ドリーミング・デイズ




☆ 1 ☆

 歌に恋をした男の話をしましょう。
 冴えない黒ぶち眼鏡の奥で、彼の瞳はいつもその歌を追っていました。流行遅れの靴で雑踏を歩きながら、彼の耳は恋人の声を捜すようにメロディを求めていました。
 彼の名は橘市彦。マニアでもないし特別な音楽好きでもない、普通の青年だったと思います。
『だった』という過去形を使うのは、私にとって彼は、生きているのか死んでいるのかもわからない完全に過去の人物だからです。彼は私の大学時代のクラスメートで、ボーイフレンドでも恋人でもなく、普段は挨拶を交わす程度の友達でした。彼と会ったのは、もうかれこれ二十年以上前のことになります。初めてその『歌』について話したのは、大学一年の夏のことでした。

 雨が二日続いた後のその日は快晴で、教室の窓から見える入道雲が、外へおいでおいでをしているようでした。こんな日にはビールを飲みに行かなければ! と言うことになり、十数人のクラスメート達と、大学のそばの居酒屋にくり出しました。はやりの歌が有線でガンガンにかかり、お客もそれに負けじと大声で会話している、そんな店でした。
 茶けた畳の座敷を占領した私達は、あっという間にテーブルに並んだ幾つもの大皿をたいらげ、空のジョッキを並べていきました。 私のおなかも満足した頃、隣に座った男の子が「蓮見さん、音楽詳しいの?」と話しかけてきました。
「くわしいって?」
反対に私は聞き返しました。漠然としすぎていて、よく意味がつかめなかったのです。
「はやりの曲以外も聞いたりする? 昔の洋楽なんか」
 ナンパ前に趣味が一致するかどうかの確認?なるほど、そういうことか。
 ブッブー。即座に私の脳裏に『×』の文字。
 田舎の中学教師のような黒縁メガネ。どこで切ったのその髪の毛。服は着てりゃいいってもんじゃないでしょう?
 そりゃあ私だって特別美人ってわけじゃないけれど、やっぱりカレにするなら素敵な人がいいぞぉ。
「ううん、別に」
 我ながらなんて気のない答え。でも、これならいくらニブイ人でも誤解することはないでしょう。
「この曲のタイトル知らないかなあ。何年も調べてるんだけどわからなくって」
 彼は箸を置くと、いきなりメロディを口ずさみ出しました。私の返事など聞いていなかったようです。嬌声と有線音楽の騒音の中で、彼は照れもせずに私の目を見て歌っていました。メガネの奥の細い瞳は、私が「あ」っと思う瞬間を見逃すまいと真剣です。…ナンパじゃなかったのね。
「聞こえないよぉ。店がうるさすぎて、何だかよくわかんない」
 私は座蒲団ごと後ずさりしました。『なんか変なヒト』と気味悪く思ったので。
「つかまったねえ、蓮見さんも」
 私のもう一方の隣に座ったコが、そう言って笑うとジョッキを飲み干しました。
「橘ってば、またやってやがる。こいつ、人に会うと必ず聞くんだ、『この曲知ってる?』って。こんな音痴の歌じゃわかるわけないって」
「俺、音痴かなあ」
 橘と呼ばれた彼は頭をかいて苦笑しました。
カタブツっぽい印象が消えて、目尻のたれた優しい顔になります。警戒心は彼方に消え去っていました。
「探してる曲があるんだぁ?」
「うん、どうしてもタイトルを知りたくてね。いろんな人に片っ端から聞いて回ってる。でも迷惑だったかな、ごめんね」
「ううん、そんな。そうだ、そういうのは、ミック菊地のラジオにでもハガキ出してみれば? きっとすぐ教えてくれるわよ」
私は軽い冗談のつもりで言いました。それはマニア向けのFM番組で、パーソナリティである音楽評論家は、リスナーの訊ねるマイナーな曲名やアーティストをすらすら答えてしまうのです。
「だれ、それ?ねえ、ほんとうにその人、答えてくれるの?」
 橘君は、身を乗り出して私の顔を覗きこみました。瞳が期待に満ちているのがわかり、彼の真剣さに、私ははっとしました。からかい気味に接してしまったことに後ろめたさを覚えました。中学生くらいまでは、私も必死で本を捜し出したりレコードを捜したりしたものです。その時の一生懸命な気持ちを思い出したのでした。
 「ハガキ、出してみれば?私、今、FMの情報誌持ってる。宛名とか写せば?」
 私は雑誌を差し出しました。
 「サンキュ」
 橘君はうれしそうに受け取り、考えてみればその時もう私も巻き込まれ始めていたのかもしれません。

 夏休み、実家に親と住んでいる私は、高校時代とそう変わらない過ごし方をしました。バイトをしたり友達とプールへ行ったり買い物へ行ったり。前半はあっというまで、後半はだらだらって感じ。八月の終わりには、橘君のことも、居酒屋での出来事もすっかり忘れていました。だから、ぼんやり聞いていたFMから、彼の名前が呼ばれた時も、全然気がつきませんでした。
 『T県の橘市彦君、懸賞じゃないんだから、週に五十枚も四週も続けてハガキ書かなくてもいいですよ、ちゃんと全部読んでますから』
 私は自分の部屋の床に寝そべってゴロゴロしながら、こぼさないようにコーラを飲むことに意識が集中していました。どこかでぼんやりと、「バカな奴。ハガキ代、幾らかかったんだろ」と思いながら。
 『君の熱意に答えてリクエスト曲をかけてあげたいけど。「昔の外国の曲」「女性ボーカルとピアノだけ」「間奏にピアノが古いシャンソンを演奏する」いくら何でもこれ
だけじゃ、さすがの私もわかりませんねえ。橘君、もっとたくさんヒントを掴んだらまたハガキください。今度は一枚でいいからね』
 私は飛び起きました。橘って、あの時の!私から宛名を聞いてホントに出したんだ。
おかげでコーラのグラスを倒し、床は水びたし。
 CDが何枚も買えるほどのお金を注ぎ込んでハガキを書いたなんて。ホントに真剣にその曲を捜してるんだ。居酒屋でメロディを口ずさんだ時、もっとちゃんと聞いてあげればよかった。うるさくて聞こえないなら外に出てからもう一度聞くとか。
 それに、そこまでして調べたい曲なら、きっとすごくすてきな曲に違いない。私も聞いてみたいという好奇心が広がりました。

 「ラジオ、聞いたよ。残念だったね」
 夏休みが明けて、昼休みの食堂で橘君を見かけた時、私の方から話しかけました。私はカレーライスとアイスコーヒーののったトレイを彼の隣へ置きました。
 「せっかく蓮見さんに教えてもらったのにな」
 「ねえ、本当に他にもうヒントはないの?見落としてる事とか」
 「うーん。僕は音楽の専門的なことは何も知らないし。わかってるのは、あとはメロディだけだよ」
 「もう一度聞かせて。あの時はうるさくてよく聞き取れなかったし」
 「うん」
 彼はお茶で食べてる物を一気に飲み込むと、シンプルなメロディをハミングしました。でも、何だかよくわからない。
 「……。」
 困惑した私の表情を見て、「僕、歌下手だからな」と頭をかく橘君。
 「でも、メロディがわかってるなら楽譜にしてみれば?それをハガキに書いて出せばバッチリじゃない」
「…楽譜かあ。中学の音楽の教科書を実家から送ってもらって書いてみるかな」
 すごいパワー。私は思いつきで言ってしまったけど、いつもやってる人以外は、楽譜を書くなんて簡単な事ではないはずです。
「そこまでして調べるのって、すごいよね。
思い出の曲か何かなの?初デートでかかってたとか」
「又は別れの時にかかってた」
「…ふーん。そうか」
なーんだ。そうだったのか。そんなことだったのか。
 なぜか私はがっかりしました。そんなつまんない理由なんだ。
「なんてね。この曲が原因で振られた事はあるけど」
「えっ?」
「高校二年の時だったかな。僕が東京の大学を志望したことで彼女ともめて。喫茶店で別れる別れないのの切羽詰まった話してる最中に、流れてきたんだ、この曲が。
 ずっと捜し続けてた曲だったから、僕は嬉しさで舞い上がって『これ、これ!この曲だよ!前から言ってたろ、捜してたんだ!』ってやっちまった」
 「それって、彼女は怒ったでしょう?」
 彼はため息ついてうなずきました。
 「彼女は泣きべそかいて『信じられない!こんな時に。もういい、わかったわ!』って捨てゼリフを残して出て行った。僕はかなり迷ったけど。人間として男としてバカヤロウになりたくなくて、彼女を追いかけて店を出た。追いついて謝ったけど、やっぱりもう関係は修復できなかった」
 あはは、と情けなさそうに笑った橘君。
 「かなり迷ったって、まさか、彼女を追いかけるのと、曲を最後まで聞くのと天秤にかけたの?」
 「彼女とは別れてよかったと思ってる。こんなバカヤロウ男をさっさと振った彼女は正しいよ。僕は今では曲を取ればよかったと思ってるんだもの」
 「……。」カレーをすくう私の手が止まってしまいました。
 「蓮見さん、あきれてるでしょう?」
 「…少し」
 この人は、親の葬式でも妻が危篤でもきっとその曲を選ぶ、そんな気がしました。背筋がぞっとして悪寒が走って。
 狂気?正気?この穏やかそうで常識的に見える青年は、異常者なのでしょうか。取り憑かれているの?でも、決してそんな風には見えず、淡々としているのです。
 「子供の頃…十歳の夏休みだった。今でも覚えている。八月の三日の午後六時半。日にちと時間まで覚えてる。ラジオからあの音楽が聞こえてきた時、すべてが始まった。 いや、もしかしたら、すべてが『終わって』しまったのかもしれない、僕にとって」

 

 うちは食事の時はテレビは見ない家でね。でも洋楽のかかるラジオ番組は聞いていたんだ。もしかしたらお袋の趣味だったのかな。
 その日はわりと涼しい日で、確か昼頃雨が降った。まだ窓の外は明るくて、夕めし食ったらまた遊びに出ようなんて考えてた。夕食は素麺は冷麦か、そんなのだった。ラジオからあの曲が流れてきた瞬間を今も覚えている。
 ピアノのイントロが始まった時、箸を持つ手を止めた。『あれ?』って感じでラジオの音に耳を傾けたんだ。予感だった。それは、予感。運命の大きな波が僕に押し寄せて来る予感がした。
 柔らかいけどハスキーな女の人の歌声が流れ出して、僕の体は痺れたみたいにマヒしてしまった。動けなくなった。耳だけスピーカーに釘付けになってた。半袖シャツから伸びた腕の、毛穴を全部耳にして聞いていたって感じだった。
 色が…。景色に色がついてきた。モノクロだった景色に、さーっと、色彩がついてきたんだ。変な言い方だけど。そう、もちろん今までちゃんと物はカラーで見えていたよ。でも、なんて言ったらいいのかな。寝起きでぼっーとしてよく見えてないのが、はっきり見えてくるって言うか…。霧がさあっと晴れていくっていうか…。
曲は、あっという間に終わった。いや、ホントは三分くらいはあったはずだけど。曲名を聞き逃すもんか!って力んで待ってたけどそのままCMに入っちゃって、わからないままさ。僕は九年間その曲を捜し続けている。
 

 橘君はよく喋りました。男のお喋りは嫌いだけど、面白い話なので何となく聞きいってしまいました。
 「ねえ、それで、彼女と別れた喫茶店は有線が入ってたの?独自のテープとか流している店もあるけど」
 「いや。あそこは、ジュークボックスが入ってた。変わってるから、覚えてる」
 「なんでまだ曲名を知らないの?ジュークボックスでかかってた曲なら、すぐ調べられるじゃない。」
「いや、ところがさ。
もちろん、次の日からその店に通ったよ。前日に彼女とドラマみたいな追いかけっこやったから、店員に顔を覚えられてて恥ずかしかったけど。でも、毎日通って、十曲ずつジュークボックスのレコードをかけまくった。
曲数は八十六曲。定休日前までに七十曲かけて、全部はずれだった。でも残りは十六曲。あと二日で曲名と歌手を知ることができる。その日僕は授業もうわの空でウキウキして定休日あけのその店に行った。そしたら、ジュークボックスはとりはずされて、有線が入っていた。あんなショックなことないよ。彼女に振られた何倍もショックだったなぁ」
 私は吹き出しそうになりましたが、橘君が真剣なのがわかっていたので堪えて、気の毒そうな表情を作りました。
 「そう。それは残念ね」
 「運命が邪魔してるに違いない。あの曲と僕が出会うのを」
 これにはたまらず吹き出しました。
 「ゴ、ゴメン、つい。悪気はないの、ほんとよ」
 私がアイスコーヒーを飲み干して深く息をつくと、橘君は苦笑していました。
 「いいよ、別に。蓮見さんみたいにちゃんと話を聞いてくれた人さえ初めてだもの。
 自分でわかってるんだ、変だってこと。だから人に詳しく話したのは初めて。
 変人だと思われても気味悪いと思われてもいいんだ。僕の話が記憶に残ってて、『あ、この曲、もしかして』と気にとめてくれるかもしれないし、ね」
 彼は微笑みました。いい笑顔でした。
 「私は洋楽の古いものは詳しくないけど、マニアの知人に会ったら聞いてみるね」
 「うん、ありがとう」
 こうして私は橘君と友達になりました。


☆ 2 ☆

 私には高校から一緒に進学した桜沢菜々実という友人がいます。彼女の恋人は梅原君といって、フリーターをしながらテクノバンドをやっています。彼は、自分のやっているのだけでなく、どんなジャンルの音楽でも詳しいので、会う機会があったら彼に例の曲のことを尋ねてみようと思っていました。
 私は久し振りに菜々実に付き合って渋谷のライブハウスに梅原君のバンドを聞きに行きました。
アマチュアのバンドが三つ入っていて、梅原君たちは最初でした。梅原君は、普段は明るく優しいすてきな人なのですが、私にはこのバンドは不気味です。バンドというよりボーカルとキーボードのユニットで、わけのわからない音楽をやっています。変拍子に不協和音に転調、ガラスを引っ掻く音のサンプリングや銃声のベース音。そして金切り声でシャウトするボーカルの梅原君。血管切れそう。…うーっ、こ、こわいっ。
 変わったことをやっていて、しかもそれがすべて不快な方向にむかっています。もっとわからないのは、菜々実はこのバンドをやっている時の梅原君を好きになったそうで。洋裁が趣味の彼女は、今ではこのユニットの衣装を作ったりしてます。
 「ねえ、今日のあれも?」
 私がこわごわ聞くと、「そうよ。自信作なの。かっこいいでしょ」と喜々として答えました。黒いTシャツにアップリケで内蔵や肺が解剖図のように縫いつけてあるのです。今までのものも、肩口にしゃれこうべがついてたり、ペットボトルを加工して服になってて中にピラニアが泳いでたり、すごいセンスなのでした。
 「あれネ、肺と腎臓はマジックテープで片方は取れるの。かわいいでしょ?」
 「えっ。…そ、そう。すごいわね」
 やっと彼らのステージが終わって、私達は楽屋を訪ねました。
 「やあ。…あれ、玲子さんも。ライブ来てくれるのなんて、久々じゃん」
 ギンガムシャツとジーパンに着替えてタオルで汗を拭く梅原君は、屈託なくにこにこと笑っています。ステージの人とは別人のよう。普段は怖くないんです。
 「どうだった?」
 「えっ、あの…。ふ、不思議の国に迷い込んだみたいだった」
 私が苦しまぎれに言った答えに、梅原君はおおらかな声で笑いました。
 「いいよ、いいよ。常識のある人には受け入れてもらえないの、わかってるってば。気持ち悪かったでしょう?
 菜々実から聞いたよ。調べてほしい曲があるんだって?」
 私は、橘君が悪戦苦闘してメロディを楽譜にしたもののコピーと、わかっている事のメモを手渡しました。
 「曲も歌手もわからないんですって」
 梅原君は、ちらっと楽譜に目をやり、
 「間奏の有名な曲っていうのは、『ラ・ヴィ・アンローズ』だね。スタンダードの。ってことは、曲の感じもなんとなく予想できるな」
 「…今の、ちらっと見ただけで曲名わかっちゃうの?」
 「えっ、ああ。僕のジャンル外だけど、ここまで有名な曲なら、わかるよ」
 梅原君は少し照れて笑っていました。彼は結構ハンサムで、ルックスもいいし、話す声は甘く綺麗な声だし、もっと違う音楽をやっていれば人気も出るんだろうけどなぁ。
 「この楽譜、借りてっていい?調べてみるよ」
 「すみません、お願いします」
 「でも、あまり期待しないでね。バラードでしょう、これ。そういうの、あまり詳しくないんだ」

 梅原君が言った通り、彼から芳しい返事はもらえませんでした。
 橘君は、例のFM番組に今度は楽譜を同封して質問したそうですが、やはりわからなかったそうです。
 「きっと、マイナーな曲なんだよ。あまり売れてもいなくてさ。だから、詳しい人でも知らないんだ」
 少し諦めた口調でそう語っていました。でも、せめて、と『ラ・ヴィ・アンローズ』をいろんなアーチストのバージョンで買い集めて毎日聞いていると笑っていました。
 冬が過ぎ、大学二年の春が来て、そしてまた夏。
 橘君は、今年は夏休みに田舎に帰らず、バイトすると言いました。
 「橘君って、バイトなんて必要ないほど仕送り受けてるじゃない」
 地方ではかなりいいお家の長男だと聞きました。確かに、彼はおっとりしていて、ガチャガチャした感じがしない。育ちがよさそうです。
 「うん。でも、マンションのそばの大きな中古レコード店がバイト募集しててさ。レコード店で働けば、何かヒントを得れるかもしれないって思って」
 「…。根性だね」
 「働くのって初めてだから、なんだか緊張しちゃうな」
 彼は大学二年の今までバイトもした事がなかったそうです。
 「本屋とレコード屋のバイトは力仕事だって聞いたことあるよ。がんばってね」
 その夏彼はバイトに明け暮れたようです。新学期に会った時、「バイトの収穫はあったの?」と聞くと、彼は疲れてやつれた様子で「骨折り損のくたびれ儲け」と苦笑していました。
 「でもバイト代が入ったから、バイオリン教室に通い始めたんだ」
 「バイオリン?へえ、しぶいね」
 そう言いながら私は内心面くらいました。橘君ってなんか突飛なんです。
 「あの曲、バイオリンが入るといいだろうなと思ってたんだ。レコードが手に入ったら一緒に演奏したいと思って」
 「…それだけの理由で習い始めたの?」
 バイオリンという楽器が好きで弾きこなしたいとか、ストリングスの入る曲達が好きだとか、そういうのじゃなくて?その曲に合わせる為だけに?
 「うん」
 なんか、橘君ってすごい。まだ、入手できてもいないレコードの為に。ヘンとか変わってるとかそういうのを超越している気がしました。心理は理解できないけど、情熱は伝わってくる、という感じ。頑張ってね、と人に思わせるパワーがありました。

 そんな橘君ですが、一度、弱音を吐いたのを聞いたことがあります。
 あれは、三年の秋だったと思います。もう彼とは専攻が違っていたので、大学でも顔を合わす事が減っていて、久し振りに大学の駅の改札で見かけました。
 「久し振り。レコード、見つかった?」
 彼とは共通の話題はこれしかないので、私は挨拶代わりにいつもこう言いました。でも他の友人もそうみたいで、やっぱりまずこう聞いていましたけど。
 「う〜ん。ダメ」
 珍しく暗い表情。
 「音楽に詳しい人達でも知ってる人はいないし、きっとすごくマイナーな曲なんだよ。売れてないってことは、ほんとはたいした曲じゃないのかもしれない。思い込みが強かったから印象に残っているだけで、つまんない曲なのかもしれない。
 こんなに捜し続ける意味なんて、ない曲なのじゃないかな。もう、十年がんばったんだし、いいかぁ、とか最近思ってて…」
 「ふうん。」
 イソップ童話の酸っぱい葡萄だなあと私は思いましたが、たぶん彼も本当は気づいて言っているのだろうし、黙っていました。
 「でも、バイオリンは続けてるんだ。ちゃんと練習してたらそれなりに弾けるようになって、そしたら面白くなってさ」
 「橘君、真面目だからきちんと通ってるんでしょ。例の曲のおかげで、趣味がひとつ増えたんだよね。たとえ曲が見つからなくても、ひとつトクしたよね」
 「それに、蓮見さんや、他にも気にして捜してくれた人と友達になれたり、ね。そうだよなあ、見つからなくても、よかったことはたくさんあるもんな」
 また自分に言い聞かせているような言い方でした。
 「僕が中学生の頃、既にOLだったうちの姉がね、『コンタクト落としちゃった』ってうれしそうに帰宅したのを覚えているよ。なんで落し物してうれしそうなのかわからなかった。コンタクトって当時はまだ高価だったし。
 夕食の時、まだその話をしていた。
 『帰りの混雑した駅の階段で、たくさんの人が捜してくれたの。みんな家路を急いでいるはずなのに、しゃがんでる私が邪魔なはずなのに、高校生やおじさんや若いOLさん…十人ちかくいたかな、一緒に捜してくれたのよ』
 こんな事、ずっと忘れていたけど、最近よく思い出すんだ。今なら僕にも姉の気持ちがわかるから」
 「橘君…」
 あきらめてしまう気なのでしょうか。本気なのでしょうか。
 私達はホームに上がる階段のところで別れました。電車の中でも、私はずっと重たい気持ちでした。あきらめちゃうんだ…。あんなに一生懸命だったのに…。

 ところが!
 私はすっかり奴に騙されたぞっ。
 いいえ、たぶん彼もあの時はあきらめるつもりだったのでしょう。事態が急変したのはその年の冬…大晦日でした。
 突然、橘君から電話がかかってきたのです。今まで一度も電話なんてもらったことがなかったので、少し驚きました。
 「どうしたの?久し振り。元気?」
 挨拶より先にどうしたの?と聞いてしまうほどでした。
 「さっき、TVのドキュメンタリー番組で、例の曲が流れてたんだ!BGMで。
 なんか、うれしくて、電話しまくってる。蓮見さん、見てた?」
 「ううん、残念。本読んでたから。何の番組?MHKの『夜の肉食獣』?」
 例の曲ってロマンチックなバラードだと聞いてたけど、よくそんな番組で流れたもんだ。
 「でも、橘君、よかったね。これで曲名、きっとわかるよ。たぶん、TV局に問い合わせすれば、曲名教えてもらえるよ」
 電話のむこうは、一瞬沈黙した。
 「え、ほんと?ほんとに?」
 「うん、たぶん。よく『問い合わせが殺到』ってあるじゃない。TVやラジオって、そういう事にも対応してるんじゃない?」
 「そうかぁ。曲名がわかるかもしれないんだ。なんか、信じられないや」
 「今は年末だから、お正月が終わってからの方がいいかも。制作の人達もお休みとってるだろうし」
 「うん、わかった。ありがとう」
 お互い、以前に駅の改札で交わした会話の事など忘れていました。でも、これでこそ私の知ってる橘君だよなあ、と電話を切った私でした。


☆ 3 ☆

  年が明けて、大学の校庭で橘君を見つけた時、私は走って追いかけていました。もう、とっくに曲名を教えてもらっているはず。早く知りたかったのです。いつのまにか、私も答えを知りたがっていたのです。もしかしてもうレコードもゲットしているかもしれない。
 でも、実際は難航しているようでした。
 「TV局では、制作会社に問い合わせて下さいって言われて、教わったそこに電話したら、音楽担当の人しかわからないって言われて。今、その作曲家の所属事務所に問い合わせているところ。著作権問題があるから、必ずリストは取ってあるって。わかる人が長期休暇なので、十日後くらいにまた電話くれって」
 「ふうん、結構大変なんだ。すぐにわかるよ、なんて期待させる事言ってゴメンね」
 「いいや、TV局に問い合わせるなんて、僕じゃ考えつかなかったもの。ほんとにサンキュー。しっぽの影くらいは見えた、って気がする」
 橘君は喜々としていて、「ああ、早く十日たたないかな」なんて、小学生みたいにはしゃいでいました。
 その日、家へ帰るとちょっとした事件が私を待っていました。菜々実のお母さんから電話があって、そっちへ行ってないかというのです。そういえば、今日も学校で見かけませんでした。
 「菜々実さん、どうしたんですか?帰って来てないんですか?」
 「実は…」
 数日前、父親と喧嘩して飛び出して、それっきり連絡もないそうです。
 「私のところには、連絡はないですけど」
 「つきあっている男と一緒なんじゃないでしょうか?住所を御存知ないですか?」
 「…お母さん、彼氏がいること、知っていたんですか?」
 菜々実は、両親に隠れて付き合っていました。梅原君は定職もないし、反対されるのがわかっていたからです。
 「菜々実が父親と喧嘩した原因がそれなんです」
 女子大生が就職できない今日この頃なので、菜々実のお父さんは自分の会社の若い有望な青年と見合いさせようとしたそうです。無理強いされたので、仕方無く恋人がいることを告白したら、大反対されて…という、まあよくあるパターンのようです。
 「私も住所や電話番号までは知らないんです」
 お母さんは同棲でもしてやしないかと心配しているようでした。
 「でも、梅原君はたしか親と同居してるはずですよ。菜々実さんから連絡があったら、必ずお知らせしますから」
 「よろしくお願いします」
 電話の向こうでお母さんが深々と頭を下げている様子が目に浮かびました。どこに居るにしろ、無事の連絡くらいは入れてあげればいいのにと思いました。
 ところが、菜々実は次の日、学校に現れました。家から電話があった事を告げると「いいの、いいの」と笑っていました。
 「おやじもかあさんもあんまり勝手なんだもん。ミシンは持って出たし、もう帰らなくてもいいと思ってる」
 「今、どこにいるの?」
 「梅原君ち。部屋が余ってたから置いてもらってる。家族が多いし家が広いから楽しいよ」
 「彼のご両親に、帰りなさいって言われないの?」
 「全然。兄弟が多いから、子供達の細かい事に構わないみたい」
 「とにかく、菜々実が居場所を連絡しないなら、私するから。あんたのおかあさんと約束したんだもん。心配してるわよ」
 「そんな!玲子ったら、裏切り!」
 「ただ、私は梅原君の住所を知らないからね。ご両親が自力で捜し当てたら、それはもう知らないよ」
 「アレ?…もしかして、『玲子、サンキュ』ってやつかな」
 こうして私は家出の片棒をかつぐかっこになってしまいました。
「梅原君には何て言ったの、家出のこと」 
「全部話したわよ、お見合いのことから、『バンドやってる奴に遊ばれてるだけだ』とか『プータローじゃないか』まで、親達の罵詈雑言すべて」
 「なんて言ってた?」
 「笑ってた。笑うしかないじゃん。
 ほんとは、『結婚しよう』って言ってくれないかって少し期待したけどね。結婚なんて無理なのわかってるし。三十近いのに親のスネかじって音楽やってんだもん。あの音楽でメジャーデビューなんて夢だし、もしできたとしても、生活できるほど売れるとは思わないし」
 菜々実もそう言って笑いました。二人とも、泣きたい時に笑うなんて、似たものカップルかもしれません。

 数日後、橘君は曲とアーチストの一覧表のメモを持って私の教室に顔を出しました。
 「音楽担当は、どの場面でどの曲が使われたか知らないんだって。でも、とにかく、この一覧表の曲の中のどれかなんだ」
 英語で書かれた曲名とアーチスト名。フランス語もありました。三十件近くあったでしょう。効果音としてイントロだけ使ったような曲もあるそうです。
 「多すぎて、途方に暮れちゃってさあ」
 橘君は肩を落としてため息をつきました。そうでしょう、私でもそう思います。
 「詳しい人に聞いて、削っていく方がいいわよね。女性ボーカルって事だけで、だいぶ絞れるはずだわ」
 「蓮見さんの友達の人に、聞いてみてくれると助かるんだけど…」
 そう言われて私の表情は曇ったかもしれません。
 「…迷惑かな」
 「今、二人、ちょっと取り込んでて…。聞ける雰囲気じゃなくて。ごめんなさい」
 「ううん、誰か他に捜してみるよ」
 「そうだ、橘君がバイトしてた店の店長さんや店員さんは?」
 「あ、そうか!」
 橘君の顔が一瞬で輝きました。
 「うん、うん、詳しい、みんな確かに。そうか、あの人達に聞いてみよ。
 蓮見さん、ありがとう。わかったら一番に知らせるね」

 私が五曲のリストのコピーを橘君から受け取ったのは、二日後のことでした。女性ボーカル(バンドも含め)の曲は、五曲。すべて、日本のレコード会社では発売されていないとのことです。輸入レコード店に注文したら廃盤で入手不可能でした。見つけるとしたら輸入盤の置いてある中古レコード店ということになります。
 「暇な時や待ち合わせのついでとかでいいんだ。気がついたら、捜してくれる?もちろんハズレだった盤でも買い取るから」
 彼はバイト先や親しい友人にコピーを配りまくり、その年の秋までに四種類、十一枚のレコードを入手しました。LPが四枚、EPが七枚。でも、残念ながら、全部はずれでした。
 「ついてないね、よりによって、最後の一曲だなんて」
 私がそう言うと、彼は首を横に振ってにこにこ笑いました。
 「ううん、いいんだ、タイトルも歌手もわかったから。残りのこれが、たぶんそうだもの。やっと知ることができたんだ」
 『パープル』/ロージィー・フィジー。
 それが、橘君が十数年求め続けていたものの名前でした。

 橘君は成績も出席率もいいので、大企業への就職が当然だったはずですが、都内の旅行代理店に就職しました。理由は、色々な場所に行けるので、たくさんの中古レコード店を覗く事ができるから、だそうです。タイトルがわかってからも、講義が終わってからや休みの日はレコード店めぐりに明け暮れていたようです。
 私もついクセになって、暇な時間に中古屋を見かけると捜してしまいます。一曲に絞られたせいもあって手軽に在る無しがわかるので(もちろんいつも『無し』ですが)、さほど苦にならずにマメに捜してしまいます。聞くと彼の友人の男の子達も、『オレもそういうクセがついてしまった』と言って笑ってました。
 橘君とはそれほど親しいわけでもなく、話しても曲捜しの話題しかないような間柄だったけど、大学時代で一番印象深かった人物のような気がします。彼は、普通に、黙々と日常を送りながら、呼吸するようにその曲を捜し続けていたような気がします。

 私は普通のOLになり、新入社員としての日々は忙しく過ぎていきました。橘君のことを思い出す暇もなく、徐々に記憶も薄れていきました。
 その頃、親友の菜々実は、梅原君と入籍しました。彼は、自分のマニアックなバンドは自費で続けながら、作・編曲家・プロデューサーとして、そこそこ仕事が来るようになったのです。菜々実もコンビニでバイトしながら妙な服を作り続けています。
 二人の新居となった都下のマンションで、簡素な披露パーティーがあって、それに出席しました。菜々実は赤い絵の具を血痕みたいに塗りつけたウエディングドレスを着ていました。梅原君のバンドのライブもありました。でも、二人が幸せなのだから、何でもいいのです。
 「そういえば、玲子さんの友達が捜してた曲、見つかったんだって?」
 橘君は大学でも知る人ぞ知るという感じでした。菜々実も面白い事が好きなので、梅原君によく話をしていたようです。
 「レコードはまだゲットしてないみたいだけど、曲名だけね。ロージィー・フィジーって人の歌う『パープル』というタイトルの曲らしい」
 「ロージィー・フィジー?」
 「知ってる?」
 「いいや。でも、グリーン・フィジーって作曲家は知ってる。身内かな。妹とか奥さんとか。彼は有名じゃないけどマニアには人気のあるソング・ライターだったよ」
 「だった、って。」
 「だって、昔の人だよ。まだ生きてるのかなあ。それに活動してたのはほんの僅かの期間。だからマニアに好まれるのかも」
 「グリーン・フィジーね。橘君に電話して教えてあげよう」
 その日は帰りが遅かったので、翌日、橘君の留守電に入れておきました。橘君も忙しいのか、折り返しの電話はありませんでした。


☆ 4 ☆
 
 夏が過ぎ秋が来て、OL一年生の私にも会社で恋人などでき、仕事とデートで日々はあっという間に過ぎていきました。
 彼氏へのクリスマス・プレゼントは何にしよう、なんて考えていた頃、忘れかけていた橘君から電話がありました。
 電話は、なんと長崎からでした。ツアコンの仕事先からです。橘君の声は少し興奮してうわずっていました。
 「今、ラジオのBGMで流れたんだ。リスナーのポエムを読む深夜番組なんだけど、そのBGMで流れてた。間違いないよ」
 「曲名は言ったの?」
 「ううん、きちんとかかった曲は紹介したけど、BGMは。だから確認はできなかったんだけど」
 「それ、どこの放送局?明日問い合わせてみれば?」
 「そうだね。長崎の地方FM局だったから、親切に教えてくれるかも」
 「わかったら、東京に帰ってから教えてね。電話代、高いでしょ」
 「うん、夜遅くごめんね。うれしかったから、つい、誰かに言いたくてさ」
 「ううん、いいの、わかるわ。じゃ、おやすみなさい」
 「おやすみ」
 電話を切った私は、橘君にそんな気持ちがないのはわかっていても、彼氏ができたせいなのでしょうか、少しうざったくなっていました。がんばって捜し当ててほしいという気持ちは変わらないのだけど、もし私に何かの気分を共有してほしいとか同志だとか思われていたら迷惑だなあと思い始めていたのです。
 恋する女なんて自分勝手なものかもしれません。夜遅く、『好きな曲がラジオからかかっていたから』と、長崎くんだりから電話してくる男の存在を、私の彼氏は誤解しないでくれるでしょうか。そんな事が心配で、本気で喜んであげれずにいました。

 橘君からその事の経過について電話があったのは、十日後でした。
 「今、話していい?少し長くなるかもしれないけど」
 明日はクリスマス・イブ。デートのお洒落にもリキが入って当然です。準備で色々忙しいんだけどなぁ、と思いながら、「うん、いいよ」としか言えない私。
 「ホテルの電話帳でFM局の番号調べて、お客さん達の昼食中とか自由時間とかに何度か電話してみたんだ。そしたら、その番組はパーソナリティーの桃井史郎って人が曲を全部決めてるんだそうだ。自分でCDやLPを持ち込んでかけてる。BGMもね」
 「じゃあ、局では曲名はわからないの?」
 「うん。でも、その時電話に出た女の人…制作の女性らしいけど、彼女が親切でね。『来週桃井さんが来たら、聞いておいてあげましょう』って言ってくれて。で、翌週もう一度電話したんだ。それが、昨日」
 「それで、どうだったの?やっぱり曲名は『パープル』で正しかったの?」
 私は思わず受話器を強く握りしめました。すっかり話に引き込まれていたのです。
 「うん、おかげさまで。『ロージィー・フィジーのパープル』。一九六五年にアメリカで発売されたEPだそうだ。」
 「うわあ、そんなに前の物なんだぁ。これは結構大変だね。」
 「今朝一番に、その局の桃井氏宛に、返信切手入り手紙をポストに投函したんだ。レコードを売ってくれないか頼んだ内容の」 
 「えっ?」
 「ダメもとだと思ってさあ。桃井って人も、芸能人と言っても地方局のDJだし、普通の一般人の気持ちがわかってくれるかもしれないと思って」
 「……。」
 私は絶句しました。橘君って時々とんでもなく突飛だわっ。それに、橘君が『普通』の人だとは思えないんだけど。
 「十歳の時のこの曲との出会いから、曲名を捜し出すまでの苦労とか、色々書いてさ。だから、昨夜は殆ど眠ってない。まあ、曲名が確認できた嬉しさで、どうせ興奮して寝れやしなかったんだけどね」
 「そうかぁ。いい返事が来るといいね」
 「うん。プロポーズの返事を聞くみたいに、ドキドキしてる」
 橘君の可愛らしさに私はクスクス笑いました。
 「また眠れないんじゃない?」
 「ほんとだよ」と彼も笑っていました。
 「絶対、結果、教えてね。幸運を心から祈ってるから」
 私は本気でそう言って電話を切りました。電話を取った時は、ちょっと迷惑がってたくせに。

 新しい年が明け、寒い季節も終わり、おもての景色は春になっていました。橘君から連絡はなく、時々『どうなったのかなあ』と思い出しましたが、私の方から電話するほど仲良くもないし、ずっとそのままになっていました。
 桜の季節、私はひとり、モノレールに乗っていました。恋人を羽田に送りに行った帰りでした。彼はこの春、四国の支社へ転勤を命ぜられたのです。お互い冷めてきてるのを知っていたので、さわやかにピリオドを打ててかえってよかったって感じでした。でも、さすがに帰りの車両の中では一年間の思い出にひたって、少しぼーっとしていました。下に見える川沿いの桜は満開で、昼下がりの明るい光で霞んでいました。
 「蓮見さんじゃないか」
 ドアにへばりついて下を覗き込んでいた私は、声のした座席の方を振り向きました。橘君でした。少し疲れたような顔色ですが、相変わらず人の良さそうな笑顔でこっちを見ています。
 「わあ、久し振りね。仕事の帰り?…じゃ、ないか」
 橘君はGパンにTシャツ姿。ツアコンの仕事帰りなら、スーツのはずです。
 「長崎に行ってたんだ」
 「長崎?あ、そういえば、レコードは手に入ったの?」
 橘君はかったるそうに首を横に振りました。
 「二ヵ月返事を待って音沙汰が無かったんで、今年の二月に思い切って局に訪ねて行ったんだ。仕事がオフで、その番組がある日を待って」
 「桃井って人を訪ねて行ったの?長崎まで?」
 橘君は頷いてため息つきました。「今度で三回目さ」

 

 最初に行った時、まず、昼間にFM局の場所を確認しに出かけた。田舎のオフィス街にある三階建ての古いビルだった。その地味さに、僕でさえ少し驚いたくらいだ。
 一階のロビーの窓に、番組の宣伝ポスターのようなものがペタペタ貼ってあった。桃井の番組はある程度の人気があるのだろう、三番目の大きさの写真入りで紹介してあった。顔がわかったのは、大助かりだった。人の出入りが少なそうなので、時間で当たりをつけていれば顔を知らなくても捕まえられるとは思ってたけどね。
 桃井の番組は一時から。長い髪の男が、駐車場から玄関ロビーに向かうのを見つけたのは、十一時少し過ぎていた。
 「桃井さんですね?」
 僕が近寄って話しかけると、長めの髪をサングラスでおさえブランドっぽいシャツを着たその男は、くわえていたタバコも離さずに「ファンのひとー?」と答えた。
 「橘と言います。手紙、読んでもらえましたか?」
 「ごめーん、忙しくて、ファンレターも一ヵ月分溜まってんだ。でも、男のファンって嬉しいな。大学生?」
 軽薄そうだけど、人は悪くなさそうな感じだった。僕と年も二つ三つしか変わらないみたいだった。
 「いえ、働いてます。東京のツアー会社に勤めてて、長崎に来た時に桃井さんの番組を聞きました」
 「…東京の人?ふうん。そう」
 『東京』と聞いて彼の態度は少し堅くなったようだ。
 「で、今日もツアー?」
 「いえ、桃井さんに会う為に、プライベートで来ました」
 決して嘘ではない。
 「へえ。感激だな。オレの番組の選曲、イイでしょう?自信あるんだ」
 「その事で、お話が。手紙にも書いたんですけど、まだ読んでらっしゃらないようですね」
 「…?」
 桃井はタバコの灰を石だたみの上に落とした。
 「去年番組で使用した『パープル』というレコードを、譲って戴きたくて。金額は、桃井さんのおっしゃる金額でいいですから」
 「…君か!」
 彼はタバコを爪先で揉み消すと、髪を抑えていたサングラスを降ろして顔にかけた。
 「その手紙なら、覚えてる。去年来てた奴だ。返信封筒入りで。…そうか、君か。
 忙しくて返事を出せなくてゴメンよ。でも、答えは『NO』さ。レコードはオレの財産だからね。番組でかけてる曲のほとんどは、入手困難な貴重盤だ。いくら金を積まれても譲るわけにはいかないよ。
 話はそれだけ?じゃ、オレ、もう入るから」
 彼は、僕がファンじゃないとわかると、さっさと自動ドアを開けて建物の中へ入ってしまった。
 その一月後、もう一度頼みに行ったけど、やっぱり断られた。そして、今回三回目。売ってもらえないなら、せめてカセットテープに録音してもらおうと思った。忙しい人だから断られるかもしれないけど。とりあえず、壊れ物専用の封筒に切手を貼って返信用にしてテープを入れて持って行った。でも…。
 

 「ダメだって言われたの?面倒だから?」 
 「いや。会えなかった。彼の番組は三月で終わっていた。彼は東京に進出するんだと言って、長崎を出て行ったそうだ」
 「……。」
 「例の親切だった制作の女性が、気の毒がって、桃井氏と連絡が取れたら郵送しておいてあげるって、テープを預かってくれたけどね。
 この街にいるはずなのに、ずっと遠くなってしまった感じだな。東京で偶然会える可能性なんて無いに等しいよ」
 橘君はそう言うと肩を落としました。
 仕事柄チケットは安く入手できるとしても(でもやっぱり高いハズ)、貴重な休日を長崎との往復で費やしていたなんて…。それに、いくら相手が地方のDJとは言っても、橘君って恐れを知らないヒトだわっ。壮絶な情熱としか言いようがない。
 でも、今回の失望はさすがに大きかったようで、表情も暗く沈んでいました。
 「…橘君たら、『パープル』は世界で一枚きりってわけじゃないでしょ。今までみたいに、地道に中古屋さんで探してて見つかるかもしれないわよ」
 「うん。そうだね。ありがとう。また頑張るよ。
  蓮見さんは、旅行の帰り?荷物が無いから、お見送りかな?」
 「うん。会社の人の転勤の見送り」
 「ふうん」
 橘君は『恋人?』などと詮索する事の無い人でした。他人の事に興味がないのでしょう。でも、こんな時は助かります。
 モノレールは浜松町駅に着き、私達は改札で別れました。


☆ 5 ☆
 
 日々は過ぎて行き、恋人とは最初は文通もどきの事をしていましたが、今ではもう三ヶ月も返事を書いていないのに気づきました。その年のクリスマスは、たくさんの友人達と大騒ぎして楽しく過ごしました。
 年が明け、年賀状で菜々実が妊娠中だと知ったので様子を見に行きました。今は六ヶ月で、順調とのことです。
 「おなか、まだ大きくなってないね」
 「まだ六ヶ月だもん。でも、だいぶ太ったよ。
 ハーブ・ティーでいい?コーヒーとか緑茶とか、カフェイン入りのは置いてないの」
 テーブルを立ってお茶の用意をしようとするので、「あ、いいよ、私がやるよ」と言うと、菜々実は「ううん、動いた方がいいの。毎日三十分も散歩してるくらいだよ」と笑って言いました。すっかり妊婦らしい意識が芽生えていて、私を感心させます。
 でも、胎教に悪そうな、梅原君のバンドのライブテープは相変わらず部屋で流していましたが。
 「妊娠中なのに、これ聞いてるの?」
 私が眉をひそめると、
 「私にとって心地好い音だから、悪い事はないと思うけどな。カフェインやニコチンと違って、胎教にいい音楽なんて人によって違うはず。モーツアルトを嫌いな妊婦がイライラして聞いてても、赤ちゃんにいいはずないじゃない」
 「そりゃあそうだけど」
 菜々実は自分で作った迷彩色のマタニティ・ドレスを着ていました。売ってるパステル調の物なんてダサくてヤなんだそうです。同じマンションの人達からは変な目で見られるそうですが、「かっこいいカッコしてる方が気分がいいから」。
 「わかるけど、子供がいると、近所に迷惑かけたり頼る事もあるし、仲良くしておいた方がいいと思うけど?」
 「別に非常識してないもん。ゴミの日もちゃんと守ってるし、夜も静かにしてる。お掃除の日もサボった事ないし。好きな服、着てるだけだよ?」
 菜々実はこういう人です。平凡でありきたりの私とも、長い友達です。

 その春に菜々実は無事に男の子を出産し、宇宙クンと名付けたそうです。結婚に反対していたご両親も、孫可愛さについに許してくれたとか。私は少し落ち着いた三ヶ月頃を見計らって、梅雨が明けた時期に再び訪ねました。
 赤ちゃんとご対面して、出産の苦労話を笑い話で聞き、ひと息ついた頃、梅原君の仕事の話になりました。
 「梅原君、売れて来たよねー。TV見てたら、アイドルのヒット曲の作曲者やってるんで、びっくりしちゃった」
 「おかげで生活は前より楽。育児に専念できるってもんだわ」
 菜々実は微かに笑いました。嬉しくないのかな?こんな皮肉っぽい口調。
 「おまけに、作曲家として有名になったからあのバンドのお客も増えてきたの。今はそこそこのライブハウスもタイバン無しの単独で満員よ」
 「へえ、すごいじゃない」
 「自分の為の曲も、少しポップになって、一般の人に受入れられるようになったみたいよ」と菜々実は笑って言いました。
 私は菜々実は泣きたいんじゃないかと思いました。昔から泣きたい時に肩をすくめて笑って見せる子でした。でも、なぜ泣きたいのかはわからなかったのだけど。
 「まあ、まだ、一般客より業界客の方が多いみたいだけど。シンガーの萩尾むつきなんか常連よ。ギタリストのゴッド笹塚も時々来るな」
 知らない、知らない。それは、梅原君の世界でだけ有名なヒトだってば。
 「音楽評論家の柳金八とか、DJのシロウ・モモイとかも」
 知らないってば。
 えっ?シロウ・モモイ?モモイ・シロ…ウ?桃井史郎!
 「桃井史郎がよく来るの!?」
 私は身を乗り出しました。
 見つけた。彼を捕まえた!

 私は喫茶店で橘君と会社帰りに待ち合わせをしました。夏の終わりのことです。二人で梅原君のライブに行く約束をしたのです。
 「いけない、遅れちゃった」
 私は腕時計を見て、変わりかけた信号を駆け抜けました。
 菜々実に桃井史郎とのいきさつを話すと、『彼を通してモモイに会わせてあげれるよ』と言ってくれました。
 『ライブ来てくれた業界人には、彼、ちゃんとライブ後に客席に挨拶にまわるの。その時会わせてあげれると思うよ。個人的な付き合いは無いから、そういう時しか機会がないの、ゴメンね』
 約束の店に走り込み、店内を見回すと、さすがに几帳面な橘君は時間にも正確で、既にテーブルについていました。
 「ごめん、遅くなって」
 「しっ!」
 橘君は人差し指を唇の前にたてました。様子が変でした。顔色は真っ青で、立てた指も震えているのです。
 「どうしたの?」
 「静かにして!今、かかったんだ、『パープル』!」
 「えっ!?」
 思わず大きな声をたててしまった私。店にはFMラジオがかかっていました。
 『そして、グリーン・フィジーは、愛する妻の為にこの曲をかきました。妻のバースデイ・プレゼントにレコードを制作してしまう彼は、よほどの愛妻家か変人だったのでしょう。橘君、満足してくれたかな。六年越しのリクエストに答えちゃいました。
 さて、次の曲は…』
 「ミック・菊池の番組?」
 私は、椅子に座って荷物を置いて尋ねました。橘君はまだ茫然としているようで、幽霊のようにうなずくだけでした。
 「今、かかったばかりだったんだ?遅れて損したわぁ、聞きたかったぁ」
 「……。」
 「大丈夫?」
 「…うん。ちょっとびっくりしちゃって…」
 「まだ続けてリクエスト出してたの?」
 「いいや。だから、びっくりしたんだ」

 『私の番組は今日で十年になるけど、質問に答えられない事が一度だけあってね、六年近く前だったかな。<昔の曲でピアノをバックに女性ボーカルが歌うバラード><間奏に古いシャンソン系のスタンダードが流れる>これだけで答えろって方が無理でしょう?
 でも、ミック・菊池は不可能を可能にする男だー。ま、探すのに六年もかかっちゃいましたけど。聞いてるといいな、橘市彦君のリクエストに答えて「パープル」。ロージィー・フィジー』

 「そして、かかった。確かにあの曲」
 「うわあ、ミック・菊池ってすごいね。あの後楽譜を送ったとは言え、よく調べたよね。しかもレコードも入手するなんて…。私たちが、あんなに苦労しても見つからなかったのに。やっぱ、プロにはかなわないなあ」
 「でも!」
 橘君は両手を握りしめていました。
 「モノはあるんだ、確かに。彼が見つけることができたんだ、僕だって見つける可能性はあるんだ。きっと、見つかる。見つけてみせる!」
 「橘君…」
 彼はすっかり興奮しきってるようでした。
 「今日のライブ、やめる?梅原君はまたライブやるだろうし、気持ちが落ち着いた時にしようか?」
 「えっ、ああ。ゴメン。大丈夫だよ。行こうか」
 彼は少し赤面して、立ち上がりました。でも、まだ、少し変だったけど。
 私としては、タッチの差で曲を聞けなくて、内心はかなりがっかりしていました。大の男がここまで真剣に探しまくる曲。絶対聞いてみたいに決まってます。

 訪れたライブ・ハウスは、昔の梅原君達が出ていた汚く狭い店とは感じが違って、こぎれいで内装も凝っていてお洒落な飲み屋って感じでした。今ではこういうお店に出るようになっていたのですね。椅子も八割は埋まっていて、お客も普通のかっこをした人が多かったです。
 遅く行ったにも関わらず菜々実の名前で席は取ってくれていました。そこからは関係者席も見えて、いかにも業界人という服装と風情の人達がうごめいています。
 「桃井史郎だ、あの、手染めアロハみたいなの着てるの」
 橘君がポツンとつぶやきました。

 開始の時間を少し過ぎると、ステージが明るくなり、白衣を着た梅原君が登場しました。白衣には血痕がついています。ステージの背景には大きなフラスコやガラス瓶が置かれ、中に脳や内蔵みたいなパーツが飾られています。もちろん作り物だろうけど、相変わらず気持ち悪い。キーボードの人は看護婦のかっこして出てきました。客席は大喝采です。
 でも、演奏が始まって、私は『アレ?』って思いました。確かに、聞きやすくなっています。歌詞は、肝臓の手術の克明なレポートだったり、坂口安吾からモチーフをとっていたり、エグイものも多かったけど、メロディは覚えやすく音も綺麗で、以前のような不快なコードの連続や金切り声ボーカルではなくなっていました。
 終了後、客席に挨拶に来た梅原君に「どうだった?」と聞かれて、私は正直に思った事を答えました。
 彼はうんうんとうなずいた後、「でも、玲子ちゃんがいいと言ってたと聞くと、菜々実はまた機嫌が悪くなるのかな」と笑っていました。泣く時みたいな瞳をして。
 梅原君は、「どうでした?」と橘君にも尋ねたのですが、橘君はこういう種類の音楽が存在することさえ知らなかった様で、まだびっくりしていて視線が泳いでいました。梅原君の事も怖いらしく、目を合わせられないで、下を向いて「すごいですね」とだけ答えていました。ショック大きかっただろうなあ。
 「シロウ・モモイを紹介しますね。これから挨拶に行くから、一緒にどうぞ」
 梅原君はこういう反応には慣れているらしく、苦笑もせずに私達を業界席へと導きました。

 梅原君に紹介されても、桃井さんは橘君を覚えていないようでした。
 「実は、『はじめまして』じゃないんです。長崎のFM局で…」と、橘君が言った時、初めて気づいたようです。
 「あっ!『パープル』の!」
 「はい」
 慌てる桃井さんと対照的に、橘君はにこにこ笑っています。
 「君、梅原さんの知り合いだったんだ?」
 「知り合いってほどでは。奥さんの菜々実さんと同じ大学の同学年で」
 「……。」
 桃井さんは爪を噛みながら、「ごめんね、テープは受け取ってたんだけど」と言い訳を始めました。
 「でも、レコードはもう、手元にないんだ、実は」
 「えっ!」
 「ミック・菊池にどうしても欲しいって言われて。あんな大物に頼まれちゃ、新人DJのオレなんて嫌と言えないよ。わかってよ」
 「ミック・菊池に?」
 では、今日かかっていたあの『パープル』は、桃井さんから手に入れたものなのでしょう。なんて皮肉なこと。
 「君には売らなかったのに、他の人に売っちまったのは悪いとは思うよ。でも、相手はミックだぜ。うちの事務所の社長だしさあ。オレの立場もわかってくれよ。
 日本では稀少盤だけど、アメリカなら、けっこう残ってるらしいよ。ニューヨークの中古盤屋を回れば半日でゲットできるさ」
 「そう。桃井さんはミック・菊池の事務所に入れてもらったんですか」
 この時の橘君には妙な迫力がありました。特に、後ろめたい桃井さんには効果があったのかもしれません。それとも、新人DJにとって、マニアに大人気のプロデューサーの知人を侮れないという計算があったのかも。彼は言い訳を言い続けました。
 「テープに録音する事くらいなら、頼んでみてもいいよ。事務所で時々会うし」
 ついにそこまで口にしました。
 「ミックは、君みたいに、好きな曲にこだわり続ける人に親切らしいんだ。確約はできないけど、可能性はあると思うよ」
 桃井さんのあてにならない性格は充分知っていましたが、橘君は「お願いします」と頭を下げて、住所と電話番号を教えていました。

 私でさえ『あの人はあてにならないな』と思っていました。だから、一月後、橘君から電話があった時は少し驚きました。
 「ミック・菊池がね、レコードを聞かせてくれるから事務所にいらっしゃいって」
 「ほ、ほんと?」
 「レコードをテープに録音して僕に渡すのは、著作権法で禁じられてるからできないって言われてしまった。自分で聞くならいいけど、他人にあげちゃいけないんだって」
 「それは知ってるけど。でも、みんなやってるのにね。真面目な人ねぇ」
 「何かあった時がイヤなんだって。著名人だし。評論を書く時も、出典やアルバムの発売年月日を必ず確認するって」
 ミック・菊池はラジオのパーソナリティなんかもやってるけど、本業は音楽評論家。レコード蒐集家としても有名です。
 「彼と話せたの?シロウ・モモイもちゃんと約束は果たしたわけだ」
 「いいや」と、受話器の向こうの声は笑っていました。
 「悪いけどあの人は信用できなかったんで、直接ミックに手紙を書いた。ラジオでかけてくれたお礼もかねて。十歳の時からこの曲を捜し続けた事も克明に書いた。桃井さんのことも書いたよ。僕が狙っていた彼のレコードを、今ミックが持っている事も。テープに録音するのを頼んでくれるって事も。
 『秋に渡米するので、桃井さんからの返事を待っていられません。直接手紙を出しました。OKなら返信して下さい』って、返信用封筒とテープを同封した。そしたら、手紙だけが入って送られて来たってわけです」
 「ふーん。で、事務所に聞きにいらっしゃいって。よかったねー。渡米ったって、仕事のツアーでしょ?」
 「いや。今週で会社は辞めたんだ」
 私は「えーっ!」と思わず大きな声を出してしまいました。
 「レコードを捜しに行くんだよ。仕事だと観光地しか行けないし、そういう所にはレコード屋なんてないし、ニューヨーク観光とかで都会へ行っても店を捜す暇も無いんだ。
 まずはニューヨークへ渡って、中古屋を捜す。シロウ・モモイは半日で見つかるなんて調子のいい事言ってたけど、そんなに甘くないと覚悟はしてるんだ。観光で滞在できる間に捜しまくって、それで駄目なら一時帰国して今度は留学の手続きを取るつもり」
 私は絶句してしまいました。
 「ほんとに…?本気なの?」
 「うん」
 くだらない質問でした。橘君は、『パープル』の為なら、やることすべて本気なのでした。
 「いつ出発するの?」
 「来週の週末。だから、金曜日に事務所に伺おうと思ってる。むこうの都合もいいそうだし。もし時間があったら、きちんとレコードで聞いた感想を連絡するね」
 「うん、楽しみに待ってる」
 そして、それが、私が橘君と話した最後でした。

 金曜の夜に橘君からの電話は無く、出発前で忙しいのだろうと思っていました。彼から半年くらい連絡が無いことはよくあったし、帰国後にでもまた電話してくるだろうと軽く考えていました。
 土曜日、成田発ニューヨーク行の便が大きな事故を起こしました。離陸のトラブルで炎上、死者二十六名、ケガ人約二百名の大惨事でした。
 死傷者のリストに、橘君の名前はありませんでした。もっとも、死体を確認するのも大変な作業らしいですが。
 そして電話は留守電のままです。何日もかけ続けましたが、留守電のままでした。私は何時の何便とも聞いてなかったし、きっと他の便で無事に渡米したんだと思いました。思うようにしました。
 それでもどうしても気になって、航空会社に事故に遇った便に搭乗した乗客の名簿を問い合わせたりもしました。でも、やはり橘君は乗っていなかったようです。
 橘君ったら、ニューヨークに着いてからでも、他の便が事故に遇ったのを知ったなら無事の連絡くらいくれればいいのに。日本で、事情もわからず心配している人がいるなんて考えないのでしょうか。私は少し腹がたちました。
 でも、すぐに思い直しました。考えないのです。橘君はそんなこと、考えないし関係ないのです。昔からそうでした。今は夢中でレコード店めぐりをしているのです。そういう人です。

 半年たっても、一年たっても、橘君からはもう連絡はありませんでした。帰国したら連絡すると言っていたのは、私も覚えていました。でも、こちらから電話してみる気は起こりませんでした。事故の件で無事の連絡も無かった事で私は腹をたてていたし、それより新しい恋人ができてその事で頭がいっぱいだったせいもあります。どうせもう留学試験もパスしてアメリカで学生してるのだろうと思いました。

 そう、私の新しい恋人は、なんと、梅原君の相棒のキーボード奏者でした。名前は稲垣君といいます。
 彼は普段は中学校の音楽の先生です。梅原君とは中学の同級生で、それからずっと一緒にやっているそうです。『ウメの音楽は気持ち悪いけど、付き合ってやれる奴はオレしかないからさあ』という理由で付き合っているそうです。私が菜々実の家に遊びに来ていた時に、彼も偶然来ていて、素顔も初めて見たし、ちゃんと話したのもその時が初めて。予想に反して感じのいい人でした。
 むこうは、以前から『菜々実ちゃんの友達の玲子さん、いいよなあ』と言ってくれていたそうですが。(後日菜々実から聞いた)
 そんなわけで、梅原君が有名な音楽雑誌の編曲者評論家賞とかいうのを取った時、雑誌社主催の派手なパーティーへ稲垣君と二人で出かけました。パーティーは都心のホテルのナントカの間で行われ、著名な音楽関係者がうようよいるようでした。私はTVに出てる人くらいしかわからないから、ほとんど顔は知らないけど。その雑誌が評価してるミュージシャン達は特に、TVなんかにはあまり出ないようです。
 パーティーには梅原君夫妻と一緒に行ったのですが、稲垣君も『普通の人』だし、気後れしてるみたいでした。挨拶しまくる友人夫婦を見ながら、私達は隅の方でぼーっとして立っている状態でした。
 「あ、ミック・菊池だ」
 稲垣君が、銀のタキシードを着た中年の姿勢のいい男性を見ながらひとりごとのように言いました。
 「あの人が?日本人じゃない」
 彼はぷっと吹き出して、
 「ハーフか何かだと思ってたの?確か本名は菊池光男とか言うんだぜ」
 「業界の事なんて、全然知らないもん」
 稲垣君は、赤面してぷんとすねて口を尖らした私に苦笑し、 「あ、でも、橘君に会った最後の人だね。どうなったんだろう。彼はレコードを聞かせてもらえたのかな?ちょっと興味あるな」と、話題をそらしてごまかしてました。
  そうだ。彼は『パープル』を聞けたのでしょうか。私は一回も聞く機会がなかったけれど、私自身もあんなにまめにお店をのぞいて捜したレコード。どうなったかぐらいは気になります。
 「あ、おいおい、待ってよ」
 気づくと私はミック菊池に向かってまっすぐ歩き始めていました。


☆ 6 ☆
 
  「ミック・菊池さんですね?」
 怖いもの知らずとはこのことです。私は見ず知らずのミック・菊池に話しかけました。場所は業界のパーティー会場。ミックはVIP、私はシロウト。この席で名前を確認すること自体どシロウトの証明です。菜々実が見てたら後ろから殴られてたかも。
 「はじめまして」
 彼はグラスを上に挙げて微笑みました。さすがに紳士です。私の無礼に嫌な顔もしません。
 「はじめまして。私は蓮見といいます。橘市彦の友人です。彼は『パープル』を聞けたのでしょうか?」
 気がせいていたせいか極度の緊張のせいか、まるで喧嘩ごしのように畳み掛けてしまいました。でもミックは、ああ、と少し驚きの表情になっただけでこう言いました。
 「『橘』?…あの、歌に恋した青年?」
 私はその一言で参ってしまいました。なんて素敵な人なのでしょう。私は、業界人とか芸能人とかって、いいイメージは持っていなかったのですが、「ああ、この人はきちんと話を聞いてくれる人かもしれない」と思いました。それに、橘君にある種の共感というか好意を持ってくれているのもわかりました。 私は二度も三度もうなずき、
 「彼に、あなたの番組にハガキを出すように勧めたのは私なんです。六年前」
 今ファンになったくせに、六年前からファンだったような言い草。
 ミックは穏やかに微笑むと、
 「そうですか。ありがとう。あなたと彼のおかげで、私も素敵な一曲を知る事ができましたよ。『パープル』はすばらしい曲だと思います。彼が必死に追いかけていただけのことはある」
 何なのでしょう?私は彼のその言葉で、ぼろぼろと涙がこぼれてしまったのです。こんなにいきなりぼろぼろと…。予測もしない涙でした。肺が苦しいくらいでした。
 「お嬢さん…蓮見さん?でしたね。泣かないで。どうしました?」
 私は首を振り「ごめんなさい、なんだか嬉しくて」とやっとのことで声を絞り出しました。
 「橘君はレコードを捜しにニューヨークへ行ったらしいです。友達なのに変な言い方ですが、彼からはずっと音信不通なんです。
 『パープル』を聞きに事務所へ行く予定だって聞いて以来、連絡はありません。便りの無いのは元気な証拠と言いますから、それはいいんですけど、私は、彼が『パープル』を聞けたかどうかが知りたかったんです」
 彼は笑顔でうなずくと、その日の事を話し始めました。
 

 当日、私は橘青年と、事務所のあるマンションの一階の喫茶店で待ち合わせました。私は五分前に行ったけれど、彼はだいぶ前から来て待っていたらしく、アイスコーヒーの氷がほとんど溶けていましたよ。でも、緊張からか、一口も口をつけていないようだったけれどね。
 私は評論の為の音楽はすべて事務所で聞く事にしています。家で聞くのは好きな音楽だけにしたいんでね。それで事務所の一室は防音設備を整えたオーディオ・ルームになっています。その部屋に通すと、彼は目だけをきょろきょろ動かして、落ち着かない様子で勧められたソファに座りました。さかんに恐縮がって「すいません」「ありがとうございます」を何回も言ってましたね。でも、そのおどおどした仕種も、私がレコードをバッグから取り出すまでのことでした。
 「さっそく、お聞かせしましょう」
 「はい!」
 彼は身を乗り出し、初めて生き生きとした声を発しました。私がターン・テーブルにレコードを置いていると、
 「あの、ジャケット写真を見てもいいですか?」
 「どうぞ。手に取っても結構ですよ」
 私が言うや否や、食い入る様に写真に見入っていました。レコードを手にしたことがないのだから、ジャケットを見るのも初めて、ですね?まるで顔を知らなかった産みの母親の写真でも見るように、じっと眺めてましたよ。
 『パープル』のジャケットはね、洒落たクラブの片隅のテーブルに、一輪紫色した薔薇が置かれているというデザインです。テーブルには飲みかけの二つのシャンパングラス。片方には紅い口紅の汚れがついてる。灰皿では細い煙草が数本くしゃっと折れ曲がって。ちょっとデカダンでロマンチックで、素敵な写真ですよ。もちろん曲の雰囲気にもぴったりだ。
 レコードに針を下ろし、私もソファに腰をおろしました。彼は息をのんで最初の音を待っています。両手を強く握りしめているので、手の甲の筋が浮き上がっていました。
 生ピアノの優しい旋律。イントロが流れ出すと、彼の表情はみるみる優しく深く変わっていきました。両手をほどき、肩の力も抜けていったのがわかりました。
 Cの音から始まるロージィーのボーカル。ハスキーだけど低すぎない。甘いメロディをひきしめています。六小節目で転調し、ピアノのコードがジャズっぽくなる。おシャレですよね。ワンフレーズ終わるとすぐにサビ、そして間奏『ラ・ヴィ・アンローズ』、そしてもう一度サビを歌ってから最初のメロディを繰り返して終わる。短い曲です。歌詞は極甘のラブ・ソングだけど、ミディアムテンポだから、押しつけがましくないバラードに仕上がっています。
 歌詞はね、『運命の人が、紫の薔薇の咲くつるばらのアーチの家で私を待っている。きっと待っていてくれると信じていた、それがあなたなのね』みたいなロマンチックなものです。『私は一生かかってもあなたを捜し続けるつもりだったの』、って内容のね。考えてみたら、橘君とこのレコードとの関係みたいな歌詞だな。
 レコードが終わった時、彼のまわりは綺麗な色のオーラで包まれてるように見えた。彼の瞳や口もと、髪や背中までが世界で一番優しい人になっているように見えたんだ。
 少し間があって、かすれた声で「ありがとうございました」と彼は微笑みました。喫茶店で会った時の彼とは別人みたいな表情をしていたっけ。彼がこのレコードを聞けて本当に喜んでくれているのがわかって、私もとても嬉しかった。
 「思った通りの曲だったかな」
 「はい!…いえ!それ以上でした。
 実は明日から、このレコードを捜しにニューヨークへ行きます。レコードジャケットを見る事ができたので、たぶん捜すのが楽になるでしょう」
 「そうですか。がんばってください。ニューヨークならたぶん見つかるでしょう。
 もう一回、聞きますか?」
 「はい、ぜひ、お願いします!」
 その時、室内電話の内線が鳴りました。オフィスに私に大事な電話が入ったのでした。私は自分のデスクで受ける為にオーディオ・ルームのドアを開けながら、
 「ちょっと失礼します。私の電話が終わるまでなら、もう一回と言わず三回でも四回でも聞いていてください」
 そう言って部屋を出ました。
 電話は意外に長くかかり、あれは短い曲なので四回どころか十数回聞けるくらい待たせてしまいました。
 「すみません、お待たせしてしまって」
 部屋に戻った時に、もう彼は居ませんでした。あまり待たせたので帰ってしまったようです。挨拶もせずに非礼な、とちらと思いましたが、待たせすぎた方も悪いですからね。明日渡米するということで、色々忙しい所を、都合をつけて無理して来たのかもしれませんし。
 いや、彼を弁護するのは、少し自分が後ろめたいからですよ。部屋を覗いて彼の姿が無いのに気づいた瞬間、『やられた!』って、彼を疑いましたから。レコードを持っていかれたと思ったんです。でも、一瞬でも疑うなんて、失礼な事をしたと思います。レコードはちゃんとターン・テーブルに乗ったままだったし、レコード袋もジャケットもテーブルに置いてありましたよ。好きな曲を聞いてあんなに優しげな様子になる人を、私は疑ってしまった。恥ずかしいことですよ。
 

 「いいえ、そんな。橘君も、メモくらい残して帰ればいいのに。事務所に招かれてレコードを聞かせていただいて、こんなに親切にしてもらったのに。
 気のきかない人なんです、ほんとに。『パープル』の事しか頭にないんです」
 ミックは笑って、「わかるな、それ」と頷きました。
 大物であるミックの回りには、一言声をかけたい人達が取り囲みつつありました。マナー違反なほど、私は彼を独占していたようです。とは言っても、彼が勝手にいっぱい喋ったんだけど。
 「橘君から、レコードを入手できた報告があったら、必ずミックさんにも連絡するようにきつく伝えておきますから」
 「ははは。見つかるといいね。幸運を祈ってる」
 「ありがとうございます」
 順番待ちの人達に睨まれているので、早々に挨拶して切り上げて離れました。
 稲垣君にまで、 「玲子ってすごい。ミック・菊池とあんな長く話したなんて」 なんて言われちゃうし。
 でも、橘君に関するイライラは解消していました。
 「橘君、レコード聞かせてもらえたんだって。すごく幸せそうにしてたって。『ジャケット写真を見れたのも、捜す為には助かった』って言ってたって。翌日からのニューヨーク中古盤屋あさりに燃えてたみたいよ」
 「きっと、今も毎日、捜し歩いてるんだよ。足にマメを作って。何足もスニーカーを履き潰して」
 「たぶん、とても楽しそうに、ね」

 橘君の話はこれで終わりです。終わりのはずでした。だって、彼に関する情報はこれで最後だから。
 あの後、橘君からの連絡は全く無く、日本とアメリカを行き来してるのか、日本に落ち着いているのかもわかりません。数少ない共通の友人達も、彼の行方を知らないと言います。
 しばらくして私は稲垣君と結婚し、子供が産まれ、音楽教師とその家族という生活が始まりました。穏やかで幸せな年月が過ぎていきました。
 そして、十五年。
 朝食の時、主人が、開いていた新聞を見ながら言いました。
 「ミック・菊池って覚えてるか?音楽評論家の。死んだんだって」
 「えっ」
 私は新聞を覗き込みました。紳士的でロマンチストだった人。素敵なおじさまって感じだった。一回だけパーティーで会っただけだけど。
 「もう、七十歳近かったんだな。癌だったらしい。『三年の闘病生活の末』か。そういえばここ数年名前聞かなかったな」
 「ミック・菊池って誰?」
 中学二年の息子・充杜(ジュード)が味噌汁をすすりながら尋ねました。彼は父譲りの音楽好きで、学校でもバンドを組んでいるようです。根は真面目で臆病なくせに、髪を染めたりしています。
 「昔の、音楽評論家だよ。父さん達、若い時に会った事があるのさ。梅原のおじさんの関係でね」
 梅原さんはすっかり業界の大御所らしいです。たまに、若い歌手とのゴシップが噂されたりします。菜々実とはもう年賀状のやりとりだけになっていました。
 「ふーん。ミュージシャンになれなかった音楽好き、かあ」
 「充杜、そういう言い方、お母さんは好きじゃないわ」
 「はあーい。ごめんなさーい。あ、遅れる!行ってきまーす」
 息子はカバンを肩にかけて飛び出して行きました。
 新聞には、彼の貴重で膨大なCDやレコードのコレクションについても書いてありました。特にレコードは、数枚の特別に貴重な物は博物館に、かなり貴重な数十枚はオークションに、普通に貴重な百枚は各都市や大学等の図書館に寄贈されるそうです。ミックの遺言なのだそうです。そして、そこそこ貴重な千枚は中古盤屋に売却され、残りは廃棄されるとのことです。
 「レコードなんぞ、マニアの人しか欲しがりゃしないさ。音楽室にも二枚あるが、子供達に『昔はレコードと言う物があって、これです』と標本変わりに見せる時代だ」
 「…欲しいわ。私、欲しい」
 「えーっ!?」
 主人の箸から梅干しがポトリと落ちました。
 「オークションに参加するのって、どうすればいいのかしら。お金はいくらぐらい用意しておけばいいのかしら」
 「おいおい、本気かよ」
 「『パープル』、欲しいのよ。私は結局一度も聞けなかったのよ」
 「ああ、そんなことあったな。あの人、なんて言った?ああ、橘君、か。どうしてるのかねえ」
 「そうだわ、もしかしたら橘君もオークションに来るかもしれないわね」
 「十五年もたってるんだ、会ってもお互いわからないさ。それに、そのレコードが、オークションに出るかどうかもわからないだろう」
 「そうね。オフィスに問い合わせてみましょう」
 私が本気なのを見て、主人は呆れていました。でも、ちゃっかり、 「捨てる奴を二、三枚もらえるかも聞いておいてくれ。教材に」なんて頼んでましたけど。


☆ 7 ☆
 
  オフィスに問い合わせたところ、『パープル』は、博物館に寄贈する超貴重盤リストにもオークションに出品する極貴重盤リストにも載っていないそうでした。図書館に贈る物や中古屋へ売る物は数が多いので、今すぐには調べられないとのこと。
 『インターネットをおやりでしたら、ミック菊池のHPの方でリストをご覧になれますよ。欲しい方には適価でお譲りするよう言われておりましたので、遠慮なくお申し出ください』
 ミックの、なんと粋なはからいでしょう。音楽好きな人にはとことん優しい人でした。
 夫のパソコンを借りて早速リストを調べましたが、『パープル』はありませんでした。
 私はもう一度事務所に電話して尋ねました。
 「生前所有していた事がわかっている盤なのですが、HPのリストにないのです。十五年ほど前に入手なさった盤です。手放された可能性は?」
 「それは無いです。社長は、一度入手したレコードは決して売ったり贈ったりしない人でしたから。 このリストに無いなら廃棄する物の中にあるのだと思います」
 「廃棄…」
 「社長にとっては宝でも、遺族や会社にとって金銭的価値の無い物もあるのです。彼はそういう事も充分わかってますから。倉庫の賃貸料だって安くありません」
 彼女はそう言ったあとに、「ですが」と柔らかい口調になりました。
 「もし、お捜しになる気がありましたら、お名前と住所とメールアドレスをお教えくださいますか。廃棄の前に、そういう方達の為に一度倉庫を開ける予定にしています。通信費等の必要雑費を支払えば無料で盤を差し上げます。日時をこちらからご連絡しますので」

 一ヵ月後にハガキの通知が届き、翌週、指定の場所に出かけて行きました。Dグループと呼ばれていた私達は五十人くらいで、年齢も風体も様々でした。やはり橘君と思われる人はいませんでした。集合場所から会社のスタッフに連れられて大きな貸倉庫の前に着き、スタッフから『捜す時間は一時間』、『アーチストは洋楽はアルファベット邦楽は五十音順に並んでいる』、『取り出した盤を戻す時は、必ず元の場所にしまう』などの説明を受けた後、中に入れてもらいました。
 無かったらどうしょう、前に誰かが持ち出していたら…。私は不安と共にそこに足を踏み入れました。倉庫のほこり臭さが余計に不安をかきたてました。倉庫には、鉄骨のキャビネットが並び、その棚に無造作にダンボールが置かれていました。アーチスト別に整理されているとは言っても、シングルもLPもCDもごちゃまぜで、LPジャケットが飛び出しているダンボールも少なくありません。まるで…レコードの納骨堂みたいでした。お墓に入れる前の骨壷がキャビネットにならんだ、あの納骨堂。
 同行者達はマニアな人たちなのでしょう。眼の色を変えて「お骨」を暴きにかかっています。とろとろしている私などは、二度も突き飛ばされました。
 「ええと…ロージィーだから、R?あ、その前にジャンル分けは…」
 こんな調子で見つけられるのか心配していた私でしたが、『米盤・ポピュラー・女性シンガー・R』の欄で簡単に発見しました。あっけないほど。
 ジャケットの説明を故人からしてもらっていたので、ロージィー・フィジーの名前より先にジャケット写真で「あっ!」と思いました。
 私はすぐにそのレコードを抱きしめていました。欲しいお人形を手に入れた少女みたいに。でも、その腕はぶるぶる震えていたのです。あの『パープル』が、今、私の腕の中にあるなんて!
 あら、でも、なにか変。欲しがっていたのは私じゃなかったはずなのに。
 念の為に、倉庫捜しを希望した人の中に橘市彦という名前があるか問い合わせました。でも、彼はいませんでした。
 新聞のたずね人欄にでも出してみようか。『パープル』を手に入れた事を知らせて。でもアメリカにいるなら意味ないし。
 帰りの電車の中でそんなことをぼんやり考えていました。

 その日の夕食が済むと、主人に頼んで、しまいこんでいたレコード・プレイヤーをひっぱり出してステレオに接続してもらいました。
 音楽教師だから、というわけでもないでしょうが、彼はこれを何となく捨てれずにいたようです。おかげで助かりました。ほとんどの家にこんな骨董品は置いてないでしょう。改めて買うとしたら、専門店へ行って高いお金を払わねばならなかったはず。捨てられるはずだったレコードを聞くために。
 セッティングが終わり、私達はワインの栓など抜き、『パープル』をターン・テーブルに置きました。針を持ち上げると黒いお皿は回り始めました。
 ゆっくりと針を置いて。
 曲が始まる前からのノイズ。でもそれも一興です。
 ピアノの優しいイントロが流れ、そしてハスキーだけど低すぎない女性の歌声。甘いメロディ。途中のジャズっぽいスパイス。押しつけがましくないミドルテンポ。
 「これが『パープル』…」
 「素敵な曲だね」と主人も言ってワインを飲み干しました。
 ワン・フレーズ終わって、サビ。ピアノの『ラ・ヴィ・アンローズ』の間奏。
 「……?」
 「あれ?」と主人も気づいたようでした。ピアノと重なるバイオリンの音。ロマンチックな曲調をさらに盛り上げる、甘い音色でした。
 「橘君って、バイオリンがこの曲に合いそうだから合奏したくて習い始めたのよ。でも、ほんとは入ってたのを勘違いしてたのね」
 「三人とも、上手くはないんだけど、いい雰囲気だね。
 ピアノのフィジー氏の本業は作曲家だから、まあまあ弾けてるけど、でも本物のピアニストにはかなわないよ。ボーカルも、プロ・シンガーになりそこなった、彼の奥さんだもんな。
 バイオリンって、誰が弾いてる?クレジットしてあるか?」
 主人がジャケットの裏、歌詞や作者や奏者が書いてある方をめくってみました。
 「……。」
 「どうしたの?有名な人だったの?」
 覗き込んだ私も絶句しました。裏にはモノクロで小さく録音風景の写真が載っていました。一発録りで、三人同時に演奏したようです。
 バイオリニストは東洋人でした。
 「似てる……」
 橘君に似ているのです。
 「…なに馬鹿な事言ってるんだ」
 主人は即座に否定しました。私が『誰に』似てるとも言っていないのに。
 「あなたは、橘君とは一度しか会ってないじゃない。私は四年間、同じ大学に通ってたのよ!」
 「これが橘君だとしたら?
 彼はアメリカに行って、又は飛行機事故の時にタイムスリップした?そして一九六五年にレコーディングに参加したってか?
 それともミックの事務所でレコードを聞いているうちに、レコードの中へ入りこんでしまった?
 それとも、このバイオリニストは橘君の前世の人で、生まれ変わった橘君はこの曲が懐かしく感じて大好きになった?
 それとも…」
 「…ごめんなさい。もう、やめて下さい。
 …似てないわ。よく見たら、似てない。それに、ほんとは橘君の顔もよく覚えていないもの。気持ち悪い事言って、すみません」
 そう言うと、私は曲の途中で針を上げました。馬鹿げています。私の考えている事は、確かに突拍子もない事でした。でも針を上げた手はまだ震えていました。
 「さあ、ワイン、残してももったいないもの。飲んでくださいね」
 私は主人のグラスにもうぬるくなったワインをつぎ足しました。

 タキシードを着たこの写真のバイオリニストが、橘君に似ているかどうかは考えないことにしました。考えると怖くなるから。
 そして私はただレコードをかけて曲を聞く事にしました。素敵な曲です。苦労して手に入れたのに、堪能しなきゃ、もったいない。主人が学校に行っている間に、時々かけていました。
 「ただいま。おなかすいたー!…へえ、レコードなんて聞いてるの」
 試験中の充杜が早く帰宅し、居間でくつろいでる私を見つけて昼食を催促しました。
 「レコードなんて、よく知ってるわね」
 「音楽の授業で聞かされたよ。LPっていうの?チャイコフスキーとかビートルズとか」
 チャーハンの大盛りをかっこみながら、「いい曲だね」などと偉そうに感想を言っています。
 「すごーいラブ・ソングだそうよ。めちゃ甘の」
 「歌詞カードどこ?…うわ、輸入盤。対訳無しかあ」
 とジャケットをいじくっていましたが、
 「綺麗な写真だね。あ、この程度の英語ならわかりそうだな」
 私が、「試験中って関係ない勉強がしたくなるものよね。映画のセリフのヒヤリングとか古典の出典を読みたくなったり」とせかすと、彼は、 「はいはい、明日の勉強を始めまーす」と自分の部屋に引っ込みました。

 その夜、充杜に夜食をさしいれてあげようと台所に入ると、なんと当の本人は居間にいました。
 「何してるの?」
 「ちょっと気晴らし。昼間聞いてた曲、MDに録っていい?」
 「いいけど。レコードのかけ方なんて知ってるの?大切なレコードなんだから、傷つけないでよ」
 「大丈夫だよ」
 彼の手元には二枚のMDが用意されていました。
 「MD、二枚録るの?」
 「友達にやるんだよ!」
 彼の口調は、急にぶっきらぼうになりました。ステレオの方を向いたまま、激しくまばたきしています。頬が赤くなってる。
 「夜食を作って、部屋に持っていっておくわね」
 からかうとまたムキになるだろうから、私は気づかないふりをしました。
 「うん、ありがと」
 彼は片耳にヘッドホンを当てたまま返事しました。空いた方から『パープル』がうすく洩れて聞こえてきました。

 若いこの子が大人になった時、思い出の曲として『パープル』は彼の胸をしめつけるかもしれません。それは、MDを渡された少女にとっても。
 私は、やっぱりこのバイオリニストは橘君なのだと思うことにしました。理由は、
 『むかしむかし、歌に恋をした男がいました』
 私のつまらないモノローグが、そんな素敵なおとぎ話に変わる気がするから。


 ★ ★ ★ <END> ★ ★ ★ 


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