魔の街に棲むキメラ

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  『魔の街に棲むキメラ』 3/3  


< 7 >
 
 今年は、夏が来るのが早いのかもしれない。昼前だというのに、宿の窓から差し込む陽は、容赦なく暑い。
「今日は帽子がいるかな」
 コインを入れてもらうのに、別に空カンでも用意しておこうか。

 惰性のように、ロトの屋敷を訪れる。相変わらず門には閂が有り、不法侵入で飛び越える。ノッカーを叩いても返事は無い。
 裏に回って、昨夜仕上げた素描を一枚置いたら帰ろう。マハーヴァは要らないかもしれないが、感謝の気持ちは伝わるだろう。楽しげに黙々と芋剥きをするマハーヴァの絵だ。
 庭に出ると、椅子が一脚置いてあった。
 走って窓を覗き込む。だが、厨房のマハーヴァは、いつものドレス姿で大量の人参の皮を向いているところだった。カルヴィーノが来たのにも気付かず、相変わらず一心不乱にナイフを動かしている。テーブルでは、大皿一杯のまだ葉さえついたままの朱色の野菜が、ドレスを脱がされるのを待っていた。
 椅子があるってことは『了解』なのかと一瞬期待してしまったが。
「・・・。」
 期待した分、ため息も深くなる。肩を落とし、例の一枚をスケッチブックからはぎ取った。うまく切れずにギザギサといびつな切れ端になった。そのへんの石を拾って、飛ばないように絵の上に置き、椅子に乗せよう。
 ドンドンと、ガラスを叩く音に気づいたのは、カルヴィーノの方だった。叩いていたのはマハーヴァ。ガラス戸を境に世界が反転したような錯覚を覚えた。
 拾った石が、義手から滑り落ちた。
 するりとドレスが床に落ちたのだ。

 諦めていたので、昨日のように木炭を布で巻くような準備もしていなかった。直にくわえる木炭は辛く、唇に容赦なく染みを作る。顔の高さにノートを上げるのがうざったくて、カルヴィーノは椅子を反転させた。椅子の背をまたいで座り、背もたれでノートを支えた。これなら少し首を曲げるだけで、画用紙に届く。
 マハーヴァは、予想していたより肉付きのいい女だった。首や肩は華奢だが、胸の小山は大きく豊かだ。腰は細いが太股はふっくらとして、腰の線をはみ出すほどだった。
 木炭をくわえ続けると唾液が溜まるので、時々唾を芝に吐き出す。黒い血が混じったような唾が、緑を汚す。
 カルヴィーノが両腕を首の後ろで組むポーズを指定すると、マハーヴァは素直にきちんと真似てくれた。つんと上を向いた胸のラインが綺麗だった。恥ずかしいらしくて(当たり前か)、視線は常にカルヴィーノの足元で、顔を上げてくれないのだが。
 片腕を上げて手を耳に当てるポーズも、そのまま真似した。胸の下で手を組むしぐさを指示すると、まるで鏡に映っているように素早く姿勢を変えた。
 描きながらめまいがした。描いているのが自分なのか、ガラスのむこうでポーズを取っているのが自分なのか、わからなくなった。体の実感が消えた気がした。口に触れる炭の感触だけが自分のものだった。カルヴィーノの意識が、マハーヴァの体を乗っ取ったような錯覚を覚える。
 視線がぶつかった。初めてマハーヴァが首を上げた。カルヴィーノを睨み付けるように上目使いで見る。この強い表情はマハーヴァのものじゃない。
『オレだ・・・』
 憑かれたように、カルヴィーノは炭を動かした。黒い唾液が口の端から垂れて糸を引き足元まで落ちた。シャツの肩でぬぐう。白いシャツが吐血のように汚れた。
 木炭が短くなりすぎたことに気づき、吐き出し、新しいものをくわえた。
 カルヴィーノの視線もきつい意志でモデルを見つめ返し、容赦なく皮膚の上を嘗める。唇の端を上げた『カルヴィーノのマハーヴァ』は、彼が次に指定しようとしていたポーズを取ってみせる。椅子を出して座って、と言う前に、彼女は厨房の椅子をガラスの前に引っ張り出して、足を組んで座った。
『つっ!』
 カルヴィーノの左手に軽い痛みが走った。むこうではマハーヴァが顔を顰めていた。厨房の椅子に釘が出ていて、指か掌を傷つけたようだ。もちろんカルヴィーノの左掌には傷は無い。だが、まだじんわり痛みが感じられた。
『痛み・・・』
 左も義手だ。痛みを感じる神経など、無い。
 マハーヴァは、掌をガラスになすり付ける。絵の具のような血が、点々とガラスに付着した。カルヴィーノの目を見据えたまま、婉然と微笑みかける。
『こいつ・・・オレを誘ってるのか?』
 いや、オレが『カルヴィーノという男』を誘っているのか?オレは『カルヴィーノという男』が欲しいのか?それとも、『オレ』がマハーヴァを乗っ取って犯そうとしているのか?もう、わからなかった。
 ただ言えるのは、あれは自分だ。
 マハーヴァは、ガラス戸の木枠に手をかけた。鍵を外しているのだ。オレがその戸を開けられるように。
『やめろっ!外すなっ!やめてくれーーーっ!』
 カルヴィーノは強烈な吐き気に襲われた。木炭を地面に吐き捨てると、膝をついた。胃がもんどりうっている。屈み込むと芝にもどした。
 XYかXXか。何の偶然で決まってしまったのか。
 あれは、闘いに負けた染色体の亡霊なのか。

 口許をシャツの裾でぬぐい、カルヴィーノはやっと立ち上がった。・・・このシャツはもう洗濯だ。
 厨房から諍う声が洩れていた。
 ディヤーが戻って来て、何かわめき散らしている。マハーヴァは、脱いだドレスで体を隠したまま、ディヤーの怒りに萎縮していた。あの気弱そうな表情はマハーヴァ本人だ。元に戻っている。
「昨夜、テーブルに木炭の粉が落ちてたので、変だと思ってたのよ!」
 ディヤーの怒声は大きく、ガラス越しにも十分聞こえた。
『そうか。それで疑って屋敷に戻って来たのか・・・』
「妹の彼氏を寝取るなんて、どういうつもりよ!」
 カルヴィーノは本人も知らぬ間に彼氏に昇格していたらしいが、寝取られた覚えもない。
 誤解は簡単に解ける、そう思ってガラス戸を開けた。
 だが、ディヤーの手にナイフが握られているのに気づき、足が停まった。さっきまで、マハーヴァが野菜の皮むきをしていたナイフだ。
「ディヤー!ナイフを置け。オレはマハーヴァに指一本触れていない。モデルになってもらっただけだ」
「そんなこと!信じられるわけないでしょ!モデルにしたあと、あたしのことも抱いたくせに!」
「あれは、モデルにしたからじゃない。ディヤーが好きだったからだ!」
 こんな場面で愛の告白なんてマヌケもいいところだ。ディヤーが自分に気の無いことはわかっているのに。
 ムキになっているのは姉への敵愾心によるもの。嫉妬でも何でもない。
「あたしが好き?」
 ディヤーは鼻で笑った。
「知ってるんでしょ?あたしが店の客達と寝てること。"パブリック"なんて陰口たたかれて。誰とでも寝るって言われて。そんな女を好きだとでも言うの?
 あたしが、何もわからないまま店に出たのは14の時だった。客に外で会って、ニコニコ言うこと聞いてたら、レイプされかかった。
 マハーヴァは店は『嫌だから』って理由でさっさとご勇退してた。あたしが『軽い女』っ言われながら、店でみんなに愛想振りまいてる間、マハーヴァはただ毛布かぶって『男が怖い』って震えてただけ。
『お姉さんは堅そうで』『お姉さんは清楚で』、何もしないマハーヴァばかりが株を上げていったよね。
 ピートとの結婚だって。初めに断れば、彼もあんなに傷つかなかった。あんないい人なのに、可哀相だと思わないの?」
「だって・・・あんないい人、断り切れなかった」
「バカじゃないの、マハーヴァ?」
 興奮したディヤーは、ナイフの刃を上げ下げする。
「ディヤー、危ないから、ナイフをテーブルに置いてくれ」
 力づくで腕を取り、ねじ伏せてナイフを離させることはできる。でも、そんなことをしてもディヤーの心のナイフを奪うことはできない。よけい人への憎悪が増すだろう。
「ピートは、すっかり悪者になってる。言い訳もせず口をつぐんでいるから。姉さんが異常だとは、誰も思っていないものね。
 彼は畑を捨てて村を出るそうよ。ピートの評判が落ちて、野菜は売れないし、もうお嫁さんの来手も無いからですって。
 冗談で『あたしがなってあげるよ』って言ったら。それだとマハーヴァが義姉になるから困るよって苦笑してた・・・」
 そうか、ディヤーはピートを。
 それに気づいて体が冷たくなった気がした。だから、その一瞬だった。
「自分が生きている意味があると思う?」
 ディヤーのナイフが振り降ろされた。
「やめろ!まだ全部描いてないんだ!」
 マハーヴァの体をかばった理由は結局それだった。カルヴィーノはディヤーの手を掴む。
「離してよ!」
 ディヤーと揉み合って、あっと思った時には、閃光が目の上を走っていた。
 血がスローモーションのように飛び散るのが見えた。左目が燃えたのかと思った。痛みではなく熱さだけ感じた。
 カルヴィーノは両手で左目を抑えた。よくできた指たちの間から、本物の血が流れ出た。

< 8 >

 縫合手術の麻酔は解け、カルヴィーノは目を覚ました。片目で病院の天井を眺める。今までと違う神経を使っているのか、目の奥が痛む。うすぼんやりと、靄がかかっている。片目だと、かなり視力が落ちるようだ。
『描けなくなったわけじゃない・・・』
 カルヴィーノは唇を噛みしめる。苦い想いが喉を締めつけ、体の中に諦めとなって落ちて行く。今度は目か。でも、描けなくなったわけじゃない。その言葉を祈りのように心で繰り返す。
「カルヴィーノくん」
 ロトの声が聞こえたので、左側へ首をまわそうとする。何時間も同じ姿勢で寝ていたせいか、体がぎしぎしと軋んだ。それとも軋んだのは、病院の古いベッドかもしれないが。
 ベッドサイドに、ロトが小さく座っていた。店もあるだろうに、付いていてくれたのだろうか。
 左の二の腕・・・肩のすぐ下に針が刺さり、点滴が繋がっているのが見えた。普通は手首と肘の真ん中辺りに針を打つのだろうが、なにせそこは義手だった。
 ズボンは履いたままだったが、シャツはベッドの足元の柵に掛けてあった。病院のものなのか、清潔な白いタンクトップを着せられていた。
「ロトさん。すみません、ご迷惑かけました」
「謝るのはこっちだ。土下座して謝っても済まされない。うちの娘が取り返しのつかないことをした」
「ロトさん、これは・・・事故です」
 ディヤーにカルヴィーノを傷つけるつもりは無かった。彼女を責めるつもりはない。ナイフは、力ずくで奪おうとすれば奪うことができたのだ。なだめることができると自惚れた自分の愚かさのせいだ。
 何もかも、自業自得だった。
 自分の描いていた絵が、聖者に褒め称えられるものじゃないことは、わかっていた。天使が祝福するような絵じゃない。
 闇に惹かれた時には、黒い翼のヤツが降りて来ることになっているのだ。
「ディヤーとマハーヴァはどうしてます?」
「ディヤーは錯乱状態だったので、医者に精神安定剤を打たれて、他の病室で休んでいる。マハーヴァは、何も喋らない。事件のことだけでなく。家に閉じこもって石のように押し黙って、もう誰とも、わたしとも口をきかない。
 妻が死んで、思春期の娘を二人も抱えて男手一つで育ててきたが。わたしは何か間違ってしまったのだろうか」
 ロトはそう言うと深いため息をついて頭を抱えた。
「警察兵へはもう届けちゃいましたか?」
「刃物沙汰だったので、病院の方から連絡は行ったようだが。あんたの意識が回復したら、また来ると言っとった。
 看護婦を呼んで来るよ。目が覚めたら呼ぶように言われていたんだ」
 ロトは立ち上がって病室を出て行った。
 片目だと、焦点が甘くなる。そして集中して見ようとすると、視神経がかなり疲労するのを感じる。これは、ずっとこうなのか、慣れるものなのか。
 立体感は失われていなかった。色の見え方も変わらない。利き目は右だったので、ものが見える位置も同じだ。
『どうせなら、耳にして欲しかったよなぁ』
 両手首。左目。絵の神様は、自分を試しているのだろうか。神など信じていないくせに、カルヴィーノはふとそう思う。
『でも、"神の試練"と呼ぶには、失くし方がいつもみっともないよなあ。毎回、オンナがらみだもんな』
 神の試練。単に、しょうもない女に惹かれたり引っかかったりしやすい・・・という選択肢に気づきながら、カルヴィーノはそれには見て見ぬフリをする。

『抜糸に2週間ってところか?』
 警察と関わるのは御免だった。よその国での話とは言え、王妃との姦通は普通なら死刑の大重罪だ。『死刑以上の苦痛を』ということで、二度と描けないように手首を斬られた。こんなところでちゃっかり似顔絵描きをしているのがバレたら、刺客が追って来てバッサリなんてこともあり得る。
 点滴は、今やっているのが24時間・一回って分だろう。あと数日、3時間くらいの点滴があるに違いない。中身は化膿止めだ。市販の強い飲み薬で十分代用できる。抜糸だけなら、次の街にも医者くらいいるだろう。
 逃げ出すタイミングは、この点滴が終わったら。
 ロトは、カルヴィーノが残して来た画材箱を、きちんと病室に運んでくれていた。宿にも特に取りに帰るものもない。
『・・・。ディヤーが、まだこの病院内にいるんだよな』
 ゆっくりと体を起こす。脳震盪もめまいも無い。怪我は片目だけだ。動き回っても支障は無いはずだ。カルヴィーノは立ち上がると、台から点滴を外して右の指に引っかけた。針の刺さる左腕より上げておけば大丈夫だろう。・・・たぶん。

 街でも大きい病院なのだろう。石造りの建物は、ひたすら廊下が長い。
 採光の良い大きな窓の並ぶ廊下を、カルヴィーノは適当に勘で歩いた。ステーションにいる看護婦には、連絡が行き届いているからダメだ。カルヴィーノが歩き回ってはいけない患者だとすぐバレる。
 忙しそうな若い看護婦を見つけ、ディヤーの病室を聞き出した。
 112号室はカルヴィーノの病棟とは反対の棟。また似たような長い廊下を行く。
 慣れない片目で、ロール紙の背景画みたいな廊下をずっと歩いていると、失神しそうになった。壁にもたれて、考え事でもするフリをして、回復を待つ。ディヤーにはどうしても会っておきたい。
 病室は2人部屋だったが、名前の札は幸いディヤー一人だった。静かにノブを回してドアをあけた。
 ディヤーは窓側のベッドにいた。もう目覚めて、体を起こし外の風景を見ていた。看護婦も付添人もいなくて不用心な話だと思ったが、ロトが交代でこちらとカルヴィーノの方を行き来してくれたのだろう。
 髪は降ろしていた。肩にかかるまっすぐなブロンドは女学生のようで、結っている時より幼く見えた。
「精神安定剤を打たれたって?大暴れしたんだろう?」
 カルヴィーノが、何も無かったように声をかける。出会って数日目の時みたいな口調で。
「カルヴィーノ!・・・入って来たの、父だと思ってたわ」
 声に振り向いたディヤーの表情が変わる。ディヤーに逃げ場は無いが、彼女は逃げようとはせずにベッドに停まった。姉の方だったなら、怪我人のカルヴィーノを突き飛ばしてでも、出口に突進しただろう。
「ごめんなさい、カルヴィーノ、あたし、どう償ったらいいのか・・・」
 ディヤーはいつもきちんと自分と向き合う。問題から逃げない。受け入れて、我慢する。
 マハーヴァとピートが結婚した時も、マハーヴァの代わりに14で店に出た時も。たぶん、母親が死んだ時もそうだろうし、姉の性格をおぼろげに把握した子供の頃もそうなのだろう。
 作り笑いで全部我慢して、そして心の奥で憎しみを増殖させていく。
「償う?・・・じゃあ、オレと結婚して、ずっと面倒を見てもらおうかな。養ってよ。この目でまた絵が描けるかどうかわからないしさ」
「・・・。わかったわ。でも、父の店のお給料はそんなに高くないの。質素な生活になると思うわ」
 カルヴィーノは苦笑してディヤーの肩を叩く、「冗談に決まってるだろ」
 好きでもないカルヴィーノと我慢して結婚して、作り笑いの結婚生活を送り、カルヴィーノへの憎しみを毎日膨らませて行く。そんなスィートな日々が目に見えるようだ。
 そして憎悪はいつしか風船の中で満タンに膨れ、ちょっとの刺激で爆発する。今回のように。
 カルヴィーノのことも刺そうとするのだろうか。
「償いなんて。君が償う必要は無いよ。これは事故だ。
 警察兵が事情聴取に来るだろうけど、オレがマハーヴァをレイプしかけてたとでも言っとけ。君は、姉を救おうとしてナイフを握ったとでも」
「だって、それじゃ、あなたが」
「警察が来る前に、病院もこの街もトンズラするから平気さ。性犯罪は被害者の証言が必要だ。マハーヴァはどうせ口を噤み続けるだろから、オレの犯罪は立証できないよ」
「ほんとにレイプしかけてたの?」
「してないってば!」
 トランス状態だったが、カルヴィーノの意識はちゃんと拒否した。それがあの吐き気だった。だが、あのまま描き続けたら。ディヤーが来なかったら、どうなっていたか自信は無い。
 自分と自分が交わるなんて、悪趣味な趣向だ。思い出すとまだ胃がむかむかする。いかにも、自己愛の強い自分らしい行為で、ムシズが走った。
「傷・・・痛いわよね?」
 カルヴィーノは首を横に振った。
「今は痛み止めが効いている。それに縫った傷の痛みはせいぜい2日だろう。たいしたことはない」
 ミミズのような両性具有の生き物だって、ちゃんと別の相手と生殖する。自分で自分をヤッたりしない。
『危うく、ミミズ以下になるところだったのかも』
「ディヤー。嫌なことは、嫌だと言っていいんだよ」
 ディヤーははっと目を見開く。誰も言ってあげなかったことだ。ディヤーは瞼を閉じて両手で顔を被う。・・・泣いていた。
 きっと、誰かに言って欲しかったのだろう。わかって欲しかっただけなのだ。
「じゃあ、オレはそろそろ病室に戻らないと。
 あと数時間したら、抜け出す。これでお別れだ」
「カルヴィーノ・・・」
「好きだったのは、嘘じゃないよ。じゃあな」
「あなたが、マハーヴァに似てなかったら・・・」
『あたしも好きになったかも』って?
「オレのことなんて、ハナもひっかけなかったろうよ」
「そんな言い方・・・」
「お別れのキス、していいか?」
「えっ」
 ディヤーは困ったように眉をしかめ、だが瞳を閉じた。
 カルヴィーノは、その額を、指でコツンと叩く。
「だから、嫌なことはそう言っていいんだってば。少しずつ、慣らしていくといいさ」
「・・・。」

 カルヴィーノが自分の病棟に戻ると、看護婦達が自分を探し回っていた。
「カルヴィーノさん!ダメじゃないですか、勝手に!」
「すみません、ちょっとトイレに。道に迷っちゃって。
 ロトさんは?」
「娘さんが意識を回復したので、そちらの病室へ行かれましたよ」
 入れ違いだったわけか。ロトとももう会うことは無いだろう。実直で働き者で、家族への愛情が強い男。
 ピートも、ロトのようなタイプの男だった。ディヤーはだから惹かれたのだろう。
 たぶん、あの家族は絆が強すぎた。早く母親を亡くして皆で寄り添って協力して生きて来たのだろう。みんな情が深すぎて、関係が密すぎた。でもそれは、何の罪でもない。
 やはり触媒は自分だ。

< 9 >

 病室に戻って数分後には点滴が終わった。器具を解いた看護婦は、
「もうすぐ夕飯ですよ。おとなしく寝ていてくださいね」と念を押した。
「すっごく痛むんですけど、注射お願いできますか?」
 そろそろ鎮痛剤が切れる頃だ。縫った皮膚や左目はまだ痛まないが、首の後ろがドクンと軽く鳴り始めた。ここを抜け出すのに、痛み止めを打っておいてもらえば、動きやすい。
「跡はよく揉んでおいてね」
 看護婦は、点滴と反対、右の肩に筋肉注射を施して行った。注射の出血が止まりもしないうちに、カルヴィーノはアルコール臭の脱脂綿を放り投げ、ベッドの柵に掛けたシャツを羽織った。
 どす黒い血液の染みが、花の刺繍のように幾つも胸を汚していた。右肩には唇の木炭をぬぐった跡。裾は、もどした時にハンカチーフ代わりに使った。
『・・・うーん』
 この血痕満載のシャツを着て街を歩くと、皆から凝視されるに違いない。
『て言うか、着たくない、コレ』
 脱いで椅子の背に掛けたら、右肩に新しい鮮血の染みがまた出来ていた。
 病室は一階だったので、画材箱を背負って窓から抜け出した。外は薄紫に染まり、夕暮れが近づいていた。
 このまま街を出た方が安全だったが、寄る場所があった。
『君のせいじゃないよ』
 もう一人、言ってやらねばならない相手がいた。

 門の閂は降ろされたままだ。ロト達はまだ病院にいる。ドアに何重にも鍵を掛けているはわかっているし、今夜は敢えてノッカーは握らなかった。
 庭に出て、ガラス戸から厨房を覗いた。テーブルに乗ったマハーヴァが、天井の梁にロープを掛けているところだった。
『やれやれ。こっちのお嬢さんは、相変わらず逃げることしか考えていない』
 死のうと決意した者を、あれこれ綺麗ごとを並べて引き止めるつもりは無いが・・・。死ぬのは八方塞がりの時でいい。まだ彼女には他に逃げる方法が幾つもある気がした。
 テラス窓は鍵がかかっていた。ガタガタとガラス戸を揺すると、マハーヴァが振り向いた。
「どうして?入院しているはずでしょ?」
「病院を脱走して来た」
「あきれた・・・」
「ロトの古着でいいから、一枚シャツをめぐんで欲しいんだけど。着てたやつは、血まみれだったから」
 仕事を与えられたマハーヴァは、とりあえず首吊りは中止して、他の部屋からシャツを持ってきた。そしてガラス戸の鍵を開けると、カルヴィーノに一歩も近づきたくないと言うように、投げるようにシャツを手渡した。
「半袖。肘が出るな。まあ、仕方ないか」
 布地が少し毛羽立ってはいるが、しっかりした仕立ての良質の白いシャツだ。カルヴィーノは、荷物を置いてシャツを纏った。ロトが今より少し痩せていた頃のものか。痩身のカルヴィーノは体が布の中で泳いだが、大きすぎるというわけではなかった。
「とめないの?」
 マハーヴァは、ちらりと梁に目をやった。
「法律上は、制止しないとオレも罪になるよ。
 だけど、『死刑より酷い罪』を課せられたことのある身だ。自殺幇助など怖くもないさ。
 反対に、興味がある。首吊りは一番楽な死に方だそうだが、死に顔はみっともないもんだ。目は血走って見開いたままになるし、口からヨダレは垂れてるし、下手するとヘド吐いてるし」
「・・・。」
「見届けてやるよ。そうだ、スケッチ取らせてもらう。
 オレと同じ顔の人間が死んで行くところだ。オレもそういう顔して死ぬんだろう。描いてみたいよ、ぜひ」
「人でなし!」
 マハーヴァは、テーブルに転がっていた人参をカルヴィーノに投げつけた。それは外れてガラスに当たって音をたてて落ちた。
「あ、あなたなんて、何よ!」
 次の一本を取って、また投げる。
「うわっ」カルヴィーノはひょいと頭をそらしてよけた。
「実の妹が、私を殺したいほど憎んでいたのよ?あなたなんて、どうせディヤーの味方のくせに!」
 テーブルは昨日のままのようだ。あの人参がまだ大皿にたくさん乗っていた。マハーヴァは、そこから人参爆弾を次々と投げつけた。カルヴィーノも、仕方なく次々と手ではたき落とす。
 隻眼だと距離感が狂い、一本防ぎ損ねた。
「いてっ!」
 頭に直撃し、ぽかんという間抜けな音がした。
『こいつ。オレが重傷の怪我人だって、わかってないよな』 
「ディヤーだって、本気で殺意があったわけじゃないさ。ま、多少あんたを嫌ってはいるようだが。仕方ないだろう?自覚してるだろ、誰にでも好かれる性格じゃあないってこと」
「・・・はっきり言うのね」
「性格がどうこうより、社会適合ができないって方が正しいか」
「もう、この家には居られない・・・。ディヤーにあんなに憎まれて。死ぬしかないじゃないの」
 マハーヴァは、顔を両手で被った。こんなに似ていない姉妹なのに、泣く時のしぐさだけはそっくりだった。
「家を出て、他の街で生きて行くって選択肢は、考えないわけ?」
 言いながら、また余計なことをしているのを感じる。厄介なモノを背負いこんでしまいそうな予感を。
「家を、出る?私が?」
「少なくても、この家で自殺するより、ロトとディヤーの為になるだろ。この厨房で死んでみろ、ロトが気の毒だと思わないか。それに、昨日の事件の直後に自殺するなんて、ディヤーの罪の意識のことは考えないのか?」
「・・・。」
 言われるまで、気づかなかったらしい。
「街を出てみて、それでも死にたかったら、オレが殺してやる。自殺はするな、ディヤーが傷つく」
「それって・・・連れて行ってくれるってこと?」
 やはり、背負ってしまった。だが、これが一番いい方法に思えた。ディヤーにもマハーヴァにも、ロトにもピートにも。

 翌朝には隣の街に着くという乗合馬車。二人はそれに乗り込んだ。カルヴィーノは前髪で左目のガーゼを隠し、目深に帽子をかぶる。
 意外にも客は満杯だ。行商の商人らしき男が数人。大道芸人らしい楽器を抱えたグループが一つ。カップルも家族連れもいた。
「父に、置き手紙くらい残せばよかったかしら?」
 馬車が走り出してから、そんなことを言うマハーヴァだった。
『オレって、マハーヴァ誘拐犯にされてそう・・・』
 実際は、マハーヴァは、当座に必要なものをバッグに詰める時間しか無かった。カルヴィーノが急かせたからだ。病院からいつロト達が帰るかわからないのだ。
 しかし、ロト達も無理に探したり追ったりはしないと思う。マハーヴァは所詮、厄介者だった。
「あ、ロープもあのままよ!」
「・・・。」
 今頃ロトの家では、二人が、梁のロープと散乱した人参に『何?』と肩をすくめているだろうか。
 
 馬車は街の門を抜けて市街地へと出て行く。 
 Morrha(モラハ)。Go Morrhaでゴモラになる街。
 例によって『指一本触れない』約束をさせたマハーヴァだったが、今は眠気に負けてカルヴィーノの肩に持たれかかり、静かな寝息をたてている。
 月だけが、馬車を追いかけて来ていた。


< END >
 

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