『バースデー・ケーキ』
< 1 >

 テレビからは、意味のない音が騒がしく聞こえていた。
 機関銃のような会話の応酬と、おかしくもないのに無理に笑っているような大勢の笑い声。
 音は、白っぽいリビングの壁にはじかれ、ボロボロと砂粒のようにフローリングに落ちて、雪のように跡形も無く消える。
 その騒がしい音に混じって、マンションのドアが閉じる重い音がした。
 月子の男が部屋を出ていったのだ。
 部屋には、まだ紫の煙が漂っていた。ガラステーブルのガラスの灰皿には、折り曲げられたひしゃげた煙草の死体が折り重なっている。他方向に光りが反射した灰皿は死体を実際より多く見せたのだが、それにしても、一時間半の滞在で10本の吸殻は多すぎる。ルージュのついたものは無い。全部男のものだった。
 ドアの音を聞いてからの月子の行動は素早かった。とっととベッドから出ると、壁に組み込まれた姿見の前で、背中に届く長い髪を髪止めひとつでみごとにアップにまとめあげた。髪をまとめるのに両手を腕に上げる月子の、大きくはないが形のよい裸の胸が、さらにつんと上を向いた。
 華奢なウエストのくびれと、細い腰。背中に余分な脂肪はない。僕は月子の裸体の美しさに見とれていた。肌の艶だって、あと2年で三十路とは思えない。
『コン・・・』と煙草のけむさに軽い咳をする。テレビをリモコンでなく指で消した後、バスタオルだけ手にして、月子はあっと言う間にバスルームに消えた。
 けち。もうちょっと見せてくれてもいいのに。
 僕はカラーボックスの上から軽い悪態をついた。

 シャワーの音が聞こえて、5分もたっちゃいないだろう。
 鍵が回る音がした。
 このマンションはオートロックだ。さっきの男が戻って来たわけではない。あいつは、月子から合鍵は貰っていないはずだ。もっと言えば、心だって貰っていないだろう。
「おーす!」
 がさつな挨拶で入って来た、図体だけでかいこいつ。玄関で徳用フランスパンみたいなサイズのナイキを脱ぎ散らかし、月子の許可をも得ずにどかどかリビングに踏み込んで来る。まあ、シャワールームを覗いて許可を得られても困るが。
「うげ、タバコくせー」
 ヤツは、テーブルの灰皿を、触るのもイヤそうに左手の指だけで端に寄せた。右手にはケーキの箱をぶら下げていた。妙にでかいデコレーション・ケーキの箱だ。東京のケーキ屋なんて僕は知らないが、きっとOLの月子好みの、雑誌なんかに出ているお洒落な店のものだろう。
 そして、ヤツはそれをテーブルの真ん中に、ゆっくりと、恋人をベッドにでも横たえるように、丁寧に置いた。
「ビールもらうよー」
 聞こえてないってば。でも一応断りを入れて冷蔵庫を開けるところがヤツの律儀なところだ。
 プルトップを開けてごくごくと一気に半分も流し込む。僕は喉ぼとけのごつさをじっと見つめた。僕に得ることができなかった、筋ばった喉のラインと、グレイのTシャツから覗くがっちりとした鎖骨。半袖から伸びた肉塊のできる長い腕。Tシャツの肩は、まるでハンガーにでもかけられたように、角ばって張っていた。4階まで階段で来たのか、それともまだ5月というのに外はそんな陽気なのか、背中は汗で色が変わっている。
 大人の体を持った竜之介。ヤツは今年の秋に21歳になる。
 竜之介は人心地ついたらしく、缶を床に置いてあぐらをかくと、僕と向かい合った。肩にかかる髪をかきあげる。
 そして、ライターを出して、月子が置いているラベンダーのお香に火を灯した。ひとすじ天井に昇る煙、それはタバコの臭いをかろうじて消し去った。竜之介はそのままライターをケツのポケットにしまう。ヤツはここでは絶対煙草は吸わない。月子が喉が弱くて煙草が苦手なのを知っているから。
 しかし、月子も不思議なことをする。カラーボックスの上に置かれたこのお香が線香の代わりなわけだ。僕は、こじゃれた細工のスチール・フレームに入れられている。おすまししたバストショットではなく、14歳の陽平は親指を立てて片目をつぶったポーズを取っている。実家には、きちんとした仏壇はある。これは、月子のプライベートな、贖罪への気休めのようなモノだ。
 僕は、写真ではなく、竜之介の描いた絵だ。
 モノクロのペン描き。竜之介が中二の時に何枚か描いたスケッチブックの落書きを元にして、2年前にヤツが描き下ろしたイラスト。
 僕は、『陽平を描いた絵』であって、陽平では無い。
 だから、『陽平の死は、事故だったのか?自殺だったのか?』と訊ねられても、答えようがない。この部屋で、2年間に見聞きしたことしか、知らないのだから。

 バスルームのドアが開き、竜之介が振り返る。
「女性の一人暮らしなのよ。シャワーを浴びてる時に勝手に入って来ないでよ」
 月子が扉から顔だけ出す。丸い肩が見えて、濡れたバスタオルを体に巻き付けているのが見えた。
「だって、シャワー浴びてるの知ってて入って来たわけじゃないだろ。オレの好みで選んでよければ、タンスから服取ってやるけど?下着含めて」
「やーよ。竜くんの触った下着なんて着たら妊娠しそうだわ」
「ひどい言われようだな、オレ。じゃ、後ろ向いてるから、とっとと服取ってよ」
 竜之介はウソつきだ。今の短い応答で二つもウソをついた。
半袖の腕、藪蚊に刺された跡をさっきから掻いている。ヤツは約束より少し早めに着いてしまったので、マンションの前の花壇のへりに座って、男が帰るのを待っていた。だから、月子がシャワー中だっていうのは予想がついていたはずだ。
 そして、二個目のウソ。確かにヤツは後ろを向いていた。僕に向かい合い、窓に向かい合って、バスルームのドアにも、クローゼットにも背を向けていた。でも、月子がタオルを抑えながらクローゼットから下着を取り出すさまを、窓に映る夜景越しに、ちらりと、盗み見をした。すぐに視線は僕に戻したけれど。
「そんな顔して睨むなよ」
 竜之介は、僕に、人指し指でチョンと触れて言い訳がましく呟いた。ウインクしている僕が、どう睨んだって言うつもりなんだい?

 どうも、陽平は、実の姉の月子に惚れていたらしい。陽平の死は事故として片付けられたが、この二人は、自殺だったのじゃないかと、7年たった今も、しこりを抱え続けているようだった。
 僕は、話だけしか知らない。夏休み、中学の校庭で、竜之介と陽平は凧上げをして遊んでいたそうだ。ばかでかい樅の木に凧が引っ掛かり、止める竜之介の前で、強引に陽平が校舎の屋上から樅の木に移動して凧を取ろうとした。野球部や陸上部も見ていた。顧問の教師も見ていた。10年来の親友、いろんな愚痴も悩みも聞いていたであろう親友の竜之介の目の前で。陽平は落ちて・・・首の骨も頭蓋骨も背骨も折れて、即死だった。
 その頃月子は地元大学で女子大生をやっていて、夏休みをもて余していた。陽平が死んだその時刻(まだ午前中だった)、前夜知り合った男のアパートで、酔いの醒めぬぼんやりした頭のまま、何ラウンド目かの最中だった。陽平が校庭の土の上にバウンドした瞬間、今では名前も思い出せない男の背中に腕を回していた。

 逃げること。
 見守ること。
 その緊張は、そこで途絶えた。後は残された二人の罪の意識だけが、重く暗く・・・。

 パジャマ・ジャージの上下に着替えた月子は、もちろんスッピンで、鼻の頭がつるつるに光っていた。切れ長の目は、陽平によく似ている。鼻は低くないが、くるんと丸みのある可愛らしい形をしている。口はおちょぼ口で、ぽっちゃりと肉厚な唇はセクシーよりも可愛らしさが先に立つ。童顔な部類に入るかもしれない。28には見えなかった。
「でかいケーキねえ。なに、これ。これ、二人で食べろって?」
 ガラスのローテーブルの真ん中に置かれた箱を見て、頓狂声を上げた。
「だって月子さんがオーダーしたんだぞ。10号って直径30センチだってよ。オレも店に取りに行って、見て驚いたけどさ」
「号数まで確認しなかったわ。ネットの写真を見て、綺麗だったから、つい・・・」
 ああ、そうか。
 僕の・・・じゃなかった。陽平の誕生日なのだ、今日は。
 生きていたら、21歳になる、陽平の。
「コーヒー飲む?それとももう一本ビール?」
「ケーキだからコーヒーがいいな」
 月子の問いに即答し、竜之介は残りのビールを飲み干した。
 こいつは、月子の部屋では「ビールは一本」と決めているような気がする。以前、大学のコンパか何かの帰りに飯を食いに寄って、出された缶ビールを素直に3本開けて、酔いにまかせて月子を抱きしめたことを、死ぬほど後悔しているようだ。口には出さないけどね。その時は、みごとに頬に指の跡がつくくらい手ひどくひっぱたかれて、以来ヤツは月子の手さえ握ったことはない。
 まあ、酔いにまかせてじゃないことは、僕が見ていても、月子本人も、十分承知のコトなのだけど。

 マグと、客用の白く華奢なカップがテーブルに置かれた。褐色の苦い飲み物。まるで二人の後悔のような味の。
 月子は包装紙を破壊的に目茶苦茶に破って箱のフタを開けた。ビリビリと大きな音がした。まるで悪魔が人間を頭から食っているような音だ。
 箱蓋の側面に、セロハンテープで何か貼り付けてあった。月子はそれをはぎ取り、ビニールの中身をちらりと確認すると、ゴミ箱に直行させた。
「律儀に、21本ちゃんと入ってたみたい、キャンドル」
 唇を弓なりの形に整えて、微笑む表情を作ってみせたけれど、月子の口調は怒っているようだった。
 箱を開けると、白いクリームの雲に飾られた、空々しいピンクの薔薇が踊る五月のローズガーデン。チョコレートの板に白く描かれた文字。
『ハッピーバースデー ようへいくん』
 永遠に14歳の少年。
 月子は、白い庭に、禍々しく光る菜切り包丁で、真ん中に切れ目を入れた。
「オレ、あんまりハラへってないから。ちょっとでいいぞ」
「私だって。こんな時間にたくさんケーキ食べたら太るわよ」
 1/2を半分に切り、さらに半分にされた一切れが、花模様のケーキ皿に盛られた。それはまずは竜之介の前に置かれ、もう一つは月子の前に置かれた。最後の皿は、半分にカットもされず1/4の大きなピースのまま皿に乗せられ、僕の前に置かれた。本体の方は、チョコレートの板も置き去りにしてまるまる半分残っている。
「冷蔵庫に入れておくから。明日にでも寄って食べちゃってね」
 月子はこともなげに言うと、中身を見なかったようにデコレーションケーキに蓋をして、冷蔵庫に閉まった。
「『本日中にお召し上がりください』ってシールが貼ってあったぜ」
 明日中と書いてあったとしても、一人でホールケーキ半分なんて、どうすればいいんだ。
 竜之介はそう言いたげに、端正な眉をしかめた。
 堀りの深い目の大きなコイツは、ちょっとハーフみたいな綺麗な顔をしていた。まあそれは、でかくなってから言えることで、月子の話ぶりからすると、中学生の頃は、チビで痩せていて、目ばかりギョロギョロさせている少年だったらしい。神経質そうな、年中絵を描いている男の子で、その隣にいた陽平は年中本を読んでいる子供だったとか。
 竜之介はストレートでこっちの美大のデザイン科に入ったものの、なじめずに半年で辞めてしまった。翌年の4月からデザインの専門学校に通い始めたけれど、殆ど学校には行っていないし、バイトに明け暮れるフリーターと変わらない生活だった。
 貧乏なのは、上京してからずっと同じ。ヤツのアパートには料理する設備さえ無く、食事は時々月子の世話になっていた。
月子が食材を買っておく。夕方、竜之介が合鍵を使ってマンションに入り、二人分の夕飯を作る。竜之介が食べている最中に月子が帰って来ることもあるが、殆どの場合、ヤツは一人でとっとと食べて、レンタルビデオ屋のバイトに向かう。月子が先に帰る時もある。月子が二人分作っていると、画材屋の紙袋をぶら下げた竜之介があわてて部屋に飛び込んで来ることもあった。
 週に一度か十日に一度の割合だったが、バイト代が出る前は連日お世話になったりもする。
 月子に食わせてもらう。それは、子供の頃からそうだったので、竜之介にも月子にも違和感は無いらしい。陽平の家はクリーニング屋で、両親が忙しいせいか、月子が中学生の頃からまかないをしていた。陽平に食べさせるついでに、竜之介にも食事を出してくれた。竜之介の家も商店だったし、一人っ子のヤツはずっと陽平の家に入り浸っていたんだ。
 竜之介と陽平は、保育園からずっと、十年以上もつるんでいた。思春期になってからは、何度も聞かされたことだろう、月子への想いを。愚痴や自暴自棄な言葉。諦観。絶望。陽平の視線をなぞり、風になびく月子の髪を追ったかもしれない。

「で、これも、公平に半分ずつ」
 月子は、僕の前に置いてあったケーキ皿を掴み、包丁も使わずに、フォークの背でざくざくと半分に切った。真ん中に挟んであるブランデー入りの洋梨が、無残にはみ出して白いクリームの外壁にへばりついた。
「性格、出てるよなあ。月子さんが会社でどんなOLか見当つくな」
「黙らないと、2切れとも食わすわよ」
 月子は切れ長の目でじろりと竜之介を睨んだ。
 二人とも、義務でイヤイヤ食ってんのか? いかにも、こいつららしいけれど。
 今日21歳になるはずだった陽平の為の、バースデー・ケーキ。陽平は生きていればあの時の月子の歳に追いつく。
「おいしいケーキだとは思うんだけどさあ。量が多すぎ」
 竜之介は文句を言いながらも、スポンジを口に押し込み、コーヒーで胃に流し込んだ。
「冷蔵庫に残してくれても、オレでも、10号ケーキの半分はいっぺんには食えないぞ」
「学校に行く前に、朝ご飯として半分。帰ってきたら、夕食のデザートに半分」
「朝もここに寄れって?・・・うーん、学校は反対側だしなあ。寝坊しなかったら寄るよ」
 文句言いつつ竜之介は皿についた生クリームまでフォークで掬ってたいらげ、ちらっと腕時計に目をやるとコーヒーを飲み干した。12時5分前だった。
「じゃあ、ごちそうさまでした。おやすみ」
 そして、時計にけつを叩かれたかのように立ち上がる。
『12時前には部屋を出る』・・・これもヤツは密かに心に決めているようだった。自分で決め事を作っておかないとダメなタイプ。意志が強いのか弱いのかわからないヤツだった。
 自分の皿とカップと、ついでに月子の恋人が使った灰皿も流しに運び、部屋を出て行った。行儀がよくて優しすぎる竜之介は、見目がいいわりにはたぶん学校でもあまりモテちゃいないだろうと思わせた。
 月子は、眉間に皺を寄せたまま、フォークで生クリームをこねくり回している。
 置き時計の数字がカチャカチャと音をたてて全部『0』を作り、12時が来たことを告げた。
 5月の生暖かい夜。陽平の誕生日が、やっと終わった。


< 2 >

 寝坊した。
 でも、月子の命令は絶対だった。オレは、朝メシにケーキの残りを食う為に、月子のマンションのドアを開けた。
『うわ、酒くせえぞ』
 オレが帰った後、月子は一人でだいぶ飲んだのかもしれない。
 オレは恐る恐るリビングに足を踏み入れた。
 案の定、テーブルに床に、握り潰したビールの缶が散乱していた。まるで銀のオブジェを芸術的に配置したように。
 そしてオブジェを引き立てるBGMは、みごとに野太く地鳴りのような『イビキ』の音だった。
『・・・?』
 オレはベッドの方を覗いて見た。
 月子が大の字になってヘソを出して、毛布も枕も全部蹴っ飛ばして爆睡していた。
「月子さん」とオレは肩を揺すった。
「月子さん、もう9時なんだけど。会社は?」
 オレの手をバチンと払いのけ、寝返りを打って壁の方へ向いてしまった。とりあえずイビキは止んだ。
「月子さん!もう9時だよ!」
 今度は少し大きな声で、月子の耳元で声をかけた。
「うるさい。休むからいいの」という声が聞こえた。
「会社に連絡はしたの?」
「・・・昨夜のうちにメールした」
 初めから休むつもりでしこたま飲んだわけか。
 オレは、缶ビールの残骸を集めながら、昨夜は腹をくくって付き合ってやればよかったと後悔した。
 きっとお互い悪い酒になっただろう。月子はオレに絡んだだろう。オレをひどく傷つける言葉を吐いただろうし、誘惑してオレの反応を見てからかったり、陽平とオレの赤ん坊の頃の話を始めたり、たぶん居心地の悪い思いをさせられただろう。
 オレは缶を不燃物用のゴミバコに放り込むと、コーヒーを入れるためにヤカンを火にかけた。
 オレを傷つけながら自分の傷口に塩を塗っているような月子の態度は、見ていていつもつらかった。だからいつも距離を置いた。でも、陽平の誕生日だった昨夜くらいは、付き合ってやればよかった。
 そして、冷蔵庫から昨日の白いでかい箱を取り出す。
『箱ごと入れるかよ、普通』
 ビールが無くなった分、大きな箱はゆったりと収まってはいたものの。
 蓋を開けて紙の上でナイフを入れる。二つの皿に取り分けて、片方はラップをかけた。生クリームがべったりくっつこうが構わずにラップを密着させ、再び冷蔵庫に戻す。二日酔いの月子がケーキを食べてくれるはずはなく、夕方自分が片付けるハメになるのだろう。
 号数を確認しなかったなんて、アヤシイと思っていた。拷問みたいにオレにケーキを食わしたかったんじゃないかと疑ってしまう。
 大人が悠々腰掛けられそうなくらい大きなケーキの箱は、千切って小さくして可燃ゴミの方に捨てる。
『月子さん。自殺じゃないよ』
 オレはベッドの方を振り向き、数学の公式のように心でその言葉を唱える。ヤカンが火の上でヒューヒューと地団駄を踏み、オレはカップに落とした黒い粉に熱湯を注いだ。

『陽平。自殺じゃないよね?』
 祈りにも似た陽平へのその問いかけは、いくつもの悪夢と膨大な陽の当たる日常を経て、『陽平は自殺じゃない』というオレ自身への言い聞かせへと変化して行った。実際に、高校に入った頃には、もうあの夢で汗びっしょりで目覚めることは無くなっていた。
 上京して、月子に再会してから、また夢を見るようになった。
 この街は、アンケートによると、地方から東京に来る若者が住みたがる駅・第3位なのだそうだ。同じ街に住んでいることは知っていた。特に訪ねて行かなくても、いつかは会うだろうと思っていた。ごく普通に、最初の年、秋の終わりに改札口で出会った。
 月子の見る悪夢が、オレに伝染した。いや、違う、月子のせいじゃない。

『もっと何かしてやれたんじゃないのか?』という想い。
 それが最初の罪悪感だった。あの時十倍親身になって話を聞いてやればよかった。女の子を紹介するとか、反対に背中を押してやるとか、何かアクションを起こしてやればよかった。運動部にでも誘ってみればよかった。今さら考えても仕方のないことばかり。でもそういう罪悪感は、16くらいになった時には自分で消化できるぐらいには、オレは精神的に強くなっていた。
 月子との再会。月子が町を出たのは事故の次の年だから、22だった。月子はあんまり変わってはいないはずだ。変わったのはオレの方だ。
 中坊の頃のオレはチビだったから、いつも月子を見上げて話した。手際よくうまいものを作って食わしてくれる、親友の姉さん。宿題の答えを覗き込んで「ばかちょん、ここ違ってる」と指摘してくれる、面倒みのよいお姉さん。陽平の恋ごころも、ピンと来なかった。「ふうん。そういうことも有りかもなあ」という感想しかなかった気がする。
 月子を上から見降ろしたら、違う人間に見えた。
 記憶の中の月子は、もっと大きくて、もっと存在感があって、そしてもっとうんと年上で。こんなに華奢で小さいと思わなかった。こんなに年が近い女だと知らなかった。
 新たな罪悪感。それは、月子がオレの恋愛の対象に成りうるという事実だった。血のつながった陽平に許されなかったこと。14歳の陽平には与えてもらえなかったこと。
 そしてまた、オレは怖い夢を見るようになった。

 口の裏側にべったり残るクリームをコーヒーで流し落とすと、オレは小さなため息をついて立ち上がった。皿とカップを流しで洗い、もう一度ベッドのそばに戻る。イビキは止んでいたし、月子はもう目を覚ましていた。白い壁をぼーっと見つめて動かなかった。
「コーヒー飲む?それとも胃薬?」
「・・・頭痛薬」
「了解」
 月子はのっそりとベッドから起き上がり、オレの手からコップをもぎ取って鎮痛剤を飲み下した。
 大きなグラスから、透明で清涼な水が、月子の中に流れ込んでいく。指先まで。爪先まで。このきれいな水が行き渡るといいと思う。月子の淀みを洗い流し、新しい月子になれるように。
 オレはベランダに通じる窓を、大きく開け放った。
『月子さん。陽平は自殺じゃないよ』
 オレはまた月子に念を送る。ガキっぽい方法だけど、全然効果が無いとも思ってはいない。
「部屋の中、すげえ酒くさいよ。外はいい天気だぜ」
 ベランダの右側では、大きな桜の木が、緑の葉を青々と繁らせて枝を振っている。枝の先はベランダの手すりに触れそうなほど近い。風が吹くと香る桜の葉は、しょっぱいような甘いような、旨そうな匂いがする。マンションの前の道は年季の入った木造アパートや古い住宅が並び、時々唐突に鮮やかなコンビニの看板がのぞく。自分より大きな犬をつれたばあさんが、眠気を誘う速度でゆっくりと通りすぎる。
 太陽の影は黒くて強い。昨日同様、今日も暑くなりそうだった。
「あんたは汗くさいわよ。何日風呂に入ってないのさ」
「昨日だけだよ〜。昨日は銭湯に行けなかったじゃない」
「シャワー、使っていいわよ」
「遠慮しとく」・・・『オレは彼氏でも弟でもないし』
 オレが引いたひ弱で細い線に、月子は不快そうに顔をしかめる。その線は見るからに頼り無げで、園児の描いたクレヨンの落書きの方がまだマシかもしれないとも思う。でもオレは、月子がこんな精神状態でいる限り、線をホワイトで消し去るつもりはなかった。

「陽平の誕生日プレゼント、ちょうだい」
 ベットから抜け出した月子が、ラベンダーのお香に火をつけながら言った。カラーボックスに乗った小物入れから引っ張りだした100円ライターは、そのままお香の横にほっぽり出された。
「なんで陽平の誕生日に、月子さんにプレゼントをあげなきゃいけないんだよ」
 オレの抗議を無視して、月子は、
「21歳になった陽平の絵、描いてよ」
と続けた。オレは部屋を振り返る。外の明るさを見ていた目が、室内の闇に戸惑っている。
「そんな自虐的なプレゼントがあるかよ」
 オレははっきりと言葉に出して言った。
 月子の片方の眉が、攻撃的にぴくりと上がった。
「あら心外。それとも、竜くん、『自虐的』って日本語の意味、知らないで使ってるの?」
「・・・そうかも。オレ、高校ん時、現国は2だったし」
 月子の気持ちを逆撫でするのは、あまり利口なやり方じゃないと思いなおす。
「オレが勉強しているのはデザイン系だしさ。人物画なんて苦手。見たままをそのとおりに描くくらいはできても、成長させて描くなんて、無理」
 とりあえずオレは断った。描けないわけはない。特に陽平の顔なら。だけど、21歳の陽平のイラストを例の銀のフレームに入れて眺める、月子の、自分の傷を広げるような儀式に加担するのはイヤだった。
「都心で描いてる似顔絵の人なら、中坊の時の写真でそれくらいの注文なら聞いてくれるよ。コンピューターに写真を取り込んで、成長した陽平のモンタージュを作ってくれるサービスだってあるさ」
「そう。わかったわ。竜くんは降りるってことね」
 聞き捨てならなかった。オレは月子の手首を掴んだ。
「『降りる』って、どういう意味だよ? オレは、乗ってなんかいない。オレや陽平を巻き込むな」
 きつい言葉だった。でも必要だと思った。
「離してよっ!!」
 手を振り払った月子は、銀のフレームから陽平のイラストを取り出した。破り捨てるのかと思ったがそうではなかった。テーブルに裏返しに置くと対角線にざっと折り目を入れ、左右をまた折って、幼児が作るような簡単な紙ヒコーキを作った。
「私は決めたの。陽平が自殺した時。私は幸せになっちゃいけないって」
「陽平は自殺じゃないよっ!」
 オレは怒鳴った。月子はその声に振り返りもせず、ベランダに出ると、紙ヒコーキを飛ばした。
「陽平は自殺じゃない!」
 オレは叫び続けた。左右対照じゃない紙ヒコーキは、飛ぶと言うほど飛ぶわけもなく、ケント紙の重さだけで葉桜の中に突っ込んだ。地上から4メートルくらい。3階くらいの場所だ。桜の葉っぱの茂みの中に白い紙が刺さっているのが見える。
「竜くんがそう信じたい気持ちはわかるけど、陽平の日記が・・・」
「日記なんて、陽平が事故で死ななければ誰も見なかった。ほんとなら誰も知らなかったことだろ。
 自殺じゃない。説明したろ? あれはオレが作った中でも出来のいい凧で、陽平は惜しがった。あいつは昼メシには松竹堂の海老グラタンパンを食うって言ってた。ファンタとコーラとどっちを買おうか迷ってた。暑い日で、オレはずっとコーラを飲みたいって言ってて。だからオレはコーラを買うつもりだったから、『ファンタにしろよ』って言ってオレのコーラを一口あげる約束をした」
「・・・。」
「自殺なんかじゃない。・・・イラスト、取ってくる。オレが無事に取って戻ったら、オレの言葉を信じて」
「・・・えっ?」
 オレはスニーカーを突っかけると、月子の部屋を飛び出して、階段で一気にエントランスまで駈け降りた。

 桜の樹は、建物の斜め前に飾りのように植えられている。クラーケンの巨大な足みたいな根が、土や芝の表面にひび割れを入れていた。オレはきちんとスニーカーの紐を結び、幹の表面に触れてみる。ざらりとした感触。ウロの多さ、枝の太さ、木登りなんて中学以来だけどこの樹の感じなら無理じゃない。
 上を見上げる。桜の葉の香りでむせそうだ。
『あそこに引っかかってる、アレか』
 白い鳥でも一羽停まっているみたいに、陽平を乗せた紙コヒーキが枝に不時着していた。
「竜くん! バカなことはやめなさいっ!」
 4階のベランダから月子が叫んでいた。オレは手を振ってみせる。
 右手で、自分の頭の上くらいの枝をつかむ。右足を腰の高さにウロに引っかけた。右腕に力をこめると同時に、左足を蹴り上げた。
『おまえ、なに熱血やってんだよ、だせえ〜』
 陽平の、からかうような、うらやましがっているような声が聞こえた気がした。
 2メートルほど昇って行き詰まった。さて、どこに足を乗せれば一番ヒコーキに近いでしょう。まるでパズルだ。
「よっ!」
 斜め前の枝に懸垂で乗り上げる。上に来るにつれて、枝が細くて頼り無くなる。幹に手を密着させながら、しなる枝の上に立ち上がった。
「やめて!竜くん!危ないから!」
 月子は下まで降りて来たらしい。足の下からヒステリックな声が聞こえていた。
『やめて』って言われやめてもいいけど、ここまで登っちゃったんだから、危険度はおんなじだと思う。
 紙ヒコーキは頭上にある。右手は幹にくっつけたまま、左手を伸ばして、体をそらす。指先が触れる。つんつんと指でつつく。取るにはちょっと届かない。そばに出ていた細い枝、葉っぱの先を握ってぐいっと引っ張ってみた。
「うわっ」
 連動してオレの足元の枝も揺れた。オレは両手で幹にしがみつく。
「きゃあ!」という月子の悲鳴が聞こえた。ぱらぱらとちぎれた桜の葉が舞った。
 目だけで上を見ると、紙ヒコーキは手の届く場所までずり落ちていた。慎重に手を伸ばし、それを掴んだ。
 木登りは、降りる方が数段難しい。オレはヒコーキを口にくわえると、今度は両手で幹を抱えて、少し下にあるウロを足先で探った。
 少しずつ。あせらずに。ゆっくりと。
 オレは自分に言い聞かせた。今まで乗っていた枝を片手で掴み、ぶら下がるようにして下の枝に爪先をつけた。
『あと2メートル』
 その時、ミシッといういやな音がした。さっきからしなっていた、捕まった方の枝が、パリンと、ガラスが割れるみたいにあっけなく折れた。
「きゃぁーーーーっ!!」
 高層ビルから人が落ちたみたいな大袈裟な悲鳴だった。月子の声は頭上でしていた。オレは月子の『きゃ』ぐらいの時にはもう、地面に落ちていたから。
 足から落ちたけれど、一応、体は丸めて受け身で落ちて、一回転した。そのあとに仰向けに倒れた。本棚の上から落ちたくらいの高さだし、下は芝と土だった。頭も腰も打っていない。捻挫くらいはしてるかも。
 オレは口から紙ヒコーキをはずした。
「ちぇ、かっこ悪」
「竜くん・・・」
 泣きそうな顔をして月子が覗き込んでいた。
「陽平のこと、信じてやってよ。そんな弱い男じゃなかった。
 だいたい、死ぬんだったら、松竹堂の海老グラタンパンを食べてからにする。決まってるだろ」
 うんうんと頷きながら、月子はその場にしゃがみこみ、両手で顔を覆った。

 起き上がると、さすがに着地した右の足がじんじんしていた。捻挫はしてないみたいだ。半袖の腕にたくさんの引っ掻き傷ができて、所々血が滲んでいた。
 オレと一緒に落ちた桜の枝は、細いけれどけっこう長い枝だった。その屍は、マンション前の通路を斜めに遮っていた。枝の先にはたくさん葉が茂り、強い日差しに葉脈を透かせている。オレのわがままに付き合わされて、こんな目にあって。申し訳ないことをした。管理人室を覗いて、おばさんに自己申告して謝罪した。
「倉庫にはハシゴもありますから。そう言う時は一声かけてくださいね」と、冷たい視線で叱られた。


< 3 >

 そういうわけで僕は、部屋に戻ってから竜之介の手でテーブルの上で丁寧に皺を伸ばされた。折り目の部分が白くなってしまったのは、もうどうしょうもない。
 床に放り投げられてあった銀の写真フレーム、竜之介は紙が引っかからないよう慎重にサイドからイラストを差し込んだ。
『折り曲げられて、空に飛ばされて、竜之介の口にくわえられて(ああ、気持ち悪かった)、伸ばされて、またフレームの中、かあ』
 この2年の間で、かつてないほどスペクタクルな出来事だった。
 前と同じカラーボックスの上、同じ位置に置かれる。さっきまで見ていたのと同じ部屋、同じ景色。でも、どこか違う。部屋の空気が何となく違って見えた。
 僕と向かい合う竜之介の顔。右の頬に軽いミミズ腫れができていた。僕に(というより陽平に)、心の中で何か言っているらしいのがわかる。まばたきのペースが、人に何かを語りかける時のものだった。
「学校はどうするの?」
 月子が竜之介の前に、赤い色の缶を置いた。
「これから行くよ。この時間だと、4校時かなあ。
 ・・・サンキュ。よくわかったね、コーラが飲みたいって」
 月子は返事をせずに、かすかに笑った。
 勢いよくプルトップを引いて、竜之介はコーラをぐいぐいと飲んだ。
「おいしそうに飲むわねえ」
「汗かいたからね」
「汗なら、こっちもかいたわよ、冷や汗をたっぷり。ほんと、無茶するんだから」
「ごめん。・・・飲む?、一口」
 うまく降りられたなら。陽平も飲んでいた、一口のコーラ。
「もらうわ。・・・って、もともと私のコーラじゃない」
「そうだけどさ」
 竜之介は笑い、月子も笑顔になった。

 大きなショルダーバッグを抱え、竜之介はもたもたとスニーカーを履いた。指が裂傷で痛むのかとも思ったけれど、たぶん違うんだ。何か月子に言おうとして、機会を伺っている。
「あのさ・・・」
『できる限りさりげなく』というのは、よほどの名優でも難しい演技だ。竜之介は立ち上がると、背中を向けたままで言った。
「月子さんの誕生日に、月子さんを描くっていうのなら、いいよ」
 そしてちらっと振り返ると、慌ててドアを開けて出ていった。竜之介を見送った月子の表情は、僕からは後ろ姿になっていたので、わからなかったけれど。

 その日、午後を少し回った時刻。
 二日酔いも去り、きっと小腹がすいたのだろう。
 月子は冷蔵庫をあれこれ探索していた。なかなか心惹かれる食物が見つけられないらしく、立って腰に手を当ててみたりしゃがんでみたりして探していた。そして観念して、ついに、例のケーキの残りを取り出した。
 コーヒーをかき回したスプーンをマグに入れっ放しにして、ケーキの皿と一緒にガラステーブルに置き、ベッドのへりに腰をかける。
 心地よい五月の風が、開け放した窓から入り込み、重いはずの遮光カーテンを揺らした。どこかの家で子供の練習するピアニカの音が聞こえる。
「ひどいラップのかけかたねえ」
 月子は声に出して言うと、くすっと笑い、透明な膜をはがした。
『ハッピーバースデー ようへいくん』の板チョコは、柔らかなスポンジにめり込んでいる。きれいな薔薇の花びらも、もう跡形も無い。
 そして月子は、ラップにたっぷりとついた生クリームを、スプーンですくって、口に入れた。
 あんなにおいしそうにケーキを食べる、月子を見たのは初めてだった。

< END >


目次へ戻る