第26話 『逝く夏は海の香り』 



「忙しそうっすね」
 宴会用のサカナを届けに来たヤムは、厨房を覗きながら小声で言った。
「そうあるヨー。広間では市長達が集まって祝賀会。うちの店でもレオナの店でも、みなが派手に祝杯あげてるアルね」
 ハイ・ヨーは中華鍋を器用に揺すりながら、早口でまくしたてた。あの鯛が、ヨシノの口に入ったかどうか等、訊ねられる雰囲気 はなかった。
「じゃ」
 軽く会釈して、裏口から出た。
 廊下で、楽しそうに歌いながらジョッキを掲げる男たち。庭で裸足で踊る娘たち。走りまわるコボルト。
 城中が馬鹿騒ぎの最中だった。ルルノイエは陥落し、我々は戦争に勝った。全員が無事に帰還した。城のみんなが喜びに酒を 酌み交わし、勝利に酔っていた。
 
 桟橋はすでに陽が落ち、海も空も紺青に染め上げていた。星のおかげで、その境をかろうじて知ることができた。
「ヤムさんは、何故お店の方へいらっしゃらないの? みなさん飲んだり騒いだりしていらっしゃいますよ。タイ・ホーさんも見かけ たわ」
 桟橋にしゃがむ白い影はヨシノだった。浴衣の花火の模様が血痕に似て見えた。
「ヨシノさんこそ。広間にいなくていいんっすか」
「鯛はいただきましたよ。ありがとう」
「いえ。捕れてよかったです、あんな約束しちまって、おいら・・・」
「ねえ、最後に一つだけ、お願いをしてもいいかしら。舟を出していただきたいの。 すぐ、そこまででいいの。
 海から。少し離れた場所からお城を見て見たいの」
 ヨシノの『お願い』を断れるわけがない。ヤムは苦笑して、「いいっすよ」と答えた。
 
 群青は濃紺へと色を変えていった。月は三日月で、闇へと先導する矢印のようだった。
「しまったな。ランタンを持ってくればよかった。もう秋が近いですね、 陽が落ちてから暗くなるのが早い。
 寒くないですか」
「大丈夫、風が気持ちいいわ」
 ヨシノは城の方を振り仰いだ。黒く浮き上がった建物に、 所々に黄色い灯りが洩れている。城の右肩に、鉤爪のような月が かかっていた。
「このへんでいいですか」
「ええ」
 ヤムは櫂を離した。ヨシノは食い入るように城のシルエットを見つめていた。
 テラスか庭では、アンネリー達が演奏でも始めたのかもしれない。 微かな音楽と嬌声がここまで運ばれて来た。
「クライブさんも、この月をどこかで見ているのでしょうね」
 沈黙に耐え切れず、ヤムが口火を切った。
「・・・そうね。きっと展望台かしら。あのひとも、騒ぐのが苦手だから」
「ヨシノさん、こんなところに来ていていいんですか。クライブさんは、 ハルモニアへ帰ってしまうんでしょう。もうすぐお別れじゃないっすか」
「そうね。お別れね」
 ヨシノはまだ城をみつめている。
「愛しているんでしょう?」
 やっとヨシノはヤムを振り返り、ふふっと子供のように笑った。
「フリードの妻のわたくしに、そんなことを訊ねたのは、ヤムさんが初めてです」
 笑顔のはずの黒い瞳から、一粒、大きな涙がこぼれ落ちた。でも、 ヨシノの唇は笑みの形を崩さなかった。
「今さら展望台へ行って、どうなるというのですか?  クライブが愛しているのはエルザさんだけです。わたくしのことなんて、露ほど も想ってやしません。
 宿で、二人きりで並んで月を仰いでいた時も、袂の触れることもないほど離れて立っていました。触れようともしませんでした。
 わたくしの鼓動が彼に聞こえるかとビクビクしていたのに、わたくしの心はあんなに乱れていたのに、彼の心はエルザさんの ことで占められていて、わたくしのことなんか、観葉植物か銅像でも立っているのと変わらないみたいに、いつもと全然態度は
変わらなくて・・・」
「ヨシノさん・・・」
 ヤムが肩に手を置くと、ヨシノの涙は堰を切ったように流れ出した。
「クライブ、何故わたくしの前に現れたりしたのっ」
 悲鳴のような叫びだった。ヨシノはヤムの襟を握って嗚咽を洩らし、 しがみついてきた。指先が白くなるほど、きつく握って いた。その力の強さは、そのままクライブへの恋の強さだろう。
 ヤムはヨシノを抱きしめた。他に何ができただろう。まるで道化だ。
 抱きしめているときめきは、微塵もなかった。背にまわした腕も、顔が埋められた胸も、ヨシノと触れている肌は、ナイフで切り 刻まれたようにずきずきと痛んだ。
 でも、ヨシノを何とかしなきゃいけない。何とかしなければいけなかった。
 ヤムはヨシノの長い髪を手でどけると、細い首筋に唇をあてた。
 タイ・ホーのせいで、こういう状態の女のおもりは、常にヤムの役目だった。タイ・ホーに遊ばれて捨てられ、泣きじゃくる女たち を、ヤムは何人も抱いてなだめすかした。冷静さを取り戻させるには、それが一番効率のいいやり方だった。ヤムに伴う心の痛み を別にすれば。
 ヨシノは特に抗う様子はなかった。これからヤムがすることを、十分承知しているようだった。帯をほどいて襟をゆるめ、浴衣の 肩を抜くと、二つの肩が月に白くぼうっと浮かんだ。メガネをはずし頬にキスすると、 ヨシノは視線をそらした。それがヨシノが 初めてみせた反応だった。
 遠くから見ていたかった。それで、よかった。どこで歯車が狂い始めたのか。
 ヤムは情けない顔をしていたかもしれない。だが、長い前髪が彼の顔を隠し、月にも表情は読めなかっただろう。
 
 三日月は城の上空をゆっくりと移動し、みんな部屋に戻ったのか、城には灯りのともる窓が増えていった。
「きれいね」
 ヨシノはもう泣いてはいなかった。睫毛は濡れて束になっていたが、 城へ視線を移す顔にはうっすら笑顔がみえた。暗がりに白く 浮き上がった肩に、ヤムは花火の浴衣をはおらせた。
「寒くないですか」
「少し。・・・もう夏も終わりね」
 はにかんで下を向くヨシノの顔に、メガネをかけてやる。ヨシノは今度はしっかりとヤムを見つめ、涙を含んだ睫毛をしばたか せた。
「落ち着いたようですね」
 コクンと頷き、恥ずかしそうに再びそのままうつむいた。こういう時、女はたいてい、照れたような、叱られた悪戯っ子のような 表情をする。ヤムに抱かれてしまったことではなくて、捨てられて泣いたことや取り乱したことを恥じている様子で。
 ヤムは男友達にでもするように、ばん、と背中を叩いた。
「あんたみたいないい女を振る男のことなんて、とっとと忘れちまいな」
 いつものように、そう言ってやる。
 ヨシノはくすりと笑って頷いた。
 
 城のひとつひとつの窓に、それぞれのドラマがあった。みんな、自分なりの想いを抱え、戦って来た。
 そして、旅立って行く。
 明日からは、ひとつ、またひとつと灯りのつかない窓が増えていくのだろう。
 アンネリーの歌う、澄んだ旋律が流れてきた。季節は流れ、故国は遠い。
 ヤムの夏が終わろうとしていた。

       ☆おわり☆


第21話を書いた時はすでに、最終話までのプロットがあった。でも、城での日々が流れていく感じも出したかったので、細かく話を 分けました。
幻水はキャラ立てのすばらしいゲームだけれど、やはり男性が作るものの弱点で、ヨシノやヒルダの「妻」は絵に描いた良妻って いうか、ステレオタイプだなあと不服でした。(だからってこんな話にしなくても・・・) 夫のフリード君には、本当にごめんね。ラダトへ帰ったら、仲良く暮らして下さい。


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