王様の金のグラスの、金のワイン 3/3 |
< 11 > 屋敷は昼頃に出た。 サロス通りでの似顔絵描きはもうやらないつもりだったが、数日中に街を出るとしたら支配人に会って礼も言いたかった。もう一度『ディオニュソス』の飯を食いたいという思いもある。あそこの食事は美味い。 店の前で、出て来た若い娘に「あ!こんにちは」と笑顔を向けられどぎまぎした。ビッキーと言ったっけ。向かいのキャンディ屋の。可愛いコだったが、この娘ともお別れだ。 「今日も、似顔絵、お休みなんですかぁ?」 「冬になったから、もう通りでは描かないことにしたんだ。別の河岸を探すよ」 「そうよねぇ。寒いものね。新しい場所が決まったら教えてね。また、描いて貰いに行くから」 ビッキーは、バイバイと無邪気に手を振って、キャンディ店に戻って行った。 『ディオニュソス』の扉を開けると、さすがに昼時で、盛況だ。隅の席にやっと腰を降ろす。絵の荷物があって邪魔なので、端の席で却ってよかった。 「やあ。カルヴィーノ。ランチでいいか?」 顔なじみになったウエイターが笑顔で水を置いた。 あの日、入口近くの酒の棚、あの裏の暗い席にモロクールが居た。二カ月も経っていないのに、もう何年も前のことのようだった。 太い柱と天井の大きなファン。みんなが寄りかかったせいで所々に艶がある木の壁。でっかくて暖かくて。いい店だった。 「おう。お待たせ」 そう口で言っても待たせない店だ。感傷に浸る時間位は欲しかったものだと、カルヴィーノは苦笑する。支配人自らがランチのトレイを置いた。 「支配人。世話になったな。もう、店の前では描かないから」 それだけ告げた。 「そうか。寂しくなるな」 警官がこの店まで来たかどうかわからない。支配人の表情は読めなかった。忙しい時間帯だった。食べ終えた後は、支配人には特に何も挨拶せずに、会計を済ませて外へ出た。 扉を閉じて、その直後だった。店の外で見張っていたかのようなタイミングだ。「おい」と肩を掴まれた。警官でも近衛兵でも無い。黒いローブを着た中年と。隣に服の裾をだらしなく出したチンピラまがいの若者が立っていた。 「この店の前での商売は禁止されていたはずなのに、何故あなたはここで似顔絵を描いているのかね?」 ローブの男が、穏やかな口調だが、低い凄味のある声で尋ねた。男にしては耳に大きな石のピアスをぶら下げている。額にも、宗教無視で小さなエメラルドが貼り付けられていた。 『占い師か?そういえば、俺の前に、当たらないんで追い払われた占い師がいると聞いたが』 「答えろよ」と、若い方がカルヴィーノの頬を打った。後ろへ吹き飛ばされて、店の窓に背中を打ちつけた。 「オーナーを色仕掛けでたらし込んで。汚い人ですね、あなたは」 力量も無いくせに、成功者を妬む者。成功は実力だと認めるのが悔しくて、理由を捏造して勝手に正義の味方に奢り上がる。反吐が出そうだった。最低の奴らだ。 「あんたみたいなブ男じゃ、オーナーも用無しだったんだろ」 ふざけるなという怒声が聞こえ、占い師が指輪の手で顔を殴った。口が切れて血の味がした。「やりなさい」と若い方に指示する。チンピラはナイフを抜いた。 「命までは取る気はありませんよ。残った目、それが無ければあなたはもう描けませんね」 「待て!」 初めて慌てた。ここで刺されてもという自虐的な想いもあったが、『描けない』という言葉で覚醒させられた。殺されるのは怖くないのに、描けなくなるのは怖かった。 背に、店の窓を感じた。もう後ろへは逃げられない。青年はナイフを握ったままじりじりと近づく。カルヴィーノは横ばいに少しずつ動くしか無い。 右目も失くす。想像すると慄然とした。手首を斬られた時の喪失感より、もっと怖い。過去の自分が描いた絵も見ることができないのだ。 足元の石につまづき、よろけた。青年が顔を目指してナイフを突き出しす。カルヴィーノは両の掌で右目を覆った。ずぶずぶと刃は左手の手の甲を突き刺し、右の甲にも至った。だが、刃先は右の手から数ミリ飛び出しただけで、カルヴィーノの右目には届かなかった。 「うわっ。な、なんだ、こいつ。血も出ないのか。バケモンかっ!」 チンピラは驚愕してナイフを引き抜いた。 義手の外壁の陶器は崩れ、パラパラと小石のように破片が辺りに落ちた。ラバーが剥がれて中身が覗き、何本もの繊維が切断されているのが見えた。痛みは無いが、左は完全にお釈迦だった。 「人が来る。行くぞ!」 占い師が声をかけても、動揺したチンピラの耳には届いてないようだ。握ったナイフをカルヴィーノに向けたまま、譫言のように「バケモノだ。バケモノだ」と繰り返している。 いきがっているが、ナイフで人を刺したのは、初めてなのだろう。 「カルヴィーノ!」 支配人がドアを開けた。窓から見た客が知らせたのか。ビッキーが飛び込んで知らせてくれたのかもしれない。 腕っぷしの強そうな支配人の登場に、カルヴィーノは少し安堵した。だが、助っ人が現れて青年の気持ちは余計に追い詰められた。 青年は、カルヴィーノの体をめがけて、ナイフごと突進して来た。支配人もウエイターも力自慢の客達も。一斉に飛び出して青年を取り押さえた。握られたナイフは、誰かが叩き落とした。 いつもの似顔絵描きの時のように。カルヴィーノは膝を立てて店の壁に背中を付けて座った。左の脇腹を右手で抑える。右手は動くようだ。だが、ナイフが付けた手の甲の穴から、脇腹の血が零れ出していた。 「医者を呼べ!警察官を連れて来い!」 誰かが叫んでいた。 「支配人・・・。警察はやめてくれ。モロクールに連絡を。彼なら裏の医者も知っているだろう」 それだけ言って、気を失った。 < 12 > そうたくさん眠った気はしなかった。天井の模様はショール夫人の宿のものだ。右目だけが、ぱちりと開いた。あとは・・・どこも動かせ無い。 「7針縫ったが、命がどうこうって傷じゃ無いそうだから。内臓も無事だ。麻酔が切れたら動いていいそうだ。と言うか、麻酔が切れるまで動けまい」 首も少ししか曲げることができないのだが。ベッドの脇でモロクールの声がした。顔は見えないが、彼のモスグリーンのジャケットが見えた。 その後のことが気がかりで尋ねたかったが。口は微かだが開けることは出来た。だが、声は出なかった。 「マハーヴァはショール夫人と食堂にいるよ。 治療は私の知人がした。警察にも届けていない。ただ、あの騒ぎだし、耳に入ったかもしれん」 『ありがとう。すまなかった』、声は出ないが、唇をそう動かした。 「謝るのは私の方だ。私の組織の者に、あの占い師とチンピラを探させている。逆恨みを受けて、とんだ災難だったな」 『いいや』 権力者に可愛がれ過ぎた者の末路は、こんなもんだ。 「手の方は・・・この街では無理だそうだ。それは医者でなく、機械屋の分野なのだろう?」 医学の心得もある機械屋か、その反対か。又は息の合った医者と機械屋のコンビ。だが、唇の動きだけでそれを伝えるのは無理だろう。カルヴィーノは頷くだけにした。 「ショール夫人は、暫くここに居ていいと言ってくれた。だが、起き上がれるようになったら、全快するまで私の屋敷に来るといい」 絵もまだ途中だった。彼の好意に甘えるしか無いだろう。 『頼む』と、唇を動かす。 「声がせずに、唇だけが動いているというのは、セクシーなものだな」 ベッドが片側に軋んだ。モロクールが縁に腰を掛けたのだ。 「思わず、私の唇で覆ってしまいたくなるが」 と、大きな掌がカルヴィーノの頬に触れた。軽い痛みがあるのは、殴られた傷があるからだろう。感覚があるのは首から上だけだ。 『馬鹿を言うな』 「せっかく妹御との交際を認めてもらったことだし。兄上に嫌われたら大変だ、やめておくよ」 この男。どこまでが本気だ。 モロクールは計れない人間だった。少年のように見える時もあるが、本質はやり手の実業家、結局は独裁者だろう。 彼の真紅のマントの内側で、自分もマハーヴァも弄ばれているのだ。 頭上に王冠を抱き、玉座に座り。神に、手に触れる物全てを黄金に変えよとねだった欲深い者。 そして、黄金に変わったパンもワインも、その牙でバリバリと噛み砕くのか。黄金の像と化したマハーヴァとカルヴィーノの体も。 「それに、何も感じ無いのだろう?」 モロクールは、首まで被っていた上掛けを剥がし、胸に・・・たぶん左の胸に触れた。感覚は無い。モロクールの腕が見えて。目で見てそうわかるだけだ。 「心臓は動いているが。こうして触れても、君の動悸が早まるわけでも無い。少しも面白くない」 『ふざけるな。勝手に触るな』 モロクールに触れられ、黄金になった身動き取れない自分。 彼の周りを囲む、物言わぬ金の人形たち。暖炉の前で編み物をしたまま固まった、黄金のマハーヴァ。金のトレイに乗った金のシチューを差し出す、固まった支配人。シェーカーを振るポーズのまま固まったバーテンダー。金の箒を握ったまま動かぬメイド長。 たった独りこの世に残されて。この男は何をしたいのか。メリーゴーランドに一人で乗って回り続けるのか。 「マハーヴァと交代しよう。呼んでくるよ。眠るといい」 そう言い、ドアを開く。だが、階段を上がって来た彼女と鉢合わせしたようだった。 「兄は?」 「一度起きたが、また眠ったよ。医者は信頼できる男だ、心配無い」 モロクールはそう言うとマハーヴァを抱きしめた。二つのベッドの間に敷かれたシーツのカーテン。その薄い布ごしに、二人のシルエットが映し出された。 「数日で動けるようになるそうだ。 あの絵が完成したら、彼は街を出て行くだろう。 君は・・・どうするつもりだ?」 マハーヴァは黙って答えない。モロクールの次の言葉を待っている。 「私の元に残ってくれないか。結婚しよう?」 人が刺されてこんな状態の時に、隣でプロポーズとは呆れたものだ。だが、マハーヴァはこくんと頷いた。 モロクールの片手が、マハーヴァの頬に触れたのが見えた。ほんの今、カルヴィーノに触れた、その掌で。 鳥肌が立った。それは、本能のようなものだった。カルヴィーノにはわかった。モロクールは、カルヴィーノに触れた頬の感触を反芻しながらマハーヴァに触れている。たぶん翡翠の瞳を至福に細めながら。 マハーヴァ。罠だ。そいつは・・・。 モロクールの唇がマハーヴァの髪に触れた。モロクールは思い出している。カルヴィーノに肘で押しのけられた馬車の中の出来事を。 モロクールの頬がマハーヴァの頬に触れる。シルエットだけではわからない。だが、カルヴィーノは右頬に彼の皮膚を感じた。今、彼の指が、左の瞼をなぞる。マハーヴァには無い傷跡を、彼はなぞっている。カルヴィーノは左瞼に彼の荒れた指の腹を感じた。 以前も。モラハのマハーヴァの屋敷でこれに似たことがあった。マハーヴァのヌードを描かせて貰っていて、トランス状態になって。マハーヴァの体に、自分が取り憑いたようになった。 唇を、肉厚な唇で被われた時は抵抗した。首は動かせる。 「どうした?」と、モロクールが問う。マハーヴァが「怖い」と答える。 「駄目だってことは聞いてる。でも、少しずつ試してみよう?厭だったらすぐ言ってくれ」 薄いシーツのカーテン越しだった。モロクールはカルヴィーノが眠っていないことを知っている。『ふざけるな』と大声を出そうと息を吸いもうとしたが、肺は思うように動いてくれない。 「だって、隣に・・・」 そこまでは、確かにマハーヴァの声だった。 「麻酔が効いて寝てる」 モロクールの言葉に「そう・・・」と答えた、その声は、もう少し低くて。それはカルヴィーノの声だった。マハーヴァの唇から発せられた、カルヴィーノの声。 マハーヴァのドレスが脱がされるシルエットが見えた。だが、同時に、ボタンを外すモロクールの指が、時々肌に触れるのも感じた。 何も感じないはずの体が、人一人の重みを感じた。鼻先をモロクールの整髪剤の匂いが掠める。モロクールは、マハーヴァをカルヴィーノに見立てて抱いた。吐きそうだった。奴は、マハーヴァの体を使ってカルヴィーノを蹂躪した。許せなかった。怒りで噛んだ唇から血が滲んだ。 触媒はモロクールの意識だった。彼が、マハーヴァの体を借りて『カルヴィーノ』を欲したことで、麻酔の効いた『体の無い状態』のカルヴィーノの意識が、マハーヴァに入り込んだ。マハーヴァの意識は、今は深く沈んで膝を抱えて眠っている。結局、また奥深く引き籠もっていた。 途中から、何故悔しいのか、何故涙が出るのかわからなくなった。カルヴィーノの本当の体はカーテン越しに氷のように横たわっているはずだ。モロクールに指一本触らせていないのに。だが、意識はマハーヴァの体の中に有り、抵抗することも、不快さを言葉にすることもできず、されるがままに弄ばれている。涙が頬を伝うのは、どちらの体の自分なのだろう? もう、どこに自分が居るのか・・・モロクールの腕の上なのか、シーツのカーテン越しに居るのか、それともどこか別の世界に居るのか、判断ができなかった。シーツの向こうの『兄』の呼吸に耳を澄ます。両目の視界が効いて、遠近感が戻っていた。ざらつくモロクールの肌の感触の、痛みが心地よかった。大柄な男の重さが、華奢な体の骨をきしませた。 タキシードの肩や腕を描きながら、たぶんこんなだろうと想像していた二の腕の筋肉に触れてみた。マハーヴァの唇が、豊かな肩の筋肉に押し当てられる。マハーヴァの体を乗っ取って、想いを遂げているのは自分の方かもしれない。その考えに戦慄した。そんなはずはないと首を振った。 モロクールは左の瞼にだけ、何度も口づけをする。傷がそこに有るかのように。 『くそ、どうとでもしてくれ』 自分に有るはずの無い器官。なのに火花のような激痛を感じて、カルヴィーノの意識はもんどり打った。マハーヴァもその痛みに驚愕し、思わず目を覚ます。『カルヴィーノ』は飛ばされ、自分のベッドで目が覚めた。 額に、汗で前髪が張り付いていた。たぶん全身も汗だくだろう。 厭な夢だった。麻酔のせいだ。 浴室で水音がしていた。マハーヴァのようだ。カルヴィーノに湯浴みの音を聞かせるのも嫌がった女だったのに。 「すごい汗だな」 ワイシャツの前をはだけたモロクールが、カルヴィーノの前髪に触れた。先刻まで睫毛の先にあった厚い胸板から目を逸らす。 『そっちもな』、聞こえなくても唇の動きでわかるだろう。 『怪我人の横でファックするなんて、いい神経だな』 そう唇を動かして睨み付けた。 「欲しいものを手に入れる為なら何でもするさ」 モロクールはそう答えると軽く笑った。 そうだろうさ、あんたは。神に、世界を黄金に変えることを願った男。 彼の指が、瞼の傷に触れた。それは、さっきの唇の感触を思い出させた。 『触れるな。俺に』 込められる限りの憎悪を残った右目に託して、モロクールを睨み付けた。 < 13 > モロクールは、すぐに、屋敷のメイドを一人、カルヴィーノの世話係として寄越してくれた。そして、その日のうちにマハーヴァを屋敷に連れて行った。確かにマハーヴァは怪我人男性の世話などできないし、この狭い部屋にいられても邪魔なだけだ。婚約者同士で、いちゃいちゃといくらでもヤってくれ。『俺の目の前でなければ、何回でもどーぞ』と、ふてくされた思いで呟く。 マハーヴァは奥手だっただけだ。恋している相手で無ければ、体を委ねることはできない。それは当然のことで。 結婚した農夫はいい青年だっただろうが、幼なじみで、恋愛の対象では無かった。不快で当たり前だった。ただそれだけのことだ。だが、それを誰もマハーヴァに教えてやらなかった。自分は異常なのだ、普通の娘と違うのだと執拗に思い込んでしまい、がんじがらめになった。 「お体、お拭きしますね?」 「よろしく」 カルヴィーノは夜にはもう喋れるようになり、足や腕は動かせた。だが体はまだ起こせず、腹に力が入らないので立つことは出来ない。 「明日、先生が傷を診に来ます」 まだ若いメイドだったが、カルヴィーノの体を拭く作業も、トイレの始末さえも、厭な顔もせずてきぱきとこなしてくれた。 「モロクールの屋敷って、男手って居ないんだよな?」 あの屋敷で、男性に会った記憶が無い。庭の手入れをしているのもメイドだった。マハーヴァには最高の環境だ。 「はい。メイド長さんが、絶対男性は雇いません。旦那様がベッドに引き入れるといけないから」 カルヴィーノは久しぶりに笑い声をたてた。 「笑うと傷が痛い」 「当然です。笑っては駄目です」 「君が笑わせたんだ」 このまま、腹の傷が癒えれば。前と同じ平穏な日々が戻ると思っていた。マハーヴァはあいつと幸せに暮らす。自分は肖像画の残りを仕上げて、また旅へ。そう思っていた。 「先生、遅いですねえ」 翌日、約束の時刻になっても医者は来なかった。だから、階段が軋んだ時、やっと医者が到着したのだと思った。 扉を開けたのはショール夫人だった。 「今・・・マハーヴァが。往来で兵隊に斬り殺された・・・」 カルヴィーノは起き上がろうとして、激痛に脇腹を抑えて倒れ込んだ。 「カルヴィーノさんは動いてはダメです!あたしが色々聞き込んで来ますから。すぐに戻るので、絶対絶対、動かないで。ショールさん、後をお願いします」 しっかりした娘だ。カルヴィーノは動こうにも体に力が入らない。動けるはずも無かった。ふわふわと体が漂って言うことを効かない。 ショール夫人の宿のベッドで治療中の男。自分は確かにカルヴィーノだ。 だが、サロス・ストリートで今日、某国の近衛兵に斬り殺された人物も、『メダルド子爵』・・・カルヴィーノだという。白っぽいシャツにコーディロイのパンツ、素足にショートブーツ。左目に眼帯をしていた。毛布を被って、大きな鞄を下げて。『ディオニュソス』へ行く途中の往来で斬り付けられ、ほぼ即死だったそうだ。 このベッドの上に。もう一人居るカルヴィーノ。では、俺は何なのだ? カルヴィーノがここで療養中なのを知るのは数名だ。占い師との件を警察沙汰にしない為に、『ディオニュソス』の店のみんなや知り合いにも、カルヴィーノの傷は掠っただけだとされていた。ここで動けずにいるのを知るのは、医者と夫人と世話係りのメイド、モロクール、そして殺されたマハーヴァの五人だけだった。 マハーヴァはカルヴィーノと間違われて殺された。そして、モロクールは、咄嗟に知人の医者を呼び、カルヴィーノに仕立て上げたのだ。 二度と、カルヴィーノが兵隊に追われる事が無いようにと。 翌日には一人でトイレに立てるようになった。モロクールの屋敷から迎えが来て、人に見られぬようにカルヴィーノを運んだ。ショール夫人には口止め料として、金貨100枚を握らせたらしい。 アトリエとして使っていた部屋の続きに寝室が有り、カルヴィーノはそこをあてがわれた。奴から逃げた恋人が使った部屋だと言ってたっけ。そいつが寝たベッドなのだろう。気色が悪いが、そんなわがままを言える立場ではなかった。 「私はこれから教会へ行って来る。君の葬式だ」 ベッドに横たわるカルヴィーノを見下ろし、にこりともせずにモロクールが言った。喪服がよく似合う男だ。そう、やはり、彼は黒からできている。 「近衛兵や警察も来る。彼らには、マハーヴァはショックで寝込んでいると伝えてある。実の妹でないことも当然知っていて、彼女のことはそう気にしていないようだった。そっくりだというのも知らない。幸い、街の人間も、だ。マハーヴァが引き籠もりで助かったな。二人が瓜二つと知っているのはショール夫人とこの屋敷の者ぐらいだろう。 だから、安心して、ここで静養してくれ。屋敷から出なければ、君は安全だ」 モロクールの低い声が、耳を擦り抜けていった。 俺が安全?マハーヴァが死んだのに?・・・彼女が自分の身代わりで殺されたのは明らかなのに、身の安全を祝って祝杯でも挙げろというのか? 「説明してもらおう?何故マハーヴァは俺の格好をして街を歩いていたんだ?」 「君の格好というわけじゃない。一人でお使いに挑戦したんだよ。『ディオニュソス』まで。だが、女性一人だと危険な目に遭うかもしれず、怖いと言う。それで男の服装をしていた。もちろんそれでも心配なので、私がこっそり後から付いて行った。大抵のことなら・・・柄の悪い男と肩がぶつかったり、道に迷ったぐらいなら、防げるはずだった。いきなり、前からバッサリやられた。前へ出て庇う暇も無かった」 「眼帯していたのは?」 「ぶつかって、目の周りに青痣ができてたんだ。それを恥ずかしがって、眼帯をして出かけた」 「・・・完璧だな」 カルヴィーノは吐き捨てるように言うと、寝返りを打った。脇腹が痛んだが、痛むままにしていた。 「厭な言い方だな。まるで私がこうなるように仕向けたような。 君は妹のようなマハーヴァを無くしたが、私も婚約者に死なれたのだよ?・・・やっと、初めて女性を愛せたと思ったのに」 「独裁者のあんたが『愛』だと?笑わせるなよ!」 カルヴィーノが、羽根枕をひっ掴んでモロクールの顔面に叩きつけた。白い枕は横っ面を直撃し、2枚3枚羽根が舞った。モロクールが怒りで腕を振り上げたのを、メイドが飛びついて止めた。 「旦那様、カルヴィーノ様は怪我人です!それに、悲しみで心が一杯で、旦那様に当たっているだけです」 大きな男は、女性に腕を掴まれ、振り上げた手を所在無く下げた。拳はまだ震えている。 「・・・頼むから、少しの間、いいコにしていてくれ。私も今回だいぶヤバイ橋を渡っている。せめて、君だけでも助けたい」 男は憔悴した顔色で、絨毯に膝を付いた。 わからない。この男の真実。虚構。 全てを受け入れれば、全てを信じてあげられるのだろうか。マハーヴァを失った悲しみに肩を抱き合って。二人で泣けば、少しは楽になれるのかもしれない。 全てを拒否すれば、全てがあやしかった。警察や近衛兵がカルヴィーノを探していることを知っていた男。この頭のいい男が、「うっかりした」とか「気づかなかった」ことなどあり得ない。 目の前で恋人を殺されて、すぐに『替え玉として扱おう』と考えつく、その冷静さもカルヴィーノには許せなかった。 いや、初めから・・・。何度もその考えに辿り着き、身震いする。そんなことはあり得ない、モロクールには何のメリットも無い。実際、替え玉を通す為に、かなり無理をしたはずだ。 そう。モロクールにメリットは無い。だが。 カルヴィーノはこれで追手から逃れることができる。カルヴィーノの為に。カルヴィーノを助ける為に計画していたとしたら? 『そんな馬鹿なこと!』 あり得ない。婚約者を犠牲にしてまで?どうして? 『欲しいものを手に入れる為なら何でもするさ』 あの時の言葉が耳にまだ残っている。 「そうだ、私のせいだ。おまえと同じ顔の女を腕に抱いて、私は浮かれていた。私があの格好を勧めた。マハーヴァにおまえの服装をさせたかったんだ。出掛ける時、気をつけてと、抱きしめてキスした。私のカルヴィーノは素直に抱きしめられて、キスを返してくれて・・・」 モロクールは、掌で顔を覆い隠す。 「・・・俺を愛している?」 尋ねるカルヴィーノの声が掠れた。 「ああ」と、モロクールは素直に認めた。 「初めて会った夜、私の絵を描いてくれた、あの時からずっと」 マハーヴァ・・・。俺たちは所詮、こいつの手の中のワインだ。 < 14 > メイドに、イーゼルの高さを調節してもらった。肩を借りて、アトリエの床にぺたりと腰を降ろす。手の届く範囲に絵の具を広げる。 「くれぐれも、無理をなさらないでくださいね」 メイドは女性としては大柄で、カルヴィーノとそう背格好も変わらない。肩を貸したり、倒れそうになったのを支えたりできるよう、一番体格のよいメイドが与えられたようだ。運動選手のように色気のない娘だが、下宿で看病してくれた時からその有能さには感謝していた。 「さっきはありがとう。あいつに殴られるところだったよ」 「いえ。何かあったら、すぐにお声をかけてください」 メイドは、ドアの前に気をつけの姿勢で立った。 「いいよ、別に、楽にしていても。ソファに座ってて」 カルヴィーノは、今はそこに居ない男の面影を記憶から呼び起こし、絵の具を重ねていく。画家の右手の甲は、外見が破損しているものの、普通に筆を握ったり絵の具を絞り出したりすることはできた。左は断線して、手首から先はまったく動かなかったが、絵を描く作業に支障はない。 このまま近衛兵を騙し通せれば、カルヴィーノは時間に余裕ができる。絵を仕上げるのに、もう急がずともいいわけだ。だが、それは、この屋敷から一歩も出られないというオマケ付きである。 暗い象牙色で、モロクールの頬骨の影を入れる。教会の弔いの鐘が鳴った。 「自分の葬式の鐘を聞くことになるとは思わなかったな。 マハーヴァは即死だと聞いたが?」 カルヴィーノが筆を止めず、視線もキャンバスに向けたままなので、メイドは最初自分が話しかけられたのだと気付かなかった。答えまでに間があいた。 「あ、はい。苦しんだ御様子は無かったそうです」 「だからいいってもんじゃないだろう」 「・・・。お気の毒でした」 「あんたは俺に付いていたから、ここでのマハーヴァの様子は知らないものな。 一晩きりの花嫁か」 柩は必要以上に薔薇の花で埋められて、ほんの顔の周りしか見えないようにされていることだろう。色々なものを包み隠して、白い薔薇達はさぞ美しかろう。葬儀の最中に、誰かが屍を暴けば、カルヴィーノで無いと知れるのだが。 冬の教会は、ヒールが響くフローリングの音も寒々しい。賛美歌も凍るかもしれない。 罪人ではあったが、モロクールの計らいで、『メダルド子爵』は葬儀も許され、墓地に埋葬されることが許可されたのだそうだ。 「ご主人様は、警察や近衛兵士とだいぶやり合ったようです」とメイドが告げた。 「それを、俺に感謝しろって?」 鼻で笑い、最後の象牙色を筆で置いた。 「いえ、決してそんな・・・。すみません」 彼は、広い庭の一部を墓地へ改装したと言う。この先、自分の敷地内なら、勝手に警察や役所に掘り起こされることは無いからだろう。 柩は深い穴に沈められ、秘密には静かに土が掛けられる。 黒い死神の絵には肌色や象牙色の絵の具が塗られ、人間の振りをした実業家に作り替えられる。 あと少しで完成だった。 窓の外が騒がしくなった。 「教会から柩が戻ったようです。庭に埋葬するので、皆さん集まっています。絶対に窓から顔を出さないでください」 「マハーヴァの葬儀にも出られず、埋葬にも参加できず。・・・見るのもダメ?」 初めてカルヴィーノが筆を置いて、ソファのメイドを振り返った。 「お気の毒ですが・・・」 「カーテンの裾を上げて、少しだけだから」 「見咎められたら、ご主人様の努力が水の泡です」 女は、唇をきっと結んで、ぴしゃりと撥ねつけた。 筆を置いたのは、長期戦になる覚悟からだった。 「喪服、持ってる?」 突然の話題の転換に、メイドは「は?」と緊張を解いた。 「マハーヴァのフリして覗くならいいだろ? あんたの喪服なら俺にも入りそうだし」 「どうせあたしは大女ですっ」 「・・・兄弟は?」 「故郷に、兄が一人、弟妹が一人ずつ・・・」 娘の脳裏を兄の顔がよぎっただろうか。自分に何かあった時の、兄の悲しみの表情を想像したのかもしれない。 「絶対、少し覗くだけですよ?」 メイドは、自分の部屋へドレスを取りに戻った。 「コルセットまではお貸ししませんから」 メイドは、ドレスと、黒いチュール付きの帽子を抱えて戻ってきた。左手が動かないので、着替えを手伝ってもらう。 髪と化粧はメイドがしてくれた。喪服に身を包み、黒いチュールの付いた帽子を左側に被る。前髪と帽子で左目の傷は隠れた。修理不能の義手は、黒い手袋で繕った。 自分の埋葬を変装して覗き見する。茶番もいいところだ。 出窓のカーテンを手繰り、庭を見下ろした。牧師とモロクールと『ディオニュソス』の支配人、後はこの街の警官が二人と、見覚えのある近衛兵の制服が数名。埋葬まで見届けるのが任務とのことだ。遠いので、モロクールの表情までは見えない。黒い蟲たちが土の上でうごめいているみたいだった。新しいせいか、モロクールの趣味なのか、十字架はキラキラと、嫌味なほどに陽を反射して輝いていた。きっと、金にあかして立派な細工を施したみごとなものだろう。 台所のテーブルに乗って梁にロープを下げて。マハーヴァの人生があそこで終わればよかったなどと思ってはいない。連れてきたことは後悔していないが・・・。 「俺と居なければ、死ななかったのにな」 マハーヴァ。もう一人の自分。鏡のこちらと向こう側。 モロクールが顔を上げ、屋敷を仰いだ。カルヴィーノは慌ててカーテンを引いた。彼に見られても構わないはずだが、本能的なものだった。 「ご主人様は、今晩、兵隊の皆さんへの接待があるので遅くなるそうです。あの人たちは、何も問題が起きなければ明日帰るので」 「あんな遠い国から、俺を追いかけて。難儀なことだよな」 カルヴィーノは、人ごとのように呟くと、ちらりと部屋のドレッサーへと目をやった。 「・・・。」 動けなくなった。そこに、マハーヴァがいた。 「カルヴィーノ様?」 アップにするには短かった銀の髪は、そのまま降ろしてハイカラーのレースと絡んでいる。チュールごしに細い銀の目がこちらを仰視した。こけた頬、愛想のなさそうな薄い唇、爬虫類じみた大きな口。ブラウンの口紅が黒いドレスによく合っていた。 本当なら、ここに居るひと。 「俺は・・・マハーヴァの人生を乗っ取ったのか?」 その後は、スケッチブックをドレッサーの前で抱え込み、狂ったように描き続けた。尖った顎の線、横に長い瞳、陰険そうな眉。首の上で踊る黒いレース、耳たぶの真珠。チュールの作る蜘蛛の巣のような影がマハーヴァの頬に落ちる。 次は右向きを描いた。次には横顔。メイドに別の鏡を持って来させて、併せ鏡にして斜め後ろからも描いた。 そう、そして鏡。屋敷中の不要な鏡を持って来てもらった。アトリエの壁に、十数枚の鏡が立てかけられた。手鏡に映るマハーヴァは小さくて可愛い。とてもあんな愛想の無い女とは思えないくらいに。アンティークの鏡に映るマハーヴァは少し青みがかって歪んで、悲しそうに見えた。 「カルヴィーノ様、まだ療養中のお体です。お休みください」 肩を揺すったメイドは突き飛ばされ、絨毯の上に尻餅を付いた。 「あ、ごめんなさいね」 その黒いドレスの者は、女言葉で謝ると、メイドの手を引いて起こした。 「先に休んでいていいわよ」 「・・・。」 メイドは恐怖に顔を引きつらせ、ぺこりと礼をひとつして自室に下がった。 彼女がメイド長に異常を報告し、深夜帰宅したモロクールにも伝わったらしかった。 大きく強い足音でわかる。この屋敷で唯一、大きくて強い者が、廊下を闊歩してくるのだ。 モロクールが激しく扉を開けた時、床中に数十枚も画用紙が散らばっていた。全部マハーヴァを描いた木炭画だった。どれも無表情でにこりともしていない。生前のマハーヴァそのままの顔で。顔のアップから黒いドレスでの全身の図、帽子をしている顔、していない顔、ドレスの胸がはだけて胸が覗く姿のものもあったし、全裸の絵さえあった。その胸はふっくらと丸くて女性のものだった。 黒いドレスの者は、口に木炭を銜えたまま、まだ床に這いつくばって描き続けていた。結った髪はほつれ、ドレスの衿のボタンが外れて喉仏が覗いていた。 「カルヴィーノ、もうやめるんだ」 モロクールが顎に手を触れて、木炭を抜き取った。唇が、濃い口紅を塗り重ねたように、黒く染まっていた。がくりと前に倒れる闇色のドレスの胸をモロクールの腕が支えた。 うつろな銀の瞳がモロクールを見上げた。 「ああ、あなた・・・」 「マハーヴァ?」 「私を愛していなかったのね?」 視線が強くなり、銀の光がモロクールを睨み付けた。 「・・・!」 モロクールは一瞬怯み、腕を離しかけた。 「何の冗談だ?趣味の悪い! それより、埋葬の時に庭を覗いただろう?誰も気付かなかったからよかったものの・・・」 「カルヴィーノ。愚かな男だったわ。私のヌードを描いて、好きな女に目を斬られた。私のことを連れて逃げたものの、疎ましくて、煩わしくて。でも突き放すことができなかった」 「早くドレスを脱げ、頭がどうかしてる。いつものシャツはどこだ?」 モロクールは視線をそらす。マハーヴァと目を合わせられない。葉巻臭くなった喪服の背が、自責の念に駆られていた。 「あのシャツは血まみれだったから処分しただろ、忘れたの?マハーヴァに着せたのは、あれの代わりに用意したものだった?きっとショール夫人でさえ見間違えたさ。いや、たぶん俺でも、ね」 カルヴィーノは、男の手を振り払うと元の口調に戻った。 「いいから着替えろ。パジャマだってガウンだってあっただろ」 男は声を荒らげる。もうマハーヴァの姿など見たくもないということか。 「左手が動かないんだ。片手だとボタンが外せない。さっきは一番上の貝ボタンを飛ばしちまった」 モロクールは軽く舌打ちし、目をそらしたまま、太い指でドレスのボタンを外した。コルセットもしていない平坦な胸があらわになっていく。時々指が肌に触れる。マハーヴァの時のあの感覚が蘇る。全てのボタンが外されると、脇腹には大きなガーゼが幾重にも重ねられ、絆創膏がたくさんの十字架を作って厳重に肌に張り付けられていた。 「ふん。婚約者の葬式から帰った奴が、欲情してやがる」 ぱちんと軽薄な音がして、カルヴィーノは頬の痛みに気付く。モロクールの掌が自分を打ったのだ。 「恨みたければ恨め。マハーヴァが死んだのは私のせいだ。殺したいなら殺せばいい。おまえが手に入らないなら同じことだ」 モロクールは深いため息の後、額を手で覆った。 そんなやり方では、誰も手に入らないさ。 カルヴィーノは声に出さずに呟く。だって、あんたが祈ったんだ、触れたら黄金になりますようにって。 その大きい掌が掴めるのは、命の無い金の像だけだ。 「マハーヴァの弔いだったんだよ」 自力で立ち上がり、ガウンを羽織りながら、カルヴィーノは答えた。床に撒き散らかされた画用紙たち。モロクールはどれも正視できずに、視線を上げた。 「俺の罪は消えることは無いよ。ずっと背負って行き続けるんだ。 あんたもそうだろ?」 彼は答えなかった。 「明日からはきちんと肖像画の続きを描くよ。終わったらここを出ていく」 「ダメだ」 今出ていくわけでもないのに、モロクールは扉の前に立ちふさがった。 「カルヴィーノは死んだんだ。のこのこ街へ出られてたまるか」 「じゃあどうしろというんだ。ずっとこの屋敷に幽閉されて過ごせとでも言うのか?」 反論してから、『ああそうか』と思う。モロクールはそれを望んでいるのだ。 鳥籠にお気に入りの小鳥を閉じ込め。小鳥が狂うまで眺め続けるのだろう。 < 15 > 「おはようございます」というメイドの声には、脅えの響きがこもっていた。 朝食のトレイを持ってドアを開けた彼女は、ガウン姿のカルヴィーノが既にキャンバスの前に胡座をかいているのを見て、安堵の吐息を吐いた。 「おはよう。昨日は喪服、ありがとう。 ゴメン、一番上のボタン、失くしてしまった」 相変わらずカルヴィーノは、振り向きもせず、筆を休ませもせずに喋る。 「いいんです、あたしも1回ちぎり飛ばしました。少しきついんですよねえ」 「えっ」 今度は振り返ってしまった。自分は片手で外そうとして飛ばしただけだ。このメイドの方が、カルヴィーノより首が太いということになる。画家はまじまじと娘の首を見つめた。 彼女はテーブルに朝食を置くと、ソファに畳んでおいてあった黒いドレスを抱えた。畳んだのはむろんカルヴィーノだ。床に散らばったスケッチ画も、全て片付けた。窓から朝陽が差し込めば、マシな気分になるものだ。 「午前中のうちに、お医者様が傷の具合を診にいらっしゃいます」 「モロクールはもう出かけた?」 「いえ、まだお休みです。昨夜は自室に戻ってからも、少し召し上がったようで」 「また二日酔いか」 肖像画のモロクールは、予定より頬の影が濃くなっていた。目の窪みも深い。手が勝手に、この男にさらに影をつけ加えようとする。 背景も服も靴も。抱える本さえもう加える絵の具は必要なかった。 描けば描くほど、モロクールは、スケッチの雄々しく美しい『知的な実業家』からどんどん離れていく。もう完成なのだ。だが、カルヴィーノに完成しているという満足度は無い。 医者は、傷が化膿していないことを確認し薬を塗布すると、メイドにガーゼを貼らせた。 「今度の男は、奴にしてはちょっと趣味が違うと思っていたが・・・」 紙で包んだ飲み薬の個数を数えてテーブルに置きながら、医者が軽口を叩いた。カルヴィーノは男の背を軽く睨む。 「絵を見て納得したよ。とんでもない奴がこの街にいたもんだ。金貨500枚じゃ安い。もっとふっかけてやれよ」 「言葉に気をつけろ。俺はあいつの“男”じゃない。 あんたならきっと、口止め料も吊り上げたんだろうな」 「誰でもやることだろう?ショール夫人だって、さらに金貨100枚をせびりに来たって聞くぜ」 「あのひとが?」 鉛を飲んだような気分で、カルヴィーノはガウンを羽織った。堅実で質素で生真面目で。ブランケットの編み目そのままの人柄に見えたショール夫人。マハーヴァが明るくなっていったのは、彼女のおかげだった。確かに金貨100枚あれば、かなり贅沢ができるだろう。 誰もが金目当てで自分と接している。モロクールの絶望感は被害妄想では無い。実感だ。彼は日々それを感じて暮らしている。 正午を暫く過ぎて、例のメイドが昼食のトレイを運んできた。唇の上が切れて腫れていた。 「誰に殴られた?モロクール?」 「いえ、あの・・・」 娘は言いよどむ。 「もしかして、俺に喪服を貸したから?」 「え・・・」 そこまで察しているのならと、メイドはコクリと頷いた。 「すまない、俺のせいで。でも、そんなことで」 「御主人様は、あたしの目の前で、ドレスを鋏で切り裂きました。でも、10倍値段の張る新しい喪服を注文してくださいました。 あたしなどが袖を通した服を、カルヴィーノ様がお召しになったということで、お怒りだったのでしょう。あたしも何も気にせず、カルヴィーノ様が肌に触れたそのままで、また自分で着るつもりでした。無神経でした」 「だって、そんな・・・。それってあいつのただの嫉妬だろ」 「でも・・・あたしは、ご主人様に雇われたメイドですし、普段はとても良いかたです。みんなご主人様が好きなのです。 カルヴィーノ様にこんなこと言っては何ですが・・・みんな、ご主人様の恋を応援しています」 「・・・。」 カルヴィーノは憮然として、絵筆を床に放り投げた。 「それって。この屋敷中の女どもが、俺が奴に抱かれればいいと思ってるってこと?」 「あ、そんな露骨に」 「どうせX−Dayを賭けてるんだろ」 「・・・閉じ込められている現状は、お気の毒とは思っています」 吐き気がした。もう、金貨500枚など惜しくなかった。だいたい、金が必要だったのはマハーヴァと旅していたからだ。 パレットに翡翠の色を作る。カルヴィーノは、その不健康な色をドレスシャツから覗く精悍な手に塗りたくった。ハードカバーの本を抱える男の手は筋張ってきれいな線を出していたが、形と影はそのままに、肌の色は青白く変わっていく。爪を描き足す。三日月のように細く尖ったそれは、悪魔の鍵爪だった。 手の甲を終えると、象牙色で耳を尖らす。血のような赤でその上に二本の山羊の角を描き加えた。デビルや死神は意外に好まれるモチーフで、何度か描いたことがある。悪魔の曲がり角は資料を何も見ずに克明に描写することができた。 終わった、と思った。 完成だ。これが完成図だった。 「カルヴィーノ様、その絵は・・・」 「あんたには世話になったから、賭けで儲けさせてやるよ。モロクールの負けに賭ければ一人勝ちさ」 カルヴィーノは、嫌がらせの意味も込めて、『サー・メダルド』とサインを入れた。そして、ソファに座り、トレイに乗ったオレンジジュースを飲み干した。 「半年たったら職人にタブローをかけさせてくれ。あいつが見て、怒ってこれを燃やさなかったらだけどな」 さっきの医者が置いていった薬の袋を漁る。瓶の塗り薬を見つけ出すと、メイドに指で隣へ座れと合図した。モロクールに付けられた傷。メイドの口許に傷薬を塗り込んでやった。 「燃やすわけありません、カルヴィーノ様が描かれた大切な絵画。きっと一生の宝物になさいます。 悪魔に似せた肖像を前にしても、たぶん怒ることはないでしょう。きっと、悲しそうにお笑いになるだけです」 「奴はまだ屋敷内にいる?」 指に残った薬を、ガウンから覗く膝に拭った。 「あ・・・どうでしょう。先程身支度は始めていらっしゃいましたが」 この屋敷から逃げ出すのは容易でなさそうだ。雇われた者たちは、みんなモロクールに忠実だと言う。 変装して屋敷を抜け出すのがてっとり早いのだが。 「メイド服、貸してくれないかな?」 「もうこりごりです。今度はきっとクビです」 ただ逃げ出すにしても、ガウン姿ではまずい。 カルヴィーノは、クロゼットに前の恋人のスーツが詰まっていたことを思い出した。開けると、ありがたいことにまだそのままだ。 いや、すぐに、少しもありがたくないことに気付く。パステルグリーンやらショッキングピンクやらスカーレットレッドやらの下品で軽薄そうな色のスーツばかりだった。金髪なのだろうが、それにしてもこれが似合う男が想像がつかなかった。 「前の男って、カジュアルな服は持っていなかったのか?」 「はあ。外では必ずスーツ、屋敷の中ではガウンかバスローブでした。 これなんていかがですか?」 メイドが取り出したのは、ラメの入った紫と茶色のペーズリー柄のスーツだった。ジャケットではない。スーツだ。パンツにも同じ柄が入っている。 「これ、俺に着ろと?」 「変装にはなりそうですよ。メイド服よりマシでしょ」 「確かに」 一階の窓から裏庭へと降りた。画材はメイドの娘が手渡した。太陽は高いが、冬の庭は色を失い灰褐色に凍えている。スーツはカシミアなので、コート無しでも寒さは感じなかった。 『ありがとう』 小声で窓に呟く。娘が窓を締めながら手を振った。 裏の通用門への行き方は聞いたが、その前にマハーヴァの墓を参りたかった。 場所は、部屋の窓から覗いたのでなんとなくわかっていた。ざくざくと、氷混じりの土と枯れ枝を踏んで、その派手な十字架へと向かった。 屋敷の窓から墓地が見渡せたので、カルヴィーノが墓の前に立つのは危険そうだ。鉄の門のそばまで歩み、常緑樹の影に隠れた。そして、荷物を枯れ草の上に置き、花輪が掛けられた十字架へと黙祷した。今の時期に白薔薇のレイを用意できるのはモロクールの力だろう。 「いいよ。もう止めないから。マハーヴァの墓に挨拶していけ」 背後から声がした。 「見たよ、絵。相変わらず辛辣だな。 だが、いい絵だった。・・・確かにあれが私だ」 「あんたはこの庭で、土に返って行くマハーヴァに詫びながら暮らし続けるんだ」 あんたの罪は、マハーヴァを愛さなかったこと。ただそれだけだし、それが全部だ。 カルヴィーノは十字まで歩み寄ったものの、ただつっ立ったままそれを見つめた。 祈ることなど何もなかった。 想像通りデコラティブな装飾をされた十字架は、新興都市の建物前によくある悪趣味なオブジェのようだった。 「私はここに居る。・・・それでも、行くのだろう?」 男は翡翠の瞳に力をこめた。願いだったかもしれない。 「ああ」と、銀の髪の青年は簡単に言い放つ。 「ひどいカッコだな。もっとマシな服もあっただろう。 ほら、これを着ていけ」 モロクールはモスグリーンのジャケットを脱いで、カルヴィーノに差し出した。確かに、そのジャケットの方が幾分マトモそうだったが、「このままでいいよ」と断った。 差し出されたウールが風に揺れた。 「君は、私のものは何も受け取ってくれないんだよなあ」 ではこれは?と、男は、ジャケットのポケットを探り、小切手帳にサインした。 「絵の代金だ。これから旅に出るのに、金貨で500枚渡しても荷物になるだろう」 「あれに金を払う気か」 悪魔の角と怪物の鍵爪を持った肖像画に。 「だから言ったろう、いい絵だったと。悔しいが気に入っている。 私は子孫を残さないだろうから、死後は競売にでもかけられ、どこかの金持ちがプラチナ金貨で落として居間に飾るかな。いや、美術館に寄贈することにするか。なにせ、20代で死んだメダルド画伯の遺作だ」 「じゃあ、今回の迷惑料を、この代金でチャラにしてくれるか?」と、カルヴィーノは小切手を押し戻した。 「治療代やらマハーヴァの葬式代やら口止め料やら。これでは足りないとは思うが」 「マハーヴァは私の婚約者だよ。金ぐらい払わせてくれよ。私にできるのはそれくらいなのだから」 「あんたに恩を売られたくないんだ」 「・・・。」 モロクールは絶句し、小さく息を吐いた。まるで老人のように。 「では予約料金ではどうだ?今度会った時、また肖像画を描いてくれ」 カルヴィーノは「わかったよ」と苦笑する。 小切手を受け取って、ペーズリーのポケットに突っ込んだ。 「じゃあな。二度と会いたくないミスター・モロクール」 右手を差し出す。モロクールは、カルヴィーノの手を取って、唇に近づけようとした。 「またかよ。握手だと言ったろ、握手!」 「ああ。・・・そうだったな」 モロクールは白い歯をみせて笑った。 ネオンを反射してラメが光る高級スーツに、擦り切れたブーツ。皮の指無し手袋が両の手の甲の穴を隠した。スケッチブックを脇に抱え、画材の入った布袋を斜め掛けにして。 青年は、その大きな街を出て行った。 ピットアンバー。羽虫のように、じたばたと手足をもがいた。だが、琥珀の中に掴まり息絶える前に、まだ描きたいものがたくさんある気がした。 どろりと金色の蜜は心地よかったのかもしれない。肌に滲みるようなその痛みさえも含め。 あの男は、誰かに愛してもらえるだろうか。 振り仰ぐと、夕陽に街の輪郭が溶けて見えた。 < END > |
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