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無人のアスファルト。シュト=ハイウェイが十字架(クロス)の影を作っていた。まるで月が地球に何かの刻印を押したようだと少年は思った。
今夜の月は紅い。
少年は膝を立てて座り直した。擦り減ったジーンズは、コンクリートの冷たさも硬さもそのままで伝えた。シャッターにもたれ掛かると軋んで、錆びたブランコの音がした。確かにここは遊園地に似ているかもしれない。
母親が、紅い月の夜を嫌っていたのを思い出す。だが、月が出ているだけマシってもんだ。
少年はワークシャツの胸ポケットからハーパーを取り出した。店を飛び出した時、レジの横に並べてあったので数枚の札と一緒に頂戴したものだった。まだ半分は残っている。壜に直接口をつけ、金色の液体を喉に流し込んだ。乾きを癒すのではなく、暖をとる為だった。
壜をポケットに戻し、さらにきつく膝を抱いた。
あの男は怪我をしたかもしれない。ワインボトルで少年にスネを殴られた男。母親は少年に客を取らせようとした。自分がそうだったから、少年が十五になったことを理由にして。
どのみち、もうあそこには帰れない。飛び出せるきっかけを待っていた。誰かが蓋を開ければ、びっくり箱からバネじかけの人形が飛び出すように。少年は待っていたのだ。
そして七日、既にコインさえ尽きた。さっきのアルコールは空っぽの胃に到達し、きりりと軽い痛みを与えた。箱の中の人形は、飛び出したあとのことなど考えていないものだ。
新聞紙がかさこそと風に蹴飛ばされ、うごめいていた。風には雨の匂いがした。
「・・・・・・雨がくる?」
少年は声に出して言った。月さえも返事はしなかった。
すぐに最初の水滴が、少年の運動靴の側に丸い染みをつくった。白っぽいコンクリートが見る間に黒い水玉で覆いつくされて行く。死の斑紋。触れたら巣くい喰い尽くされる伝染病を思い起こさせ、少年は慌てて立ち上がった。シャッターにぴたりと背中をつける。廃墟ビルの軒は細かったが、これで少しは雨をしのげる。
少年は月を仰いだ。奴はもうどこにもいなかった。
母親は知らないのだ。月が出ているだけマシだってことを。闇が少年を包み込んだ。
一分たったのか一時間たったのか、さっぱりわからないまま少年は立っていた。時々上を行くクルマのライトが、雨の線を白く照らし出した。
にー。
雨音に混じって、遠くで甘い声が聞こえた。耳を澄ます。
にー。・・・・・・にー。
消え入りそうな鳴き声。子猫だろうか。それとも。病気の猫もあんな声で鳴く。
雨の中、一歩踏み出したのは、猫を救う為ではなかった。何かを腕に抱きたかった。猫のぬくもりが欲しかった。自分を救う為だった。
声に向かって小走りになる。死んだようにたたずむ両脇の鉄筋ビルの隙間を縫って、声を求めて走った。雨は頬に痛く、シャツも体にへばりついてきた。こうるさくまとわりつく女の手みたいに。冷たく重くわずらわしく。
目は闇に慣れたが、雨音は少年を惑わせた。板の打ちつけられた店の軒に走り込み、声の方向を確かめる。
左?
壁のひびを指でたどりながら左へ折れた。声はもう聞こえなかったが、その向きを思い出しながら進んだ。
かつて高級マンションだった建物の前に、アルミのゴミバケツが三つ四つ打ち捨てられていた。半開きの壊れた自動ドアの前には、白いワンピースの子供が立っている。少年は一瞬子供の鳴きまねに騙されたのかと苦くなったが、そばまで来て植え込みに小さな猫を見つけた。濡れて黒さの増した土の上でそれは、さらに暗い闇のようにうずくまっていた。
「君の猫なの?」
少年が訊ねると、子供は首を横に振った。縦ロールの髪が一緒に揺れた。七、八歳だろうか、今まで暖かな部屋にいたのがわかる薔薇色の頬をしていた。フリルのエプロンドレスにピンクのサテンリボン。大きな漆黒の瞳を見開いて少年を見ていた。
「じゃあ、猫を拾いにきたの?」
また縦ロールが横に揺れた。
「捨て猫を部屋に入れるとママが怒るわ」
このマンションにはまだ人が住んでいたのか。少年は軽い驚きを覚えた。この辺りで生きていける生き物はネズミかゴキブリくらいかと思っていた。いや、猫もいたな。
半開の自動ドアの向こうから、わずかだがテレビの音が漏れていた。大勢のわざとらしい笑い声。ファンファーレ。テーマ音楽。
少女は後ろ手に何かを隠し持っていた。サカナか鶏肉でもこっそり持って出て来たのだろうか。真夜中の台所で、開いた冷蔵庫の明かりだけを頼りにして。
少年は子猫をそっと抱き上げた。茂みの陰とはいえ、毛並みはすっかり濡れてしおれていた。いや、ぬるりと暖かい。少年は掌を確認した。血だ。
『ケガしてる』と子供に告げようとして気づいた。猫はだらんと重い。息をしていなかった。
カラン、とタイル張りの床に金属の音が響いた。子供が落としたナイフだった。彼女はあわてて拾い上げると再びスカートの後ろに隠した。柄が木製の果物ナイフのようだった。
「だって、うるさかったんだもの! テレビの音が聞こえなかったんだもの! ううん、あんなにうるさくちゃ、ママが鳴らす呼び鈴が聞こえないかもしれない! そしたらぶたれるのよ、すぐ開けなかったって!
・・・・・・私が悪いんじゃないわ!」
子供は上目遣いに少年を見ると、そう言ってくるりと後ろを向いて走って中に戻った。背中で巻き毛が揺れていた。
胸の子猫はまだ暖かい。
雨はアルミバケツの蓋を容赦なく叩き、耳障りな音を立てた。幸いシャツの柄は赤と紺のチェックだ。血の汚れは目立たないだろう。 少年は再び歩き始める。この街に土のある場所などあっただろうか。記憶を辿る。思い出せない。でも、必ず土に埋めてやらなくては。やはりこの街で生きていけるのは、ネズミとゴキブリくらいなのだ。
それと、人間と。
雨はまだやみそうにない。夜はまだ明けそうにない。<END>
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