『八重桜が好きだったね。』

 寒々としたグレイの空に溶け込む灰色の建物。毎日のように人の死が繰り返されるその場所ではあるが、だが僕は喜々とした足取りで、学生鞄を揺らしながら訪れた。大学病院の受付は午前中で終わってしまうので、玄関の扉は締まっている。僕は裏口の面会者のドアへと回り、薬くさい廊下を急ぐとエレベーターに飛び乗った。
 鞄の中には、ジェームスディーンの写真集。従姉のふみに頼まれて、古書街で足を棒にして探し当てた戦利品だった。
 病室を覗くとふみは部屋にいなかった。でもそれより、隣のベッドが整えられているのにぎくりとした。藤川というおばあさんのベッドだ。でも僕はそれには気づかない振りをして、正面のベッドの菊地さんに「ふみは?」と尋ねた。
「おや、篤弘くん。ふみちゃんねえ。さっきからずっといないわ。売店かしら。それとも男部屋でゲームかしらねえ」
 僕の母と同じ年くらいの菊地さんは、おっとりした口調で毛糸の帽子を直しながら教えてくれた。モヘアの淡いブルーグレイのグラデイションの帽子を被っている。
「今日行くって言っておいたのに!」
 僕は憮然として、ふみの散らかったベッドに重い鞄を放り投げた。うさぎやら猫やらのぬいぐるみが、はずみでぴょんと跳ねた。またぬいぐるみが増えている。どこで調達しているんだろう。それにしても、二十六にもなってぬいぐるみと寝るなよなあ。
「藤川さんは、外泊ですか?」
 僕は何気なくを装って尋ねた。入院が長いと、容体さえ安定していれば家に帰ってもよかったりする。ところが、菊地さんは「うっ」と言って口を押え、ベッドにつっぶした。部屋にいた他の三人も一斉に手でやタオルで顔を覆った。
「今日。今日、突然・・・・・・」
「そ、そんな。だって、この前来た時はあんなに元気そうで・・・・・・」
 顔をしわしわにして微笑む、じいさんだかばあさんだかわからない藤川さんの顔が浮かび、僕の目の縁から涙が零れ落ちた。僕は慌ててスクールコートの袖で目を擦った。
 カランカランという軽快な音がこの部屋の前で止まった。点滴の台を引っ張る音だ。
「やあ、あっちゃん」
「篤弘くん。まあ。最後に会えてよかった」 金ラメのニットキャップのふみと、ミッキーマウスのニットキャップの藤川さんが、にこにこ並んで部屋に入って来た。藤川さんはオーバーを着ていた。
「今日で退院なの。お世話になりました」
「・・・・・・。」
 僕はあんぐりと口をあけた。最後の涙の粒が、ぽろりと頬に落ちた。
「きーくーちーさん?」
 僕が振り返ると、菊地さんは毛布を被った。
「だ、だってふみちゃんが。篤弘くんが来たら騙そうって」
「ふみーっ!」
 

 藤川さんは、女子大生の孫がクルマで迎えに来て、退院していった。退院には二種類ある。全快した場合と、もう助からないから家族とお過ごしください、ってやつ。藤川さんが前者であることを祈りたい。
「あっちゃーん、藤川さんが死んだと思って泣いたんだって?」
 いたずらそうに僕の顔を覗き込む、ふみは父方の従姉だった。家が町内なので、殆ど姉弟のように育った。もっとも十歳も離れているから、ふみの遊び相手は僕の姉の靖子で、僕はおみそでくっついて行って邪魔にされていたのだと思う。
「信じられないっ。ふみたちって、癌患者だって自覚あんのかよー」
「あんた、ひいおばあちゃんが死んだ時だって泣かなかったくせして」
「だって、三歳の時だろ。覚えてないよ。
 藤川さんは、よくパンとか和菓子とかくれたじゃんか」
「わかりやすーい!」
 ふみはベッドでのけぞって笑った。点滴の管がピンと張ってしなった。
「おい、あんまり暴れるなよお」
 はらはらして僕が言っても、ふみはまだ腹をかかえて笑っている。
「ほい、チョコレート。少し早いけど」
 笑いながら、ジャージの上着のポケットから、百円の板チョコを投げてよこした。
「もしかして、バレンタインのチョコ?」
「売店で買って来たんだ。一番乗りでしょ?」
「う、うん。ありがとう」
 あんまりありがたみもない板チョコだったけれど、一応礼は言った。
「私もチョコあげたから、死んだらちゃんと泣いてよね」
「バカなこと言わないでよ」
 ふみはほんとに冗談で言っている。自虐的な暗さはない。それはわかっているのだけれど、そういう冗談を言われる度に、僕の胸はきりきり音をたてて痛むのだ。
「そうだ。頼まれた写真集。やっと見つけたんだよ」
 僕は鞄を開いて、ビニール張りの図鑑みたいな本を差し出した。
「おぉーっ。さんきゅ、さんきゅ」
「二千七百円だからね。今日でなくていいけど、今度来たら必ず返してよ」
 大きな病院では盗難が多い。だから入院患者は小銭しか持たない。普段は電話代やジュース代くらいしか必要ないのだ。
「見て、この目。きゃー、かっこいい」
「ふみ、聞いてる? 高校生の借金、踏み倒すなよ」
 返事はない。聞いていないようだ。ふみはベッドの中で前のめりになってモノクロの写真に見入っている。
「僕でも見たことのある写真ばかりだ」
「あまり写真が残ってないんじゃない? 渋くなってからの芝居も見てみたかったな」
「レッドフォードやイーストウッドみたいに、監督もやったかもしれないね」
「早過ぎたよね」
 ふみがぽつんと言った。
 

 ふみの入院している大学病院は高校の沿線にあるので、僕は自分の親やふみの親に頼まれ、よく伝書鳩になった。ふみとあんなに仲のよかった姉は、OL生活を満喫するのに忙しく、全く見舞いにも行かない。今夜も飲んで十一時過ぎにご機嫌で帰って来た。下の台所で歌を歌っているのが、僕の部屋まで聞こえて来る。
「あつひろーっ。コーヒーの缶があかなーいっ! きつく閉めすぎーっ」
 そうやって力仕事になると僕をこき使う。僕はシャープペンを教科書に挿んで立ち上がった。
「うるせえなあ。何時だと思ってるんだよ」
「おねえさまに向かって、その口の聞き方はなにっ!」
 ふみと姉は性格が似ている。いや、性格は違うのだが、僕に対する態度が似ているのだ。僕は沸騰を始めたヤカンを止めて、たいしてきつくもないコーヒーの缶を開け、フィルターを敷いて二人分のコーヒーを入れた。ちょうど僕も飲みたかったところだ。
 姉は黒いオーバーのままキッチンの椅子に座り、僕がコーヒーを持って行くと、やっと手袋をはずしてカップを手でおおった。
「あー。さむ。酔いざめだわ。あ、このチョコ食べていい?」
 テーブルにのった板チョコをめざとく見つけた。
「だーめ。これは僕がふみから貰ったんだから」
「バレンタイン? にしては、色気がないというか、ふみちゃんらしいというか、露骨な義理チョコというか。
 あんた、今日も見舞いに行ったの?」
「頼まれていた本を渡しにね。ねえちゃんも、たまには行ってやれよ」
「死んでから後悔しないように? ご免だね」
 姉はコーヒーをぐびりとビールみたいに飲み干して、カップをテーブルに置いた。
「あんたも、十年後なら三十六と二十六で可能性がないわけじゃないけど。今はどうせ眼中にないわよ。がんばるだけ無駄なんだから。ふみちゃんがあと十年生きるなら別だけど」
「ねえちゃん!」
「さーて、化粧落して寝るか」
 何をどう怒ればいいかわからなかったが、殴りたいほど腹がたった。だけど僕は人を殴らない人間だったし、自分のことで喧嘩したらふみは悲しむに決まっている。僕は姉のカップを洗い桶に放り込み、自分のコーヒーの残りは流した。部屋に戻るとすぐに布団を被って寝てしまった。ふみへの気持ちは恋などではなかった。病気なのが姉だったとしても、やはり自分はまめに見舞うだろうと思う。
 ふみが、肝臓癌であと六カ月と宣告され入院してから、すでに八カ月たつ。
 

 その後は学年末テストと進級レポートの提出などで忙しかった。ホワイトデイには、病室にキャンディを置きに行っただけでろくに話もせずに帰った。その後ふみは風邪を引いて、面会ができない状態になった。
家の電話が鳴るたびに。父も母も姉も。みんながぴくりと肩を動かす。母の「あらー、××さん」という明るい挨拶が聞こえるまで、僕の呼吸は止まったままだ。自分の部屋でも。風呂でも。電話の音がしてやしないか耳を澄ませていた。待っているのか? これではまるで、その電話を待っているみたいだ。
高校が春休みに入った頃に、ふみの母親から回復したという連絡が来た。僕は部屋で少し泣いたけれど、それは複雑な涙だった。ほっとした嬉し涙でもあり、単に先伸ばしになっただけだという切なさの涙でもあった。
 四月に入って最初の日曜日。姉が家にいたので無理矢理一緒に病院へ引っ張って行った。姉がしぶしぶ来たのは、母に『兄さん夫婦に義理を欠く』と泣かれたからだ。

 病院の庭の桜は満開だった。天気のいい日が続いているせいか、すでに花びらが舞い始めて石畳の道にたくさん張りついていた。
 病室にはふみだけがいた。天気がいいからみんな散歩に出たか、日曜日なので面会者が来てサテンにでも行ったのかもしれない。ふみは客用の椅子を窓のそばに寄せて座り、庭を見ていた。ニットキャップが赤いバンダナのパイレーツ巻きに変わった。パジャマの上には、春らしい水色の薄手カーディガンを羽織っていた。
「おーす」と振り返ったふみは、冬に会った時にくらべると、ぎくりとするほど痩せた。頬がこけて目が窪んでいた。
「靖子じゃん、珍しいこと」
 笑うと口許に大きな皺が寄った。窓からの光が眩し過ぎるせいじゃなく、顔も白っぽく頬には赤味もなかった。カウントダウンが始まっているんだ。そう思うと背筋がぞっとした。でも僕も必死で笑顔を作った。
「やっと連れて来たんだ。飲みに行ってばかりで、ちっとも家にいないんだ」
「そうでもないわよ」
 姉は麻のジャケットのポケットに手を入れっぱなしで答えた。こんにちわとか、久しぶりとか、どう? くらい言えないのか。
「あんた、飲んべえだもんね。花見はもう行った?」
「二回もやったわ。部とグルーブと。うちの会社は好きだもん」
「ふーん。うちの会社はまだだろうなあ。みんな、紙コップに花びらが落ちるのが好きだから、終わりの頃にやるんだ。
 去年の花見の時には、考えつきもしなかったなあ。次の年に病室でこうして桜を見るなんてこと」
「あ、あたし、ジュース買ってくるね」
 姉は唐突に言うと、早足で部屋を出て行った。
「あっちゃん、あいつを無理に連れて来たんだろう?」
 ふみは笑いながら窓の外へ視線を戻した。
「あんたのねえちゃん、今、泣きに行ったんだよ。バカだよねえ。私がへらっとしてるんだからさあ。一緒にへらっとするくらいの根性、あってもいいのに。腹すわってないよなあ。
 靖子は、自覚してるんだよ。だからずっと来なかったんだ」
「自覚って?」
「私と会ったら、どう接していいかわかんなくなる。笑顔を返す自信がない」
「・・・・・・。」
 僕はそんなことには気づきもしなかった。姉はただ楽しいことにかまけているだけだと、少し軽蔑さえしていた。
 僕は、ふみやふみの病室の人達がみんな明るいから、忘れていた。この人達が立ち向かっている事の重さに。姉はその重さを知っていたから、僕みたいに気軽に病院へ来ることができなかったのだ。姉が時々発した意地悪な言葉は、あれは僕のお気楽さをせせら笑っていたんだ。そして、反面うらやんでいたに違いない。
「あっちゃんは、桜は好き?」
「えっ。・・・うん、まあ。きれいだし」
「私は嫌い。ソメイヨシノは嫌い」
 断固とした口調だった。
「八重桜の方が好きだな。散るのをうっとりと見られる花なんて、たまらなくイヤ」
「・・・・・・ふみ」
 睨むみたいな目で、ふみは窓の外の桜の木を見つめていた。ひゅうと吹いた急な風に、花びらが一枚部屋に迷い込んだ。
「くーそーっ」
 ふみは、点滴の繋がっていない方の拳でそれを殴った。花びらはそれをかわし、ひらひらと踊った後、やがて床に落ちた。
 来年、桜が咲いた時にはもうふみはいないだろう。その痛みは僕の胸を貫いた。だけど、来年のふみのいない風景を想って泣くより、今、風に吹かれているふみに微笑みかけよう。僕はそうしよう。
 風は次々に花びらを部屋に誘い込んだ。ふみは今度は新聞紙を握って、テニスみたいに叩き返していた。
「蠅並みの扱いだな」
 言いながら僕は笑った。ふみも結構楽しそうに新聞を振り回している。赤いバンダナが、風のせいでなく、ふみのスマッシュのたびにふわりとなびいていた。

              <END>

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