『薔薇の女』

逃げることへの疲労感が、その町で男の足を止めさせた。さびれた港町だった。
夜だったが、町に灯かりは無かった。いや、一軒だけ、いかにも場末の店がピンクやグリーンのフィラメントを輝かせていた。地下へ降りていく階段の暗さに心惹かれた。
 

重い扉を押し開けたあとに、ここが生演奏の店だと知った。客は皆ステージの方へ体を向けている。よそ者の客である自分が注目されずにすむ。
ステージでは、黒いドレスの女が歌っていた。知っている曲だった。だが、心踊るラブソングのはずなのに、泣いているような歌だった。ピンスポは少しずれ、黒人の弾くピアノの音は狂っていた。
誰も歌など聴いていない。酔いつぶれてテーブルにつっぷした客、酔って視点の定まらない客、連れの女を口説くのに夢中な客。それ以外の客はシンガーの胸元ばかり見ていた。そういう店だし、そういう歌手だった。
女は長い金髪を結い上げ(髪は人工ブロンドらしかった。女の眉も瞳も黒だったから)、トップに赤い薔薇を一輪飾っていた。それ以外の飾りはなかった。首にも耳にも何もつけていない。べたつくような赤すぎる唇の横にある、ホクロをアクセサリーの数に入れなければ。
カウンターのテーブル席、男の前にやっと水割りが置かれた頃、ステージが終わった。女は髪から薔薇を抜き取り客席に向けて投げてよこした。
誰も、花を目で追うことさえしなかった。狭い店なのでカウンターの近くにまで飛んできた。男は思わず手を伸ばし掴んだ。軽い痛みを覚えたのは、刺のせいかそれとも関わってしまったことへの後悔なのか。
 

女はステージが終わると、高すぎるヒールによろけながら客席に降りて来た。そしてまっすぐにカウンターに向かい、空いているスツールに腰を降ろすと、バーテンにシンガポールスリングを注文した。バーテンはカクテルのグラスと一緒に、黒いビロードのバッグを女に手渡した。女はバッグから煙草を取り出し、次の瞬間にはもう煙を吐いていた。
「薔薇をつかまえたひとね」
男を一瞥して、煙を吐くように言った。拍子抜けするほど、普通の声だった。
「それは」と、男が手に握ったままの薔薇に目をやり、「幸運の薔薇よ」と続けた。
「あなたにもきっと、いいことがあるわ」
「そうかな」
男の声には一グラムほどの期待もこもっていなかった。
幸運の意味も、もう忘れてしまったのかもしれない。
「薔薇に手を伸ばしてくれた男なんて、二年ぶりくらいよ。
うれしかったわ。本当よ」
女は、男の手の薔薇を、手品みたいにするりと背広の胸のポケットに差した。
赤い毒々しい色のカクテルを飲み干した女は、今度はバッグからごっそりリップスティックを取り出した。十本はあっただろうか。中にはまだ山のように化粧品が入っているのだろう、ジャラジャラと音がしていた。
「ステージ用の化粧っていうのは、そんなに口紅が必要なものなのか?」
男が疑問を素直に口にすると、女は肩をすくめた。
「使うのは二、三本よ。私には使えない色もある。でも、暮らしていた男にもらったものや、大きなステージでつけたやつや……。思い出のあるものもあるから、つい持ち歩いてしまうの。それに、ルージュだけじゃないわ、ほら」
女はバッグから両手一杯の小さなガラス瓶を出して、カウンターテーブルに広げて見せた。これも十本くらいあるだろうか。中には、真珠のピアスだとか、金の細い鎖、爪や髪の毛らしきものの詰まった瓶もあった。
「亭主の葬式でつけたピアス。歌で初めてもらったギャラで買ったネックレス。思い出のあるものはこうしておくの。嬉しかった思い出を、瓶に閉じ込めるのよ」
まったく、なんで女は、こうこまごまとしたものを大切にするのだろう。あの女もそうだった。自分と入ったバーやホテルのマッチを大切そうに持ち帰っていた。馬鹿な女だった。他の男と行ったものまで、大事にとっておくなんて。そんな癖ひとつのために、花瓶で頭を割られ、床の下で腐っていくことになるなんて。
「今、『女って奴は』って顔をしたわね」
女はおかしそうに、ふふっと笑った。男は自分の思いにとらわれていたので、「亭主の葬式」を、嬉しかった思い出の一例としてあげた時の女の目に気づかなかった。
「もう、次のステージだわ。行かないと」
誰に言うでも無く呟くと、女は立ち上がった。
 

初めての町で、そして二度と来ない町。
宿を探すのも面倒だった。ゆっくりと水割りをくゆらし、この店で朝を待つつもりだった。やがて客が減りはじめ、朝が近いのが感じられた。男は店を出た。
外に出ると、思ったより夜は深かった。いや、この町には永遠に朝は来ないのかもしれない。足は海のにおいに引き寄せられていった。一番のバスが出るまで、海辺で時間をつぶすのもいいかもしれない。
道路から海辺に降りる階段に立つと、黒くうねる波の音が聞こえた。しかし、階段を降りて砂浜を歩いても、海は見えて来なかった。暗黒の中で波音と風の音がうずまいている。砂と海と空の区別はまったくつかなかった。ふと気づいたら海に首までつかっていてもおかしくないほどだ。
風と波の音に混じって、女の歌う声が聞こえた。この曲は甘く優しい恋の歌のはずだが、泣き叫ぶように歌っていた。目が慣れてくると金色の髪が見えてきた。さっきの歌手らしい。女も、男に気づいて歌うのをやめた。
「また会ったわね、薔薇を取った幸運な人」
女はそう言うと、小さなガラスの瓶を男の足元にぽんと投げた。瓶は砂の中にぽとりと落ちた。瓶の中には何かきらきら光る液体が入っているようだった。
「あげるわ」
「幸運って、これのことかい」
「人によるわね」
 

男は拾うでもなくただその瓶を見つめていた。
やがて空と海の隙間に明かりが差し込み、波の音も穏やかさを取り戻しつつあった。
どれくらい佇っていたのだろう。女の姿は既に無く、砂浜には瓶だけが埋まっていた。
海辺へ降りるとき使った階段もなく、その上にあったはずの道路もなかった。もっと言えばあの店も家並みもなかった。さびれた港町など、どこにもなかった。目の前に広がっていたはずの海は、くすんだ茶色の壁だった。赤いしみが点々と飛び散っていた。薔薇を差してあったはずの胸には、薔薇の形に血がへばりついていた。剥がされた床板の下に、妻を埋めた形に砂が盛り上がっている。
男は、砂に埋まりかけていたガラス瓶をしばらく見つめていた。そしてゆっくりと手に取った。
 

    <END>

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