クラッシュガラスの上でダンス

---人魚姫によせて---

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  第 三 章
 < 一 >

「私だ。メシュワラームだ。開けてくれ」
 靴でノックする癖はやめてほしいものだ、とブルーはため息をついた。どう考えてもこの音は、手で叩いている音ではなかったからだ。
『そりゃあ、この前みたいにロータスを腕に抱いていれば仕方ないけどさ』
 酔っぱらっているのかもしれない。結婚式をすっぽかして、面目無くて素面では戻れないのかも。
「帰っていらしたようです」
 青の小花のティーセットで、夕食後のお茶を入れながらブルーは言った。
 カップ&ソーサーを差し出された相手、上級魔法使いのスカーレットは、大盛りのジャムをスプーンに取り、
「開けてさしあげれば?」
とさりげない口調で答えた。
「いきなり、メシュワラームさまにブリザードの魔法などを、かけないでくださいよね」
ブルーはそう言い残し玄関へ飛んで行き、扉を開けた。
メシュワラームが、腕に女を抱いて立っていた。
「腹が減っている。何か食べさせてくれ」

「はじめまして。シャクティーヌ・ゴルゴネラです。メシュワラームの義姉に当たります」
ブルーがもう二杯分追加で入れた、水のようなお茶を前にして、その女性は自己紹介をした。要求された食事の方は、シチュー鍋を火にかけ直したところだ。それまではこのお茶で我慢してもらうしかない。
 たおやかな黒髪、白い陶器の肌、黒真珠の瞳。噂に違わぬ美しい婦人だった。しかし、砂まみれのドレスと、結っていたのを無理矢理ほどいたような乱れ髪と、それから二人の親密な雰囲気。さっきまで砂浜で何をしていたか明らかだった。
 ロータスは二階で寝息をたてている。泣きながら眠ってしまったのだ。ブルーは、強く握った拳の青筋を見つめながら、ロータスがこの場にいなくてよかったと思っていた。
「どうなさったんですか。
 ロータスを海で拾って、今度はこの女性を山ででも拾っていらしたんですか」
 精一杯の厭味だった。しかし、メシュワラームには、そういう攻撃が通じないことを忘れていた。
「山と言えば山かな。
 山あいのユベーロという村の修道院で、盗賊に襲われたところを助けた。事情があって屋敷には戻れないので、しばらくここに居させてやってくれ」
「居させてやってくれと言っても、ここはメシュワラームさまの別荘ですから」
 目をそらして答える。怖くてメシュワラームの瞳を見ることができなかった。もし恋の喜びにでも輝いていたら、衿首つかんで罵ってしまいそうだ。
「盗賊退治だなんて、勇敢な男性でいらっしゃるのね。ロータスさまのお婿さまにふさわしい方ね」
 赤い大きな口で、スカーレットがへろり笑ってみせた。はっきり言ってまだ怒りが収まっていない様子だ。昼間から大変な騒ぎだった。メシュワラームをいじめ倒そうという目論見だろう。
「こちらのご婦人は?」
 メシュワラームが小声でブルーに尋ねた。そういえば、初対面だ。
「あの、例の。ロータスの暮らす島の、御家騒動の何とかっていう家の」
「おまえの返事は、全然答えになっていないぞ」
「ロータスさまのお家に代々雇われております魔法使いで、スカーレットと申します。ロータスさまの結婚式に街まで出て参りましたが、延期とのことで残念でございます」
 スカーレットは深々と礼をした。帽子の銀色のチュールが揺れた。
「すまなかった」
 メシュワラームは悪びれずに頭を下げた。
「ロータスはどうしているか? 謝りたいのだが」
「二階で泣きながら寝てしまいました」
「そうか」
 メシュワラームは眉を下げて、子供のバースディケーキを台無しにした父親のような表情を見せた。
「式は明日で、いいだろうか。明日また教会は予約できるかな」
「まだロータスと結婚する気があるんですか」
 ブルーは呆れた。
「当たり前だろう。約束したのだし」
「だって・・・」
 ちらとシャクティーヌを横目で見る。シャクティーヌは居心地が悪そうに、ゆったりしたソファにも関わらず肩をすぼめていた。
 シャクティーヌの態度もブルーには不思議だった。婚約者がいることを、事前に言い含められてきた感じだ。キューロフ伯爵の娘で今はゴルゴネラ家のご令嬢が、『私は愛人でいいの』と思っているわけもないだろうに。
「さて、どうしたものやら」
 スカーレットの吐いた息が、カップの水面を波立たせた。息が生臭い。ブルーは思わず呼吸を止めた。
 メシュワラームが帰るまでは、もっと怒り狂っていた。アイススピヤーで串刺しにしてやるとか、ブリザードで凍死させるとか、物騒なことをわめいていた。今は少し冷静になってくれたようだ。
 女連れだったとしても、無事に帰宅する方が、失踪するよりマシということか。

話題が落ち着いたのを見計らい、メシュワラームは、急いたように切り出した。
「ブルー、こちらの女性は上級魔法使いだといったな」
「自称ですけどね」
 メシュワラームの問いに適当に答えた。
「失礼なっ。ブルーどのの魔力が低いために、わたくしの力が感じとれないだけでしょう」
 スカーレットの鼻息は荒い。
 そんなやりとりを無視し、メシュワラームは、早口で話し始めた。
「折入ってご相談があるのですが」
「わたくしは料金が高うございますよ?」
「かまいません」
 断固として答え、そしてシャクティーヌの不思議な力の話を始めた。三人の夫のこと、盗賊のこと。
メシュワラームは、シャクティーヌと愛の行為に至ったことも正直に告げた。ブルーは、スカーレットが憤然とするかと思ったが、彼女は冷静に聞いていた。ブルーと同じで、ドアを開けた瞬間にわかったことを、今さら告白されても驚かないってことだ。
「姉上の力は、魔法なのでしょうか。それとも何かの呪いですか?」
「魔法、とは全然種類の違うものですね。わたくしたち魔法使いは、自然の物の力を借りるだけなのです。火や水や風や土。光。雷。すべての精霊から力を借り、それで攻撃をしかけたりするわけです。
 シャクティーヌさまの場合は、自分で力を放っているようです。自分の感情で発動する力です。
 聞いたことがありますわ。自分の意志の力で、ものを動かす能力のこと。そうですわね、訓練すれば、意識して力を制御できるらしいです。ただ、どのような訓練をするか等、詳しいことはわたくしにもわかりません。
『念動力』『サイコキネシス』などと呼ばれる力のことでしょう」
「そうですか」
 メシュワラームは眉間に深い皺を刻みこませ、ため息をついた。
「訓練か。制御の方法さえわかれば・・・」
「でも、存在するのですね、あの力を発動させない方法が」
シャクティーヌの方は、ずっと止めていた息を今吐き出したような、救いを得たような口調でつぶやいた。
「ブルー、あなたは『ESP』に関する資料を持っていませんこと?」
ブルーは首を振った。
「僕が入手できる資料なんて、薬関係の魔法書程度だし」
「あら、魔法の本ではないから、一般の者でも購入できるものですわよ。どちらかというと、魔法とは正反対の分類・・・『サイエンス』の棚に置かれていることが多いですけれど」
「すいませんね、勉強不足で」
ふてくされるブルーを無視し、スカーレットは続けた。
「力の原理がわからなくても、大丈夫ですわよ。実際、メシュワラームさまに触れられても平気だったわけですから。『怒り』『嫌悪』『憎悪』。それらの感情さえ止めることができれば、問題ないわけです。
 でも不思議な力ですわねえ。家系でそういう方はいらした?」
 シャクティーヌはうつむきながら答えた。
「父から聞いたことがあります。その時は何のことかわからなかったけれど。
 キューロフ家は、血が濃いのだそうです。それで時々特別な人が生れる、と」
「血が濃いとは?」
「わかりません。血の型とか、そういうことでしょうか」
 メシュワラームが口を挿んだ。
「近親結婚が多かった、ということではないのか」
「えっ」シャクティーヌは眉をひそめた。
「それは・・・さあ、どうなのでしょう」
 ブルーはちらと思った。メシュワラームはなぜそう感じたのだろう?
 だがその疑問も、次のスカーレットの言葉で忘れ去られた。
「シャクティーヌさま、それからあなたの『嫌悪』の対象なのですが。何か性的ないやがらせでも受けたことがあって? 子供の頃でも娘になってからでも」
「・・・。」
 シャクティーヌは赤い唇を、ぎゅっと音が聞こえそうなほど噛んだ。手に握った白いハンカチーフがくたくたになっていた。
「つらいでしょうけど、正直に言ってくださらないと、答えが出ないわ」
「兄に」
 シャクティーヌは消え入りそうな声で答えた。俯いた睫毛は揺れていた。
「三人の義兄たちに。乱暴されました。ゴルゴネラ家に母が嫁いだばかりで・・・わたくしは十三歳でした」
「なんだって!」
 メシュワラームが立ち上がった。顔は怒りで蒼白に変わり、わなわなと唇が震えていた。
「知らなかった。なぜ告発しなかった?」
「・・・。」
「言えるわけがございませんでしょう、十三の少女が。それにメシュワラームさまはいくつ? 十歳? 何の力になれたのです」
 スカーレットに諭され、メシュワラームは椅子に座り直した。だが、まだ怒りと驚きが収まらないで、腕組みした肩が震えていた。全身の皮膚から、炎のように怒りのオーラがめらめらと放出しているのが見えた。ブルーは、メシュワラームがこんなに激しい感情を見せるのを初めて見た。
「言ったら殺すと、長兄のコースチンさまに脅されました。わたくしは早くあの屋敷を出たくて、言われるがままに、何度も見知らぬ相手と結婚しました」
 シャクティーヌはチーフでこぼれた涙をぬぐった。
「お気の毒に。おつらかったでしょうね」
 スカーレットが軽く肩を抱くと、こくんと頷きさらに涙が頬をつたった。
「それに、わたくしは、罪もない三人の男性を・・・。彼らは何も悪くないのに。
 盗賊にしても、わたくしは逃げることだけでよかったのに。メシュワラームの話では、ひどい死にざまだったそうです。このわたくしが手にかけたのだとしたら 。どう罪をつぐなえばいいのかわかりません」
「シャクティーヌさま」
 上級魔女は、シャクティーヌの髪をなでて、優しく名前を呼んだ。
「あなたのそういう心はとても大切なことですが 。
 お優しい方ですわね。」
 意外なスカーレットの情け深さに、ブルーは驚いていた。だが、その気持ちは彼にもわかった。ロータスの恋敵だからと言って、シャクティーヌを憎む気にはなれなかったからだ。
 メシュワラームがよく姉を評して『お高くとまった女性』などと言っていたが、違うのだ。彼女は、人を怪我させるのが怖くて、親密な人間関係を作らないよう努めて来たのだろう。孤独だっただろう。メシュワラームのように心を病んでしまった方が、まだ生きるのに楽だったはずだ。
だが、シャクティーヌは必死で顔を上げて生きてきたのだ。
「ブルー、こげ臭くないかしら?」
 スカーレットの指摘に、
「うわーっ!」
 ブルーは台所へ飛んで行った。
 空腹だったメシュワラームたちは、煮詰まったシチューでもおいしそうに平らげた。ブルーはその夜、鍋の焦げを落すのに、腕が上がらなくなるほどこすり続けなければならなかった。

「ロータスと結婚したら、本当に勘当されるだろうなあ」
と、帰り際、メシュワラームは笑っていた。
『シャクティーヌさまを愛しているのに、何故結婚なさるのです?』
 ブルーはその言葉を呑み込んだ。
 たぶん、どうでもいいのだ、結婚など。母親が、爪の先ほどもゴルゴネラ伯爵を愛していなかったことを面白そうに語っていたメシュワラーム。彼にとって、結婚とは、その程度のものなのだ。
 シャクティーヌを愛しているとしても、彼女と結婚して暖かい家庭を作ることなど、夢にさえ思っていないだろう。
『ロータスと先に約束したから』
 ただ、それだけの理由だ。猫のグッピーと約束していたら、猫と結婚しただろう。
 しかし、ブルーは何も言わなかった。ロータスと結婚する気があるものを、そぐ必要はなかった。余計なことを提言すると、『じゃあ、やめた』などと言いかねない。
 だが。声と引き換えに、足を貰ってメシュワラームに会いに来た、健気なロータス。そんな結婚で彼女は満足なのだろうか。
「今夜は屋敷に帰る。家出するとしたら資金がいるからな」
「それって 家の物を盗んで来るってことですか?」
 ブルーが恐る恐る尋ねると、
「人聞きの悪い。自分の物を持ち出すだけだよ。私のことを何だと思っているのだ」
『誰も、メシュワラームさまのことを、いい風になんて思っているもんか』
「それに、少し調べたいこともある。修道院のことが気にかかる。
 ああ、それから」
 メシュワラームは、鉄の女さえ溶かすだろうという、優しい目をして微笑んだ。
「ロータスに、母の形見の首飾りを。結婚式に丁度いいだろう」
『このひとは・・・』
壊れているのか?それとも、何もわかっちゃいないのか?
ロータスにも確かに優しい。その優しさは嘘ではないとブルーは思う。でも、それはいつも自分勝手な優しさだった。

メシュワラームは、疲れ果てた栗毛馬を手で引いて帰っていった。シャクティーヌはもうひとつの客間で休み、スカーレットはロータスに付いて泊まった。彼女は、バスルームにたっぷりと海水を張るよう命じた。長く地上にはいられないと言ったスカーレットだが、こうすれば一日くらいは過ごせるという。夜中にどんな生き物に体を変えるのか、考えたくもなかったが。
 そして、ブルーは。
 三日月では、浜は少し暗かったが、ブルーは鍵盤の位置を覚えているので支障はなかった。砂浜に座ると、手風琴を弾き始めた。
 ここまで来れば、別荘で眠っている者たちの邪魔にはならないだろう。
明日は。明日こそ、ロータスが花嫁になる。
悲しみよりも、願いの方が強かった。幸せになってほしい。
 祈りを込めて、ブルーは甘い小夜曲を奏でた。月も海も静かに見守っていた。



 < 二 >

 いい朝だった。ブルーは居間も台所も全部の窓を開け放した。潮の香りの風が、カーテンをはためかせた。
 天気がよければ元気になれる。シャツの腕を捲くってみんなの朝食の準備にかかった。
 先にロータスが、スカーレットに連れられて降りて来た。泣きはらした目は、瞼がどんより腫れていた。
「聞いた? 今日の正午にやり直しだって」
 ブルーが言うと、嬉しそうに微笑んだ。
「三年間、本当に永ごうございましたわ」
 スカーレットが朝食用のナプキンで目頭を抑えた。彼女は朝一番でも、口紅で真っ赤な輪郭を作り、しっかりと丸い目にアイラインを入れていた。ナプキンに墨のような汚れがついた。
「メシュワラームさまは、姉上さまを助けに行っていたんだ。急いで戻ったけど、式には間に合わなかったんだ。仕方無かったんだ」
 ブルーはポタージュスープをテーブルに並べながら、メシュワラームを弁護した。
 ロータスはこくんと頷く。薔薇のように唇を少しとがらしながら。
 頷いた時に揺れる、金の髪の輝きがブルーは好きだった。
「姉上さま ・・・シャクティーヌさまがお泊まりになっていることは、聞いた?」
「私がお話しましたわ。丁度いいわ、おねえさまにも式に参列していただきましょうよ。姫には私がいますが、メシュワラームさま側のお身内がどなたもいらっしゃらないので、寂しいと思っていましたの」
 スカーレットは怖い女だ。悪人ではないと思うのだが、どこか計り知れないところがある。シャクティーヌは嫌と言わないだろうけれど、メシュワラームと体を重ねた彼女は、結婚式には居づらいだろうに。
『まさか、ロータスには、メシュワラームさまとシャクティーヌさまの関係のことは・・・』
 ブルーは心配になってスカーレットに小声で尋ねた。ずるずるとスープをすすりながら『知らせるわけないでしょう、バカな魔法使い!』
にたりと笑ってみせる。小さなサカナなど一口でするりと呑み込めそうな口で。
 ロータスはもうご機嫌が直ったのか、にこにことスープを飲んでいる。
 わからない。信じているのだろうか、メシュワラームのことを。
 結婚式をすっぽかして、他の女性を助けに行った男。
 他のひとの為に買ったようなアクセサリーを、平気でロータスに与える男。ロータスは気づいていないのだろうか、不透明な紺の石や緑の石が、自分には似合うものではないことを。
 なんでそんなに嬉しそうに、スープを口に運んでいられるんだ?
『・・・?』
 自分をじっと見つめるブルーに気づいて、ロータスはにっこりと笑ってみせた。笑う、頷く、首を振る。彼女にはこの感情表現しかできない。
 メシュワラームは勘当も家出も覚悟している口ぶりだった。この別荘はメシュワラームのものだが、生活するのに金銭は必要だ。いくら家から何か持ち出して来るといっても、いつかは資金も尽きる。
どうする気なのか。当てはあるのだろうか。
『たぶん無いんだろうな。』
心を病んだ世間知らずの御曹司と、口のきけない『最近人間になった』元・人魚姫。どう考えても先が見えていた。その想いにブルーはまた唇をかむ。

 きちんと手でノッカーを叩く音がして、メシュワラームだった。
 ガチャンとスプーンを放り投げ、ロータスはテーブルから飛び出した。そして子猫のグッピーを飛び越えて廊下に出ると、メシュワラームの首に抱きついた。
「よしよし。すまなかったね。心配をかけた。今日こそ式を挙げよう」
 ロータスはうんうんと激しく頷いていた。
メシュワラームはロータスの薔薇の唇に軽いキスをすると、
「でも今は離しておくれ。荷物がいっぱいなんだ。おまえまで抱くのはきついよ」
と笑った。
 メシュワラームは、大きな箱を小脇に抱えて居間に入ってきた。
「母の首飾りとついでに、母が自分の挙式で着たドレスも見つけた。同じ場所にしまってあったので、こちらも戴いてきた」
 床に直接座ると、ドレスケースを開いた。ロータスも習ってぺたんと床に座った。頬を輝かせてドレスを広げていた。
「今日はちゃんといらしたわね。安心しましたわ」
 食事を終えたスカーレットも、厭味を言いながらもドレスを覗き込んだ。
「すばらしいドレスですこと」
 シルクの光沢とたっぷりのレース。裾にはじゃらりと鳴るほどたくさんの真珠を蓄え、上身頃にはダイヤが散りばめてある。天使の祝福を欲しいままにしそうなドレスだった。
『着テミテイイ?』
 ロータスは胸に抱いてぴょんぴょん跳ねている。
「着てみたいかい? 試着しておいで」
 メシュワラームの言葉の最後も聞き終わらぬうちに、ロータスは走って階段を昇って行った。
「血の匂いがするわ。ぷんぷん匂いますことよ」
 スカーレットの言葉に、笑顔の消えた顔でメシュワラームがこちらに向き直った。
「・・・兄のコースチンが亡くなりました。
 しかし、ブルー。私は朝食がまだでね。話の前に、先に何か食べさせてくれないかな?」

 メシュワラームの朝食が終わった頃には、シャクティーヌも起きて来た。ここを訪れた時に着ていたドレスは裾が切れていたし、砂と泥で汚れていたので、ブルーはロータスのドレスを借りて用意した。かつてメシュワラームが『どんなものが似合うかわからんから』と、ロータスのために目茶苦茶に色々に買ったものの一着だった。白いレース襟の濃紺の服は、まるで彼女の為に選んだようで、シャクティーヌに似合いすぎるほどだった。
「コースチンが亡くなった」
 シャクティーヌの顔を見るなり、メシュワラームは言った。朝の挨拶もなかった。
 シャクティーヌははっと息を呑んだ。
「兄上が? なぜ?」
「今朝、愛人が死体を見つけたそうだ。あの兄が屋敷の敷地内に愛人を囲っているのは知っているだろう? ベッドの上で刺されて死んでいたそうだ。愛人と奥方が二人ともパリスに呼ばれた。
 家は早朝から大変な騒ぎで、随分早く目覚めてしまったよ。まあ、そのゴタゴタのおかげで、母のドレスなどという大荷物を抱えていても、簡単に抜け出せたわけだがね」
 シャクティーヌが見開いた目でメシュワラームを見つめ、彼の腕に手を置いた。
「おにいさまが亡くなったのよ? あなたは悲しくないの?」
「なぜ? 私が彼らを大嫌いだったのを、あなたはご存じのはずだ」
「・・・一人目はベッドの上で」
 スカーレットの声は、深い海底から這ってくるように響いた。にたりと笑った。
「わたくしに、依頼がありそうな顔ですわね。今度は何をお知りになりたいの? 二つ目と三つ目の死体のありか?」
「修道院のことだ」
 メシュワラームは斬り込むような口調で答えた。スカーレットの言葉に揺らぎもせず、にこりともしなかった。
スカーレットは、「出先だから、持ち合わせがないわ」と言いわけしながら、
「あなたの、それを貸してくださらないかしら」
 ブルーの右手を顎で差した。ブルーは人指し指にしていた紫の指輪を外し、テーブルに置いた。丸いその石は、陽の光を浴びて金色に輝いた。金紫の水晶。
「過去と未来を映し出すものです。今は過去をご覧にいれますわ」
 その石は、小指の先ほどの大きさだったが、
スカーレットが祈り始めると、光はひと抱えもありそうなほどに膨らんだ。そこにうっすらと、白いレンガ作りの建物が見えた。
 ユベーロの修道院だ。
 メシュワラームは身を乗り出した。シャクティーヌも目を見張った。
 ブルーは、滅多にお目にかかれない上級魔法を食い入るように見つめていた。
 玄関で、帽子を目深に被った黒づくめの男が、報酬らしい金貨の袋を盗賊に手渡していた。男は馬で去り、山道を駈け、ゴルゴネラ家の屋敷へとたどり着いた。
「コースチン・・・。やはり」
 男は、長兄の部屋に入り、何事かを報告しているようだった。
「音は出ないのか? 声が聞こえん」
「しっ。メシュワラームさま。この魔法は精神を集中します、お静かに。この水晶は『映す』だけなのです」
 ブルーが注意した。
「しかし、なぜ? コースチンが姉上を盗賊に捕えさせる必要がある?」
シャクティーヌは、不快な記憶を堀り起こすように眉をしかめた。
「あそこは、修道院などではありませんでした。外見は教会のようですが、中は盗品の倉庫です。だいぶ前から盗賊の住処だったようです」
「我がゴルゴネラ家の、汚い仕事を一手に引き受けていた、ということか?」
 ぱっと、霧が晴れるように映像が消えた。光はもとの小さな石に宿るだけとなった。
 スカーレットは真顔になると、
「ま、そんなところですわね」
と答えた。
「術師であるわたくしには、水晶に映った人や動物、植物のものでさえも、意識を読み取ることができますのでね。
 シャクティーヌさまが『修道院へ行く』と言い出した時には、最初はご家族は慌てられたようですが。あなたの存在は、屋敷の皆さんにとって邪魔であったと思われます。結局は、始末する丁度いい機会と考え直されたようですわね」
「ひどい。そんな 」
 シャクティーヌはうつ向いた。
「盗賊もそうですが、今朝亡くなられたおにいさまも、相応の罰を受けたということなのでしょう。あなたを酷い目に合わせたまるで呪いのように、最初の夫と同じような亡くなり方をするなんて、ねえ」
 シャクティーヌの髪を撫でながら、スカーレットはちらりとメシュワラームを盗み見た。
口もとを緩めて、そして笑った。メシュワラームは視線を受け取ったが、壁に背をもたれて、腕組みしたまま、微動だにしなかった。 
シャクティーヌは顔を上げた。
「いいえ、死んでいい人など、いるはずはありません。義兄がそのようなことをしたなら、パリスで罪を償うなり、神に許しを乞うなりすべきです。死んで解決などしません!」
「ねえ、メシュワラームさま?」
 スカーレットは彼に振り返った。
「あなたの愛しいひとは、あなたとは随分違うお考えのようねえ?
 あと二つの死体はどこ?」
 メシュワラームは答えなかった。
 ブルーは思わず声を荒らげた。
「スカーレットどの、まるでメシュワラームさまが殺したかのような、そんな言い方!」
「おバカさん」
「ま、さか ?」
 ブルーもメシュワラームを見た。彼は石像のように頑なに動かなかった。組んだ腕は石膏で固められ、表情はデスマスクを取られた死人のようだった。
「次兄のマソルは庭の池の中。足に岩をくくり付けたから、すぐに浮かんでは来ない。
 下の兄のアルナートはもう見つかっただろう。猟犬たちの犬小屋で、手に銃を握ってる。頭を撃ち抜かれてね。
 許せるわけがないじゃないか。シャクティーヌをつらい目にあわせた奴らなんか」
 淡いグレイの瞳が、陽を浴びてガラスのように光った。ブルーはぞっとした。まるで体の中身が瞳から透けて見えそうな、そんな澄んだ目だった。
二人目の夫は船から落ちて溺死。
・・・二人目の兄は水の中で。
三人目の夫は、猟での銃の暴発。
・・・ 三人目の兄は、銃で撃たれて。
自分の兄たちを、いとも簡単に殺して来たメシュワラーム。いつもと変わらず平然と笑って、ロータスの為の挙式のドレスを小脇に抱えてやってきた。
「わたくしが・・・彼らを殺して欲しがっているとでも思った?」
「いや」
 メシュワラームはゆっくりと首を振った。
「私が許さなかっただけだ。
 まだ少女だった君を、大人三人で無理矢理犯したなんて。あいつらに、生きている資格なんてあるものか。
 私は・・・同じ屋敷にいて、何も知らずに、君の悲鳴も聞くことが出来ず、助けてあげられなかった。許してほしい。
せめて、あいつらを抹殺したから。もう、君を苦しめるものは無いから」
 シャクティーヌは椅子から腰を浮かせた。瞳を見開いて、でもメシュワラームから視線をそらせずにいた。
「そんな目で見ないでくれ。私はずっとあなたを好きだったのに」
 手をとろうとしたメシュワラームを避け、シャクティーヌは後ずさりした。バタンと椅子が倒れた。尻餅をついて倒れ、そのまま呆然とメシュワラームを見上げた。
「ずっと好きだった。
 あなたが結婚するたびに、私は絶望して命を絶とうとした。今でもあなたしか愛していない。神が作ったこの世のものはすべて大嫌いだったけれど。でも、あなただけは愛している」
 カランという金属音に、みんな一斉に振り向くと、階段の上にロータスが立っていた。立ち尽くしていた。白いドレスを纏い、金の髪に花を飾り。
 音は、ヒールが片方階段に転げた音だった。
銀のヒール。ブルーがあげた。カラン、カラン。階段をゆっくりと落ちて来る。
 ロータスの青い瞳から、一粒涙がこぼれ落ちた。彼女はもう片方のヒールを手ではずすと、階下へ向かって放り投げた。メシュワラームを狙って投げたのかもしれない。だが、それは届かず、コロコロと彼の足元に踊った。
 くるりときびすを返し、ロータスは部屋へ駈け戻った。
「ロータス!」
 ブルーが追いかけようとすると、スカーレットが腕を出し止めた。
「あなたがロータスさまを追いかけてどうするの。この男に追いかけさせなさい。
 土下座して、額を床に擦りつけて、ロータスさまに謝りなさい。涙を流して許しを乞えば、お優しいあの方は許してくださるに違いありません」
 しかし、メシュワラームは声が聞こえなかったように、シャクティーヌの元へと進んだ。
シャクティーヌは腰をついたまま、ずりずりと後ろへ下がった。背が、壁に触れた。
 メシュワラームは、シャクティーヌが立ち上がれるようにと手を差し延ばした。彼女は首を横に振った。
「あなたの腕は、ロータスに差し出すべきです。わたくしは、何も望んでいません。人に触れることができたことで、わたくしは生きていく希望ができたところです。ロータスからあなたを奪うつもりなどありません。
 今日、結婚式を挙げる約束をなさっていたじゃないですか」
「ロータスに感謝はしている。でも、愛していないんだ」
 メシュワラームは、今気づいたと言うように、頷いた。
「そう。愛していない。ロータスのこと、愛してなどいない」
「あなたは 狂ってるわ」
「そうかもしれない」
 メシュワラームは微笑んだ。
 透明の瞳には、遠く世界がすけて見えた。淡い絹を纏った美形の天使たちが、白い羽を血まみれにして殺し合う天界、地上の戦士たちの殺戮、地獄の餓鬼どもの共食いのさま。 陶器のような白い顔に、頬だけうっすら赤味がさしていた。たくさんの人の血を漉した後の白い布のように。青い月のような、冷たい唇が微笑んでいた。
メシュワラームは息を呑むほど美しかった。
「血が濃いと、オカシイ奴が生れるっていうよね。私たちの家系は、きっとそういう血筋なんだよ」
「・・・『私たち』の家系?」
「ここで亡くなる前、正気を失っていた母は、私を抱きしめ何度も口づけして、あなたの父上の名前を呼んだ。『モルガン』と。
 母の四人目の息子は、実の兄との子供だったのさ」
 シャクティーヌは息を止めた。メシュワラームの灰色の瞳は、鏡のように、怯えるシャクティーヌの姿を映し出した。
「私は、随分自分の生い立ちを呪ったこともあったけれど。君を愛してわかった。そういう運命なんだと」
 シャクティーヌは寒けで肩をすくめた。
「あなたは。わたくしを、実の姉だと知っていたの?知っていて抱いたの?」
「それが何か関係あるのか?」
 メシュワラームが、腰をついたままのシャクティーヌに手を差し出そうと、触れた。
「や・・めて」
 ぴしっと小さな血しぶきが跳ねた。メシュワラームの人指し指の先から、血がはじけ飛んだ。
「シャクティーヌ?」
 困惑で瞳を曇らすメシュワラームは、さらに彼女の腕を掴んだ。
「やめてっ! わたくしに触らないでーっ!」
 メシュワラームの体が一瞬後ろにのけぞった。振り払われた側の腕は、上着の袖に幾筋もの破れた跡ができていた。そこから血が吹き出してきた。赤い河のように手首に向かって流れ落ちた。
「シャクティーヌ、なぜ」
 メシュワラームには、シャクティーヌがチカラを爆発させた理由がわからなかった。シャクティーヌの赤く変わった瞳から、涙がこぼれた。
「やっと、誰かを愛せると思ったのに! 触れられること、怖くないと思ったのに・・・」
「愛しているよ」
「もう言わないでーっ!」
 轟音と共に、メシュワラームの体が、反対側の壁に叩きつけられた。
 壁板が次々にはがれて、メシュワラームに襲いかかった。カタカタ食器が鳴り、宙に浮き上がっていく。

「ブルー、チカラが暴走しています。私でも止められない。あなたのチカラも貸して」
 スカーレットは掌を差し出した。はっと正気に戻ったブルーは素早く左耳のピアスをはずし、その手に置いた。彼女はそれを掌に挟み込んで祈りのポーズをとった。
「∀∞≒@Жδ£!」
 あたりが薄い青に染まった。水の中にいるような、静けさが広がった。一瞬、食器も板っきれも空中で静止した。
「・・・*!」
 がくりとシャクティーヌが肩を落すと同時に、静止していた食器がゆっくりと元の位置に収まった。
 シャクティーヌは気を失い、壁に倒れ込んだ。
「メシュワラームさま!」
 ブルーが駆け寄ると、メシュワラームはふらつきながらも立ち上がった。
「・・・大丈夫だ。まだ生きている」
 白いシャツの腹を抑えながら言った。腕の間から、ぽたぽたと血が流れた。腹部にひどい裂傷を負っているようだった。
「立ってはダメです。すぐに手当てしますね」
「口の中が血の味がする」
「喋ってはダメですってば!」
「たいした傷じゃない。致命傷は無い。何度も死のうとした身だ、そんなのはすぐわかる」
「まだそんなこと言って」
「強姦しようとした盗賊と同じ扱いだ・・・」
もう二度と、シャクティーヌの心が自分に開くことは無いだろう。
「だったらいっそ、頭を吹っ飛ばしてくれればよかったのに」
メシュワラームはゆっくりと視線を上げた。
 
階段の上。メシュワラームの視点が止まった。ブルーもそちらを振り返った。今の大きな音で部屋から飛び出したのだろうか、ロータスが立っていた。
いや、騒ぎの最中からいたに違いない。ブルーが気づかなかっただけだ。
 ロータスは、メシュワラームに向かって銃を構えていた。かつて護身用にメシュワラームが与えた、銃身に派手な飾りの入った短銃だ。
「ロータス!」
 ブルーは名前を叫んだ。
『やめるんだ!』『撃つんじゃないっ』そう続けるはずだったが、唇が凍りついた。
 ブルーの頭が麻痺した。
 権利がある。ロータスは撃っていい。ロータスにだけ、撃つ権利がある。
『アナタノ愛シタノハ、しゃくてぃーぬダケダッタト言ウノ? 私ノ事ハ、愛シテイナカッタノネ』
「うん。すまない」
メシュワラームは見上げたまま、そう言った。
カチャリと、撃鉄を起こす音が聞こえた。
「撃ってよ。早く楽にしてくれ。
 私は生きることが苦手みたいだ。おまえはせっかく助けてくれたのに、ごめんよ」
ロータスは顔をそむけて激しく首を横に振った。髪が勢い良く動き、波立った。泣いているみたいだった。
『ワカッタワ。殺シテアゲル』
「でも、愛されて私は嬉しかったよ。
 ここまで会いに来てくれて、あり」
 ロータスの手の中から閃光が飛び出した。銃声。続けてもう一発。メシュワラームは体を反転させて、のけぞった。もう一発。さらに一発。
 すでに銃は弾を失い、カチャカチャと玩具のような音をたてていたが、ロータスの指は痙攣したように引き金を引き続けた。
「ロータスさま!」
スカーレットの声にビクッと肩を震わせ、そして諦めたようにゆっくりと腕を降ろした。

< 三 >

 メシュワラームが倒れると、撃ったロータスが一番先に駆け寄った。声の出ないロータスなのに悲鳴のような泣き声で叫びながら、階段を転がり降りた。
 笑い声だけ出せると思っていたのは、ブルーの間違いだった。
 ロータスは泣きながら、メシュワラームにしがみついた。白いドレスが血に染まるのもかまわず、抱きついていた。
 ブルーも重い足を引きずるようにして歩み寄った。メシュワラームは、頭と肩と胸に弾を受けていた。どの弾がそうかわからないが、即死だったろう。ガラスのような瞳を開いたままだった。ロータスに礼を言おうとしていた途中だった。
 これが、死。
 突然で残酷で中途半端で。読みかけの冒険小説の本が、破れてラストが千切り取られていたみたいな。ぎさぎざの紙と同じ形に、心も切れ取られたようだ。
 ブルーは静かにメシュワラームの瞼を閉じてやった。

「ブルー・・・」
 ブルーは、聞き慣れない愛らしい声に呼ばれて、はっと我に返った。
「声がお戻りになったのですね?」
 スカーレットがそばに立っている。今の声はロータスのものだったのだ。
 床はメシュワラームの血でまみれていた。ロータスのドレスの裾も、裸足の足の裏も赤く染まっていた。
「スカーレットどの。もしかして、もう一つの助かる方法とは・・・ 」
「死んだメシュワラームの胸の血を、足に塗り付けること、でしたの。ブルーどのは知っていたらどうなさいました? 困ったでしょう」
「確かに・・・」
 ブルーはぼんやりと現実を見降ろした。血のベールのかかった床、横たわるメシュワラーム。その横で泣いてすがるロータス。
 ロータスだって、自分が元に戻る為に撃ったわけではない。自分も、その目的だけの為にメシュワラームを殺せるかと聞かれたら、たぶん答えは否だろう。
 と、急にロータスは泣くのをやめた。ゆっくりと、首をあげた。天井を見ていた。
「ブルー。見える? メシュワラームさまが逝くわ」
「えっ?」
 ブルーには何も見えなかった。
 人魚に戻りつつあるロータスには、天に昇っていくひとも見えるのかもしれない。
「仕方ないひとね。死んで嬉しそうに笑っているなんて」
 ロータスはそう言うと、自分も微笑んで空(くう)を見つめた。
「・・・。」
 やはりブルーには何も見えない。スカーレットを振り返ったが、肩をすくめていた。上級魔法使いでも見えないのだから、自分に見えるはずがなかった。それとも、ロータスは幻影を見ているだけもしれない。幸せそうに昇っていく、メシュワラームの存在を信じたいだけかもしれない。
「私があの時の人魚だと、気づいていたなんて・・・」
ロータスはため息のように言った。
「声が無ければ、勝ち目はないわね。
 私は無邪気で素直な娘を装うことしかできなかったわ。三年も好きな男を想い続けて、やっと人間にしてもらったような、業の深い娘が、よ?」
「ロータス 」
ブルーは、情けない顔をしていたのかもしれない。
「ブルー、私はあなたが思ってくれているような、そんなイイコじゃないのよ。私は自分が美しいことを知っていた。言葉の無い私は、体を武器にした。
 少なくとも、天使のような娘などではないわ。振りをしていただけよ。
 ごめんなさい。あなたのことも利用していたわ。あなたの気持ち、気づいていた」
 ロータスはそう言うと掌に握られたままの銃を見つめた。メシュワラームに抱きついて、手が血まみれだった。
「これが私のやったことなのね 」
ロータスは血のついた掌を見つめながら呟いた。
「本当は、海で死んだひとの為にだけ歌うのだけど・・・」
ロータスは、取り戻した美しい声で、甘く哀しい歌を歌い出した。
あたりに虹がかかるような、柔らかな歌声。
使者を葬(はぶ)る鎮魂歌は、あたりに聖なる光が満ちる優しさに溢れていた。心に暖かい気持ちがこみ上げてきて、ブルーの目が涙でかすんだ。
 ロータスはずっと歌い続けた。しばらくすると、ロータスの白いすらりとした脚に金色の鱗があらわれた。
「ロータス、君の足が・・・」
 ブルーの言葉も気に止めず、ロータスは歌い続けた。
 ブルーもスカーレットもずっと黙って聞いていた。
 ロータスの足は少しずつ変化を始め、二本の脚が溶合していく。なめらかな皮膚に、ガラスの破片のようにきらめく鱗が、隙間なく配置されていった。貼り付けられたようにきっちりと。
 足首が透き通った銀のヒレに変わる。
 ロータスが歌い終えた頃には、足は完全に人魚の尻尾に戻っていた。
「本当に人魚だったんだね」
 ブルーがぽつりと言った。いとおしいロータス。異形のもの。やがて海へ帰るもの。
 どちらにしろ、ブルーの手には入らない。美しく、そして悲しい娘。

 ブルーの左しかない瞳から、涙が頬を伝っていた。窓から部屋に吹き抜ける風は、まだ朝の冷たさを残している。
 静かだった。潮騒の音だけが聞こえた。



< 四 >

 ロータスは海へ帰っていった。
『ゴルゴネラ伯爵家殺人事件』は、ブルーの知らない誰かが解決するだろう。
 人魚に戻ったロータスは、もう歩けない。ブルーが横抱きにして浜辺まで運んだ。ウエディングドレスを着たロータスを抱きかかえるのは妙な気分だった。浅瀬に降ろすと、尻尾でピチャリと水を叩いてみせた。
 海の沖のさらに沖、深い底のまた深い場所に、人魚の王国があるのだと言う。人間の青年に恋をし、彼を求めて飛び出してきたお姫様にとって、そこが住みやすい場所なのかどうかをブルーは知らない。
「そうそう、これをお返しするわ」
 スカーレットは握った掌を開いた。ブルーの瞳の耳飾りだった。
「あのお嬢さんの、記憶を抜いておきました。
目が醒めた時には、何ひとつ覚えていないはずですわ」
 あれからシャクティーヌはまだ眠り続けている。今も別荘のベッドの上で、昏々と眠っていた。メシュワラームの死も知らないし、ロータスが人魚に戻ったことも知らない。このまま何も知らず、世間の面倒な事件・・・ゴルゴネラ兄弟が殺されたことや、田舎の修道院の火事のことも知らず、目覚めたら違う人間になっている。
 それがシャクティーヌにとって一番楽かもしれない。幸せかどうかは別にして。

 スカーレットは、みるみる体を変化させていった。皮膚が堅く緑色の鎧でおおわれ、膝をついた両手の指の間に膜が張った。裂けた口からは、鋭い牙がジグザグに並んでいるのが見えた。
「クロコダイル・・・。どうりで不気味だと思った」
「スカーレットが『失礼な!』と怒っているわよ。彼女はサカナにもクジラにも形を変えられるわ。
 ブルーは優しい人ね。今までありがとう」 
ブルーは肩をすくめた。何も言葉は出て来なかった。苦笑まじりに靴で砂を蹴る。
 本当は、海へ返したくなんかない。手放したくなかった。部屋のバスタブに青い海の水を張って、ロータスを自分のものにしてしまいたかった。
 ロータスを飼う。
 でも、だってそれでは、メシュワラームと同じじゃないか。それは、愛じゃない。
「軽蔑している? 私がメシュワラームを撃ったこと」
「君は撃ちたかったんだ。僕がとやかく言うことじゃない。
 それに、僕が軽蔑するとしたら、撃つのをやめた? 違うでしょう?」
 許せないから撃った。憎んだ。だけど死んだらやっぱり悲しかったんだ。ロータスの気持ちに嘘はないと思う。あの時ブルーが、メシュワラームの死に涙したように。
 ロータスはこっくりと頷いた。金の髪が波うつ。ブルーが好きだった瞬間。でも、今は輝きが失せた、くすんだ鉛の色に見えた。もう輝かない。もう、あんな風にときめくことはないのだ。
「船に乗って沖へ出ることがあったら 。
そしたら、フルムーンの夜、甲板に出て耳をすましていてね。私の歌う声が聞こえるように」
「うん。きっとわかるよ、どんなに遠くても、ロータスの声」

 二人は静かな声でさよならを交わし、ロータスは水音さえたてずに泳いで行った。スカーレットも後に続いた。そしていきなり、潜って見えなくなった。
 まるで初めから、その水面には何も無かったかのように。
 しぶきも波も立てず、ロータスたちは消えてしまった。
 太陽は真上に輝き、海は目に痛いほどまぶしく輝いていた。そろそろ正午だった。また教会をすっぽかしてしまった。神父さまも神さまも呆れていることだろう。

 別荘へ戻って、メシュワラームを埋葬した。裏の墓場の土を掘って、深く深く掘って、彼を横たわらせた。柩も用意できず、隣に眠る他の動物たちと同じように直接土に葬った。 片耳のウサギと片足の狼と喉を痛めたカナリヤの隣に。粗末な木の十字架を立てた。
 心が不具だった青年がここに眠る。ブルーは何か出来たのだろうか。

 居間の血糊を拭いたり、吹き飛んだ壁の板を修理したりしていたら、夕方になってしまった。
 掃除しても、修理しても、どうせもうここには長くはいないだろう。この屋敷に続けて住むのは、悲し過ぎる。
 たぶん、夜更けにノックを待って暮らすだろう。メシュワラームが扉を叩く音。乱暴な靴でのノックは、溺れた娘を抱いているからだ。ブルーは慌てて開けるだろう。
 悲し過ぎる。ブルーはもうここには住めないと思った。いっそのこと、パラーニャ村のくすり屋もたたんで、どこかへ流れていこうか。

 翌朝。
 天気がよければ、少しはマシな気分になれるものだ。ブルーは家中の窓を開けにかかった。海の香りの風がカーテンを舞い上がらせる。新しい風が入ってきた。
 シャクティーヌの眠る部屋は、昨日までロータスが使っていた部屋だ。同じ白いシーツに違う色の髪を放射状に広げ、白い額のひとはまだ眠り続けていた。
 彼女がいなければ、ロータスは幸せになれたのだろうか? 不思議なことに、ブルーにシャクティーヌを恨む気持ちはなかった。ロータスと同じように、病んだメシュワラームに翻弄された気の毒な女性という気がした。ブルーが窓を開けて風を入れると、微かに瞬きをした。
 シャクティーヌが目を覚ます。
 新しい人生が、始まるよ。さあ、起きてごらん。もう、メシュワラームも兄さんたちもいない。自由に生きていいんだ。
「おはよう」
 見知らぬ男の声に、シャクティーヌはあわてて起き上がった。
「あなたは誰? ここはどこ?
 ちょっと待って。・・・私は誰?」
 不安感に狼狽し、黒い睫毛をしばたかせた。
 思い出そうと眉間に皺を寄せ、掌を額に当てる。ただ、彼女に頑な警戒心は感じられない。
 気を失う以前の、手負いの獣のような切羽詰まった印象も無かった。
「僕の名前はブルー・スターシャイン。
 君は、溺れてこの浜辺にたどり着いたようだよ。何も覚えていないの? 気分は悪くはないかい?」
「ええ。悪くはないわ。ただ・・・」
 シャクティーヌは乱れた黒髪を掻き上げた。
「とてもお腹が空いているの。何か食べるものはある?」
 そう言って照れくさそうに笑った。鼻の頭にドレープが寄り、黒い瞳が明るく輝いた。これから始まる一日。シャクティーヌの人生。
 朝の匂いのする笑顔だった。



< ☆ ☆ ☆ >

幾つ目かの戦争が終わり、かろうじて生き残った戦艦は、懐かしい故国の港へ向かっていた。
片足を失った兵士が、まだ慣れぬ杖をつきながら、満月に惹かれて夜の甲板へと昇って来た。そして先客に気づき、声をかけた。
「軍医どの。こんなところで気晴らしですかい?」
「ああ。船室で弾くとうるさがられるだろうしね」
応えたのは、まだ青年と呼べるほどの、小柄で華奢な男だった。肩から手風琴をかけ、細い指で鍵盤を確認しているようだった。白髪とも銀髪とも見える長い髪を後ろで縛り、前髪で片目を隠している。
「軍医どのは、国に待っているひとは?女房子供はいらっしゃるかね」
「いや。甲斐性が無くて、この歳で一人身さ。
でも、姉・・・のような人が一人。孤児院で子供達の世話をする仕事をしててね。まあ、一応無事を祈ってくれているらしい」
「待っていてくれる人がいるのは、いいもんだ。・・・女房は、おいらの足を見てなんて言うことやら。いや、それより、弟の恋人になんて言おう。おいらが護り切れなかったせいで・・・」
軍医は、うつむく兵士の肩をかるく叩くと、静かに指を鍵盤に走らせた。もの哀しい旋律が甲板に響き始めた。月の明りを頼りに、彼は指を起用に移動させた。
「やあ、綺麗な曲だあ・・・」
兵士はゆっくり目をつぶった。
その時、手風琴の音に混じって、かすかに歌声が聞こえた。軍医は一瞬指を止めたが、何も無かったようにまたメロディを辿り続けた。
月は青く、波は静か。
夜はまだ浅く、港は遠い。



 ♪ END ♪


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