パジャマで弾くノクターン

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 ☆ 七 ☆

 秋と冬のはざまには、雨が多く降る。
 その夜も、つよい雨が降っていた。ミントが危惧してたとおり、 雷が鳴り出した。
 ベットから飛び起きると服を着替え、ワインを暖めて、 ラベンダー博士のドアをノックした。  返事はなかったが、起きているのはわかっていた。ドアをあけた。
 「 ミント」
 博士は、ベッドに半分起き上がって、両腕を抱きしめて震えていた。
 「ワイン、飲みませんか?  そんな気分じゃないかもしれないけど、クスリだと思って」
 「いや 。ありがとう。いただくよ」
 ミントが運んできたトレイのマグカップを手に取り、一気に飲みほした。
 「雷で目が覚めてしまった。  しばらく付いていてくれる?」
 ミントはうなづいた。
 「小さな子供みたいでだらしないね。雷が怖いなんてさ」
 ミントは今度は首を振る。
 窓の闇を稲妻が走った。「うわっ!」博士は毛布をかぶった。
 「 楽しい話をしましょう? ねえ、博士はマロンケーキは好きですか?」
 「 マロンケーキ?」
 「スポンジに、シロップに漬けた栗のかけらを練りこんで、 ドライフルーツの代わりに するのよ。おいしそうでしょ?」
 「 うん。あ、でも、モンブランの方が好きだな」
 「じゃあ、栗でマロンクリームを作って飾りましょうか。
 明日晴れたら、栗を拾いに行きましょうよ。この雨と風だもの、 いっぱいイガが落ちて いるわ」
 「そうだね。ミントがケーキを焼いてくれるの?」
 「まかせてください」
 「劣等家政婦だから、どうだかなあ」
 「まあ、ひどい。ここへ来てから目立った失敗はしてないですよー」
 「ははは、冗談だよ。家政婦としても看護婦としても優秀だよ」
 ホット・ワインが効いてきたらしい。博士の気分がほぐれてきたのがわかる。
 瞼が重そうな様子だった。眠くなってきたらしい。
 「ワインが効きましたね。お休みになりますか?」
 博士はうなずいて、ベッドにもぐりこんだ。
 「灯りはつけたままにしておいてくれるかな?
 それと・・・ 寝入るまでそばにいてくれる?」
 「はい、ご主人様」とミントは笑った。  相変わらず弱々しく危うい病気の子猫みたいだ。
 「ミントがいてくれれば、雷の日も平気だな」
 「・・・ 」
・・・そんなこと、そんな目で言うのは、ルール違反だわ・・・
 博士はすぐに寝息をたて始めたが、また稲妻が光った。
 「ローズマリー!」
 博士はミントの手を握った。
 「きゃっ!」
眠っている。
まだ眠っているのだ。
・・・ラベンダー博士・・・
 博士の頬から枕へとつたう涙を、ミントは指でぬぐってあげた。
 雷は激しくなっていた。彼は外が光るたびに、ミントの指を強く握った。  ミントの手を握りながら、時々低く小さくローズマリーの名を呼んだ。 そのたびにミントの胸は痛くなった。
・・・もうそろそろ限界かもしれない。  私はもう、この家で息ができなくなりそう。 博士のそばで笑えない・・・

 夜明け前には、雨の音も風の音も止んでいたようだ。
 ラベンダーは不思議な楽しい夢を見ていた。
 星空の中、ミントが猫のように、この部屋のベランダの手すりの上を歩いていた。長い 手足で上手にバランスをとって、まるでくるりと庭へ降りて行きそうに。
 いつも結っている赤い髪は、ほどいて風になびいている。
 ミントの後ろをそっくりの足取りでバージルが続いた。
 BGMはノクターン。バイオリンの音。

 雨はいつしか止み、朝が来ていた。カーテンごしに光が差し込み、ベランダの小鳥の鳴 き声でラベンダーは目覚めた。
 指に優しい感触・・・ 。ふと見ると、ミントが手をつないだまま、横の椅子で寝息をたて ている。ずっと付いていてくれていて眠ってしまったらしい。
・・・ありがとう、看護婦さん・・・
 指にキスをして、起き上がった。

 ミントが目覚めた時、ラベンダーはもういなかった。ベッドはもぬけのから。
・・・起こされないでも起きるなんて、珍しいこと・・・
 書斎にも食堂にも彼はいなかった。  研究室には鍵がかかっている。ここにもいないのだ。
・・・朝の散歩かな・・・
 洗濯物としてよこした白衣のポケットに、ここの鍵が入ったままだった。
・・・こんなずさんな管理者じゃ、そりゃあ国家機密は任せられないわよね・・・
 ミントはその鍵で研究室の鉄のドアを開けた。  まっすぐにローズマリーのもとへ向かった。
 「いつ見ても綺麗なひとだこと」
 ふうっとため息。
 こんな美人に。しかも博士にあんなに愛されているひとに、対抗しようなんて気は起き ない。闘う前から勝負は明らかだ。
 一緒に生活すればするほど、つらくなってくる。博士がどんなにローズマリーを愛して いるか知らされるばかりだ。
 想い出が増えれば増えるほど、つらくなっていく。
・・・私にも、愛してくれたひとがいた 。
  今はシナモンに優しく抱きしめてほしい・・・  シナモンに会いたい・・・ 。
 帰りたかった。

 「おはよう。ミント、こんなところにいたのか。
 森へ行って栗を拾って来たよ。私の発明品の栗の皮剥き器にかけたから、あとはミント の出番だ」
 背中から、元気を回復したラベンダーの声がした。
 「ケーキを焼いてくれるんだろう?」
 振り向くと、昨夜とは別人みたいに満面の笑顔で立っている。
 「 なぜ? 泣いてた?」
 「 帰りたいの。あの人にもう一度会いたいの。
 天才なんでしょ。なんとかして!」
 ミントはラベンダーの胸にわっと泣きついた。
 とまどうラベンダー。

 台所ではケーキの焼けたいいにおいがしていた。
 ミントはマロン・ケーキを切り分けて、オレンジペコを入れた。
 「ありがとう。じゃあ、いただきます。
 少し落ち着いたかな。 さて、君の話をきこうか?」
 ミントも一口紅茶をすすり、深呼吸をして、こう言った。
 「博士の研究の、人体実験に使ってください」
 ラベンダーは、紅茶を吹きそうになった。
 「 なんだって?」
 「コールド・スリープ装置に入れてほしいの。二十歳のままで、シナモンにもう一度会 いたいの。費用とか、博士の計画とか、いろいろあるだろうし、無茶なお願いだとは思う のだけど 」
 「・・・ 。」
 ラベンダーは面くらっていた。いや、動揺していたという方が正しいかった。  しかし、彼は頭のよい人間だから、対応はとても冷静(クール)だった。
 「出来ないことはない。危険はほとんどないと、自信を持って言える。  確かに人体で実験はしたことないけど、私は天才です」
 そう言ってケーキをほおばって笑った。
 冗談めかしてはいるが、彼が自分の実力にとても 自信を持っているのがわかる。
 「目覚めてからの障害も、たぶんほとんどないだろうし。
 バージルは、十年間凍っていた猫なんだよ。私がここへ来る時、前の研究所の人達が元 に戻してペットにくれた。内臓も心臓も呼吸器系も問題ないし、筋肉も骨も異常はない。 脳波も正常」
 自分の話をされてるのがわかるのか、バージルはぴょんっとラベンダーの膝に飛び乗っ た。そして丸くなってうずくまった。
 「ミント。君は、未来から来た子だよ ね? 五十年、いや、せいぜい三十年かな」
 ミントは目を丸くした。
 「なぜ!?」
 「わかったかって?
 まず、コールドスリープの装置を見て怖がらなかった。知識があったろう?
 うちにある私が改造した電化製品を、使い方を訊ねもせずに使いこなしたのも妙だった。 これらが製品化されて家庭に出回るのは、だいぶ先だろうしね」
 「知ってて何も言わなかったの?」
「だって、関係ないじゃない、君が何年生まれかなんて。ミントはいい子だったし、よ くやってくれたし。
 ほんとはもっと居てほしいけど、元の時代に恋人がいるんだよね?」
 ミントはゆっくりうなずいた。
「それじゃあ、若いままで再会したいもんな。
 ま、私のわけのわからん研究も、やっと人の役に立てるってわけだ」
 ラベンダー博士は陽気に笑った。
 「何年前から来た?」
 「三十年前。あ、でも、タイム・スリップしてこの時代に来てから一年半たってる。だ から二十八年前、かな」
 「 うれしいな。三十年後に、人類はまだ居るわけだ。それもこんなにいい子が。
 世界は捨てたもんじゃないかもしれない」
 「博士・・・ 」
 「機械の準備に一日くれるかな。明日の午後には決行しよう」
 「そんなに早く!?」
今度はミントの方が動揺した。
ラベンダーは真顔でうなずいた。
「早い方がいい。君の年齢の頃は、一歳でも違うとすごく大人びて綺麗になってしまう だろう。彼氏に『あれ?』って変に思われちゃうよ」
ミントは苦笑して「私が大人びて綺麗になるなんて考えられないけど。でも、『変わっ ちゃう』ってことはあるかも」
「君は半年の間でも、綺麗になったよ。 来た時からチャーミングだったけどさ」
・・・ウソばっかり。でも、退職金代わりのお世辞ね。ありがとう・・・
 ミントは微笑んだ。やっぱりその言葉はうれしかったから。



☆ 八 ☆

 トゥルルルル・・・ 。
 ミントは目覚ましを止めた。カーテンから射しこむ暖かい光。
 この時代で目覚めるのは、これが最後となるだろう。
 この家が大好きだった。博士が大好きだった。
・・・さようなら。ありがとう・・・
 身繕いをして、台所で朝食の準備を済ませ、ラベンダーを起こしに行った。
 彼を起こすのも、これで最後だ。寝起きが悪くて苦労したけれど。
 「ラベンダー博士?」
 彼は部屋にいなかった。ベッドに寝た様子はない。
・・・私のために、徹夜を?
 研究室へ、朝食を告げに行く。
 ノックでドアを開けた博士は、「 もう朝なのか」眠そうに目をこすって時計を見上 げた。
 「一日くらい延びたって変わりゃしませんよ。体こわしますから、 徹夜なんてやめてく ださい」
 「うん 。でも、仕事してると没頭できるし 。
 久し振りに燃えたな。最高の装置になりそうだよ」
 ラベンダーは屈託なくそう笑った。 目がくぼんでいて顔に疲れはあったけれど。
 朝食もさっさと終わらして、彼はすぐに研究室へ戻ってしまった。
・・・もう少しゆっくり食べてよ。一緒にいられる時間は少ないのに・・・
 むこうはミントのような感傷はないらしい。
・・・私の決意は正しかったわねえ・・・
 もう諦めはついていた。

 昼食ができて呼びに行く前に、ラベンダーは先に食堂にやってきた。
 「準備は完了したよ。あとは君の心の準備次第」
 「私の心も、お昼の準備も出来てますよ」
 ミントはスープをよそり、ツナやハムがたっぷり入ったクロワッサンの皿をテーブルに 並べた。
 「ミントの作った料理を食べれるのも、これで最後だな」
 「 。ねえ、博士、痛みや苦痛はあるのかしら? 私は寝付きが悪いんだけど、ちゃ んとスリープ出来るかしら?」
 今度はミントが、感傷的になるのを恐れて、矢つぎ早の質問攻撃を始めた。
 「寝付きは関係ないと思うよ、凍らすんだから。痛みに関しては、動物実験のデータし かないから確証はないけど、鳴いたり暴れたりしたケースは一件もないから、心配ないは ずです。
 三十年なんて、ひと眠りだよ。起きたら、彼の居る世界だ。目覚めたらここを出て彼の 元へ戻ればいい。
 そうだ、君はシティのひとだよね。私が流行の服を用意しておいてあげよう。  まさか三十年前の服でシティへは行けないもんな。
 うんと綺麗にして会いに行きなさい。
 その時私は五十歳を過ぎているから、洋服屋に『娘さんへの贈り物ですか?』なんて聞 かれるんだろうなあ。ほんとはそんなに年が違うんだもんな」
 もうミントは泣き出していた。
 「寝る前に泣くと、起きたら目が腫れてるぞ」
 ラベンダーはそう言ってミントを笑わした。
 「ちゃんと歯を磨いたな?」なんて、冗談も言った。

 研究室へ導かれ、ミントは自分が入る装置を見せられて愕然とした。
 「ひどいわ、こんなの! 奥様の隣に並ぶなんて! 整形の手術前・手術後の写真みた いじゃない!
 こんな綺麗な人の隣で眠るなんて・・・ 比べられて過ごすなんて・・・ 」
 ミントはまた泣き出した。
 「この位置はイヤ。絶対にイヤ!」
 「困ったな・・・ 。ラインや計器の関係で、ここが一番都合がよかったんだけど」
 ラベンダーは頭をかいた。
 「そこまで激しくいやがられちゃうとな。
 じゃあ、ラットの隣に行く? 動かすの手伝ってね」
 「 ありがとう。ごめんなさい、わがまま言える立場じゃないのに」
 「私はローズマリーと君を比べたりはしないけどね」
  ミントは赤面した。そうだった。自分は相手にもされてないのだった。意識しているの はミントだけだ。
 ラベンダー博士は、計器の電源を落とし、 ラインをはずすと、装置を持ち上げた。
 「ミント、そっちを持って」
 「はい。 ガラスなのに意外と軽いんですね」
 「ガラスじゃないよ。グラス・ファイバー。私の研究より価値が高い製品さ」
 ミント用の装置は、反対のはじ、ラットの眠る隣へと移動された。
 「君がなんでそんなに容姿にコンプレックス持ってるのかがわからない。三十年後の美 意識は私にはわからないけど、今の時代では、君は十分可愛いと思うけど?」
 「・・・ 。」
 「君の彼も、そう言うと思うよ」
 「ありがとう、博士」
 「 装置の中で最高の夢を見れるようセッティングした。
 アロマテラピー効果の高いハーブが香り、一番心地好い温度と湿度。ほどよい柔らかさ のクッション、肌ざわりのいいシーツ。
 そして、実は、これが私のしていた研究なのだけど、リラックス
できる音楽が耳元で流 れ、時々美しい自然の風景が見える。夢の中に織り込まれるんだ。  夢の中にデータを介入させる、って研究なんだ。眠りながら、現実のニュースや流行を 知り続ける事ができる。目覚めた時に現実について行けるようにね。
 まあ、これは表向きで、政府は思想操作をしたかったらしいけど。眠っている間に洗脳 できるような機械を作ってほしかったんだ。でも、私が手がけたらこんな風になってしま った」
 博士はおかしそうに笑っていた。
 「君の方から、介入させるデータの希望はある? 新聞を見たいとか、服の流行を見た いとか」
 「ううん」とミントは首を振った。
 「そうだよな、君はもともとむこうの時代のひとだから、時代遅れにはならないね。  百科辞典のデータを記憶するっていうすごいプログラムもあるけど?」
 ミントは笑ってまた首を振った。
 「そんなの覚えたら、違う女の子になっちゃう。彼がびっくりしちゃうわよ」
 「それもそうだなあ」
 「でも、一応、人体実験の身ですものね。何かデータを入れた方がいいんでしょ?  そうだ、百科辞典より童話の本がいいな」
 「そうか、それはいい考えだ。童話作家をめざすミントには、いい勉強になるね。  私が週に一編、朗読をしに来よう」

 「じゃあね。今までよく働いてくれてありがとう」
 「こちらこそ、お世話になりました」
 ミントはラベンダー博士と握手を交わした。二人の目と目が合った。
 時間が止まったような気がした。もちろん、ミントがそんな気がしただけだが。
 博士がわざと事務的なことや科学的な話をしてくれたのだろう。湿っぽくならないです んだ。
 「じゃあ、二十八年後に。おやすみ」
 ミントは装置に横たわり、静かに目を閉じた。 ガチャリとフタが閉まる音がした。
・・・ほんとだ、ポプリのいい香り。これは、柑橘系かな・・・
 出会った時、博士はバスの通路いっぱいにオレンジを転がしていたっけ。
 懐かしい思い出だ。
 考えてみれば、ミントはローズマリーより長く博士と暮らしたのだ。
 綺麗なメロディ。弦楽四重奏が耳元に聞こえてきた。
・・・博士のバイオリン、素敵だったな・・・
 切なく幸せな思い出に満ちながら、ミントは少しずつ眠くなっていった。



☆ 九 ☆

 きゅんと酸っぱいような甘いような・・・ 。
オレンジの香りで目が覚めた。いや、覚めた のではなく、これは夢の中なのかもしれない。ラベンダー博士が、研究室でオレンジを切 って剥いていた。
・・・危なっかしい手つきねえ・・・
 彼はあまりこういうことに慣れてないようだ。
 「いたっ!」と指をくわえる。
・・・ほら切った! 大丈夫?・・・
 装置の中のポプリの香りが見せる夢だろうか。それとも最後にバスでの出会いのことを 思い出していたせいだろうか。
 博士の三時のお茶代わりなのだろう。彼はオレンジを一個たいらげ、濡れた手を白衣で ぬぐった。
・・・あーあ。果汁の染みはとれないわよ・・・
 ラベンダー博士は椅子をさらにミントの装置に近づけ、膝に置いてあった本を手にして めくると、朗読を始めた。
 それは、人魚姫のお話だった。真面目な顔で、 一生懸命感情をこめて読んでいる。
 ミントは吹きそうになった。
・・・ホントに童話を朗読してるわ。それも、こんなポピュラーなやつ・・・
 きっと博士は、どの童話が有名かなんて、まったく知らないのだ。
 王子様に『好き』と言えずに泡になってしまったマーメイド。
・・・言えばよかったのよ。言ってみれば何か変わったかもしれないのに・・・
 他人事だからそんな風に思うミントだ。
 博士に『好き』と告げれないで凍りついてしまったメアリー・ポピンズ。
 ラベンダーは童話を朗読し終えると、ローズマリーに向かって、
 「ひや汗かいたよ。見て笑ってたでしょう? こんなこと約束しなきゃよかった」
と笑いかけているのが見えた。

 眩しさに目が覚めたこともあった。目が痛いほどだった。
 これも夢? 研究室の中が、光で満ちている。
ドーム状の天井があいて、ガラスの屋根 が陽をみちびき入れていた。
 「ミントはお陽さまが好きだったろ?  今日はインディアン・サマーだよ、ほら」
・・・ わあ、いい天気!! ここでお陽さまの光が見れるなんて!・・・
 博士がドームの天井をあけたらしい。彼もニコニコ笑いながら、
 「よく、うれしそうに、庭で洗濯物を干してたよなあ。布に巻かれながら」
 ミントの幸せの風景が、博士の中にもある。同じように心に残っている。
 彼も、光を浴びて深く息を吸い込んだ。気持ちがよさそうだった。
 「あっ、と。洗濯の途中だったっけ。  ミントはこんなに仕事してたんだもんな。偉いよなあ」
・・・そりゃあビジネスだもの。 まだ次の家政婦さんは来ないの?・・・
 「新しい家政婦は依頼してないんだ」
 まるでミントの声が聞こえたようで、ドキッとした。
 「ミント以上の子が来るはずないもんな。どんな人が来ても、きっと寂しくなる。  それなら自分でやったほうがマシさ」

 冬の陽は短く、空はすぐに夕焼けの色になった。そして青紫へ。群青へ。
 青い月がのぼり、やがて星のパレード。
 ラベンダーは、そんな時刻にあわててやってきた。パジャマ姿だった。
 「いけない、忘れてたな」
 ドームを閉じるため、スイッチを倒そうとレバーを握った。
待って!
 「・・・ えっ?」
 手を止めた。
そしてミントに振り向き、  「もう少し星を見ていたいの? そうか、君は星も好きだったよね」
・・・私の心が聞こえるの?
 博士はそれには答えず、「私もここで見てていいかい?」と横に座った。
 少し開いた鉄の扉のすきまを、バージルが入ってきた。博士の後ろをついて来たのだろ う。
 「おいで」
 「にゃぁ」
 博士はバージルを抱き寄せ、膝に乗せると空を見上げた。

 ある日のラベンダー博士は、また何かわけのわからないものの
発明に熱中していた。  ジリリリ・・・ 。
懐中時計に、目覚まし機能をつけた特製時計。一日五回、決まった時間 に鳴る。今のはお昼を知らせるベルである。
 博士は胸ポケットから時計を取り出してベルを止めた。
・・・お昼ですよ。この人は何を作って食べてるのやら・・・
 しかし彼は、時計をポッケにしまうと、そのまま作業を続けた。
・・・ちょ、ちょっと、博士!
 三時。六時。ベルが鳴っても仕事をやめなかった。
・・・
このごろ食事も睡眠もろくにとってないでしょう?  博士は少し痩せた。頬が少しこけたようだ。不精髭も伸びかけている。
・・・最後にお風呂に入ったのはいつ? 顔は洗ってるの?  ほんとにもう、汚いわねえ・・・
 「わかったよ。風呂にはいってくる。 そんな目で見ないでよ」
 やっと博士は立ち上がった。
 髭もそってもどって来た博士は、また続きを始めた。その作品は、徹夜の末、翌日の朝 に完成した。
 「ほら、可愛いだろ?」
 カップを抱えた二十センチくらいの女の子の人形と、 ヒーターが組み合わされている。
なに、これ? これ、私の人形?
 女の子は赤毛を編み込みにしてメイドの服装をしている。 もちろん目は三日月。
 「自動お茶入れ機なんだ。見てて」
 博士はカップにティーバックを入れて水を注いだ。 すると人形は水の重みに反応して横 を向いてヒーターにカップを置いた。数分たってお湯が沸くとセンサーでカチャッとヒー ターが切れる。人形は再びカップを抱えて、今度は正面へ向き直る。
 「オチャガハイリマシタ」
可愛いけど・・・ 。あんまり役には立ちそうじゃないわねえ。
 「どう、すごいだろ。これは商品化可能だけど、あんまり可愛いから、政府には黙って おこう。私の独占ってことに」
あきれた。きっとこんな発明ばかりやってたのね。

 発明に没頭してる時以外は、一応時間通りに食事したり眠ったりはしているようだ。で も、たいした物を食べていないのはわかる。どんどん痩せていった。
誰か雇うか、自分でちゃんと作るかなさい! この分じゃ病気になるわよ。
 「一人でする食事ってまずくてさあ。
 ミントが来る前って、私は何を食べていたのか思い出せないよ。
 今ね、雪が降って来たんだよ。見るだろう?」
 博士はドームをあけた。白い妖精たちが降りて来る。
きれい。
 「だろ?」
と博士は笑った。

 ある夜は、殺気立った瞳で、パジャマ姿でワインボトルを握りしめて入って来た。  ミント人形の自動お茶入れ機のコップにじゃぼじゃぼとワインを注ぎ、温まると一気に 飲みほした。
外は、 嵐?
 「そう。ひどい雷なんだ。
 そばにいてくれる? ミントが付いていてくれれば平気だから」
 そう言ってラベンダーはもう一杯ワインをあおった。
だめよ、そんなにガブ飲みしちゃ。
 「この前みたいに、手を握っていてよ」
無理言わないで。
 ラベンダーは、ミントのグラスファイバーに掌をくっつけた。
 ほろりと涙をこぼした。
博士・・・。
 「嵐が怖いんじゃないんだ。ローズマリーの 事故を思い出すからじゃないんだ。
この前は君はこの手を握っていてくれたのに・・・ 。
・・・ 。
 ごめん、男のくせにさ」
私は・・・ 。
大切なこのひとを、こんなに寂しがらせて・・・ 。
 ひとりぼっちにさせてしまって・・・ 。
 なんてことをしてしまったんだろう。
 シナモンのこと、私はそんなに好きだったの? 博士よりも?
 博士にこんな想いをさせてまで、会いに行きたいほど好きだったの?
 ローズマリーがとても美しいひとで、ラベンダー博士にとても愛されていて 。 ・・・だから?
 ミントはただのメイドとして大切にされていたにすぎなくて 。 ・・・ それで?
 そんなこと、関係なかったのだ。二人でいて、楽しかった。主人と家政婦でも、十分二 人とも楽しく暮らしていたじゃないか。
私は、取り返しのつかないことを 。
二十八年間も、大好きなひとが、寂しさと戦 いながら暮らすのをこうしてずっと見ていなきゃいけないなんて!
 ミントの目からもぽろぽろと涙がこぼれた。
 ラベンダーはすぐに気づいた。
 「楽しい夢しか見ないはずなのに、涙?
 でも『楽しい』の基準が違うかもしれないしなあ。名曲のBGMも、いい風景も、悲し い思い出がある場合もあるし。
・・・待ってて」
 ラベンダーは部屋を飛び出して、バイオリンを持って来た。ミントの装置のBGMのス イッチを切った。
 「君はこの曲が好きだったね」
 静かにあのノクターンを奏で始める。
 星の降る森の風景が見えるよう。それから、行った事もない夕暮れの海岸。朝の草原。 雪つもる家並。ラベンダーの音色に、たくさんの美しい風景が見える。
と、突然彼の手が止まり・・・ 曲は中断された。
 彼は激しいタンゴを弾き始めた。弓が、嵐の海のように波打った。
 髪を乱し、額から汗を流しながら、ラベンダーは狂ったように弾き続けた。
 それは何十分も続いた。彼は肩で息をしながら弾き続けた。
・・・博士、ごめんなさい。私が弱虫だったから。立ち向かう勇気がなかったから。
 プツン! と弦が切れ、 音はやんだ。
 額から首すじから汗が流れていた。ラベンダーはバイオリンと弓を持ったまま立ちすく んだ。息が切れている。
 「・・・ ご・・・ めん。
私は・・・ 弱虫だね。 」

 朝が来ていた。ラベンダーはバイオリンを弾き疲れて眠ってしまっていた。
 ジリリ・・・ と、懐中時計のベルが鳴っている。
朝よ。八時になりましたよ。起きて。
 「ううん・・・ 」
 ラベンダーは、寝ぼけながらよろよろと起き上がり、ドームをあけた。
 雨はすっかりやんで、いい天気だ。
 「『春の嵐』ってやつだったなあ。
 昨夜は取り乱してごめん。
もう、大丈夫だから。
・・・ もう冬も終わるよ。
 もうすぐ、君がやってきた、あの新緑の季節だ。
 そうだね、君が目覚めるのも、春だね。
 その時私は五十二歳。春にさえときめかない年寄りになっているのかなあ」
目覚めたら、好きだと言うわ。五十二歳のあなたに。
呆れられても、迷惑がられても、 今度は言うわ。
 そして私をメイドに雇って。まだ後ガマが決まっていなければ。



☆ 十 ☆

 トゥルルル・・・ 。
 はっとミントは目覚ましを止めた。
 「ゆ・・・ め ?」
 ここは、いつもの部屋。いつものベッド。
 グリーンのカーテンから差し込む朝の光。
 「 なんて悲しい夢だったの?
 でも、よかった。装置に入る前に自分の間違いに気づけて」
 博士に言おう。装置には入らないと。
 あんなに準備に力を入れてたから、叱られるかしら。
 せっかくの人体実験第一号だったのに、がっかりするかしら。
 でも、言わなければ。勇気を出して。

 朝食の用意をすませ、博士を起こしに行く。
 昨日来たばかりなのに、なんだか懐かしくいとおしい部屋に感じられた。
 ノックして、でもどうせ返事がないので勝手に入って揺り起こす。
 「博士! 八時ですよ!」
 「ううん・・・」
 眠そうな目をこすりこすり体をベッドに起こした。 まだぼーっとしてるみたいだ。
 ミントはもう一度彼の肩を揺すった。
 「博士、私が、コールドスリープ装置に入るのをやめたいと言ったら、 怒りますか?」
 「 えっ?」
 「すみません、あんなに熱心に準備していただいたのに。でも、その分これからも、こ こで一生懸命働きますから」
 ラベンダーはあくびをかみ殺しながら、  「本当? 助かるよ。大歓迎だ」と答えた。
 「でも、恋人と再会できなくなるよ。いや、再会はできるだろうが、もう恋愛対象の年 齢差ではない。いいの?」
 ミントはうなずいた。そしてすまなそうに言った。
 「あんなにわがまま言って準備してもらったのに。
・・・怒ってますよね?」
 ラベンダーは吹き出した。
 「ミント、まだ気づかないの? 外は春だろう?」
 「えっ?」
 ミントはあわてて窓をあけた。吹き込むやわらかな風。緑の匂い。 遠く霞む山々の、ところどころの薄ピンク。
 「・・・?」
 「君は眠ってたんだ、冬の間。装置の中で」
 ミントはまだ理解できずに、茫然としていた。でも確かに、ラベンダーの髪も伸びてい る。少し痩せた。時間がたったのだ。
 「装置に入った夢を見ていたわけではなかったのね。現実だったのね。
 でもなぜ、私はここにいるの?」
 「私が独断で解除したんだ。勝手に。
 ごめん」
 そう言ってラベンダーは笑った。
 ミントは両手で頬をおおった。
 「どうして博士にわかったの、私が出たがってるって」
 「今聞くまで知らなかったよ。言ったろ、私の独断だって。
・・・ミントに、好きだと言わなかった。
 こんなに大切な存在だったなんて、気づかなかった。
 とっくに恋してたんだ。
 プロポーズして、振られたら、もう一度機械に入ってもらえばいいかー、 なんてすごく 勝手な考えなのはわかっていたけれど 」
 何を言われたのかわからなかった。ミントは茫然と立ちすくんだ。
 「 ローズマリーのことは 愛してたよ。今も大切に接していたい。
 でも、君は生きている。笑ったり泣いたり、私を励ましたりする。
 罪なことかな、君を好きになるのは 。」
 「・・・ いいえ、博士。私の方こそ、夢の中で決心したの。
 自分が美人じゃないとか、奥様が綺麗な人だったとかで、 大切な事を見失っていた。一緒にいてあんなに楽しかったのに。
 三十年後に目覚めたら、五十二歳のあなたに好きだと言おうと決めたの。
 『子供のくせに』と笑われてもいいから、妻を愛しているからって振られてもいいから、 今度こそ絶対好きだと言おうって 」
 「ねえ、今言ってよ。『子供のくせに』って笑ってやるから」
 ラベンダーは、そう言ってミントを抱きしめた。



これで、このラブ・ストーリーは終わります。
 でも、この二人のその後をちょっと紹介すると・・・ 。
 博士は、相変わらず、政府の研究にはあまり熱心でなく、 妙な発明ばかりしています。
 ミントは、晴れた日には庭いっぱいに洗濯物を干し、 嵐の日には博士の手を握って見守 り、星降る夜にはベランダをつたって庭で遊んでいます。
 そうそう、例の、ヘンなコードレス電話みたいなワープロで書いた童話が、 何冊か本に なったそうです。最初に書いた『パジャマで弾くノクターン』は、小さな賞もいただいた らしいです。

 博士が三十歳を少し過ぎた頃、いてもたってもいられなくなり、帽子をかぶってバイオ リンだけ抱えて、一人で旅に出てしまったことがあります。
 半年の約束で。研究室の、停電や事故時の対応をミントにたたきこんで。
 ミントは、昔、やはり半年間、博士をひとりにして寂しい思いをさせたことがあるので、 これでフィフティ・フィフティだわ、と思いました。
 それに、彼が『行きたい』という想いを止められないのはわかっています。止めたいと も思いません。ミントは背中を押してあげました。
 都会の街角で、田舎の四つ辻で、あるいは場末の飲み屋で、彼はバイオリンを弾いたこ とでしょう。演奏が終わると帽子を脱いで、コインを投げてもらって 。
 嵐の晩も、ワインで体を温め膝を抱えて一人で耐えました。いえ、時々は情深い女性に 暖めてもらったことがあったかもしれませんが 。
 約束の期間を大幅に過ぎて、二年たって、博士は帰ってきました。
 くたくたになった帽子と泥まみれの靴と、日に焼けた笑顔と、 すっかり年季が入った バイオリンを手にして。
 「遅くなってごめん」
 そうしておわびに思い出のノクターンを弾いてくれました。



 カレッジのテニスコートのベンチに、一人の青年がぼんやりたたずんでいた。
 人のよさそうな、なかなかハンサムな青年だ。だが、彼の表情は暗い。
 ・・・ミント。もう三ケ月になる。どこへ消えてしまったんだ?
 僕が嫌いで逃げたのか? 他に好きな男でもいたのだろうか?
 アパートの部屋もそのままで 。
 警察や私立探偵、いろいろ手をつくしたけれど 。
 君の意志で消えたのなら、探さな い方が優しさだろうか・・・
 「すみません。校門へはどうしたら出れるのかしら?」
 金網ごし、初老の夫婦が声をかけた。
 「講堂で講演を終えた帰りなんですけど、広いキャンパス なので迷ってしまって」
 すらりとした品のいい婦人が、困ったように微笑んでいた。
 青年は立ち上がると、「ああ、少し入り組んでますからね。ご案内します」
 「すみませんね」
 会釈した夫の方も、頭の切れそうな相当の人物に見えた。
 「いえ、どうせ暇だし、かまいませんよ」
 青年は先に立って小道を歩き始めた。
 「講演に童話作家の先生がいらっしゃったと聞いたけれど、ではあなたが?」
 「『先生』なんて、そんな。恥ずかしいわ。
 こんな都会の大学の講演に呼ばれたけれど、 最初は気後れしてしまって断るつもりだったんです。趣味で書いてる田舎の童話作家でし かないのに 。
 でも、このキャンパスに思い出があるので、勇気を出して来てみましたの」
 青年は、この初老の婦人になんだか懐かしさを覚えた。
 笑うとふっと優雅に細くなるその瞳 。甘いコロンの香り 。
 「ここが正門です。あと十分もすれば駅へ行くバスが来るでしょう。タクシーもすぐ拾 えるだろうし」
 「どうもありがとうございました」
 「あの・・・ 。僕は童話には詳しくないので・・・ 。あなたの本を読んでみたいのですが、 タイトルとお名前を教えていただけませんか?」
 婦人は微笑んで、「ここまで案内していただいたお礼に、一冊差し上げますわ」とバッ グから童話の本を差し出した。
 「いいんですか? ありがとう」
 「あ、タクシーが来ましたから、私たちはこれで」

 「ジンジャー・シティ・ステイションまで」
 クルマのバックシートに乗り込んで、二人はふふっ、と笑い合った。
 「ねっ、いい青年でしょう? 私は目が高かったんだから」
 「くそ、あいつをうっとり見つめてただろ。若い男にはかなわないな」
 「あら、妬いてたのぉ?」
 「いや。ミントが泣き出さないかとヒヤヒヤしてた」
 「博士・・・ 」
 ラベンダーはミントの髪を撫でた。
 「あげた本は、シナモンを励ますつもりで書いた童話だったの。元気になってくれるか しら?」
 「きっとわかってくれるよ。
 君の方こそ切なかっただろう? 彼と向き合って」
 「・・・ 。」
 「研究所に帰ったら、バイオリンを弾いてあげよう。とびっきり甘い曲を」
 「 楽しみだわ」

 青年は童話のページをめくり 。
 娘は星の下を散歩し、ノクターンに耳を傾け 。
 博士は、砂糖入りのホット・ワインで体を温める。
 私は・・・
 こうして童話を書いています。あなたのくれた妙な機械で。
 ENDの文字をタイプし終える頃には、大好きなお陽さまが窓辺に 光を連れて来る。
 幸せ不幸せも、とても単純なしくみ。
 忘れませんように。


<END>


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