第42話 紅い花が揺れていた


  自分は闘いで死ぬ予定だった。そのつもりで戦闘に臨んだ。もう、すべてを終わりにしたかった。
 だが、運悪く生き残り、城へと帰って来た。夜中に部屋に辿り着き、眠ろうとしたが、一睡もできないうちに窓の外が明るくなった。
 ボブの隣にいたオウランの方が、ひどい怪我を負って診療室に運び込まれていた。返り血がボブの胸にもかかり、今もまだ茶色く固まって毛先を束にしている。
 そう、ボブはまだオオカミ男のままだ。闘いの興奮のせいで、人間の姿に戻れずにいた。オウランの、大量の血液を見たせいもある。オオカミ男の時は、血の匂いだけでも高揚して、好戦的になってしまうのだ。
 
 店を閉めて、レオナが部屋に入ってきた。
「どうしたの?」と、ボブの姿を見て嬉しそうに笑った。出刃包丁でも持っていたら、即座に刺し殺されたかもしれない。彼女はまだ、ボブの毛皮でコートを作ることを夢みていた。
「・・・ヒトに戻れないんだ。気分が落ち着けば、自然に戻ると思う」
「あら、そのままでいいわよ。その方が普段よりずっとイイ男よ」
「・・・・・・。」
 ボブはジロリと一瞥を食らわせたが、レオナは怖がりもしない。それどころか、ボブの『毛皮』の質を確かめるように、あちこちを撫でてまわった。
「よせ、触るな」
「血がついてるわ。あんたのケガ?」
「いや、オウランのだ」
 言葉にした途端、自分の瞳が金色に発色したのがわかった。彼女が斬りつけられたシーンを思い出し、気持ちが高ぶった。
「俺に近づくなよ。精神が普通じゃない。ケガしてもしらないぞ」
「他の女の血で感じたの? 聞き捨てならないわね」
 レオナはバッグからバタフライナイフを取り出すと、自分の左手の掌に傷をつけた。
「レオナ、馬鹿なことを!」
 ぽたり、と床に血がしたたり落ちた。
「や・・・めろ。やめてく・・・れ」
 ボブは両のかいなで頭を抱え、ベッドの上でしゃがみこんだ。爪先から、野性の血が駆け上がってくる。感情を塞き止めるダムはもう決壊寸前だった。
 血・・・生肉・・・ヒトの肉・・・。
 体の遠くの方からやってくる金色の光が、今にも全身を支配しようとしていた。
「レオナ、そのナイフで俺を刺せ。俺を殺してくれ! でないとおまえを食い殺してしまう・・・」
 だが、レオナがかつてボブの願いを聞き入れてくれたことなどなかった。血のついた指で、白だか銀だかの光沢のあるドレスのボタンを、ひとつふたつと外していく。手首に血がつたった。白いドレスには、点々と、血痕の水玉模様が散らばる。
 喉から嗚咽が洩れたと思った瞬間、それは遠吠えになって部屋の窓をびりびり揺らした。ボブはレオナに飛びかかり、ドレスを爪でひっかき切り裂いた。
 
 何度も『オオカミ』に意識が支配されそうになった。喉も子宮も噛みちぎりたい衝動が襲う。だがそのたびに、ボブは爪でシーツを引き裂き、自分の腕に牙を当てた。
 意識がはっきりした時には、ヒトの姿に戻っていた。
 ズタズタのシーツは血で汚れ、マットレスさえ所々が破れてスポンジ屑が飛び出している。
 レオナは隣で天使の寝息をたてていた。確かに生きているようだ。つるんとタマゴのような肩、陶器のような白い背中、美しい流れの胸の曲線。レオナは無傷だった。開いた掌の、乾いた傷を除けば。
 そこら中の血の跡は、ボブの腕からのものだった。噛み跡は四ケ所。そのうちのひとつからは、まだ血が流れていた。
 レオナは生きている。赤ん坊みたいな寝顔だ。レオナは生きている! 生きている!
 
 頬にキスをすると、ぱちりと目をあけた。
「・・・さっきから、起きてたな」
「ふふふ。結局食い殺せなかったじゃない」
「ふん。・・・俺が殺せなくても、俺のガキがやるさ。オオカミ男の子供なんて孕んでみろ、きっと胎盤を食い破って出てくる」
「・・・・・・。」
 珍しく言い返して来なかった。さすがに怖くなったのかもしれない。いつヒトに戻ったかをボブは覚えていなかったが、少なくとも『最初の一回』の時はオオカミ男だった。可能性がないわけじゃない。
 但し、本当は初めから『オオカミ男』が産まれて来るわけじゃない。その資質のある者が、少年から青年にかけて変身のコツを得る。ボブも少年時代は、何の疑いも持たずに人間として育った。
「店に出るまで、少し時間があるんだ。庭を散歩しないかい?」
 レオナが誘った。コイツがベッド以外の場所へ誘ったのなど、初めてだった。
 
 庭のコスモスをからかい、まだ青々した木々を罵り、そして別館を通って裏庭へ出た。崖から見おろす海の色は、二人が苦笑したくなるほど青く澄んでいた。風がレオナの後れ毛に触れていく。
「ねえ、オオカミ男の赤ん坊ってさ」
「えっ?」
「おムツさせんの? それともトイレ砂でしつけるの?」
「・・・・・・。」
 ボブはまじまじとレオナの顔を見つめた。冗談を言っているようには見えなかった。さっき黙ったのも、もしかしたらこの『大問題』に悩んだからなのか?
「おまえ・・・俺の子を孕んだら、産む気でいるのか」
「当たり前だろ」
 ボブは何度もまばたきした。うそだろう?
「なんで?」
 尋ねた途端に、平手打ちが飛んできた。
「いってぇーーー」
「ねえ、そこの花を取って来てよ。そしたら許してあげる」
「・・・・・・。」
 殴られた俺の方が、なんで『許してもらう』んだ? ボブは頬に手をやった。唇が切れて血の味がした。
 
 柵からだいぶ離れた、崖したの土手に、その花は咲いていた。曼珠沙華だろう。紅い細い花びらが、イソギンチャクのような毒々しさで、風にそよいでいる。手折ろうと近づくと、手首ごとぱっくり食われそうだ。
 レオナの好きそうな花だ。彼女は自分に似たものが好きなのだ。
 華奢なしなる枝を左手で掴んで、そろりそろりと崖を降りていく。
「大丈夫?」
 レオナが後ろから声をかけた。
 彼女が心配しているのは、枝の強度でも足元の土の脆さでもなく、もちろんボブの安全でもなかった。花びらを散らさずにボブが花を無事に持ち帰るかだけだ。
 それでも。
 花を手にした時の、レオナの笑顔のイメージが、ボブの脳裏いっぱいに広がる。
 ボブは手を伸ばした。
サディストの女の相手をするのは、マゾヒストの男ではない。三千万年むかしから、愛した方が負けだった。
 指先から三センチ先で、紅い花が揺れていた。

        ☆おわり☆ 

 

日本の人気女流作家(山田詠美さんや小池真理子さん)が『幻想水滸伝』を書いたら」という、とんでもないパロ(笑)。 全国のいい子の皆さんは、レオナの真似はやめましょうね。
どろ沼の中の、ほんのひとすくいの上澄みみたいなものを書きたかった。ゼミでは理解してもらえなかったけど。
坂口安吾の「桜の森の満開の下」みたいに、恋の相手に翻弄されて苦しむのって一種の恋の至福だと思うんだけどねえ。


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