第39話    『三千万年むかしから


  カーテンのむこうでレオナの声がした。
「では、命に別状はないのですね」
 そんなにあからさまに、がっかりした声を出すなよ。治療室のベッドに横たわったボブは、人ごとのように、可笑しくて吹き出しそうになった。ホウアンが「右足のスネを七針縫っただけですから」と答えている。
 だいたい、人間の姿で死んだって、お目当てのモノは摂れないだろうに。それとも、瀕死のボブが、レオナの為に(大笑いだ)、最後の力をふり絞って変身するとでも思っているのだろうか。
『いや、コイツならやりかねない』
 ボブは天井を睨んだまま、自分の鼻の頭をちょこんとはじいた。
 
 三日分の痛み止めと消毒薬を貰い、レオナの肩を借りて自分の部屋へ戻った。トイレや食事ぐらいなら立って歩いてもいいと言われたが、まだ体重をかけてはいけないので動くのが厄介だった。治療室から部屋に続く通路では、何人かと会った。部屋に着くまでの間に噂が城中に広まったに違いない、とボブはため息をついた。
「痛い?」
 ベッドに倒れ込んだボブの横で、レオナもマットレスの端に腰を降ろした。
「決まってるだろ」
「痛み止め、今飲んでおく?」
「ああ。頼む」
 レオナはすくっと立ち上がると、グラスに水をなみなみとついで持って来た。欲張りなレオナらしい。
 ボブが戦闘で怪我をして運ばれてからのレオナは、女房気取りで甲斐甲斐しく世話をした。ボブを気づかっているわけでもなく、看護婦さんごっこがお気に召したからなのだろう。
 ボブは差し出された三粒の黄色い錠剤を、何の疑問もなく呑み込んだ。
「なぜ人間のままで闘ったの?」
 レオナは不満そうだった。
「たいした敵じゃなかったからだよ」
「怪我させられたくせに」
「・・・ふん」
「ねえ、痛い?」
 レオナはボブの顔を覗き込んだ。幼女のようなあどけなさで、瞳を見開いてさっきと同じことを尋ねた。嬉しそうだった。コイツは俺が痛いと嬉しいんだ。ボブはそう思った。
 痛み止めが効いてきたのか、痛みは鈍くなっていたが「ああ」と答えておいた。レオナは満足そうに微笑んだ。
「少し眠るよ。目が回ってる」
 言ってから気づく、なぜだ? 足に怪我しただけだ。麻酔が切れかけているのか?
「三回分いっぺんに飲むと、やっぱりラリってる?」
「バカ、おまえ・・・」
 レオナの顔がブレて三人に見えた。こんな恐ろしい女が何人もいてたまるか。首をしめてやろうかと手を伸ばすが、遠近感は目茶苦茶だったし、どのレオナが本体かもわからなかった。自分の指先がぐにゃりと曲がった。天井の模様が、蜘蛛がすきまなく張りついているみたいだった。
「ちっくしょう、やりやらったな」
 唇がうまく動かず、言葉はろれつが回っていなかった。その口をレオナの紅が覆った。鮫にでも頭から食らいつかれたような気分だった。食うなら食いつくせばいい。毛皮も肉も骨も、全部コイツのものに違いないのだ。
 ポタポタと蜘蛛が落ちて来る。色素の抜けた白いニシキヘビが体に巻きついてがんじがらめにしていた。そいつはボブと目が会うと、先割れした長い舌で顔をなめまわす。シーツだったはずの布はぼこぼこと音をたてて沸騰していた。熱いはずなのに、
全身を冷たい汗が流れた。腕や足を大量のトカゲが這い回っていた。チクリと一匹が足先に噛みつく。一瞬頭のてっぺんにまで痛みが貫いた。手の甲にもチクリと噛みつく。指と指の間にも噛みつく。太股にも首筋にも右の瞼にも。サタンに強姦される夢だって、もう少しマシだろうと思った。
 
 首から下がすぐに右足になっているような痛みで、ボブは目が醒めた。麻酔も痛み止めも切れて、傷の痛みが戻っていた。ボブはかえってそれにほっとしていた。
 汗が乾きかけて、寒けがした。部屋はしんとしていて、夜だった。レオナはとっくに店に出かけたのだろう。
 テーブルに食事が用意されていた。冷めても味の落ちないローストビーフやコールスローのサンドイッチ。ピクルスが星の形にカットされていた。何考えてるんだ、あの女。
 俺たちは何なんだ?
 恋人なのか?
 混乱と困惑の中で耳つきのサンドイッチにかぶりつく。
「うわっ、辛ーーーっ!」
 パンを開くとマヨネーズと見紛うほどマスタードが塗りたくってあった。
 百万の『NO』がボブを襲った。玩具。ペット。奴隷。たぶんそのうちのどれかだ。全部なのかもしれない。

☆ つづく ☆  

  

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