第35話  『女のステイタス』


 ボブはオオカミ男のまま、両手で生の牛肉を掴むとかぶりついた。皿にはナイフとフォークが添えてあったが、必要を感じなかった。この姿の時は、野性が解放される。良く言えば、だが。つまり『完全な人間』である時の理性の箍がはずれやすくなるのだ。
「おいしい?」
 レオナが笑顔で覗き込んだ。がらんとした店のフロアに、眠気を誘うようなぼんやりした昼下がりの陽が差し込んでいた。
「旨いよ。でも、本当にタダで貰っちまってもいいのか?」
 不安そうに尋ね返す言葉のわりには、肉はすでに半分が牙に噛み切られ、口の中にあったのだが。
 変身後もボブは、直立歩行で武器を握ることができた。変わるのは、黒く艶やかな毛並みに顔以外が覆われることと、尖った耳、そして牙。歯が牙に変化する為に、ほっそりした顎がごつくなるが、狼の毛並みが輪郭を隠すのでそう目立たない。もちろん一番変わるのは、増大された筋肉の小山なのだが、それも毛並みで隠されている。そう、それから爪。これには気をつけねばならない。仲間の肩を軽く叩いたつもりでも、相手を傷つけてしまうからだ。
 レオナはキセルをくゆらしながら、「いいんだよ。どうせ昨夜の余りもんなんだから」と、ボブが肉をたいらげるのを目を細めて見つめた。
「それに、若くていい男にふるまうのは、女のステイタスさ」
 いい男? オオカミ男の俺が?
 どうせ世辞だろう。ボブは上目使いで、目の前のテーブルに肘を付くレオナを盗み見た。
 水商売女の素顔独特の土気色の顔。左右対称で眉尻の無い眉。赤いマニキュアは所々が欠けて剥がれ落ち、毎晩この店で繰り広げられる華やかな宴が、うたかたの夢であることを感じさせた。
『おや?』
 舌にびりりと軽い痺れを感じた。肉が痛んでいたのか? こりゃあ、ハラ具合に気をつけていた方がいいかもしれない。
 しかしその心配は不要だった。肉は新品だったし、ボブは一分もたたないうちに痺れで気を失ったからだ。
 
 意識が戻った時には両手を後ろ手に縛られていた。足も一緒にくくられている。ベッドよりもっと硬くて冷たい板のようなものの上に転がされていた。
 闇の中で目をこらす。見覚えがある。ここはハイ・ヨーのレストランの厨房だ。自分は調理台の上に置かれているのだ!
「肉の方はワタシの店で貰っていいアルね?」
 ドアの隙間から灯りが洩れていた。声をひそめたハイ・ヨーの声が聞こえた。
「でも、毛皮には、絶対傷をつけないでちょうだい。ウルフのハーフコートを作るの。
ミンクや銀狐とまではいかないけど、素敵でしょう?」
「レオナさんは、どうせ寒い場所になんて行かないアル」
「でも、毛皮のコートは女のステイタスですもの」
 ホホホとレオナの高笑いが、ボブの横たわるだだ広い厨房にまで響き、こだましていた。

☆ おわり ☆   


ボブが、ますます人間(女性)不信になりそうで心配。


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