第38話   マゾヒストの男ではない


 金塊を入手してきたボブに与えられた、その肉は、自分で言うだけあって確かに極上だった。物欲のつよい女は快楽にも貪欲で、率直で正直だった。
 レオナの部屋でシャワーを借りながら、ボブは背中に滲みるほどの掻き傷を感じた。
 オオカミになった時の自分は、爪で仲間を傷つけないよう細心の注意を払う。だが、人間の−女の−レオナは、自分の楽しみの為なら、相手を痛めても頓着しないらしい。
 
 タオルを首にかけたまま部屋に戻ると、レオナは素肌にシーツを羽織ったままで、サイドテーブルに何かの書類を広げていた。
「ねえ、ボブ。この承諾書にサインをしてほしいの」
「なにさ、これ」
「あんたが死んだら、毛皮をアタシに譲るっていう契約書だよ」
「・・・・・・。」
 ウサギのコートが手に入った今でも、まだ俺のことを狙っていたのか!
 だが、ボブは、正直言って自分の死後のことなどどうでもよかった。火葬でも土葬でも鳥葬でも、好きにしてくれと思っていた。皮を剥ごうが、レストランの食材に使おうが、知ったこっちゃない。ボブは気軽にサインに応じた。
「ありがと。これで、あんたに万一のことがあっても寂しくないよ。毛皮をまとえば、きっとあんたに抱かれてるみたいだ」
 嘘をつくな。
『これが、アタシにぞっこんだった男の毛皮だよ。「死んだ後でも君を包んでいたい」って遺言だった』
 みんなに自慢して回る、その表情まで見えるようだ。
『サディストの女の相手をするのは、マゾヒストの男ではない』
 ボブはもう一度そのフレーズを反芻していた。
 
「それ、狼のお肉なんですって」
 えっ、とボブは顔を上げた。
「燕北の峠で捕獲したんですって」
 ボブはシチューの皿に、スプーンをぽちゃりと落とした。思わずうっと口を抑える。
「どう、おいしかったかしら?」
 レオナはこういう女だった。
 開店前の彼女の店で、昼食を御馳走してくれるなど、親切の振りには裏があるのだ。
 同族の肉を食らってしまったボブは、突き上げる吐き気にトイレへ駆け込んだ。
『いつか、あいつの喉笛か内蔵を食いちぎって殺してやるっ』
 
「お店の子達が来るまで、だいぶ時間があるわ。しない?」
『しない?』という謙虚な誘いのわりには、ボブがトイレから戻った時、レオナは店のソファで既に全裸で座っていた。
 店は、昼間見ると結構痛んでいる。端がはげかけて丸まった壁紙、ささくれた木製のテーブル、所々縫い目のあるソファ。夜のシャンデリアの下では、殆ど気づかないだろう。酒と香水と嬌声も、神経を麻痺させているのだ。
「バカ言うなよ。親戚をハラに入れちまって吐いたばかりだ。そんな気になるかよ」
「大丈夫よ。アタシが相手なら」
 今すぐ噛み殺してやりたかった。
「俺はマゾヒストじゃないぜ」
「なによ、それ?」
「・・・。いや、なんでもない。
 ここは店の中で、今は真っ昼間で、すぐ窓の外ではゲンゲンやアイリ達の笑い声が聞こえてるんだけど」
 おまけに、この店には、閉店の時にレオナが外から締める為にしか鍵はついていない。いつゲンゲン達が、取り損ねたボールを探して、いきなり扉を開けるかわかったもんじゃないのだ。
「来ないの?」
「・・・・・・。」
「そう。じゃあ、他の人のところへ行くわ。タイ・ホーかシーナかシロウか・・・」
 背もたれにかかったドレスに手を伸ばした。俺以外の男に抱かれに行くと言うのか。
「待てよ」
 レオナは手を止めて、ゆっくりと振り向く。婉然とした笑みを浮かべて。そこでボブはまた罠にはまったことに気づく。
 自分は、籠の中の鳥なのだ。レオナの子宮の中に閉じ込められた哀れなスズメ。
 決めた。
 内蔵でも喉でもない。殺す時は、子宮からまず食いちぎってやる。
 絡みつくレオナの腕を感じながら、ボブはそう決心していた。

☆ つづく ☆  


 文中に出て来る『マゾヒストの男の相手をするのはサディストの女ではない』というフレーズは、大原まり子氏の『マイ・アンダー ウォーター・ボーイ』という作品の冒頭です。


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