第61話 『フィッチャー市長最後のお仕事 第一章』



 春が近かった。ガラス越しの陽射しはぽかぽかと眠りを誘い、フィッチャーは市長室の机で舟をこぎはじめていた。
「入るぞ」というシュウの声を認識した時には、声の主はもう部屋に入り、フィッチャーの机の横に立っていた。あわてて目をこすり、よだれをぬぐう。「平和で何よりだ」と、シュウはさっそく厭味を言った。
「事前にご連絡いただければ、お迎えに出ましたのに」
「ミューズもだいぶ復興したな。建造物はほとんど元通りだ。あとは人が戻って来るかどうかだな」
 シュウは手を後ろに組み、窓の外の街の景色を見おろした。戦争が終わってから半年、いや8ケ月が過ぎていた。シュウの手腕のおかげか、国は落ち着きを取り戻していた。
「大統領がおしのびで、いったい何の用です? まさかミューズ観光に来たわけじゃないでしょう?」
「実は、『女』のことで、個人的な頼みがあってね。市長としてではなく、友人のフィッチャー、おまえに頼みたいんだ」
 かつて、シュウがフィッチャーの友人だったことなどあるだろうか。
 またヤバイ仕事の依頼なのだろう。
「ジョウイの死体が、ルルノイエ城から発見されなかったことは知っているよな?」
 シュウのまじめくさった口調に、フィッチャーはにやりと笑った。
「らしいですね。そしてリーダー殿の行方も知れない。死んだはずのナナミさんの墓も、なぜかからっぽ」
「・・・・・・。」
「シュウのだんな、あんたが仕組んだことですかね? キャロの街近くで、よく似た三人が旅支度で出かけるのを見た者がいるそうですが」
「まあ、あいつらは、よくある顔だからな」
 シュウはあくまでもとぼけた。
「責めやしませんよ、いつもは冷酷なだんなが、粋なことしたなって思いやしたよ。三人とも、まだ若い。いくらでもやりなおしがきくんだ」
「私もそう思って、天山の峠でジョウイ達を行かせたのだが・・・」
 シュウが珍しく暗い表情で、眉間に皺を寄せた。


 キャロから少し離れた場所に、小さいがこぎれいな屋敷があった。下級貴族の別荘か、愛人の住まいといった風情の館だ。赤茶色のレンガの壁に蔦が絡まり、二階に白木のベランダがあった。可愛らしい屋敷の外観のわりに庭は荒れていて、いつ刈られたかわからないような芝生と好き放題に伸びた木の枝の庭は、手入れが行き届いているとは言いがたかった。
 フィッチャーが石造りの門に近づくと、大きな犬が門柱に向かって飛びついて来た。
「う、うわっ」
 門が閉まっているおかげでフィッチャーは無事だったが、犬は全身の脂肪をゆさゆさ揺すり、激しい勢いで門に向かって飛び上がっている。はあはあベロを出しながら、ときどき大声で吠えたてた。大の男の二の腕ほどもあるしっぽを、ぶるんぶるんと回して・・・しっぽを回して? よく見ると、犬は、フィッチャーにじゃれついているようだ。
『こいつ、番犬失格だぜ』
「だれっ?」
 凛とした女性の声が庭に響き、屋敷の扉が開いた。

『ジョウイに女房がいたのは知っているよな?』
『女房って・・・。シュウさん。ジル・ブライト殿のことでしょう?(普通言うかあ、お妃さまのことを女房って)』
『兵士の前で生贄にされたのが人形だったのはわかっている。彼女は生きて、キャロ郊外の屋敷にひっそりと住んでいるらしい』

「しつこいわね! もの売りから買うものは無いって言ってるでしょ!」
 いきなりバシャーン! と、フィッチャーにバケツの水が浴びせかけられた。そして今度はカラのバケツが顔面に飛んで来た。
「いたたた・・・」
『・・・ひっそりと、住んでいる?』
「ナナミもナナミだよ! 押し売りにシッポ振ってるんじゃないのっ!」
「い、いえ、私は押し売りではなくて・・・」
 顔をぬぐって見据えた相手は、確かに肖像画で見た通りの、長く豊かな髪と黒ダイヤの瞳を持つ、まだ16、7歳の美少女だった。だが、腕まくりしてバケツを放り投げるその姿に、薄幸の王女のイメージは・・・どこにも、無い。
 そして、彼女をたくましく見せた一番の理由は。前に大きくせりだした腹部だった。
「興奮すると、お腹の子によくありませんよ。・・・この人なつっこい犬は、ナナミっていうのですか?」
 妊娠8ケ月・・・9ケ月くらいなのだろうか。独身のフィッチャーにはよくわからなかった。だが、ジョウイの子供ならば、ルルノイエが墜ちてから8ケ月。確かにそれくらいに違いない。
「役立たずで大食らいで図々しくて。不必要に人なつっこい。ナナミって名前以外、考えつかなかったわ」
 フィッチャーは思わず吹き出した。『たしかに・・・』
「ナナミさんをご存じってことは、同盟軍のかた?」
 声に緊張と不信感が混じっていた。この様子じゃ、塩をまかれかねないとフィッチャーは覚悟した。
「ミューズ市長のフィッチャーと申します」
「・・・・・・。フィッチャー!」
 ジルがはっと息を止めた。食い入るようにフィッチャーの顔を見つめた。市長としての価値を値踏みでもされているのだろうか。ジルはじっとまっすぐな瞳でフィッチャーを見ている。かつて黒水晶と噂されたその瞳を、フィッチャーはまともに見つめ返すことができず、下を向いた。
「そうです。フィッチャー、です。ただし、市長としての正式訪問ではありませんが」
「ごめんなさい、政務でいらしたのね。服を乾かします。中へおはいりください」
 シュウは知っていたのだろう。狂皇子ルカの妹と、ルカと手を組んだジョウイとの子供。ハイランド王国の最後の王の子。血を受け継ぐ者。
 これを知ったら、赤ん坊を旗印にして、再びのろしを上げようとする残党がいるに違いない。例えば、死体の見つからなかったシードとクルガンが、生きているとしたら?


「ピリカちゃん、これを外に干して来て。きちんと形を整えてから干すのよ」
「うー、うう」
 笑顔の初々しい6、7歳の少女が、フィッチャーの服を受けとった。家の中はきれいにしていたが、外から見るより手狭だった。一階には台所と居間と、あとはバスルームがあるのだろうか。居間も、粗末なソファと家具が申し訳程度に置いてある部屋で、とても一国の王女だった者の住まいとは思えない。口のきけないピリカという子供以外、同居人もいないようだ。侍女もおいていないのだ。
「男物の服が無いので、乾くまでこれで我慢しててください」と、ジルは毛布を手渡した。フィッチャーは裸体を毛布で包み込んだ。
「今、お茶をいれますね」
 ジョウイの隠れ家ってわけでもなさそうだ。男物の衣服が置いていないってことは。
「ジル・ブライト殿が生きていて、ここで暮らしていると聞いたので、確かめに来たのですが・・・」
「私がジル・ブライトですわ。確認はすみましたかしら? それとも、ジョウイが出入りしてるとでも思ってました?」
 フィッチャーの前にカップを置きながら、からかうような口調で黒水晶の瞳が尋ねた。
「いえ、あの、その」
 あまりに率直に切り返されて、フィッチャーはあわてた。いつもと勝手が違う。立て板に水のように、普段なら流暢なセリフが次から次へと出てくるのに。フィッチャーは額に手を当てた。暑くもないのに汗をかいていた。
「ジョウイはここへ来たこともありません。もし、戻って来ても、例え助けを求めていても、入れてあげるものですか。どこかでのたれ死ねばいいんだわ、あんな勝手な男」
 フィッチャーは唖然として、ジルを見た。
「し、しかし。そのお腹の子は、ジョウイ殿の子供でしょう?」
「だけど、今では『私だけの』赤ちゃんよ。彼には関係ないし、関わる資格はないわ。この屋敷を用意したのはジョウイだけど、私が静かな余生が送れるように気づかったんですって! 17歳の私に! 余生ですって! ふざけんじゃないわよ。
 私はここで、ピリカちゃんと協力して、私たちだけで生きてきた。私が薪を割り、水汲みをした。買い出しもしてまかないもした。私はここから生きることを始めたのよ。子供は私のものだし、元ハイランドの奴らにも、あなたたち新政府の人たちにも、絶対利用させやしないわ」
 生き生きと動く口許、ぎらぎら光る強いまなざし。フィッチャーは、軽いデジャヴに目眩を感じた。どこかで・・・会っているはずはないか、こんな高貴なお姫さまと。
「生活費は、どうしてるんですか?」
 フィッチャーは素朴な疑問を口にした。
「城を出る時に、調度品や宝石を少し持って出ました。贅沢はできないけど、暮らすには困りません。それに、ピリカちゃんもあと何年かしたら働けるし、私も子供の手が離れたら働くつもりですから」
 フィッチャーは何も言葉が見つからなかった。そのとおりだ、とか、頑張ってとか、そんな心のこもらない通りいっぺんの言葉を言う気になれなかった。ジルの強さと潔さに、ただただ圧倒されていた。
『人間、死んだ気になりゃ、なんでもできるよ』
 あまりにも悲しい言葉だったので、たしなめたけれど。あれは誰が言ったのだっけ。リーダーだったろうか、ウィングホードのチャコだったろうか。
「さすがに、このおなかでは、最近は何でも私がやるってわけにはいかなくなりましたけど。でも、人を雇うのは、ちょっと。家の中に人が入って、私の身分が外に知られるのはまずいし、家には蓄えの宝石もあるので、よほど信頼できる人でないと。だったら、短い間ですから我慢してしまおうと思ってます」
「誰か、信頼出来る人を頼んであげましょう。一応、市長です。顔は広いですから」
「・・・私を見張るの?」
 ジルの問いに、フィッチャーは絶句した。
「まあ、いいわ。見張られて困ることはしてませんから。お給料はあんまり払えませんから、そのつもりの人をお願いできます?」
 確かに、見張ることになるだろう。そうだ、見張るのだ。そして、シュウは・・・あとは何を企んでいるのだろう。


「ミューズ市長としてでなく、かつて一緒に闘った同志として、そして信頼できる友人として頼みたいんです」
 なんかどっかで聞いたセリフだ。ヨシノに頭を下げながらフィッチャーは苦笑していた。そう、シュウがジルの調査を頼んだ時のセリフだ。
 呼び出されたヨシノは、最初きょとんとして話を聞いていたが、やがてくすくすと笑って袂で口許を抑えた。
「相変わらず、口がお上手ね。私はまだ出産の経験もないから、どこまでお役にたてるかはわからないけれど。私でよければ、お助けしますわ」
「ありがたい。くれぐれも、ジル殿の素性が、外に漏れないようにお願いしますね。バレたら、村八分どころの騒ぎじゃない。きっと、腹いせにジルに暴力や嫌がらせをしに来る民が絶えないでしょうから」
 フィッチャーは、ヨシノを連れて再びジルの屋敷を訪れた。ピリカに居間に通されると、ジルはソファで縫い物をしているところだった。赤ん坊の肌着を作っているようだ。幼さの残るジルのしぐさに、まるでままごとでもしているようだとフィッチャーは思った。
「ドレスをほどいて裏生地で子供の物を作ろうと思って。ドレスの生地なんて、ほとんど役に立たないわね。洗濯はきかないし、着心地は悪いし」
「洗濯がきかないものは、ほんとにイヤですよねえ」
 ヨシノも大きく頷いた。
「こちら、洗濯フェチのヨシノさん」と、フィッチャーが紹介すると、ジルは舅ばばあのような目つきでヨシノを上から下まで観察した。
「洗濯フェチはひどいわ」と、ひるまず笑顔を返すヨシノ。
「夫が公務員で薄給なので、バイトしようと思いまして」
「ふうん。・・・フィッチャーさんの奥さん?」
「えーっ! ち、違いますよっ!」
 フィッチャーの方が慌てて否定した。
「そうよね。あなたが、こんな美人を奥さんにする甲斐性があるとも思えないもの」
 憤慨で口をぱくぱくさせるフィッチャーの隣で、「いやですわ、ジルさん、美人だなんて!」と、ヨシノがはしゃいでジルの肩をはたいた。「わたくし、ジルさんとうまくやっていけそうですわ!」
「そうみたいですね」と、フィッチャーは苦笑した。「ジル殿も、ヨシノさんに遠慮せずに頼むといいですよ。自分で何でもしようときばらない方がいい」
「別に、きばってなんかいないわ」と、ジルはぷいとそっぽを向いた。
「ところで、その・・・言いにくいんですが。お腹を触らせてもらえませんか?」
 おずおずと切り出したフィッチャーの言葉を、ジルでなくヨシノが遮った。
「まあ、フィッチャーさんったら! えっち! セクハラ! 夫でもないのに、なんてことを! 触りたいなら早くお嫁さんをもらいなさいっ!」
「あ、いえ、あの、その・・・」
 赤くなってしどろもどろのフィッチャーを、ジルは面白そうに見ていたが、さらに意地悪そうな表情になって言った。
「ハリボテじゃないかどうか、確かめたいのでしょう? 本当に、中に子供がいるかどうか。こんな小娘に騙されて振り回されてたとしたら、労力の無駄ですものね」
 図星だった。シュウに、ジルの妊娠のことを報告して、『確認したのか?』と苦い顔をされたのだ。確かにうかつだったとフィッチャーは唇を噛んだ。いつもの自分じゃないみたいだった。この少女の前だと、どうも調子が狂うのだ。
「申し訳ない。・・・失礼します」
 フィッチャーは、粗末な木綿のワンピースの上から、おそるおそる手を触れた。ゴムボールのような感触を予想していたが、意外に堅く張っていた。だが、微かな体温が伝わって来て、布一枚でジルの肌につながっていることを知らせた。トクトクと動くこの感じは、お腹の子供の心臓の音なのか、自分の脈なのか計れなかった。自分の脈の早さがジルに知れるのではないかと、フィッチャーは余計にどぎまぎした。
「大人の男のかたの手って・・・」
 ジルの声に顔を上げると、黒い瞳と視線がぶつかった。ジルの方が目をそらした。目尻からすっと一筋、小さな涙がこぼれ落ちた。
『えっ?』
「随分大きいものなんですね。ジョウイはまだ少年だったから。・・・父や兄の掌を漠然と大きいものだと感じていたけれど、こうして触れられことはなかったので・・・」
 その時フィッチャーを襲った切なさに、彼は再び既視感を覚えた。この少女と以前どこかで会って、同じような感情に襲われた記憶。
 濡れた睫毛に縁取られた漆黒の瞳に、見覚えがあった。フィッチャーは思わずジルを抱きしめていた。
「相変わらず、無防備に人を抱くんだね、おっちゃんは」
「ジルベール・・・。そうか。おまえ・・・。そうだったのか」
「バレちゃったわね。いつか必ず返すと約束した、飲食代と宿賃を返さないと」
「おう。利子つけて、耳を揃えて返してもらうぞ」
 フィッチャーの腕の中で、ジルは、あははと少年のように声をたてて笑った。

<第一章 終> 

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