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逃げることへの疲労感が、その町で男の足を止めさせた。さびれた港町だった。
(三題噺「育ジィ」「空港」「フレンチトースト」)
『マドモアゼル・クラリス
ビアンヴニュ
シライシ』
わたしはこう書かれたプラカードを両手で掲げ、生後八ヶ月の赤子を背負って成田の到着ロビーにいた。前抱っこでないのは、背負う方が腰に負担がかからないからだ。
初老の男性がそんな姿でいるのは外国人にも珍しいらしく、インターナショナルな方々にチラチラと見られたし、写メを撮る輩さえ居た。彼らの旅行ブログに載るハメになるのかもしれない。
娘の瑠璃の友達・クラリスが、パリからやってくるので空港に迎えに行ってと頼まれたのは昨日だった。瑠璃はどうしても仕事が休めず、行かれないという。
自慢じゃないがわたしはフランス語どころか英語もできない。クラリスを迎えても、たぶん背中でバブバブ言ってる優真より意志の疎通ができないだろう。でも、妻も仕事が休めないと言うし、定年して孫の育児をしているわたしが出向くしかなかった。
「育ジィ、デスカ?」
日本人にしか見えないが、韓国人か中国人かブータン人かベトナム人か。黒髪黒い目ひらべったい顔の女性が片言で話しかけてきた。
「写真はいいけどね。ブログはやめて」
少し日本語がわかるようなので、お願いしてみた。よほど日本びいきなのか、育児ジジイ、略して育ジィという言葉も知っている。
「白石瑠璃ノ、父上?」
「え、マドモアゼル・クラリス? どう見てもアジア人」
「母ハ日本人デス。日本語、喋レマス」
わたしはほっとした。
「漢字モ、少シナラ、読メマス。仮名ハ、全部」
「へえ」
「ダカラ、ソレ、読メマシタ」
わたしの持つプラカードを指差した。うっかり、全部カタカナで書いてあった。せっかくフランス語で「ようこそ」を調べたのに。
クラリスが空腹だと言うので、わたしたちは駅周辺のファミレスに入った。赤ん坊を連れているので、普通のレストランは迷惑になる。
ソファでやっと優真をおろすと、「抱イテイイ?」とクラリス。もちろんと頷き、手渡す。彼女が来た目的の一つは、瑠璃の子供に会うことなのだ。優真は人見知りしない子で、クラリスの膝でキャッキャ言っている。
フランスにも和食のレストランは多いそうだが、クラリスは、本場の和食が食べたいから、トンカツ定食がいいと言った。ここは洋食系ファミレスだから本格的な和食は望めないし、トンカツも、和食には違いないが、日本人が考える「外国人が求める和食」とは少し違う気もする。
それでもクラリスは嬉しそうにトンカツを食べた。
「ナイフとフォークをもらいましょうか」と言ったが、上手に箸を使った。母親が日本人だと言ったが、たいしたものだ。
わたしはそう空腹ではなかったので、フレンチトーストにした。
「クラリスさん、これは本場のとはだいぶ違うの?」
「本場? ・・・フレンチ・トースト、アメリカ生マレ。『フレンチ』ッテ名前ノ人ガ、作ッタ」
えっ。えーーーーーっ。
「で、クラリスさんのお父さんが、フランス人なの?」
「イイエ、父ハ、日本人デス」
「・・・。」
母親が日本人で、父親も日本人で。それは、普通に、日本人ですよね?
ハーフにしては顔がひらべったすぎるだろうとは思っていたが。
クラリスという名は、両親が「カリオストロの城」が好きでつけたんだそうな。父親の仕事の関係でパリ産まれで、中学生の時に両親の離婚の危機で母親について半年ほど日本に来ていて、うちの娘とクラスメートだったそうで。とても親切にしてもらって、以来手紙やメールでやり取りしていたとか。
わたしは、知らなかった。娘のクラスメートにパリから来た少女がいたことも、わたしには「チッ」とか「うざっ」とかしか言わなかった頃の娘が、とても親切な優しい子だったことも。15,6年前のわたしは、9時から23時まで、エクセルの数字と会議の紫煙にまみれていた。
自分の食事が済むと、わたしは大きなショルダーバッグからレトルトの離乳食を取り出し、それまでソファに転がしていた優真を膝に据わらせると、「さ、モグモグしようね」「おいしいよ」「あーんね」などと、いちいち話しかけながら、一口ずつ専用のスプーンで与えた。最初は恥ずかしかったが、三日で慣れた。
わたしは、瑠璃が八ヶ月の頃なんて、いや、赤ん坊なんて、二年くらいはミルクだけ飲んでると思っていた。八ヶ月はもう離乳食も「中期」だなんて。六十を半ば過ぎても、まだまだ知らないことだらけだ。
店を出る時、出入り口にたむろしていた男子高校生らの一人が、わたしが赤ん坊を背負っているのに気付き、ドアを開けて、抑えておいてくれた。クラリスには当然のことのようだった。わたしは、妻が育児をしていた時期でさえ、どこかの母親のためにドアを抑えるなんて、したことはなかった。
「ありがとう」
優真も、こんな少年になるといい。そう思い、背の赤子にそっと手を触れた。
<END>
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