第34話  『金の海のバレリア』


 シーナが砂漠をさまよう夢を見たのは、喉の乾きのせいだった。強い酒は、蟻地獄に吸い込まれるような短時間の眠りと、ヒリヒリと焼ける喉の痛みを与えた。
 頬をさらりと風が撫でて、悪い夢から醒めた。へばりついた瞼を無理矢理に引き剥がす。開いた窓から、うっすら明るくなった空の色と、夜明けの風が入り込んでいた。
「御曹司、早起きだな。それともションベンかあ?」
 窓辺のヘリに座って、城の庭を見下ろしていた大きな影が、シーナの気配に気づいて振り返った。
「いや・・・。喉が乾いて」
 ビクトールの手にはグラスが握られていたが、そこに入った液体が、シーナの求めているものでないことはすぐにわかった。ビクトールは「まだ」飲んでいた。いや、夜が明けたのだから「もう」飲んでいるというべきなのか。
 シーナは水差しを探そうと頭を起こした。背中を軽い痛みが襲った。床で寝てしまったらしい。そう言えば天井が妙に遠い。
 そう、「バレリアの送別会」と称してレオナの酒場でしこたま飲んだ後、ビクの部屋に流れた。シーナの記憶は既にそのへんからあやふやだった。
 正面のソファでは、フリックがマントを体にからませるようにして眠っていた。長い片足がだらんと下に垂れて、死体みたいだ。
 ゆっくりと、シーナは背骨に負担がかからないように起き上がった。洗面所までのろくさ行って、蛇口の下に顔を持って行って水を飲んだ。喉の痛みが薄らいでいく。ここのオアシスの水源は錆の味がしたが、水分補給中に銃を突きつけられる心配も、毒サソリが近づいてくる心配もない。ついでに顔も洗い、服の肩口で水気を拭き取った。
 部屋に戻って、初めてベッドにバレリアが寝ているのに気づいた。上掛けもかけず、軍服のまま、轢き殺された猫みたいな格好で横になっていた。
 思い出した。最初は、シーナがベッドに寝ていた。バレリアに「邪魔だ、どけ」と肘で小突かれて、仕方なく床へ降りた。シーナを退けた後も、ビクのベッドに潜って「汗くさい」だの「男くさい」だの文句を言っていた。・・・・・・眠っている顔は可愛いのになあ。
「おはよう、ビク。年寄りは早起きだな」
「誰が年寄りだ! それに、寝てねーよ」
「ずーっと飲んでたのか?」
 シーナは呆れたように言った。
「いや。眠れなかったんで、起きていただけだ。だいだい、どこにオレが横になれるスペースがある?」
 ごもっとも・・・。
「寝顔だけは天使みたいだな」
 ビクは、自分のベッドを占領する女戦士を顎でしゃくってみせた。
「おまえも厄介な女に惚れたな、シーナ」
「ぼ、僕は別に・・・」
 否定しようとしたが、諦めた。ガサツそうに見えるビクトールが、実は油断のならない男だというのを知っていた。昨夜の自分は無防備すぎた。ビクは、母親のような勘のよさと、父親のような洞察力を持っていやがるのだ。
「期待は持たない方がいいぞ。だいたい、女だと思わない方がいい」
「ひどい言われようだな」
「強過ぎるのさ。剣だけじゃなく、精神が屈強すぎる。崇高すぎる。誰の助けも必要ない。一人で生きて行ける獣には、差し出された手はうっとおしいだけだ」
「・・・。」
「あの月にひとり残されたとしても」と、ビクは薄くなっていく月を見上げた。
「たった一人で生きて行ける奴さ。孤独に心が乱れることもない。なぜなら初めから孤独だからだ。大勢の中にいても、人は一人だと知っているから」
「軍で部下に囲まれてても? この城で仲間と一緒でも?」
「オレ達と居る時も、だ」
 この感じは、口の中に砂が入った時に似ていた。苦くてザラザラして軽い痛みがある。シーナはまだ砂漠の夢の続きのような気がした。
「自分を見失って、おろおろして、オレは一体何をやってんだ、こんな馬鹿なってうろたえる。・・・それが恋だ。バレリアの心は強過ぎる。
こいつは恋なんてできない」
「そうかな。僕にはそんなに強いとは思えないよ。臆病だから、鎧で固めてガードしているように見える」
 ここまで帰る道のり、バレリアといてそう感じた。完璧に強い人間なら、トラウマなんてとっくに乗り越えている。剣の修行に未だに熱心なのは、自分が弱いと知っているからだ。
「・・・お前も結構もうドツボだなあ。
 オレ達はもう、そうそう会うこともないだろう。また集うことがあるとしたら、世の中が不穏に動き出した時だ。そんなのは、無いことを願うさ。
 オレが言ってやれるのは、今日のここまでだ。もう、愚痴も聞いてやれんし、相談にも乗れない。あの国で、シーナをシーナとして受け止めてくれる奴が、そう多いとも思えんしなあ」
「あ・・・」
 シーナは、初めて仲間との別離を意識した。ビクもフリックも、ここでお別れだ。シーナはいつの間にか、ビクを兄のように思っていた。
「大の男が、そんな情けない顔するな。バレリアを守るには、こいつより心も体も強くならなきゃいけないぞ」
  朝焼けの金色の光が部屋を包み、窓に立つビクトールをシルエットに変えていた。眩しくてシーナは目を細める。
 ベッドの上で死んだように眠っていたバレリアが、光に顔を歪め、寝返りをうった。光に背を向けると、再び寝息をたて始めた。
 月でも、たぶん砂漠でも、一人で生きていけるバレリア。シーナが悪戦苦闘した熱砂の世界を、彼女は軽々と砂を踏みしめ正しい方向へ進むだろう。金に輝く砂の海の中で、彼女が後ろを振り向くことはないだろう。
 なのに僕は追って行こうとしている。
 朝日を反射して波のように輝くシーツの中で、バレリアは眠っている。シーナはその背中を見ていた。

            ☆ END ☆  


シリアスなバレリアを書いてみたかったもので。でもやっぱり、彼女はギャグの方が決まるかなあ、と思いました。


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