約束を守らねばならない。今のヤムの
支えは、その頼り無い約束を守ることだけだった。

    ☆おわり☆  



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