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「山田さん、三年の男子が呼んでる」
朝の教室で声をかけたのは、気の効かなそうな委員長だった。他の人だったら、私に声をかける前に、その三年に確認しているはずだ。賭けてもいい、彼が用があるのは私じゃない。
私はのろのろと席を立ち上がると、踵を踏み潰した上履きを引きずって廊下へ出た。その三年は、夏服のグレイのズボンのポケットに手を突っ込んで立っていた。見覚えがあった。面識があるわけじゃなくて、バスケ部の主将の平野さんだったのだ。だいたい、こういう女子に人気のある人が、私に会いに来るはずなどないのだ。
その証拠に、私が廊下に立っても、彼の視線は私の頭上を通って、まだ教室に注がれていた。
「あのう!」
私の声は少し怒っていたかも知れない。彼はようやく私に視線を落し、戸惑いの表情になった。
「山田さんは欠席なの?」
「私が山田知美です。髪が長くて目がぱっちりして、成績もスタイルもいい山田知美さんは、A組です」
小柄でぽっちゃり、チェックのミニ丈の可愛い制服が泣く太めの足、ダサイおかっぱ頭にはれぼったい瞼の私を見て、彼は途方に暮れたような表情になった。そして、ちらっと『C組』というクラス表示に目をやった。
平気。慣れっこだった。
入学して最初の二か月位は、生徒も教師も混乱していたようだが、今では『山田知美』と言えばA組のあの彼女のことであり、私は『C組の山田』だった。ひどい男子になると、影で私を『ランクC』などと呼んでいた。
でも、九月も半ばになって、まだ間違ってやって来る奴がいるなんて。そういえばこの人、ちょっとぼーっとした感じだ。
とっととA組へ行けばいいのに、まだ私の顔を見て、酸欠の金魚みたいにぱくぱく口を動かしていた。でも、言葉は出てこない。
「A組は、ここの廊下を渡って、一番端の教室です」
私はそう言って、くるりときびすを返し、教室へ戻りかけた。
「あ、あの・・・・・・」
ウドの大木はまだ何か言いたげに私を引き止めた。知らないわよ、同姓同名でも、彼女の詳しい情報なんて。
「ごめん」
彼はいきなりペコリと頭を下げた。
三年男子が。しかもクラブの主将までやるような人が。一年の女子に。
私は目をぱちくりさせた。
その時予鈴のチャイムが響いた。平野主将は結局廊下は渡らず、三年の校舎へ走って戻って行った。
「知美ったら、また何か意地悪なこと言ったんでしょ。三年生を土下座させるなんて」
教室に戻ると、真紀がニヤニヤして近づいて来た。土下座なんてさせてないじゃん!
でも、確かに意地悪だったかも。私、この高校に入ってから、性格悪くなったかも。
あの人には、私が傷ついたのがわかったのだ。だからあんな風に謝った。そのことにも気が滅入った。
三校時目に化学室へ移動する時、職員室前の廊下にテスト順位が張り出されているのに気づいた。夏休みの課題テストの結果だった。五位の山田知美はもちろんA組の彼女だ。上位五十名に私の名前が出現することは、おそらく卒業まで一度も無いだろう。
彼女とは、一度だけ話したことがあった。 本人達以外がまだ混乱していた五月頃だろうか、現国の教師が作文を間違えて返してきたのだ。『私の家族』というしょうもない課題の作文で、私は口うるさい両親への愚痴と生意気な弟のことを書いて出した。戻ってきた作品は、見知らぬ美しい文字で書かれた評価『a+』の作文だった。悪いけれど読んでしまった。愛犬・ポメラニアンのシャギー君について書かれていた。小説家のエッセイみたいに綺麗な文章だった。
取り違えられた作文は、彼女の方からC組に返しに来てくれた。私の評価は『B』で、朱書きで誤字が直されていて、私の頬もかっと赤くなった。
「つい読んじゃった、ごめんなさい。面白い弟さんね。私は一人っ子なの」
彼女はゆっくりと笑みを作った。優雅で、とても同じ歳とは思えない笑顔だった。
「私も読んじゃった。a+だなんて、すごいね」
話をしたのはそれだけだった。その時は、彼女がなぜ『私の家族』の課題で、犬のことを書かなければならなかったかを、知らなかった。考えようともしなかったのだ。
友達の真紀が情報を仕入れて来たのは、平野主将のことがあった夜だ。翌日に会えるのに、真紀は興奮した声でわざわざ電話をかけてきた。
『A組の山田さんてさあ、家が複雑なんだってよ。中学の時に親が離婚して、母親に引き取られて山田姓になったらしいよ』
その母親というのも、恋人と半同棲状態で家には殆ど帰らず、彼女はマンションに犬と二人で暮らしているのだという。真紀には、夏季講習で、A組の山田知美と同じ出身中学の友達が出来たのだ。中学でも、彼女は注目される存在だったらしい。
『綺麗だし秀才だし、ちょっと憎たらしいと思ってたけど、可哀相だよね』
しかし、真紀の言葉に頷きながら、反対に私は羨ましさを覚えていた。嫉妬に似た思いだった。その美しい容姿に相応しい、ドラマチックで非凡な家庭環境。彼女は映画のような人生を送る人なのだ。
私は? そして私は?
安っぽいアコーディオンカーテンで仕切られた居間で、私は受話器を握り直した。背後では弟が、TVゲームの派手な爆発音を炸裂させていた。
そして、A組の山田知美とは、私の中では当然と思える形での別れが待っていた。十一月の文化祭を待たずに彼女は退学した。十六歳になるのを待って結婚したのだ。相手は中学の時の担任だという。既に妊娠三カ月で、来年六月が予定日だそうだ。
教師を始め、生徒達は驚愕したようだ。彼女は不良ではなかったし、素行もよかった。でも私には、いかにも彼女らしく思えた。戸籍上は十六でも、彼女は大人だった。大人の女性が当たり前のようにすることを、しただけなのだ。
やがて、二学期の期末試験が始まった。初日からボロボロだった私は、バスを待ちながら大きなため息をついた。バスは行ったばかりで、前には一人だけ長身の男子が並んでいた。
「やあ」
声をかけられるまで、平野さんだと気づかなかった。彼は指定の紺のマフラーで口から下をぐるぐる巻きにしていた。そうすると人なつっこい目だけが目立った。
「あ、どうも」
私は気まずく思いながら、挨拶を返した。次のバスが来るまで二十分もあった。三人目に並ぶ人が、どちらかの知り合いだといいと思った。でも、三人目さえ来なかった。
「A組の山田さん、学校辞めたんです」
他に言うことが見つからなかった。
「うん。知ってる」
「あのあと、A組へ行ったんですか?」
「行かなかった」
そんな気がしていた。この人、何となくテンポがズレているのだ。チャンスの神様の禿げた後ろ頭に手を伸ばし、いつもコケているタイプだ。そう言えば、バスもこの人の目の前で行ってしまった。
「オレの兄貴ってさあ、バスケで高校入った人でさあ、大学もバスケの推薦入学だった。高校の時も、インターハイで三位になったんだ」
唐突に、本当に唐突に彼は話し始めた。
「ふううん。すごいですね。さすが兄弟ですね」
言ってからしまったと思った。うちの高校のバスケ部は、地区予選で一回勝てば万々歳の弱小チームだった。
「アホだと思うだろ? 比べられるわかってたんだけど。でも、バスケが好きでさあ、やめられなかったんだ」
この人ったら。九月のあの時、人違いして私を傷つけたこと、まだ気にしているんだ。そして十二月の今、慰めようとしている。当の山田知美もいなくなった、いまさら。
私はなんだか楽しい気分になった。平凡でも、ドラマチックじゃなくても、素敵なことはたくさんあるんだと思った。
「平野さん、三学期は、三月の自由登校までは普通に毎日来ますか?」
「もちろんだよー。夏まで部活に夢中だったから、ちゃんと授業出ないとヤバイ」
彼はコートのポケットから手を出して、暖を取る為こすりあわせた。球技をやる人にしては小さな手だった。
今度のバレンタインは、今度こそ、あげる対象がいそうだ。受け取って貰えるかじゃなくて、あげたい人がいる。それが私の心を踊らせた。
今はもう山田知美じゃなくなった、彼女。彼女が見たら、鼻で笑うだろうか。それとも『微笑ましいわね』って姉のように笑顔になるのだろうか。
乾燥した木枯らしが、バス通りの埃を舞いあがらせた。私がくしゅんと小さなくしゃみをするのと同時に、平野さんが校舎にまで響きそうな大声でくしゃみをした。私たちは顔を見合わせてゲラゲラと笑った。<END>
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