『 な つ 』

 今日、古典と化学と日本史の期末テストが返って来た。古典は九十二点でクラスでは三位だったが、教師の書き込みが私を不愉快にさせた。『秋山そう』と私が仮名で書いた名前の下に赤いボールペンで下線が引いてあり、こう記してあった。
『名前は漢字で書きなさい』
 そして言い訳のようにこう付け加えられていた。『せっかくの綺麗な名前です。颯くんはちゃんと書いてありましたよ』
 この教師はD組の古典も担当しているらしい。颯の四十点台の古典のテストは昨日返ってきた。『颯爽』という熟語を感じさせないために、私がわざわざ仮名で『そう』と書いていることなど、この教師に気づくはずもない。関係ないことで双子の兄を引き合いに出す、この無神経さからすれば。
 私は鞄にテスト用紙をしまうと、図書館の椅子に座ったまま窓の外を見下ろした。炎天下というのに、サッカー部は日陰のまったくないグランドで果敢に練習に励んでいる。この状態なら、一人二人日射病で倒れても少しもおかしくはない。ただし、面倒臭いので颯でないことを祈る。
 部員はレギュラー以外は体育着を着ているが、GKは別メニューをしているので、颯の姿はすぐに見つかった。それにあいつは一年の分際で頭ひとつでかかった。春には桜だったはずのうっそうとした木々が並ぶ隣で、OBからポジションの指示を受けている。
 中学の三年間ベンチだった颯は、試合に出たいという理由だけで、わざとサッカーが弱いこの高校を選んだ。今は一年だからもちろん補欠だが、彼が正キーパーになれたとしたら、それは我が高校の一回戦敗退を意味する。颯は致命的に優柔不断で、瞬時の判断の必要なキーパーに向いているとは、とても思えなかった。もっと言えばサッカーになんて向いていない。短距離走のように、目標に向かってただまっすぐ走るようなスポーツがいい。でも、颯は自己分析の能力にも欠けるらしく、ずっとサッカー、しかもキーパーを頑に続けていた。
「お待たせ。ソー、『梅園』でアイス食べて行かない?」
 受付で本を借りて来た友美が、私に声をかけた。彼女は高校に入ってからの友達だ。何故か私を『爽』ではなく『ソー』と呼んだ。面倒臭いと『ソ』で止めてしまうこともあった。ちなみに、颯のことはきちんと『サツくん』と発音する。
「ごめん、友美。夕方になると、スーパーが混んじゃうんだ」
「そうかあ。大変だよね、高校生主婦も」
「まあね」
 友美の言葉には、同情や、別な物を見る匂いは感じられない。母親が男と逃げた家庭が不幸と限ったわけではない、と思っているからだ。友美は付き合いやすかった。

 地元のバス停で降りてから、買い物を済ませて家に向かった。アスファルトが溶けて流れ出すんじゃないかと思うほどの暑さだ。おまけに荷物が重い。ほとんどが颯の胃袋に入るものかと思うと、少しハラがたつ。
 私と父は、夏は夕飯もソーメンや冷し中華でいいのだが、部活している颯はそうはいかない。トンカツだとか天ぷらだとか、油でぎたぎたのものをやたら食べたがる。しかも、練習後には部員たちと、ヤキソバかラーメンを『おやつ』として二杯ほど食してから帰るのに、だ。
「爽ちゃん、おかえり。学校、ハンドンなの?」
 隣のアパートの階段を、浅海さんがのろのろと降りて来た。起き抜けなのか、まぶたがぼってり腫れていたが、それはそれで色っぽかった。上はこげ茶色のタンクトップ、ボトムは足首までのスポーツウェアを穿いて、強い光に透けて灰色に見える、細くてさらさらの髪を、後ろでひとつに縛っていた。いまどきの男のひとみたいなかっこだが、浅海さんははたちを少し過ぎたくらいの女性で、しかもかなりの美人だった。
「ハンドンって、昼で終わること?」
「あー、たった五歳しか違わないのにぃ! 歳の差感じちゃうなあ」
 そう嘆くと、目にかかる前髪をうるさそうに掻きあげた。スレンダーな浅海さんは胸もほとんどなくて、痩せた綺麗な男の子みたいだ。
「朝ごはん…昼ごはん食べに出るところなんだけど、もしまだだったら行かない?」
「行く行く! 冷蔵庫にしまってくるから、ちょっと待ってて」
 私は急いで家の鍵をあけて、スーパーで買った要冷蔵ものを冷蔵庫に押し込み、ついでに二階へ上がって制服を脱ぎ捨てて木綿のワンピースを頭からかぶった。普段着だが、この前浅海さんが可愛いと言ってくれた、白地に緑の小花の散った女の子らしい服だった。
 近くのファミレスのソファに腰を降ろすと、浅海さんはまずセブンスターに火をつけた。そして窓の外の車の流れを見つめた。
 浅海さんは私のことを「お隣の子供」のようには扱わない。だから一緒にいるのが好きだった。
 彼女は冬に隣のアパートに越して来た。アパートは普通は両隣くらいの挨拶で済ませるのだろうが、彼女はうちにも化粧箱入りのタオルを持って挨拶に来た。
 チャイムが鳴り、ドアの穴から覗くと知らないひとだったので、颯にも来てもらってから扉をあけた。白状しよう、私は最初男性だと思った。でも、颯はちゃんと女性だとわかったそうだ。ただ、年齢は三十くらいかと思ったという。あとで聞いて浅海さんは憤慨していた。
「ビールとフライドポテト。爽ちゃんは?」
 朝ごはんに、彼女はビールとつまみを注文していた。私は普通にランチメニューを頼んだ。
「女子大生の頃から、朝ごはんにはビールだったの?」
 私が純粋な興味で訊ねると、彼女は「まさか」と笑った。
「バーテンの仕事を始めてからだよ。もっとも夜の仕事は、学生時代もやってたけどね」
 大学をドロップアウトしたので、当然寮にもいられなくなり、隣のアパートに越して来たのだ聞いている。退学の原因は『三角関係のもつれ』だと笑った。
「浅海さんがシェーカーを振るところ、見てみたいなあ。かっこいいでしょうね」
「さあ、どうかなあ。先輩のおじさんの方がずっとかっこいいとは思うよ」
 ビールが来たので、彼女は煙草をもみ消した。女性にしては大きな手で、筋ばってやせた手の甲だ。
「いつか行ってもいい?」
「補導されない外見になったらね」
「私、お化粧してもまだ無理だと思う?」
「あはは」と一笑に附されてしまった。
 お先にのポーズをした後、浅海さんはぐぐっとビールを喉に流しこんだ。細くて白い首は、確かに女性のものだ。
 パルレモアダ・ムール。それが浅海さんの職場の名前だった。普通のパブだと言うけれど、名前からして妖しい匂いがする。
『そんなことないよ。確かシャンソンのタイトルだって聞いたよ』
 シャンソン。では、フランス語か。私の知っているフランス語といったら、『ボンジュール』と『オレオレ、ジャポン』くらいだ。
 その時私は「どういう意味なの?」と、確かに訊ねたと思う。何故答えが聞けなかったのかはよく覚えていなかった。
「食べる?」
「いい。ここ、ランチの量多いから」
 ポテトを断って、私は自分の皿を待ちながら、彼女がおいしそうにビールを飲むさまを見ていた。
 浅海さんは十九歳の青年にも見えたし、確かに颯の言うとおり二十九歳の人妻にも見えた。三十九歳の未亡人だと言われたら、そうかと納得したかもしれない。面長な顔にハマリ過ぎの切れ長の一重の目と、唇が薄くて大きな口を持つ彼女が、『実は妖怪で二百四十歳なんだ』と告白しても、私はさほど驚かないだろう。
 ランチのポークソテーをぱくつく私を見ながら、「やっぱ夏は肉だよなあ。肉食わなきゃ、もたんわ」と浅海さんは笑った。
「食べます?」と、今度は私が勧めた。
「ありがたいけど、起き抜けにはちょっと無理」
「じゃあ、肉料理の時、おすそ分けに行くね。ご近所っぽくていいでしょ」
「うん。頼む」
 浅海さんは、テレビドラマで男のひとが恋人に言うような口調で答えた。

 家に帰ると、私は先に颯の為の夕飯を作り始めた。父はどうせ帰宅が遅い。彼は伯父(父にとっては実兄)の経営するフレンチ・レストランのシェフだった。でも、家で料理をしたのは見たことが無い。食へのこだわりも皆無で、私が夕方に茹でたそうめんの残りを、平気で深夜に食べている。冷蔵庫の中ですでに数時間を経た、麺同士がくっつき合ったそれを、薬味も入れず市販のたれを直接ぶっかけて食べるらしい。
 颯用のおかずはトンカツだった。うまくからっと揚がり、色もいい黄金色になった。六時前だから、浅海さんはまだ仕事には出ていないはずだ。見栄えのいいものを選んで、皿に盛りキャベツを添えてラップをかけると、隣のアパートへ向かった。
 チャイムを鳴らしてすぐに、バスルームからシャワーの音がするのに気づいた。出直して来ようと、指を離した時、扉が開いた。
「爽ちゃん?」
 浅海さんが顔を出した。シャワーの音はまだ続いている。恋人でも来ているのだろうか。どきりとして、皿を持つ指が緊張した。
 これだけ綺麗なひとに、彼氏がいないわけがない。視線はとっさに玄関の靴を探した。 最初、意味がわからなかった。玄関に転がっている、汚れで灰色になった巨大な運動靴は、今朝颯が履いて学校へ行ったものだった。 浅海さんはバツが悪そうに髪をかきあげた。彼女の表情で、初めて気がついた。
「やだ。・・・知らなかった。私ってカンが悪いのかな」
 私はやっとのことで言った。笑おうと思ったが顔の筋肉が凍りついて動かなかった。浅海さんは何も答えない。
「これ、食べて」
 私は皿を彼女の手に押しつけると、逃げるように立ち去った。階段を降りる時、足がもつれて転びそうになった。家に帰り、台所の颯の夕食を皿ごとごみばこへ捨てた。ポリバケツに捨てなかったのは、捨てたことを颯に見せつけたいからだった。
私は知らなかった。何も知らなかった。颯ったら、許せないっ。浅海さんも、颯なんかのどこがいいの?
 私は二階へ駆け上がり、自分の部屋の扉を閉めた。
 脱いだままの制服が、ベッドの上に放り出されていた。着替えた時の有頂天な気持ちを思い出し、自分のバカさ加減に腹がたった。制服をハンガーにかけようとして、手がとまった。私は制服を放り出し、ハンガーを床に叩きつけた。プラスチックのそれは、めきっと音がしてどこかが割れたようだった。
 そのハンガーは戦車の形をしている。颯の部屋にも同じものがあった。ベッドには、ピンクのうさぎのぬいぐるみやハート柄のパジャマに混じって、ロボット型のめざまし時計がおかれていた。おかげで私の部屋のコーディネイトは分裂気味だ。でも、颯の部屋もそう変わらない。ぬいぐるみは彼の部屋にもあったし、カーテンは私の部屋と同じピンクベージュだった。
 物心ついた頃から、私たちは同じお菓子に同じ服、同じおもちゃを与えられていたように思う。時々、男女の差別化を図ろうと、青と赤の色違いの服や、飛行機と着換人形のおもちゃをあてがわれた記憶もあるが、お互いが「同じじゃなきゃいやだ」とわがままを言った。
 そんな風に育ったせいか、好きなものが似ていた。同じ時期に同じ本を読んでいたり、同じ小物を買ってきたり。今年の春休みには、ばったりコンサート会場で会った。そんな予感はしたが、やはり颯も同じバンドが好きだった。
「はいるぞ」
 私の返事も聞かず、私と同じ顔をした男がドアをあけた。そして首をかがめて部屋に侵入して来た。颯は高一なのに百八十センチある。まだ伸びるだろう。情けないことに私は高一ですでに身長は止まってしまった。
「ひとのメシ、ごみばこに捨てるなよ」
 見下ろす颯の瞳をきっと見返して、私は反撃した。
「シャンプーもボディ・ソープも、モモの香りだね」
 一瞬かっと顔を赤くした颯だったが、すぐに苦笑に変えてベッドに腰を下ろした。
 最近こいつは私と本気で喧嘩しない。子供のいたずらを笑って見守るような目で私を見る。颯はうさぎをつかまえて、両手で耳を引っ張ったり離したりした。
「揚げ方は完璧だったから、いいけどね。肉も柔らかくて、うまかった」
「食べたの、あれを?」
「だって。ゴミバコに他に何も入ってなくて、汚そうじゃなかったから」
 ポリバケツの方に捨ててやればよかったと私は思った。
「でかい図体して、私のベッドに座らないでよ、うっとおしい。うさ子の耳、引っ張らないで。伸びちゃうでしょ!」
 私は何に腹を立てているのだろう。
「・・・悪かったよ」
 颯はどのことに関して詫びたのだろう。
 ベッドには依然座ったままだし、うさ子を引っ張るのもやめないから、少なくてもこれらについてではなかった。
 知っている。颯は私が怒っていると、『とりあえず』謝ることにしているのだ。
 ただし颯は、それ以上何も言わなかった。どんなことを言っても空々しいとわかっていたから黙っていたのか、単に言葉を見つけられずに途方にくれていたのか、どちらかは知りようもなかった。でも、とにかく黙っていたのは賢明だったと思う。私は颯が何を言ってもきっと爆発しただろうから。
「おやすみ」
 颯は、まだ七時前だというのに、そう言って部屋を出て行った。

 いつもの時間に起きて、トーストと牛乳で朝食を済ませた。早朝練習のある颯はとっくに家を出ていた。父のコーヒーを入れて、食パンをトースターに仕込んでおく。トマトサラダも冷蔵庫に入れた。
 昨夜は父の夕食も作らず、帰宅も待たずに寝てしまった。彼は自分でカップラーメンを作って食べたようだ。
 父はおっとりした静かなひとで、私には何を考えているのかよくわからないところがある。でも、父の方は私の考えが読めるらしい。颯に「ああいう」関係の女性がいると知って、父と普段通りに接する自信はなかった。私は父が起きて来るのを避けて、少し早めに家を出た。
 隣のアパートの階段で、浅海さんがうずくまっていた。
 貧血? 彼女はいかにも暑さに弱そうだ。昨日の気まずさも忘れ、私は駆け寄って肩を揺すった。
「大丈夫? 具合悪いの? 救急車呼ぼうか?」
「・・・救急車?」
 小さなあくびをかみ殺し、彼女は目をこすった。眠っていただけのようだ、『外の階段』で。・・・人騒がせなひとだ。
「爽ちゃんを待ってたんだ。ちゃんと話がしたくて」
「父にも誰にも話してないよ。誰にも言うつもりないから、心配しないで」
 私は、差し伸べられた手を、振り払うようにしてつっぱねた。だぶっとしたTシャツから伸びたすらりとした腕は、男でも女でもない綺麗な妖精のようだった。
「そんなことじゃない。聞いて。私は、爽ちゃんも颯くんも、二人とも好きだよ。二人ともとてもいい子で、泣きたくなるくらい好きなんだ」
「それが颯と寝・・・」
 私は声をひそめた。
『颯と寝た言い訳になるのっ。淫行だよ、浅海さんっ』
「言い訳なんてする気ない。ただ、爽ちゃんに言いたかった。爽ちゃんのことも、ちゃんと好きだよって。
 爽ちゃんが、プラトニックな関係を望んでいるのがわかってたから、私もそのつもりで接していたけど」
「な・・・」
 何を言っているのだろう、この人は。
 朝だというのに太陽はもうぎらぎらと天上で燃えさかり、狂ったように蝉が鳴いていた。頭の中で蝉の声が反響した。
「お、おかしいんじゃないのっ。言ってること、変だよ」
「うん。親にもよく言われた。扱いに困ってたみたいだった。きっとそのせいだよ、誰かが好きになってくれると、もうそれだけで嬉しくて、あたしも好きになっちゃうんだ」
「・・・・・・。」
 私は怖くなった。浅海さんの素直さが怖かった。
「手を離してくださいっ。遅刻しちゃう」
 私は浅海さんを突き飛ばし、鞄を胸に抱いて走り出した。
 うそだ。二人とも好きだなんて。本当に愛しているのは常に一人だけ。でないと、両方への気持ちが嘘になる。半分の密度の愛なんて、本物じゃない。

 バスに滑り込み、座席に座れても、私は鞄を胸に抱いたままだった。まるでそれを抱いていれば、敵に襲われないと信じてでもいるように。
 車内では、同じ高校や近所の学校の生徒が、声高に雑談に興じていた。騒がしさが私を一人にした。
『ごめんなさい。あなたのことは愛しているわ。でも、彼も愛してるの。片方に決めないと、両方への愛が偽りになる。
 あなたには、颯と爽がいるから』
 母が私たちをわざわざ呼んでから話し始めたのは、夫よりも、中一の私たちに聞かせたかったからだと思う。
 それは、私と颯を、常に同じように愛している振りをし続けて来た母が、行き着いた極論なのかもしれない。でも、私は納得したのを覚えている。悲しいけど、それなら仕方ないよね、と。
 母が、颯の方を気に入っているのを知っていた。颯は私よりだいぶ素直で、心の優しい男の子だった。でも、同じように愛そうと努力してくれた。私にはつらいだけだったけれど。
 母に捨てられたとか、母が勝手だとか、父が可哀相だとか、感情的な恨みはあまりなかった。
二人を同じに愛するなんて、嘘だ。どちらかの方が大事。それでも同じように愛そうとするなら、それはどちらも愛していないのと同じだ。どうでもいいのと、酷似している。
 私は生徒の流れについてバスを降り、校門をくぐった。自分のA組を素通りし、Dの教室を覗く。
 懐かしい颯は、朝練を終えて、机に覆いかぶさるようにしてコンビニ弁当を食べていた。食事はまだ途中のようだったが、私を見つけ、廊下に出て来た。
「なんだ? ・・・ああ、浅海さんに会ったのか。オレが行く時から、爽を待って下にいたからな」
「颯が出かける時から?」
「仕事から帰って、ずっと下にいたみたいだよ。部屋に戻ると眠っちゃいそうだから、ここで待つって」
「下にいても眠ってたわよ」
 私が声をかけずに行ってしまっていたら、彼女の苦労は何の意味も持たなかったわけだ。
「爽と、きちんと話がしたいって言ってたけど・・・」
「・・・・・・。」
「その分じゃ、ちゃんと聞かずに途中で逃げて来たな」
 颯は両腕を頭の後ろに置いて、軽く伸びをした。半袖シャツからのぞく、筋肉のこぶの出来た腕が不思議だった。かつては私と同じサイズのシャツを着ていた腕なのに、こんなに太くて、生きる力に満ちている。
「また、やっちゃったな、オレたち。いつも同じものが好きなんだ」
 廊下の天井を見上げ、楽しんでいるような口調で颯が言う。同じ顔なのに、颯にはえくぼができる。最近まではそっくりの卵形だった顔の輪郭が、颯だけごつく形を変えようとしていた。
 ひとつしかないポジション。颯はそれを獲得するために努力を続ける。彼は男なんだとつくづく思った。
 今日は、数学と保健体育のテストが返ってきた。数学は七十五点で私としてはまずまずだったが、保体は六十点だった。平均が六十五点だから、平均以下だ。二者択一の問題ばかりで、どちらか迷ったところは殆どがはずれていた。私は二つのうちの一つを選ぶのが下手らしい。
 帰ったら、ちゃんと話を聞こう。逃げずに、浅海さんと話をしよう。

 店はクーラーが効き過ぎで、ガラス張りの冷蔵庫みたいだった。昨日座った席が見える。なんだか、何カ月も前のことのようだ。
 店は空いている時間だったが、その分従業員も減らしているらしく、水とメニューとオシボリを置いたきり、なかなかオーダーを取りにこなかった。
 浅海さんは、今朝と同じTシャツを着ていた。今日も煙草をふかしながら、外の車の流れを見ている。
「朝は、ごめんなさい・・・」
 手を振りほどいて逃げたことを、私は恥じていた。彼女はかすかに笑って私を見た。
「いきなりあんなこと言われて、驚いたでしょう。あたしこそ、ごめん」
 煙草の灰を灰皿に落とし、また外へ視線を移す。
「あたしね、十二歳まで、男の子だったんだ」
「えっ?」
 聞こえなかったわけではないが、私は聞き返した。意味が計れなかったからだ。
「時々あるんだって。染色体と性器の外観が一致しないで、間違って性別を判定されちゃうの。十二の時、下腹部から出血して病院で調べたら、私の染色体は女の子で、子宮と卵巣もあったの。外国に行って手術したよ」
 あまりのことに、私は絶句した。
「十二歳まで、男の子の服を着せられ、男の子の遊びをして、『さっちゃんをお嫁さんにする』なんて言ってたんだ。今のところ、あたしの人生の記憶は、半分は男としてのものだよ。
 爽ちゃんが、あたしに男を感じて意識したとしても、そんなに変なことじゃないと思う。変なのは、あたしの方なんだから。女になってから女の子を好きになったのは、これが初めてじゃないし」
 言葉が見つからなかった。私は浅海さんの指の煙草ばかりを見つめた。
「手術した時に、医者に言われた。昨日までの男の子は死んで、新しい女の子が生れたんだ、みたいな内容。でも、死なないで私の中に残っているみたい」
 そう言って私に向くと、ふっと笑った。片方を切り捨てられない浅海さんは、その少年のことも抹殺することができなかったのだ。
「爽ちゃん達に会った時、不思議な気分だった。同じ日に同じひとから生れて、でもちゃんと体がひとつずつあって、男と女で。でも同じ顔して、笑い方とか怒った時の口のとがらし方とかそっくりで。素直に、ああ、いいなあって思ったよ」
「その話、颯は」
「知ってるよ。ちゃんとコトの前に説明した。だって、今は女でも、以前男だと知ったら、セックスするの嫌かもしれないじゃん」
 私の顔は赤くなった。なんてまあ、直接的な言い方! 
 しばらくしてから、やっとオーダーを取りに来た。私はカルボナーラとアイスコーヒーを、浅海さんはコーヒーだけを頼んだ。
「本日はケーキ・サービス・ディでございます。コーヒーを頼んだお客様で、ご希望の方にどちらかひとつのケーキを百円で提供いたします」
 綺麗なカラー写真のメニューを開きながら、自販機の音声みたいな口調でウェイトレスが言った。
 シンプルな形の苦そうなチョコレートケーキと、フルーツと生クリームで飾ったミルフィーユと。また二者択一か。どちらもおいしそうだ。私は散々迷った挙げ句、「チョコ」と言った。
 こんな風に、選んでいくのが生きるってことなのだろうか。どちらが好きか、どちらが大切かを見極めて、片方を切り捨てていく。トーナメント戦のように、最後にひとつだけ一番大事なものが残る。
「ふたつはだめなの?」
「はあ。特別料金ですので」
 浅海さんはウエイトレスにごねて、困らせていた。
「だって、二つ見せられたら、両方食べたくなっちゃうじゃん」
「はあ」
「サービスじゃなくて、正規料金だといくらなの。別に頼むから」
「いえ、これはサービス用のケーキでして」
 私はおかしくて笑いそうになった。とことん選べないひとなのだ。両方欲しがる、子供みたいなひと。
「浅海さん、私の半分あげるから、ミルフィーユの方を頼めば」
「・・・わかった。そうする」
 しぶしぶ承諾した。
「ではご注文を繰り返させていただきます」 ウエイトレスがうれしそうに言った。

 店を出ると、昼下がりの街は、騒音がエコー付きに聞こえるほどに暑かった。景色は白く反射し、建物の輪郭だけしか目に入ってこない。浅海さんは胸ポケットからサングラスを出してかけた。
 本当にハンサムでいやになる。昇天した十二歳の少年が、そのまま青年になっていたらよかったのにと、彼女に申し訳ないことをちらりと思った。
「そうだ、これ」
 彼女は、ジーパンのお尻から一枚のスナップを取り出した。
「マスターが前に撮ってくれたのがあったから。シェイカー振っているところ、見たいって言ってたでしょう」
「あ、見たい、見せて」
 私は写真を覗き込んだ。
 それは、私が望んでいた写真とは違ったが、浅海さんは綺麗だった。髪を編み込みにきちっと結い、化粧もしっかりしていた。赤い唇と、濃く細く描かれた眉。アイラインやマスカラもしているかもしれない。白いシャツに赤い蝶ネクタイを締め、シェーカーを両手で横に掲げて、照れくさそうに笑っている。薄暗い店なのだろう、焚かれたフラッシュに化粧した肌の色が妙に白く写り、ああこの人は女なんだなあと痛感した。
「美人だよね、浅海さんって。かっこいい」
「ふふ、ありがと。でも、期待したのと違うって顔してる」
「お化粧してない方が、私は好きだから」
「颯くんもそう言ってたよ。あーあ、女になる道は険しい」
 私は笑った。
「今のままでいいと思っているくせに」
「ま、ね」
「私は・・・。切り捨てて切り捨てて、棺桶の中に、たった一つ入れてもらえるものが見つかればいいや」
「私の柩は、わけのわかんないもので溢れ返るのかな。爽ちゃんの最期の方が、百倍は幸福そうだな」
 街は突き刺すような暑さだ。強い光は、影をさらに黒くくっきりとアスファルトに貼り付けた。青いサングラスの下で、浅海さんの目が、悲しそうに笑っていた。

               <END>  

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