鏡あわせのフーガ 2/2 |
< 八 > 日記をぱたりと閉じるように、男は記憶の扉に鍵をかけた。 「彼女に会いたいか?」 「会わせてもらえるの?」 ぱっと輝いた顔を、苦々しくながめる。騙されたことを知っても、まだあんな女に会いたいのか。それとも気づいていないのか。気づかない振りをしているのか。 「女王どのの力を借りなければ、どのみち君を十五年前に戻すことはできない。強制送還と言っても、今の地球に戻すわけにはいかないだろう」 「・・・・・・。」 「行こう」 男の声に、少年はのろのろと立ち上がった。 「塔で押収した二つの鏡を、牢に運んでおいてくれ」 兵士に命令した後、男は黒手袋をはずして応接室の扉のキイに掌を合わせた。ゆっくりと扉が開いた。 カサルが地球の軌道上に忽然と現れたのは二カ月前のことだった。月ほどの大きさの惑星。生命反応もある。あと半年で地球と衝突するだろう。 地球が生命体にコンタクトを取ろうと方法を探っていた頃、その星は各国の母国語で通信してきた。国連軍基地、各国の軍隊の指令室へと。 『こちらはカサル。地球に告ぐ。軌道上にあるので破壊します。ただちに避難してください』 有無を言わせない内容で、通信セクションで本物か悪戯かもめているうちに、攻撃が始まっていた。小さい星だと侮っていた地球は、その軍事力の強大さに驚くことになる。宇宙母艦から吐き出される戦闘機たちの航空ショウさながらの動きに、地球の軍隊は翻弄された。ヒューストン・オキナワ・ニューデリー・テヘラン。主要な軍事基地はことごとく壊滅的な攻撃を受けた。 男は国連軍の軍人で、ゲリラ隊の司令官だった。 カサルはだいぶ近づいていた。火星よりさらに近い。今の地球の宇宙飛行艦なら、一日で到着できる距離にいた。 カサルに潜入し、何カ所かを深層部まで掘削し、核をしかけ爆発させる。地殻変動を誘発できれば、小さな星だ、破壊できる。 ただし、当の本人はその任務は気が進まなかった。住民を見殺しにするのは大反対だったし、『神の山』の資源のこともあった。当初は地球側はこの資源の存在に気づいていなかったので、カサルを何も残さず破壊する命令だった。 穴は掘っていたが、核をしかけるのはギリギリまで伸ばすつもりだった。ただ、待っていた。宿泊施設としている、停泊する艦の部屋の鏡に、彼らが訪れることを。 ヒントは花束だった。十五年前あの部屋には花束ごと花瓶にいけられたチューリップがあった。だが、男には花を贈ってもらえるような機会が思い浮かばなかった。 地球からの物資が届いたその日、荷物の中に問題のそれがあった。部下たちが、男の誕生日に用意してくれたものだ。花が散り切ってしまうまでの間。Xデイが絞られた。 男の部下たちが彼らを待ち伏せし、逮捕した。逃走用の鏡を伝って兵士たちは塔にも侵入し、女王と指令長官も捕えることができたのだった。 階下への階段を降りていくと、靴音の響き方が変わる。鉄格子の中の捕らわれの人々にも、誰かが近づく音が聞こえただろう。 「ご苦労」 男の敬礼に、警備の兵士たちも礼を返した。 「悪いが、席をはずしてくれんか」 唐突な司令官の頼みに、兵士たちは顔を見合せまばたきをした。 「しかし、指令」 「個人的な話があるのだ。すまない」 頭まで下げられ、男を敬愛している若者たちはすごすごと上への階段へと消えた。 一番手前の牢にカサスの女王・♀∞∫∀。彼女は冷たい石の地面にぺたりと横座りして地面を見つめていた。 「失礼する」 男は少年の肩に両手を置いて、牢の前に立たせた。そして自分はその後ろに立った。 「おっと。左肩を怪我していたな。すまん」 「たいしたことありませんから」 ぶっきらぼうに返事する少年。女王は声が少年のものと気づいて顔を上げた。 「ナオヤ。無事だったのですね」 「ええ」 少年は素直に頷く。 「我々は彼に危害を加えるつもりはない。彼は何も知らない地球の少年で、カサルの女王に騙されていただけだ。裁判でも、お咎め無しで帰すことに決まった」 男に反論した少年の叫びが牢の中に響いた。 「騙されたなんて! 僕はただドーナたちに協力したかっただけだ! 自分からやるって言ったんだ!」 「そう思いたいだけだ」 男は一刀のもとにそう切り捨てた。 「恥ずかしくても悔しくても、認めるんだな、この女にはめられたってことを。そういう強さを手にしなければ、地球に戻ってからも、運命を恨んだまま一歩も進めないぞ」 そして男は女王に振り返った。 「久しぶりだな、ドーナ」 ドーナは顔をそむけたまま、返事をしなかった。 「それとも君は、私の知っているドーナとは違うドーナなのかな。この少年と私が別のものであるように。 ま、それはいい。実はお願いがある。この少年を、十五年前の元の場所に戻してやってほしい」 「嫌だと言ったら?」 十五年ぶりに聞くドーナの声は、見知らぬ女のヒステリー声のように、甲高く響いた。あの時はあれほど美しく聞こえたチェンバロの声だったが。今では弦が擦れ切れ、錆びがこびりついているように聞こえた。 「この少年に、それぐらいの誠意を示してやってもいいと思うが」 「ひきかえに、カサルの民を地球に移住させてほしい。 それ以外の条件は受け付けません」 「ひきかえ?」 男は眉をひそめた。 「・・・君の民の安全は確保してある。一億人を四分割して居住地を作る。既に会議で可決された」 「そんな法案がよく通ったわね。地球も人口が飽和状態だと聞くのに」 ドーナは目を見張って男を見上げた。 「主要国の大統領や首相は、調査報告書を提出したら、神の山のエネルギーに飛びついて来たさ。これが手に入るなら、一億の移民を受け入れるなんて安いものだ。君らが何千年も、少しずつ大切に使っていた資源を、私たちはきっと、あっという間に使い果たしてしまうのだろうね。 国連軍の長官は愛人スキャンダルを掴んで脅迫した。二つ返事でサインしたよ」 「あきれた・・・」 「私はどこかへ逃げることに決めている。どうせ軍人なんて性に合わない。これが終わったらとっとと辞めるつもりだった。 地球人は偏見と人種差別が三度のメシより好きな生き物だが。百年もすれば君らを受け入れ仲良くやるだろう」 「私たちはどうなるの。ここに捕えられた四人は。裁判は終わったのでしょう」 「極刑だそうだ。長官、軍人の二人、そして女王どの。四人とも」 「他の三人は…何とかならないの?」 「ならなかった。だから悪いけれど脱走犯ってことになる」 「えっ?」 ドーナは口をぽかんとあけた。 「今、三人を牢から出してやる。十年後くらいの居住区へでも、鏡を使って飛ばしてやってくれ。 問題は君だ。君のパワーが飛び出す先の鏡とこっちの鏡とを繋ぐ。だから君自身が鏡で飛ぶことはできないと聞く」 「いいのよ。民が助かり、三人のことも助けてくれるという。私は覚悟をしていましたから」 生まれながらの女王は、背筋を伸ばして言い放った。男は、女の虚勢を面白そうに眺めていた。 「『現在』の地球になら逃がすことができる。君が望めば、だが」 「どういうこと?」 「私が連れ出してみせる。安全に」 「ば、バカじゃないの、あなた! 何を言ってるかわかってるの? あなたはサカス破壊作戦の司令官でしょう!」 「あと一か月で、カサスは破片しか残らなくなる。死ぬのはあの美しい星だけでたくさんだ。 君は女王としてよくやった。何千年もよくやったと思うよ」 「敵を褒めるなんて、勝者の余裕ね」 「私が勝者? まさか」 男はおかしそうに肩をすくめてみせた。 「十五年前、君に騙された。その時点から私は敗者だったさ。十五年間ずっと敗戦処理をしてきたにすぎない。 彼を帰してやってくれるね?」 「・・・・・・わかってるわ」 「僕は帰らない! ドーナといる! ドーナと一緒に連れて行ってくれ!」 それまでおとなしく佇んでいた少年が、鉄格子に掴みかかって叫んだ。 「僕も一緒にいてドーナを守るんだ!」 「困った坊やだ」 男は笑うと、大人の力で指をほどいた。 「や、やめろーっ!」 少年の体を抱きかかえると、ドーナに、 「早く例のお祈りを頼む。鏡をむこうへ繋ぐやつを」 苦笑しながら言った。少年は、指で掴まれたムシのようにジタバタ手足を動かしている。 しかしその大暴れも、男を手こずらせることはできなかった。長い髪と深く被った帽子さえも揺らすことはできない。 ドーナは言葉を発することなく、静かに手を胸の前で合わせた。男は鏡に向かって少年を放り投げた。爪でひっかかれ、頬に掻き傷ができた。 少年は、銀の光の中へ吸い込まれて行った。 男は、痛くもかゆくもないミミズ腫れに手を触れた。 この直後から少年は重い義務を背負うことになる。安穏と時間を送ることは許されない。高みを目指し、今の男の地位にまで昇りつめなければいけない。平和だとか幸福だとか運命だとか命だとか。普通なら漠然と感じていればいい、ややこしいことについて、いつも突きつめて考え続けることになる。それは決して楽なことではなかった。 男は、少年が消えた、冷たい光を放つ姿見を見つめた。そこにはもう、自分が映っているだけだった。 男は軍服のポケットからカードキィを取り出し、一人ずつ、『おっさん』、『化粧男』、『ロック青年』を牢から自由にした。 星の言葉で軽く言葉を交わして鏡に入っていった長官と化粧男に比べ、ロック青年とは少し長く話していた。 「十年後にはまた会えるさ」 軽い厭味のこもった男のことばに、青年がきっと睨み返した。男は、彼が女王の膝に頬ずりしたことを思い出した。 さっきの少年と同じ目をして、彼は鏡に入っていく。振り返り振り返り。ドーナはただ頷くだけだ。 「さて、と。 あとは鏡を破壊して、君をこの地下牢から連れ出すだけだな」 「鏡を壊すですって?」 「もうやり直しはきかない。そういう心構えで地球では生きた方がいい。この鏡は無い方がいいんだ。 それに、こんなでかいもの、逃亡するのに持って行けるわけがない。カサルでは使えるのは君だけだったらしいが、地球人の中にも超能力者はいる。残しておいて、悪用されないとも限らない」 「や、やめてっ!」 鉄格子を握りしめてドーナが叫んだ。男は腰からレーザーガンを抜いて鏡に向けた。 と、その時。 ブーツの底が、勢いよく飛び出して来た。靴底は男の手を蹴飛ばし、銃を手放させた。闖入者は鏡の前に立つと、男に向かって銃を構えた。 「ロック青年か。何故戻って来られた?」 銃は五メートルも先。取り戻すのは無理そうだった。訓練されたこの青年から、銃を奪い取るのも至難の技だろう。 「♀∞∫∀様ヲ牢カラ出セ」 「…相変わらず、下手な日本語だな」 男は背中にぴたりと銃口を突きつけられたまま、片手で軍服のポケットからカードケースを取り出した。中から選んで、ドーナの牢の錠にカードキィを滑らせた。 ドーナは勝ち誇った笑みを浮かべた。舞踏会にでも出向くようにゆっくりと立ち上がると、牢から出て来た。 「彼が飛んだのは、十年後の地球ではないわ。五日前のカサスの塔。潜入計画を中止するように指示してもらいました。 十年後にはそこから飛ばしてもらえばいいと思ったのに。…なぜ戻ったの?」 「君が心配だからに決まっているだろう」 ロック青年ではなく、男の方が答えた。手を肩より高く挙げたままだった。 「私を人質にして、どこまで逃げる? この星は、じきに破壊される。結局行き場は地球しかないぞ」 「一緒ニ行キタカッタダケダ」 この青年も赤い瞳のとりこというわけか。 「少年の方はちゃんと送ったのだろうな」 「送ったわよ。心配なら、『映しの鏡』を覗いて見ればいいでしょう。そのテーブルの上にありますから」 「そうか? すまないな、私は疑い深い性格なのでね」 男は片手を挙げたままテーブルに近づき、右手で手鏡を取った。覗き込むや否や、 「嘘をつくな。別の場所に着いてしまっているじゃないか」 と厳しい口調になった。 「えっ? そんな」 ドーナも青年も同時に手鏡を覗き込んだ。男の背中から銃口の感触が消えた。 男は一瞬で反転した。手鏡で青年の手首を殴りつけた。 「£*!」 青年は悲鳴をあげ、銃はこぼれ落ちた。鏡には細い線が放射状に走った。 「何をするのよっ!」 「鏡を壊すと言ったろう?」 男は爪先で青年が落した銃をひょいと浮かし、空いた左の手の位置にぴたりと納めた。 「昔取った杵柄だな」 口の端で笑ったかと思うと、手鏡を『行き来の鏡』に向かって投げつけた。世界を破壊するような綺羅びやかな音と共に、『すべてへの道』は、蜘蛛の巣のような亀裂を作った。手鏡の方はすでに世界がこぼれ落ちて散らばり、フレームだけになって床に転がった。 「やめてっ。やめてよ! @∞dΨ@! £*∞#%!」 男は続けて銃で鏡を撃った。七色の光が鏡の面のひびをさらに複雑な模様に変えた。 男は撃って撃って撃ちまくった。鏡にひび割れの無い場所はなくなっていった。カケラがぼろぼろと床にこぼれ始めた。実戦でも、こんな指が攣りそうなほどに続けざまに引き金を引いたことなどなかった。 ドーナを恨んでなどいない。いや、恨みたくないと思って生きてきた。義務だったのだと・・・。女王の義務だったのだと彼女を許そうとしてきた。 だが、彼女が星と同じように大切に守って来たもうひとつのもの。それを粉々に破壊することに悪魔的な快感を覚えた。 ちゃちい復讐だ。 鏡の雨はまわりの景色を映し込んで、輝きながら舞っていた。 パワーゲージがゼロになり、光が出なくなった時には、床に粉々のガラスが散らばっていた。 「もうやり直しはできない。ドーナ、これからは腹をすえて道を選ぶんだな。彼も、もう戻れないぞ」 「こんなことをしても、すでにこの世界は、切り捨てられた枝の次元。♂#£Xが戻って報告した時に、別の未来が開かれているわ」 「でも、この枝の上に乗った私も君も、もう降りることはできない。後ろに戻ることもできない。行くだけだ。 ここには、見て感じている自分がいる。これが私の次元だ。枝葉だろうが関係ない。私の人生だ」 「・・・・・・。」 「二人とも髪を黒く染めて、国連兵の軍服を着るんだ。彼は髪も切った方がいい。 地球の辺境の村に家を一軒用意してある。うまく地球に入れたら、半年くらいはそこで隠れて暮らすんだな。ほとぼりが醒めたらカサス民の居住区に送ってやるよ」 < 九 > カサルは簡単に出ることができた。 男の部下たちは、強制されなくても、制服をドーナたちに貸した。髪染めまで調達して来た。 「おまえら、私に銃をつきつけられたと言うんだぞ。軍から逃げる私に、義理だてしても仕方ないからな。おまえらには未来があるのだから」 部下たちにはそう言い聞かせた。 「まるで、あなたには未来がないような言い方ね」 軍服を羽織りながらドーナが皮肉たっぷりに笑った。男はにこりともしなかったが。 カサルでは、男のしたことはまだ通報されていなかったようだ。たぶん部下たちが時間をかせいでくれたのだ。国連軍の宇宙艇ですんなり抜け出した。 四人乗りのハマキ型小型宇宙艇は、カサル人には評判が悪かった。機密服も必要なく、大気圏突入時に衝撃も苦痛もない、最高級機種の艇だったが、二人は散々けなしてくれた。 「ひどい乗り心地ね。狭苦しいわ。これで本当に四人乗りなの?」 後ろの座席でドーナは文句ばかり言ってる。不安で、何か喋らずにはいられないのだろう。 「操縦ガ下手ダ。ダカラ地球軍、空中戦デ苦戦シタ」 隣の副操縦士席では、青年が偉そうなことを言う。 「うーるさいなー。私は空軍じゃあない。操縦のプロじゃないんだっ。ごちゃごちゃ言うと気が散るだろっ! 落ちてもしらんぞ」 ピタリ、と声はやんだ。 地球に入る時には貨物艇の下にぴったり貼り付き、同じ速度を保ちレーダーを誤魔化した。基地に着く前に離脱したが、見つかって警察機から検問を受けた。銃撃戦になり、男は肩を撃たれたが、艇は逃げきった。 「ナオヤ。一度着陸して手当てをした方がいいわ」 「大丈夫、あと少しだから」 操縦桿を離さず男は言うと、 「歴代の成人した『私』の中で、女王様に名前を呼んでもらった奴は、そう多くないだろう」 そう言って笑ったようだった。 しばらく飛んだあとで、艇は高度を下げた。 「着いた。あの村だ」 「村って。あれは・・・」 山と山の隙間に、緑の草原。風になびく草の中に、たった一軒、こぢんまりした家が建っていた。 艇は門の前に降りた。男が機の扉を開けると、強い風が中に入り込んだ。三人は肩に斜めにかけていたベルトをはずし、外へ出た。 「いいところだろう?」 男の声に、ドーナは言葉を返せなかった。 そよぐ草の波。 一面の草の波。 「ここは、まるでカサル・・・・・・」 「隠居したら、私が住もうと思っていた場所だ。こんなに早く役立つとは思わなかったな。 休暇には時々別荘代りに使っていたので、今すぐ住んでも不備はないだろう」 機のシートを上げて、救急用具を引っ張りだしたあと、男は門をあけて先頭で中へ入った。門は蔦のからみつく鉄のアーチ。塀も鉄柵で、風が通るようになっていた。 入り口の扉までの小路は庭などと呼べたものではなく、草が生え放題で荒れていたが、背の高い草たちが風になびく様が、男はかえって気に入っていた。 「半年前に暮らしたきりだから、掃除が必要だろうな」 そう言いながら楽しげに扉の鍵を開けた。 入るとすぐ、ぺたりと座る居間があった。あるのはテーブルと、あとはゴザが敷いてあるだけだ。ドーナの住まいに似ていた。 「拭き掃除しないと座れないかもしれない。 裏に、清水が沸いている場所がある。バケツに汲んで来て、雑巾で拭くんだ。 バケツとゾーキンって見たことあるかい、女王様?」 男はそう言いながら、家中の窓を次々と全開にして行った。 家中と言っても、部屋数はたかが知れている。小さな家だった。居間と寝室とたたきの調理場とバスルームしかない。男に言わせれば、一人で住むつもりだったから十分なのだそうだ。 掃除を終えて、三人はやっと居間の床に座ることができた。 「さて。治療を始めるが。ドーナは見ない方がいい。部屋を出ていたらどうだ?」 「大丈夫よ。手伝うわ」 気丈に言い放ったドーナをせせら笑うように、男は帽子を取って軍服を脱ぎ始めた。肩にかかる長い髪がぱさりとなびいた。 瞳の大きさはあの頃のままだった。だが、意志の強さと潔さを備えたきつい光を放っていた。こけた頬には、髪のひと筋に似た線が走っている。 袖無しの下着だけになると、盛り上がった肩と二の腕の筋肉があらわれ、筋肉の小山が腕に影を落としていた。広い肩幅と大きな背中だった。十五歳のナオヤの面影はもうない。 左の肩にレーザーが貫通した傷があった。白い下着には小さな穴が開いてその周りが黒く焦げていた。べったりと血が張り付いてまだ少し滲んでいる。 ドーナは顔をそむけた。男は初めからドーナの助けは期待していなかったらしく、 「ロック青年。治療はできるか?」 と青年に尋ねた。 「コノ程度ナラ」 青年は、痛みで男が肩を上げられなかったので、下着を破ってはぎ取った。そして男の指示通りに、傷に付着した焦げた布と焦げた皮膚をピンセットで取り除いていった。男は時々痛みに眉をしかめたが、声もあげなかった。ドーナはずっと下を向いていた。 消毒を済ませ、青年は肩に包帯を上手に巻き付けた。 「今夜はここへ泊めてもらえるかい? この肩で操縦して帰るのは、少しキツイ」 「・・・ココハ、アナタノ家ダロウ」 「でも今は君たち二人の隠れ家だ。邪魔をする気はない。 時々食料の差し入れに来よう。私が来られない時は、信頼できる者を来させる。それ以外は訪れないので、くつろいで気兼ねなく暮らしていてくれ」 「アナタモ『オタズネモノ』ナノニ。他ニ隠レ家デモアルノカ?」 「『お尋ね者』なんて、妙な日本語を知っているなあ」 男は裸の肩を震わせると、おかしそうに声をたてて笑った。 「かくまってくれる友人くらいはいるよ」 「コイビト?」 「・・・違うよ。いや。よくわからん」 男は、床に投げだされた軍服の内ポケットから、痛んでいない方の手で煙草を取り出すとくわえ、片手で火をつけた。片膝をたてて細いシガーをふかし、ドーナの視線に気づいてにやりと笑った。 「女王様。君もやるのかい? 地球のやつがお気に召すといいがな」 そう言うと、ケースを振ってみせた。 「いらないわよ。 オトナに・・・なっちゃったのね。本当にナオヤなのね」 悲しげにひそめる眉を、男はまた笑い飛ばす。 「君のナオヤは帰った。君が知っているのは私とは別の少年だ」 「でも、カサル破壊作戦司令官どの。あなたの過去は、『映しの鏡』で見ることができたわ。十五年前の、私の知らない、成功した暗殺事件のようすもね」 「・・・・・。」 男の顔から笑みが消えていた。 「あなたがアメリカの大学を選んで父親に殴られたところも見たし、軍に入ってホモの上官に追いかけまわされたところも見た。高一の時の初めての女の子の顔だって知っている。 パークでマリファナをやっていて、友達を見捨てて自分だけ逃げたのも知ってるわ。彼は捕まって大学をやめたわよね」 「・・・・・・!」 男は拳を握ってドーナを睨みつけた。腕が震えていた。襟首をつかんで外へ放り出してやりたい思いを押えた。 煙草の灰が床にポトリと落ちた。 冷静さを取り戻したのは、ドーナの瞳が涙で溢れそうなのに気づいたからだ。 「カサルの草の海に感動して立ちすくんでいた姿も、責任を引き受けようと決意した時の厳しい表情も、♂#£Xの落した銃を蹴飛ばして手元に戻した勇姿も。全部私の記憶の中にある。 裏切られたのがわかっていて、でも何の説明も求めず非難もせずに、ただ傷ついて帰っていった後ろ姿も」 「・・・・・・なつかしいな。昔のことだ」 「私にはたった五日前のことのように」 ドーナは白い指で涙をぬぐった。 「私が寝室を使っていいでしょう? もう休みます」 「おやすみ、女王様」 男は煙草をふかし続けた。乾いた唇にフィルターが張りつき、はがす時にかすかに痛んだ。 朝は夜明けと共に来る。男はまぶしさに目をあけた。肩の痛みは和らいでいた。 青年はまだ眠っている。猫が丸くなるように上がけを被って、寝息をたてていた。起こさぬように静かに立ち上がった。 外はしっぽりと靄に包まれ、雨が降るように煙っていた。少し涼しい。何かはおってくればよかった。包帯に包まれた肩だけが熱い。 濡れた草が強く香っていた。 門の外にドーナの姿があった。裸足の細いくるぶしを草がなでていた。 「おはよう。寒くないか」 ドーナはちらと振り向くと、また顔を前に戻し、風に泳ぐ草を眺めたまま「自分は?」と尋ねた。 「少し寒い」 「そんなかっこで出てくるからよ」 「朝の草の匂いをかぎたかったんでね」 「ここは似過ぎていて、少しつらい。 信じられない。もうすぐカサルが無くなるなんて」 「すまない。ここしか思い当たらなかった。 しばらく我慢してくれ」 「あなたが何故あやまるの? 変な人」 ドーナは震えた肩を両手で抱いた。 「君も寒いだろう、中へ・・・」 言いかけてやめたのは、泣いているのがわかったからだ。 「肩かけでも持って来てやる・・・よ」 中に戻ろうとした男の背中に、ドーナがすがりついた。 「ドーナ・・・?」 「もう、私は女王じゃない。もう鏡も無い。もうすぐ星も無くなる。 私は、これから、どうやって生きればいいの?」 「・・・。」 「助けて・・・。私をずっと支えていて。あなたにはその義務があるわ」 「なぜだ?」 「知ってるわ。あなたは私をずっと忘れることができなかった。十五年間、私を消し去ることができなかった。 私を好きなら、私を助けて!」 「私は君を助けたつもりだが? まだ足りないのかい? どうやって生きるかなんて、君自身しか見つけられない答えだ」 「ナオヤ」 「私はもう色香で惑わされるほど子供ではない。背中から離れてくれないか」 おずおずとドーナの腕が解かれた。振り返った男の目はビー玉のように冷たく彼女を見据えた。 「人は人を支えてなんてやれない。自分で立つしかない。 君は女王の時、確かに自分で凛と立っていた。卑屈に体を擦り寄せて、庇護を求めるのはやめてくれ」 打ちのめされた瞳を見開き、ドーナはあとずさった。悲しみに似た表情が赤い瞳孔に浮かんでいた。唇が震えている。 厳しい言葉のあとに、しかし男の瞳は優しく細められた。 「もう女王でないからと言って、君にできないはずがない。 民や星のためでなく、自分のために生きてみろ。自分の幸せのために、ね。 その方が、本当は難しいかもしれない」 「自分の幸せのため・・・」 「ほら、君を愛しているオトコが、心配で見に来た。起こしちまったらしいな」 男が親指をたてて入り口を差した。 逃げる時に積んだ、非常用食料のスナックなどで朝食を済ました。男は艇に乗る為に立ち上がった。ドーナと青年も見送るために外へと後をついて来た。 靄はすっかり消え、快晴だった。草の露の一粒一粒が陽にきらきらと輝いて眩しかった。 「行キ先ハ日本?」 「いや。ネオ・ニューヨークだ。大学時代の友達がまだそこに住んでいる」 「ニューヨーク・・・」 ドーナと青年が同時に顔を見合わせた。表情が曇っているのがわかる。 「なんだ?」 「キケン。行カナイ方ガイイ」 「それはまあ、あそこは危険な街だが」 「そうじゃないの、ナオヤ。私たちは何度か見ている。あなたがあの街で死ぬところ」 ドーナの真剣な口調を、男は鼻で笑った。 「『死ぬところを見ている』? しかも『何度も』? それは面白いな。私も見たかったよ。あの鏡がなくて残念だ」 「本当よ。ウソじゃないわ!」 ドーナは食い下がった。男の軍服の袖を掴んだ。 「一度は警官隊に囲まれて、撃たれた。一度は飛行艇で逃げまわってビルの壁にぶつかって大破した。一度は・・・恋人に撃たれて死んだわ。明るめのブロンドの女性だった。彼女は、あなたに『ずっと裏切られ続けた』と言って泣きながら何発も撃った」 「嘘だなんて一言も言っていない。どれもあり得そうだな」 「じゃあ、行くのをやめてくれる?」 「トウキョウへ戻ったとする。捕まらないと言い切れるか? 私が親に『恥知らず』と罵られて刺されない可能性があるか? 他の国の街へ逃げても警官や軍人はいる。同じだ」 「・・・・・・。」 「君にはまだ、ピンと来ないのかも知れないな。白紙の未来を生きるとは、そういうことだ」 「明日がわからないなんて、怖くないの?」 「怖いさ。 T字路に出ると一瞬立ち止まる。決意と覚悟を持って、道を選んでいく。それが生きるってことだと、私は思ってきた。 だが、まあ、物資供給源の私に何かあったら君らは不安だろう。 もし私が帰らなかったら。裏の小屋に薪が少し残っている。ウサギ程度の蛋白源ならちょろちょろいるし、山腹近くまでいけば小川もある。サカナもたくさんいる。飢えることはないだろう」 「帰らなかったらって、死んでしまったってことなの? やっぱり死ぬかもしれないと思っているのね!」 「死んだのかもしれないし、君たちを見捨てて自分だけ逃げたのかもしれない。事故に巻き込まれて記憶喪失にでもなっているかもしれない。色々な場合が考えられるさ。 最悪の場合は、あの山を越えたところに、さびれた村がある。五十世帯にも満たない小さな村だが、一応通信設備はある」 「最悪の場合って?」 「それは君たちが判断するんだ。 ロック青年。女王様を頼むよ」 男はそう言うと、かすかに笑って艇に乗り込んだ。ゆっくり扉が閉まり、艇はまわりの草を巻き上げながら上昇していった。 二人はそれを目を細めて見送った。銀の機体が太陽に反射して眩しい。 帰って来るのか来ないのか。それとも軍を率いて二人を捕えに戻るのか。男は死んでしまうのか。生き延びることができるのか。 髪にまばらな緑色を残す、カサルの青年には見当もつかなかった。 女王−『ドーナ』−も不安らしく、艇が遠ざかって行くにしたがって、青年の軍服の袖を握った指に徐々に力がこもった。盗み見ると、幼児が泣きだす寸前みたいな心細そうな顔をしていた。 信じよう。生きて帰って来る。 僕は彼を信じる。 青年はそう決めた。すると、自然に笑みが浮かんでくるのを感じた。 『道を選んでいく。それが生きるってことだ』 男の言ったことが、少しだけ理解できた気がした。 青年の左腕を握るドーナの指は、力を入れ過ぎて白く色が変わっていた。青年は、そっと反対の手を重ね、静かに包み込んだ。 神が、新しく出来たばかりの星を、掌に包むよりも優しく。 < END > |
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