十二月 支那柊

--- 「第三章 香りの庭から」 ---




  < 1 > 

 さっき寝たと思ったのに。
 あやめと同じ声がオレの名を呼び、乱暴に体を揺すっている。あやめと似たオーラの、似た香りの。だが、オレはもう騙されない。だいたい、あやめがこんなに乱暴なわけないんだから。
「・・・頼むよ、レンゲ。朝の8時まで書いてたんだから」
「だって、もうお昼よ。ランの飛行機は3時に着くのよ。早くクリスマスの飾りつけしないと」
「わかった。勝手に一人でやってくれ。オレはまだ寝る」
 オレはレンゲに背を向けて、毛布をかぶった。
「有理の部屋の押入れにあるらしいの。でも、勝手に開けたら悪いと思って」
「悪くない、悪くない。勝手に開けていい。別にヤバイもんとか出て来ないから」
 押入れを勝手に開ける云々より、若い娘が、男ひとり寝ている部屋に入って来て揺り起こす方が、よっぽど非常識だと思うのだが。こいつは、ほんとにオレのことを『男』と認識していないのだと少し腹がたつ。
 怒りは、睡魔を遠ざける。怒ったせいで、ちょっと意識がはっきりして、オレは布団から体を起こした。
 しんと寒い和室、窓の障子から洩れる光も暗い。框と格子が布団の上に淡い影を落としている。軒を叩く雨の音が聞こえていた。冷えると思ったら、雨か。
「今、何時だって?」
「1時くらいかなあ。・・・あ、あった、これだ!」
 レンゲは、爪先立ちして天袋の戸を開け、埃くさい紙袋を引っ張り出そうと奮闘している。
『おいおーい。ぱんつ見えてるぞー』
「いい、いい。オレが取ってやるから。せっかく、いっちょうらのワンピースを着て来たんだろ。蜘蛛の巣まみれになるぞ」
 よっこらせ、とかけ声をかけてオレは起き上がった。寝返りも打たずに爆睡したらしく、体の節々がギシギシと痛んだ。
『取ってやる』と言った手前、さりげなく、さっと取ってやるつもりだったが、何かが引っかかって紙袋はなかなか取れない。
「ランなら、すぐに取れるのに」
 くーそー、うるさいっ。思ってても言うな。
「うわっ」
 紙袋が切れて、サンタのオーナメントやら、真鍮のキャンドルスタンドやらがバサバサと落ちて来た。
「いてて・・・」
 だいたい、二人でイブを祝うなんて、外でやれ。ランは居候なんだぞ。
「そうだ。レンゲ、会社は?」
「半休取った。有理がぐーぐー寝てる間に、仕事して来たんだよ」
 荷物を拾い集めながら、レンゲのヤツが言った。だ〜か〜ら、オレは朝まで仕事をしていたんだってば!
「ランがいなくて、食事もろくなものは食べてないんでしょ? ごはん炊いて、味噌汁作っておいたよ」
 それはありがたいかも。

 パジャマにカーディガンだけ引っかけて、階下へ行く。赤出汁のいい匂いがしていた。
『お金も無いし、家にも帰りたくないし』と言うランだったが、大学が冬季休暇に入ってすぐに、飛行機代を握らせて博多に帰した。ランは未成年者で、東京での保護者はオレで。夏休みにも帰省してない親不幸者に喝を入れて帰らせた。ただ、正月は絶対実家にいたくないそうで(わかる気がする)、レンゲとの約束もあるので、イブである今日に東京に戻るということだった。
 メシと味噌汁をよそって新聞を開き(レンゲが新聞を入れてくれたらしい)、テレビをつけた。ニュース画面は一面の雪野原。どこか北の県の話だろうとぼんやりと見ていたが・・・。
「おい、レンゲ・・・。日本海側、大雪だぞ。中国・九州地方まで、降ってる。
 福岡空港も、朝から欠航だとよ。ランの飛行機、飛ばないぞ」
 新幹線の博多駅も、飛行機を諦めた乗客で溢れ、入場規制が行われていた。自由席は乗車率200%、しかも京都・米原間の大雪で一時間の遅れだそうだ。
「こりゃあ、帰って来れないな」
「帰って来るもん。約束したんだもん!」
 レンゲは唇をきゅっと引き締めて、どすんとテーブルに小型ツリーを置いた。リンゴやら雪ダルマやらがゴテゴテ飾られたツリーは、メシを3割はマズく感じさせた。
 初めての彼氏。初めてのクリスマス・イブ。そりゃあレンゲの気持ちはわからなくはない。でも、天候には勝てないってば。
 メシを食い終わると、レンゲが入れてくれたコーヒーを持って、今朝書き終えた原稿をチェックしに和室へ戻った。何回も読み返し、少し書き足して、また読み返し、少し削って。
 階下で電話が鳴っていた。ヤバイ。オレは慌ててその原稿をメールで編集部へ送った。
 ランからの連絡を期待したのか、レンゲが電話に飛びつくように出ていた。そして2秒後には不機嫌そうな、「ゆ〜り〜。へんしゅーさんから〜」という怒鳴り声がした。
「今送った! ウソじゃない。今、送ったと言っておいてくれ」
 オレも負けずに怒鳴り返す。障子の向こうはもう陽が暮れかけている。
 とりあえず仕事も終り、ほっとして2杯目のコーヒーを注ぎに降りると、テーブルにはみごとにブーたれたレンゲのベソ顔があった。
 TVニュースは、日本海の大雪も峠を越したことを告げていた。しかし福岡空港はやっと除雪作業が始まったところ。
 オレはレンゲの髪をくしゃくしゃと撫でて、
「オレも仕事が終わったことだし。映画でも見にいかないか?」と誘ってやった。レンゲはのろくさと首をこちらに曲げて、「仕方ない。付き合ってやろう」と言いやがった。まったく、もう。
 今夜は、街は着飾ったカップルばかりだろう。あんまり小汚いとレンゲがかわいそうなので、きちんと髭も剃り、ネクタイも締めてジャケットを羽織る。
 そういえば、オレもレンゲのことは言えない。イブの夜に街に出るのなんて、7年振りだった。

 ロマンチックな映画は列を作っていたが、オレ達はB級アクション・コメディを空いた映画館で缶ビール飲みながら見た。設定にたくさん穴があって、オレが突っ込む度にレンゲは「うるさいなあ」「黙っててよ、このオヤジ」などと文句を言った。そのうち、3つも離れた席に移って、クスクス笑い声をたてながら画面に見入っていた。少しはお姫様のご機嫌が直るといいのだけれど。
 映画館から出てすぐ、レンゲは携帯から電話をしていた。
「どうだ?」
「ランの携帯は、電源が切れてる。家の方の電話にも出ないし、まだ帰っていないみたい」
「やれやれ。外でメシ食って行こうぜ」
 ファッションビルの前の大きなツリーやイルミネイションは、神さまが見たらさぞビックリするだろうっていう豪華さで、何色もの光の洪水がチカチカと、次から次へと点いたり消えたりと大忙しだった。
 レンゲの目にも、これらは単なる灯りにしか映っていないらしい。ガキの頃は、こういうもんが大好きで、キャーキャー言う子だったんだが。
 恋なんて、やっかいなもんだ。たぶんランと出会う前なら、地上のきらめきに目を輝かしたことだろう。でも、もう今では、ランと一緒じゃなきゃ、綺麗なものも綺麗とは感じなくなっちまったんだ。
『オレは、どうかな?』
 7年たって。
 空の色や風のにおいに溶け込んだ、あやめを感じる時がある。
 街の冷たい夜の空気は? 排気ガスの匂いは? 
 ウィスキーボンボンみたいに寒さに滲んだ色とりどりの灯り。もうオレには、こんなのが『大人の恋』の演出だなんて思えない、それほどほんとにオトナになっちまった。


< 2 >

 都心を見下ろせる、高層階のラウンジ・レストラン。雨のエフェクターがかかった夜景も、晴れた夜とは違ってまた綺麗だった。ぼんやりと滲んだたくさんの灯りは、曖昧な輪郭で隣の灯りと繋がっていた。
「こんな店によく入れたわね、イブの晩に」
 細いシャンパングラスをカチリと合わせ、レンゲが小声で囁いた。
「予約してあったんだよ」
「なんだあ。やあい、有理もフラれたんだあ」
「バカ。お前たちへのクリスマス・プレゼントだったんだ」
「え?」
「旨いもん、たらふく食べてけよ。オレの分も食べていいぞ。一応、料理も旨いんだ、ここは」
 こいつと、まさかこういう店に来るハメになるとは思わなかったが。レンゲは、とりあえず、食べれば機嫌が直る人間だ。
 もちろんまわりは全部カップル。居心地が悪いったら無い。オレらみたいに兄妹なんて皆無に決まっている。食事なんか眼中に無くて、部屋を予約した階下のホテルでのことで頭がいっぱいで、味もわからないってところだろう。
 胸くそ悪いのは、ソムリエやウエイーターから見たら、オレらもそういうカップルに見えるのだろうということだ。よりによって、レンゲなんかと・・・。
 全部、ランが悪い。
 恋人との初めてのイブに、帰って来れなくなったアイツが悪いんだ。レンゲがこれほど楽しみに待っていた夜だぞ? なんで当日なんぞに帰る予定にした? 余裕を持って前日・前前日に帰るとかしろよなあ。
「あ、このホタテもいいの? わあい」
「どーぞ。でも、食べすぎて、ハラこわすなよな。ランが帰って来て、コトの時に下痢でもしてたら」
 グサリ!とオレの皿のホタテにフォークが突き立てられた。レンゲが上目使いで睨んでいる。フォークを握る手には筋が浮きでていた。
「ほーんとお上品ですこと。レディを前に言う言葉?」
 誰がレディだよ。人の分の料理にフォークを突き差しておいて。
「帰って来ないよ・・・」
 ふっとそらした目に、涙がたまっていた。ヤバ・・・。頼むから、こんな店で泣くなよぉ。
「レンゲ、まだ決まったわけじゃ。新幹線だって走ってるんだし」
「ううん。昨日、電話したの。そしたら、ランの携帯なのに、女の人が出た。
『ラン君はクリスマスは、こちらで、私と過ごしますので』って言われた。サクラって子じゃない、もう少し大人の人の声みたいだった」
「・・・。」
「だから、帰って来ないよ。雪のせいじゃないんだ」
「ば・・・」
 レンゲの度を越えた落ち込みは、それのせいだったのか。丸い大きな瞳には涙の膜ができて、テーブルのキャンドルが映ってゆらゆら揺れていた。
「ばかか、おまえ!」
 思わず声が大きくなった。まわりの客がこっちを見たので、オレは下を向いた。小声で続けた。
「もしおまえだったら。ランの携帯に出るか?」
「・・・え?」
「心が通じ合ってて、お互いがちゃんと恋人同士だと認識してて、信頼し合ってて。
 オレがランの恋人なら、奴が席を外した時に携帯にかかって来た電話なんか取るもんか。プライバシーだろ、それ。手紙を見るのと同じじゃんか。
 その彼女は、確かにランに惚れてるかもしれん。それとも、ランとはただの友達だけれど、自分が失恋したばかりかもしれない。彼女のやった行為、おまえへのセリフは、明らかに嫌がらせ、お前へのヒガミだろ。ランに愛されていると自信を持っている女がとる行動じゃない」
 そうじゃない場合も想定はできた。ホントにランの地元での女かもしれん。東京の彼女を一発牽制してやろうという意図も感じられた。ただ、レンゲにそんなことを言ってもしょうがない。
「有理って・・・」
 ぽかんとして、レンゲがオレを見ていた。
「え?」
「ランが言ってた。鋭過ぎて人に警戒されないよう、ぼーっとしたフリしてるって。ほんとにそうなんだね。ミステリーとかも書けそうな感じ」
 ぼーっとしたフリしてる? オレが?
『なんかすごくハラがたったぞ』

 とりあえず金木犀館でランの帰りを待つことにした。駅を出て、オレが傘を差して家までの道を歩き出すと、機嫌が直ってほろ酔いのレンゲは、自分の傘は閉じたままオレの傘の中に入って来た。そして、ごく当たり前のようにオレの腕を取った。
「さ、いこ」
 へええ。ちょっとは『女』になったじゃんか。こんなことが、自然にできるようになったなんて。
 髪が伸びただけじゃなくて、レンゲは確かに少し女っぽくなった。男ができると、こんなヤツでも変わるもんだ。
「ねえ、有理たちの初めてのクリスマスって、どんなだったの?」
 レンゲの口もとから、言葉と一緒に白い息が吐き出された。雨はみぞれが混じってきたようで、傘を握る手がかじかんでいた。でも、レンゲの頬はまだ紅潮していて、寒さはあまり感じていないようだ。
「どんなだったって。おまえんちで、みんなで一緒にチキン食ったじゃんかよ。オレ、学校の帰りだったけど、お義母さんに勧められてワイン飲んで帰った。あと、あやめが作ったアイスクリームを食べさせられたぞ。アイスクリームって言うより、卵のシャーベットみたいなやつ」
「あ、そーだ、そーだ。あれが初めてだったんだ。・・・有理の初クリスマスもロクなもんじゃないね」
「そんなことは無いぞ。ありがたかった。すっごく楽しかった。
 二人だけで過ごすなんて、恋人同士ならいつでもできることだ。クリスマスかどうかなんて、関係ないし。クリスマスを恋人の家族みんなで過ごすなんて、あんな機会はあまり無いだろ」
 この家族を守りたい、この家族の家を守って行きたい、そういう想いはあの頃に作られたものなのかもしれない。自分は一人っ子だからよくわからないけれど、妹がいる友人達は、もっと妹に冷淡だったように思う。照れなのか、本当に興味が無いのかも、よくわからなかった。
「私の記憶の中で、男の人がいたクリスマスは、あれが最初かな。小さい時にはもう父は居なかったから」
「あの時も十分に小さかったぞ」
 卵から孵ったヒナは、最初に見たモノを親と思って付いて行くと聞いているが。レンゲが最初に身近で見た男がオレだったのかという気がする。なんか、とほほだよな。
 オレになついているのも、オレが頼り甲斐があるからとか、優しいからじゃないだろう。『親鳥』だったからだもんなあ。まあ、オレは、頼り甲斐も無いし優しくもないけどな。
 レンゲの腕をほどき、家の門扉を錆びた音をさせて引いた。ランはまだ帰っていない。
 レンゲは雨が落ちる空を見上げていた。
「雪になるかなあ? なったら、ホワイト・クリスマスだよ。ホワイト・クリスマスなんて、10年前に見たきりだ」
「なってたまるかよ。チェーン、無いんだから。雪になったら、逗子の家まで送って行けないだろ」
 レンゲが濡れないように傘の位置に気をつけて、門扉を閉める。郵便受けの裏にあるスイッチを押して、門についた灯りを点灯した。ランのために。
「母さんには、泊まるって言ってあるよ。ここからそのまま会社に行くつもりだったんだけど」
「それは、ランが帰っていた時の話だろ」
 オレはズボンのポケットから、鍵を掴みだした。
「レンゲ様は若くて美しいお嬢さまですから、オレ一人のところに泊めるわけにはいきません」
 別にレンゲと二人きりで夜を過ごすのなんて、怖くもなんともない。たとえ、泥酔したレンゲがネグリジェで(うわっ、似合わなそう)オレの布団にもぐり込んで来たって、指一本触れない自信もある。だが、ランの気持ちは別だろう。ランは決して愉快には思わないに決まっている。
「やっだ、美しいなんて〜」と、レンゲはバチンとオレの肩を叩く。力加減ができないヤツなので、オレが手に持った鍵がチャリンと玄関のタタキに落ちた。
「ったく、乱暴なんだから。それでなくても、手がかじかんで、うまく鍵が掴めないって言うのに」
 のろのろと鍵を拾い上げたオレの手を、すらりとした細い指が両手で包み込んだ。
「ほんとだ〜。冷たい〜。なんでこんなに冷えてるの?」
 淡いパールピンクのマニキュア。レンゲの手は暖かくて、ドキリとした。白くて細い手だった。脂肪が無くてきれいに筋が出た手。こいつ、手だけはキレイだな。水仕事してねえからなあ。
「オレが傘を差してたからだよ!」
 むっとして、乱暴に鍵穴に鍵を差し込んだ。寒い部屋にオレ達の帰宅を告げる、ガチャリと大きな音がした。
「駅に終電車が着くのが0時7分だろ。それが過ぎてもランが帰らなかったら、強制帰宅だからな」
「ちぇっ。ここから会社に行く方がラクなのに」
 ラクだからって理由でうちに泊まられても困るんですけど。
 家の留守電にも、ランからの伝言は無かった。

 キッチンには、エアコンだけでなく、石油ファンヒーターも持ち込んで暖を取った。レンゲが入れてくれたコーヒーは濃い目だったが、当のレンゲがテーブルに突っ伏して寝てしまった。
 2階から、仕事の時に使っている膝かけを持って来て、レンゲの肩にかけた。
「*#%&・・・」
「え?」
 オレに言ったのか、寝言なのか?
『"今、何時"、かな?』
「11時20分。ランはまだ帰ってないよ」
 雨の音とファンヒーターの音だけが、静かな部屋に響いていた。
「&£¥#・・・」
「え、何?」
 聞き取りづらかったので、顔を近づけた。
 レンゲは寝ぼけまなこで顔を上げて、「&£¥#・・・」また何だかわからないことを言って、ぱちりと目を開けた。
「"ありがとう"か?」
「しょってるわ」今度は聞き取れる言葉を発して、オレの肩を抱くと、いきなり頬に軽いキスをして、また寝てしまった。避けるヒマもなかった。
 おいおい〜。
 オレは憮然として頬に手をあてる。
 
 オレがレンゲを起こしたのは0時半を回っていた。終電が遅れて着くことを見越して、だいぶ余裕をもってやったけれど。
「おい。レンゲ」
 一瞬でシャキっと起きたところを見ると、少し前から目は醒めていたらしい。オレが肩を揺するのを・・・時間切れになるのを息をひそめて待っていたのかもしれない。
 レンゲはものも言わずにコートを着ると、荷物をまとめて玄関を出て行った。オレも慌ててクルマのキーをひっ掴み、ジャケットをはおる。
 雨はまだ土砂降りだった。
「ちょっと待てよ、傘は要るだろう」
 傘立てから傘を選び出し、追いかける。玄関の青みかかった灯りの中、雨のカーテンの向こうで、レンゲはコートのポケットに手を突っ込み偉そうに待っている。
「いらない。もう、死んでもいいもん」
 おい。オレの前で。
 ・・・簡単に『死』を口にするなよ。
「クリスマス・イブなんて。
 クリスマス・イブごとき。365日の1日にすぎんだろう。
 濡れたぐらいじゃ、死にやしない。
 ランと初めて会った日や、初めてキスした日。それがおまえらの記念日だろう? おまえには、おまえの物語があるんだから」
「無責任に、もっともらしいこと言わないでよ!!」
 レンゲが勢いよく振りあおいだ時、オレの目の前を何かがすごいスピードでよぎった。
 ・・・?
 レンゲはあわてて左耳を抑えた。
「きゃー、イヤリング飛んだ!
 ランに貰ったヤツ! 初めて会った時!」
 いっちょうらを着ていることなんて忘れているらしくて、レンゲは膝をついてイヤリングを探し始めた。
「動くなっ、有理! ガラス製なんだから! 踏んだらどうするっ」
 って・・・。おい〜。
 はいつくばるレンゲのパールピンクの爪に、泥が入り込んでいた。オレは自分の背中が濡れているのを感じながら、レンゲがしゃがんだスペースに傘を差しかけた。細い指の手元では、ガラスのイヤリングの片鱗さえ見えず、庭の支那ヒイラギの赤い実が転がって雨に濡れて艶を放っていた。
 モノなんて。
 過去にもらったプレゼントなんて、ランの今の気持ちを計る秤にさえならない。それは想い出にすがっているにすぎない。だが、レンゲにそれを言っても無駄だろう。まだ、恋を始めたばかりの女なのだ。
 でも、いつか、わかる日が来る。それまでは。人ははいつくばって探すのかもしれない。
 おまえが『愛のあかし』だと勘違いしているものは、踏みつければすぐに壊れてしまうガラスのオブジェだ。
「また、買ってもらえばいいだろう。ガラスものだったら、いくら金のないランでも、また買ってやれる値段だろ」
「そういう問題じゃないでしょっ! まったくもう、女心がわかんないんだから」
 雨で濡れた髪をかきあげ、レンゲも負けずに悪態ついた。
 わかってないのは、おまえだろ?
「とにかく、あと10分。あと10分探して見つからなかったら、クルマに乗せて無理矢理連れて帰る」
「ひどーいっ! 人でなし! 男のくせに、手伝って一緒に探してくれるわけでもないのに!」
「怒鳴ってる間に10秒たったぞ」
 オレは腕時計を見ながら非情に言い放った。
 傘に囲まれたスペースだけ、時間が止まっているような錯覚に襲われた。雨の音が、オレに現実感を失わせた。鏡の世界にでもいるように、まわりは雨のカーテンで囲まれ、世界に二人で取り残されたような気分だった。
 レンゲの指はからまわりして、同じところばかり探していた。寒さで、感覚が無くなっているかもしれない。
 感受性が強くて頭がよくて、変わった子供だったレンゲ。かたくなで潔癖で、すぐにムキになる。今も変わらない。小さい頃のままのレンゲが、お気に入りのおはじきでも落として探しているような、そんな錯覚。
 レンゲが子供のままでいられたら。二人でいつまでもあやめの想い出話をしながら、ずっとこの庭で遊んでいられたのかもしれない。目眩のする夏も過酷な冬も来ない、金木犀の香る季節の中に閉じこもって。
 でも、子供はいつか大人になってしまうものだ。金木犀の花も、時期が終われば落ちて土に降り積もっていく。
 色気の無いオテンバ娘だった頃は想像もつかなかった、恋をするとコイツが、こんなに業の深い女になるなんて。玄関の灯りは照らす場所も狭くて、泣きベソのレンゲは、ほとんど何も見えていないんじゃないかと思う。だけど諦めきれなくて、泥まみれの芝を指でさぐっている。
 オレは、ずっとおまえに傘を差しかけて人生を過ごしてもいいけれど、若いおまえは、はいつくばったままではいられないだろう?

 雨の飛沫が霧のように煙る中。奥の通りの街灯の下。大柄な人影が見えた。
 大きな荷物を肩にしょって、走るような勢いでずんずんと近づいて来る。ビニール傘は、一カ所破れて風でバタバタはためいていた。肩の荷物の他にもかさばる袋を脇に抱えながら、黒いコートの裾を翻し、金木犀館に向かって脇目も振らずに歩いて来る。
 50メートル。40メートル。あと30メートル。
「タイムアップだ」
 えっ?とレンゲは腕時計を見て憤然とし、「まだあと3分あるわよ!」と抗議した。
「バカ。立って、前を向けよ。・・・ランが帰って来たよ」
 金属音が響き、ランが傘を顎と肩に挟んで門を開けていた。そこまでして傘を差しているわりには、髪からコートの肩から全部がずぶ濡れだった。
 レンゲは言葉さえ発する余裕もなく慌てて立ち上がった。悲しみで睫毛にたまっていた冷たい水は熱い涙に代わり、頬を落ちた。次の瞬間レンゲは、ランに向かって飛び込んで行った。ランの胸に向かって。あっという間に。オレの傘の下から。
 いきなり抱きつかれたランだが、慌てることもなく、傘を持った手をレンゲの背にまわし、上手に抱き返していた。慣れてるよなあ、あいつ、こういうの。
『風邪ひくから、早く家に入れよ』
 そう言っても、聞かんだろうな。
 先に入って、ストーブを点けておくか。

 玄関に入って靴を脱いだ時、ズボンの折り返しにきらりと光るものを見つけた。
『これか・・・』
 つまみ上げたレンゲの宝物は、小さくて安っぽい透明なブルー。種を特定できない、子供が描く「サカナ」の絵のような形だった。


< 3 >

「新幹線が遅れて、都内の電車の終電に間に合わなかったんだ。たいしてお金を持ってなかったから、タクシーの運転手さんに有り金全部渡して、『行けるところまで行って下さい』って言って。あとは歩いて来た。博多は雪だから傘はいらなくてさあ、傘持ってなかったんだけど、運転手さんが気の毒がって、お客の忘れ物をくれたんだ」
 普段はさほどお喋りではないランだが、土砂降りの中を歩き続けて、気持ちが高揚しているようだった。タオルで髪を拭きながら、倒れるようにソファにどかりと座った。
「足が寒さで麻痺してる。歩きすぎて膝もガクガク」
「今、お風呂を沸かしてるからね。大変だったよね」
 レンゲはコーヒーが入ると真っ先にランのカップに注いで置いてやった。お姉さんぶったレンゲの言葉を聞きながら、オレは笑いそうになった。
「どれくらい歩いたんだ?」
「4駅、かな。思ったほどの距離じゃなかったけど。東京は一駅の間が狭いね」
 ま、この沿線は私鉄だから特にな。
「そんな事情なら、有理が迎えに出たのに。携帯、ずっと電源が切ってあったし、心配しちゃった」
 オレが迎えに行くって、なんでレンゲが決めるんだよ。
「途中で電池切れになっちゃったんだ。コンビニで緊急充電池を買おうとしたら、あれって結構高くてさあ。駅の公衆電話は並んでたし、だったらまっすぐ帰った方が早いかなと思ってさ」
「いいところに帰ったよなあ。あと3分遅かったら、オレ達はいなかったぜ。レンゲを送るんで外に出たところだったんだ」
 やっとオレのコーヒーがきたので、カップを掌で包み込む。熱さが指にじんじんとしみた。
 真冬の真夜中、しかも土砂降り。4駅歩いて来るなんて、尋常じゃねえよな。
 まったく。こいつらと来たら。
「ええと、どこに入れたかな」
 ランは大きなショルダーをかき回すと、「あ、あった」と二つの荷を取り出した。
「二人へ、クリスマス・プレゼント」
 両方とも、同じくらいの大きさ。握り拳ほどの包みだったが。片方は、赤い包み紙に金のリボンが施されていて、もう片方は、福岡空港のロゴの入った包み紙だった。この差。まったくもう、なんだかなあ。
「これは、クリスマス・プレゼントとは言わないだろ。ミヤゲって呼ぶんだ」
 オレがバリバリと包装紙を破っている間に、レンゲは「あ、ちょっと待って」と二階に上がって、大きな包みを抱えて降りて来た。
「これは、私から。手編みだよ。がんばったんだから」
「へえ。感激」
 ランは丁寧に袋のシールを剥がし、中からオフホワイトの凝った編み目のセーターを取り出した。ざっくりしたデザインのそれは、長身のランによく似合うことだろう。
「はい、有理にも」
 レンゲは小さな包みをオレに差し出した。
「え、オレにも?」
 ちょっと驚いて(でも多少の不安を抱え)包みを開くと、それは手編みのマフラーだった。しかも、どう見ても、ランのセーターを編んだ『余り毛糸』だった。あんまり本気で期待しないでよかった。
 複雑な気持ちで「さんきゅう」と言う。不満が顔に出ていたらしくて、ランがくすっと笑った。
 おまえが笑うなよ。どんなにおかしくても我慢するのが礼儀だろ!
 ランのミヤゲは・・・。
「へええ、柚子胡椒か」
 自然に顔がほころぶ。
「ほうら、当たりだろ? 僕の経済力で買えるもので、有理が一番喜びそうなもの。明日の夕飯は和食で決まりだね」
「枡酒の塩みたいに、肴にしてもうまいんだ。ああ、日本酒が欲しくなるなあ」
 オレは家ではビールかワインしか飲まないし、クリスマス用にはシャンパンを1本買ってあるだけだった。日本酒は、カップ酒1本でさえ、置いていない。
 オレは、レンゲからもらったマフラーを巻いて、立ち上がった。
「24時間のディスカウント酒屋に行って来る」
「え、今から?」
 レンゲもランも、練習でもしたように声がぴったり合っていた。
「こんなミヤゲ見たら、ポン酒が飲みたくなるに決まってるだろ。
 雨だし、クリスマスだから、駐車場が混んでるかもな。道も混んでるだろうし。一時間・・・いや、二時間くらいかな」
 オレはランだけを見て、言った。ランにはそれで、伝わったと思う。
『おまえらに、二時間、やるよ』
「うん。気をつけて」
 ランはうなずいて、ちょっと笑ってそう言った。

 外に出ると、雨は小降りになっていた。もう傘はいらなさそうだ。
 ガレージの門を開ける時、近くの灌木で手の甲を傷つけた。枝ではなく、ギザギサの葉にやられたようだ。うっすらと血が滲んで、軽く痛んだ。
「ふん」
 ペロっと傷を嘗めて、灌木を睨み付ける。
 チャイニーズー・ホーリー。支那ヒイラギ。クリスマスが何だよ。痛くも痒くもねえよ。
 シーマの座席にもたれて、まだジャケットの背が濡れているのに気づいた。しまった、着替えて来ればよかった。
「もう今さら、家ん中には戻れんしなあ」
 きっと、ドアを閉める音がした瞬間から、もう二人の世界になってるに決まってるんだ。
 イグニッションを入れ、ヒーターを最強にする。
『カッコつけるからよ。痩せ我慢の意地っぱり屋さん』
 あやめの、からかう声が聞こえた。
「寂しいのは、慣れてるよ」
『・・・ごめんね』
「いいや」と、オレはにが笑いして、クルマを出した。

 道はそれなりに渋滞していたが、酒屋にはすんなり入れてしまった。オレは日本酒は詳しくないので、メジャーな日本酒とマニアックそうな地酒を二本買って、それからついでに缶ビールもケースで買った。
 今から帰ると早すぎるよなあ。
 24時間のリカーショップがあるこの辺りは、深夜営業のファミレスだとかビデオ屋だとかがたくさん立ち並んで、赤や青のフィラメントをきらめかせていた。夜中なのに、賑やかにクリスマス・ソングが鳴り響いている。
 ビデオ屋の建物は続きでゲームセンターになっているようだ。
「ゲーセンか。ま、いいか」
 友人のもの書き連中、特にジュニアものやヤングアダルトには、ゲーム・ジャンキーが多い。仲間の飲み会の三次会などは、いい大人達がゲーセンで熱くなることもしばしばだった。オレも、家庭用ゲームはやらないが、アーケードなら少しは腕に覚えがあった。
 店はすいていたが、人数のわりには空気が悪くて紫煙で景色がぼんやり見えた。
 新しいゲームは無理でも、古いヤツなら何とかなるだろう。見渡したら、『バーチャファイター4』があった。
 コインを落とし、ロードを待っていると、
「おっちゃん、僕と勝負せんかぁ?」
 若い男の声が背後から聞こえた。
 金髪にフェイクファー、長身の長い足には皮パンツというハードないでたちながら、人のよさそうな童顔の顔が、ニコニコ笑っていた。
「コンピュータ相手やと、味気のうて。この女は下手くそやしなあ」
 バリバリの関西弁。歳はランと同じくらい・・・19、ハタチというところだろう。右肩にソフトケースのギターを、左腕には化粧の濃い女の肩を抱いていた。女はどう見ても25、6。美人ではないが、唇がぽっちゃりした可愛らしい顔で、ファー付きジージャンの下は黒のビスチェにミニスカ、網タイツという格好だ。
「下手くそで悪かったわねえ。ほら、ギター、持っててあげるわよ」
 彼女は標準語で、笑みを含んだ口調で言った。
「ようし。坊主が先にキャラ選んでいいぞ」
「なんや、年上やと思うて、余裕かましとるな。サラを取るで?」
「サラ使いか。オレはパイ・チェン専門だ」
 オレが笑うと、青年も苦笑した。二人とも女性キャラだ。お互い、力で押して行く男性キャラは好きじゃないようだ。気が合いそうだった。
「行くぞ」
「お〜、おっちゃん、やるな」
「うわっ。・・・フラミンゴ来るな」
「えらいこっちゃ、側進旋風牙かっ!」
 オレたちはムキになって、レバーを引いてボタンを押しまくった。
 実は二人ともあんまりうまくなくて、女性キャラ二人はもたい動きをしていた。
 聖なる夜は更けていく。
『あっちは、どうなったかな』
「うわぁぁっ、モロ食らった!」
 オレのレディはリングに沈んだ。青年はガッツポーズをすると、細いタバコをくわえた。女がジッポで火をつける。
 1敗したオレは熱くなって、ジャケットを脱ぎ捨てた。オレもラークをくわえたが、画面のロードが終わってしまい火をつける暇が無かった。
「あっちのおっちゃんにも、火ぃつけたれ」
 青年に促された網タイツの彼女が、オレの唇からタバコを取り去り、自分で火をつけて一口吸ってから、もう一度オレにくわえさせた。甘い口紅の匂いがした。

「よっしゃゃゃゃぁ!」
 2戦目は、オレのパイ・チェンが空烈天鳳を決めた。
「あか〜ん。・・・やりおるな、おやじ」
 青年もファーを脱いで、幾何学模様の薄いシャツ一枚になった。
 ゲーセンの店内では、場違いな『ホワイト・クリスマス』が、ゲーム機がたてる爆音や炸裂音に混じって、うすく流れていた。

 すべての恋人たちと、すべてのヤモメ野郎に。
 メリー・クリスマス。


< END >


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