『 幸福な晩餐 』

 窓側の座席に腰をかけた時には、すでに八時を過ぎていた。始発を三台待ってやっと座れた。
 早速僕は、コンビニで買ったサンドイッチと缶コーヒーを膝の上に広げた。ボックス席を共有したOLとサラリーマンはさりげなく視線をそらし、僕も、馬鹿明るい地下のホームへと顔を向けた。
 一口、二口。三口目で三角のタマゴサンドは全部口に押し込まれていた。パサパサしたパンは口の中の唾液を全て吸い取ってしまう。僕はプルトップを開けて缶コーヒーでそれを流し込んだ。
 この線は遠距離通勤者が多いから、斜め前のボックスでも、缶ビールを手にする後ろ頭のはげたサラリーマンがいた。これからの長い道のり、素面では、一人では、寂し過ぎるのだろう。
 僕は残業をして帰宅すると十時半を回る。ここ二ケ月ほどは、空腹に痛む胃をもてあまして軽く食べるようになった。会社の帰りに近くのそば屋で食べたり、残業中にカップラーメンをすすることもある。胃が満たされると、少しだけゆったりした気分になれた。空腹の時ほどには、長く電車に乗ってもイライラしない。僕はこの方法を好んだ。
 しかし問題もあった。帰宅してから妻の手料理が食べられないのだ。

「えっ、今夜も食べて来たの?」
 妻の正美は一度点火したガスレンジを切った。スープか何かを暖めなおすつもりだったのだろう。それもたぶんこってりしたポタージュ系の。テーブルにはラムチップのトマトソースがけやチーズオムレツ、どろっとしたドレッシングがかけられたサラダ等の皿が並んでいた。
「ごめん。でも、いつも言っているじゃないか、夕食はいらないって」
 しかも毎晩胃もたれしそうな料理ばかり作るのだ。たとえ空腹だったとしても、こんな遅い時間に食べたら翌朝気持ちが悪くなりそうなものばかりだ。
「うん。そうなんだけどね」
 妻はすらりとした腕を伸ばし、テーブルの物を冷蔵庫にしまい始めた。怒った様子もなく淡々とラップを切り、皿の表面に張り付けていく。
「もしお腹をすかせて帰って来て、食べ物が用意されていなかったら可哀相かと思って。それに、専業主婦なのに、夕飯の支度もしないなんて、田宮のお義母さまが聞いたらどんな嫁かと思うわよ」
「おふくろがぁ? そんなの気にするもんか。スーパーで買った寿司をプラスチックケースのままで出す人だぜ?」
 妻はちらと上目使いで見て、悲しそうに唇の端を上げてみせた。きっと僕に同情しているのだ。
「お教室の復習も兼ねて作ってみているだけだから、気にしないで。次の日私が処理してるから、無駄にはしていないしね。 
 それに一人分作るのも二人分作るのも、手間は同じなのよ」
 妻は半年前から料理教室へ通っている。洋風と中華が中心らしく、『復習』の結果は見るだけでげっぷが出そうな代物となる。
「食事がいる時は電話入れるよ」
 僕はネクタイをゆるめながら座り、煙草に火をつけた。
「田宮さん、煙草やめてみたら? 美智子のご主人もやめたそうよ」
 妻はまだ僕を『田宮さん』と呼ぶ。職場結婚なのでその癖が抜けないのだ。ちなみに美智子というのはOL時代の妻の友達で、今でも時々電話しているようだった。
「煙草をやめると食欲が出るそうじゃない。ご主人は一カ月で三キロ太ったそうよ」
「あそこのご主人が痩せ過ぎだったんだよ。それに、会社では肩身の狭い思いをしているんだから、家では気兼ねなく吸わせてよ」
 妻はそれには返事をせず、
「お茶飲む? ペパーミントとカモミールのどっちがいい?」
「普通のお茶でいいよ。緑茶でいいよ」
 妻は僕の声が聞こえなかったように、洋式の茶器を用意しながら続けた。
「ハーブの方が体にいいのよ。カフェインレスだしね」
「匂いの強い紅茶、苦手なんだよ」
「ハーブティーだってば。紅茶じゃないわ」
 妻はマンションのベランダで、鉢植えのハーブを育てていた。料理にも使えるし、お茶にもなるし、種類によっては入浴剤にもなるのだという。嬉しそうに説明する妻が口にする、長いカタカナのハーブの名前は魔法の呪文のようで、僕にはさっぱりわからなかった。
 ティーポットに熱湯が注がれると、ハミガキ粉みたいな匂いがした。

 僕らは結婚して五年。子供はまだ無いが、そろそろと思っている。一年前に、都内のアパートから、辺鄙な場所に建ったこの家族用のマンションへ引っ越したのも、子供が産まれることを想定してだった。ただ、天使は気まぐれなようで、まだ僕らのところへ降りて来てはくれない。
「お義母さまから昼間電話があってね。いやになっちゃう。またあの話なの」
 ハミガキ粉を溶かしたような香りの強いお茶を、花柄のカップに注ぎながら、妻は小さな唇からため息を漏らした。僕も顔をしかめた。
「またかあ。しょうがないなあ。孫なら兄貴のところの子が二人もいるのに。
 あせらなくてもいいさ。僕は二人だけのこの生活も結構気に入ってる」
「検査しろってうるさいの。不妊治療のいい病院があるとか、電話が来るとそんな話ばかり。うんざりだわ」
 妻はカップを僕の方へ押し出した。やっぱり飲まなきゃいけないのか。
「・・・ごめん。悪気は無いんだろうけど」
お茶は薬臭くて、湿布みたいな味がした。
「田宮さん、検査しろって言われたこと、ある? 無いでしょ。私にだけ言うのよ。私の方に原因があると信じて疑わないみたい。だから、言っちゃった。『誠さんが先に受けたら受けてもいいです』って」
 僕はぎょっとした。カップの水面が波立った。
「そしたら黙っちゃったけど。きっと今ごろお義父さまに『なんて嫁なのっ!』っていきまいてるわね」
 ふふっと笑って妻もカップに口をつけた。「いい匂い。気持ちがすっとするわ」
「期待の孫なんだよ、おふくろにとって。兄貴夫婦はお世辞にも美男美女とは言えないしさあ、甥っ子たちも・・・会っただろ?
 ミス財務部と呼ばれた君の子供なら、さぞ可愛いだろうと楽しみにしてんのさ」
「どーうだかあ」
 正美は美人だ。丸い大きな瞳と小さな口。鼻筋は通っているが、高過ぎないので冷たい感じはしない。今は髪を長くして後ろで結んでいるが、入社当時はワンレンのボブだった。僕ら若い男性社員は殆どが彼女を意識していた。ただ、部は堅い雰囲気で、異性と気安く私語をかわせる感じではなかったのだ。特にうちの第二課の課長がイヤな奴で。男同志で話していても、咳払いをしたり、どうでもいい仕事の進み具合をわざとらしく尋ねたりするのだ。
 正美と仲良くなれたのは、その年の課の忘年会だった。課長が当日の夕方、具合が悪いといって早退した。おかげで飲み会は和気あいあいと楽しく進行し、正美と話すチャンスも持てた。
 みんなは、課長の分だったタラバガニを嬉々として分けていたが、正美は元気がなかった。
「どうした? 酔った? それとも具合が悪いのかな。今年の風邪は、課長もリタイヤさせるくらい強力らしいしね」
「田宮さん・・・。課長の病気、私のせいかもしれない。どうしよう」
「え?」
「アタマに来ることがあると、私、課長のお茶にゴミ入れたり、輪ゴム浸してから出したりしてたの」
 僕は鍋からしいたけを取ろうとして思わず取り落とした。可愛い顔して、やるじゃん。僕は正美の意外に思い切った一面を見た。
「えー、そりゃあいいや。いいなあ、女の人はそういう報復の方法があって」
 弱者の知恵だ。面と向かって言い返してはいけないのなら、そんなことでもしなきゃおさまらない。それで溜飲が下りるなら大成功だと思った。
「でも、今日・・・。
 課長は、『十部コピーね』って言った後、『あ、八部でいいや』って訂正したくせに忘れちゃって、『二部足りない』って怒ったの。『半年以上たつのにコピーもまともに取れないのか』って、フロア中に聞こえるような大きな声で言ったの」
「へええ。そんなことがあったのか。知らなかった」
 僕はとぼけた。僕の席にまで聞こえたと知らせるのは、よけい可哀相だ。あの後トイレに走っていく彼女の姿も見ていた。きっと泣いたに違いない。
「三時のお茶に、吸殻を浸したのを出したの」 えっ。そ、それって・・・。
「そしたら、四時頃に気分が悪いって帰っちゃったでしょ。私のせいだったら、どうしようと思って」
「・・・。何本、入れた。吸殻」
 僕の口調が変わったのに気づき、正美は瞬きを繰り返し、「一本。それも殆ど吸いつくしたやつ」と恐る恐る答えた。
 僕はほっとして、笑顔になった。
「そのくらいの量なら大丈夫だよ」
「多いと危険だったの?」
 正美はまだ怯えた顔をしていた。
「今度、『日常の中の危険物』って本、貸してあげるよ。うち、兄貴夫婦と同居してて、乳児がいるんだ。だから僕も読んだ。一番うるさく書いてあるのが、ジュースの缶を灰皿代りに使うなってこと。子供がジュースと間違えて飲むと危険だろ。ニコチンは水に溶けた方が毒性が強いんだ」
「知らなかった・・・」
「その本で、入れて危険なものと安全なものと区別できるよ。ゴミくらいだったら、いいじゃん。三時に君のお茶を課長が飲んでいるのを見たら、きっと僕もすっとする」
 僕が笑うと正美もつられて笑った。言ったら楽になったのか、正美はがぜん食べ始めた。
 後日貸した本の中に、ロードショウのチケットを挿んでおいた。以来僕らは付き合い始め、一年後には結婚したのだった。問題の課長は今も元気で毎日お茶を飲んでいる。
「ごちそうさま。さ、風呂はいろ」
「半分も飲んでいないじゃない」
「やっぱり、あんまり好きじゃないな」
 僕はハミガキ味のお茶を残して立ち上がった。妻のことだ、本当にハミガキ粉が入っていたのかもしれない、とふと思った。

 一カ月後、会社のビアパーティーに出席して、珍しく酔って帰った。飲み会があると言っていたのに、妻は、棒々鶏だとかエビチリだとか作って僕を待っていた。
「いらないって言ったのに・・・」
「せっかく作ったのに。せめて杏仁豆腐くらい食べてよ」
 酔いのせいか、僕もムキになった。
「いつもいらないって言ってるのに、何で作るんだ」
「・・・だって。料理くらいしかやることないんだもの」
「街に出てショッピングとか、家にいたって本を読んだりビデオを見たり、料理以外にも色々とあるだろ?」
「・・・・・・。」
「無理に食べさせようとするなんて、何か入ってるんじゃないのか?」
 思わず口に出た言葉だった。口にしてから言ってはいけないことを言ったという後悔が走ったが、もう遅かった。妻のヒステリックな声を覚悟した。
 しかし、妻の反応は違った。無表情にテーブルのエビチリの皿に手を伸ばし、ポリバケツの蓋を持ち上げると、皿をひっくり返した。どろどろと粘りのあるオレンジ色の塊が、白い皿をゆっくり滑り落ちて行く。
『捨てるなんて、もったいないじゃないか。いつもは、翌日君が食べるんじゃなかったのか?』
 僕はそう言おうとして、ある考えに辿り着いて言葉を飲み込んだ。
 本当に何か入っていたんじゃないか? だから正美は即捨てたのじゃないのか?
 毎晩豪華な食事を作って待っているのに、食べてくれないと逆恨みして、仕返ししようとしたんじゃないのか?
 チリソースの強い匂いとピリピリした刺激は、どんな薬物を入れてもそれを隠すだろう。
 フケ、切った爪、こそぎとった垢。薬品でなくても、妻が嫌がらせに入れる物は事欠かない。課長のお茶で実証済みだ。
 僕の目の前で、妻は次々に料理をポリバケツに放り込んだ。棒々鶏のたれのつんと酸っぱい匂いや、エビチリのケチャップ臭さは、蓋を閉めるとぴったり止んだ。
 水道水を思い切り出して妻は手を洗いながら、
「夏だから。もったいないけど」
と、ぽつりと言い訳をした。

 その夏は日本中を震撼させる事件が起こった。毒物カレー混入事件。楽しい町内会の祭りが一瞬にして死亡者まで出る阿鼻叫喚の地獄に変わったという。
 逮捕された容疑者の女性は、以前にも幾人もの知人に砒素を盛って、保険金を搾取していたらしい。驚くべきことに、共犯である夫にまで毒を盛った。しかし、計画的な金目当てのそれまでの犯行と違い、カレー事件は、近所で嫌われていて陰口を言われた事に腹をたてたという動機が有力なのだ。
 この女は致死薬物と知って混入し、殺意はあっただろう。正美はニコチンにそんな毒性があるとは知らなかった。だが、やったことはこの殺人犯の女と同じだ。腹いせ。ただの腹いせで、したのだ。
 僕は怖くて家で食事が出来なくなった。平日は、もともと朝食も夕食も食べなかったが、土日もなるべく妻を外食に誘った。シェフの作る物なら安心して食べることができたからだ。会ったこともないシェフが、僕への腹いせで毒を混ぜる可能性は薄いだろうと思ったからだ。
 それでも休みに妻の手料理を食べなければならない時は、和風のさっぱりしたものをリクエストした。冷奴や焼き魚などだ。これなら薬物を混ぜたらすぐバレる。たぶん安全に違いない。
 カレー事件は、食べ物が、匂いも刺激も強いものだったから被害が大きくなったのではないか? 舌の刺激も辛さのせいだと思っただろう。
 そして畳みかけるようにして起きた、インターネットでの青酸カリ販売事件。自殺志願者に青酸カリを売ったという犯人も自殺してしまったが、誰に売ったかは謎のままだ。数人が警察に届け出たが、購入したまま黙っている者も何人かいる。自殺に使うのなら、まだ罪は少ないと思う。自殺志願のフリをして、殺人の目的で買った奴もいるかもしれない。
 警察に届け出の無い入金の中で、僕の住むC県Y市の本局郵便局から振り込まれたものがあった。背筋がぞっとした。同じ街の人間で、懐に毒を隠し盛った奴がいるのだ。それは町内の祭りの調理係かもしれない。よく行くレストランのコックかも知れない。正美かもしれない。

「夕飯がカップラーメン?」
 残業を終えて机を片づけ、給湯室にお湯を取りに行くと、妻の友人の美智子に会った。彼女は結婚しても勤めをやめず、今も下のフロアにいた。この階には女子ロッカーがあるので、顔を見かけることは多かった。
「財務さんは忙しそうねえ。でも、たまには早く帰って、正美の手料理を食べてあげなきゃ可哀相よ」
 僕は細心の注意をはらって、容器の線のギリギリまで湯を注いだ。その後で、顔をしかめてみせた。
「君にまで愚痴ってるのか。作らなくていいって言ってるのに、毎日作るんだ。依怙地になってるとしか思えない」
「最初は浮気のこと、心配してたみたい。誰かと食事して来てるんじゃないかって」
 美智子は細い目をさらに細くして、にやついていた。
「えーっ? 僕がこんなに一生懸命働いているのにぃ?」
「だから、その疑いは晴らしておいてあげたわよ。残業して、帰社時間と通勤時間を考えると、恋人とディナーなんて余裕ないわね」
「当たり前だ」
 僕は指に力をこめてカップラーメンのフタにシールを貼り付けた。
「僕が働いて、正美が高価な食材で料理を作って、結局捨てる。食べないのをわかっているのに買い込んで作る。あいつは自分が働いていないから、平気でそういうことができるんだ」
「なんだか、思ったより根が深そうねえ」
 美智子は男がするみたいに肩をすくめてみせた。コートにも下のスーツにも肩パットが入っているのだろう、アメフトの選手さながらの盛り上がった肩になった。
「うちなんか、マトモな料理を作る暇がないから、コンビニ弁当とほかほか弁当のローテイションよ。今夜もそう。
 旦那は正美んちを羨ましがってるわ。オレが食べに行きたいくらいだ、ってさ」
「電車で往復五時間かけて?」
 僕は鼻で笑うと、ステンレスの流しの上にカツプラーメンを置いた。
「髪を切ったり、新しいピアスをつけたら、気づいて褒めてほしいじゃない? 料理だって同じだわ。正美は田宮さんに褒めてもらいたいだけなんだと思うな。さっぱり系和食が好きらしいとは聞いたけど、手がかかってないから正美はつまらないんですって。たまにはフレンチや中華も食べてみるとおいしいかもよ」
『何が入っているかわからなくても?』
 僕はよほどそう言ってやろうかと思った。 実際、先月の日曜日の昼飯では、なめこの味噌汁にピアスが入っていたのだ。くるりと丸いゴールドのピアスは、艶のあるなめこの笠と見紛うばかりだった。ただし石づきは、食道も胃も切り裂きそうな金の針で出来ている。
 妻に告げると「見つけてくれたの!」と歓喜の笑みを見せた。
『気づいた時には取れていて、無くなっていたの。よかった』
 ほら、と穴だけになった右の耳を引っ張ってみせた。食事にこんな危険な物が入っていたのに、謝りもしなかった。
『見つけたからよかったけど。食っちゃってたら大変だったろ』
『そうね。トイレに流れちゃうのかしら。二度と見つからないわねえ』
 僕は、肛門を針でずぶずぶと刺される痛みを想像して震えあがった。ズレている。感覚がすれ違っている。正美は、少し変だ。
 その時、正美と話すのは無駄だとわかったのだ。
「で、正美の料理を褒めに、お伺いしてもいいかしら。正美との電話では、田宮さんが許可してくれたら今度の土曜日にでも、と言っていたのだけど」
「えっ?」
「土曜日、夕食をご相伴に預かってもいいかしら。ちょうど旦那も旅行でいないの」
「もう二人で決めたことなのだろう? 来ればいいじゃないか。正美のこってりした料理をたらふく食べて、太ってから文句言ってもしらないけどね」
 僕は腕時計を確かめ、ラーメンの蓋をむしり取った。ゴムを蒸したような虚しい匂いが給湯室いっぱいに広がった。

 春も近いその休日は、朝からマンションの窓を雨が叩いていた。美智子を招いて三人でワインで乾杯をすると、正美はかつての快活さを取り戻した笑顔で、料理を次々とテーブルに運んで来た。
 黄金色のターメリックに輝くタンドリーチキン。マッシュポテトのアーモンド衣のフライボール。香草入りサラダ・スパイシードレッシングがけ。すべて、匂いも強く舌に刺激のある料理ばかりだ。
 僕の背中はこわばった。椅子の背もたれに当たった脊髄が、袋小路で追い詰められて壁に触れている気分をリアルに体験させた。
『まあ、おいしそう』『どうぞ、先に食べていて』『じゃあ、いただきます』『田宮さんも先にやってていいわよ』・・・耳鳴りのように女たちの会話が遠く聞こえた。溺れながら聞く外の世界の音のように。『食べないの?田宮さん、とてもおいしいわよ』美智子の声に責められるようにして、僕はじっとり汗をかいた両の掌でナイフとフォークを握った。もう逃げられない。
 楽観的に考えれば、美智子の前で僕を殺しはしないだろう。致死毒物が入っていることはないと思っていいはずだ。爪が入っていたとしても、ピンブローチが入っていたとしても、青酸カリに比べればたいしたことじゃあない。
 悲観的に考えれば、誰の前だろうとお構いなしなほど、正美が狂気にかられている場合も予想できた。
『食べなさいよ。正美が一生懸命作った料理なのよ』
 いつの間にか美智子が隣に立ち、僕の右手を押さえつけた。
『そうよ。今日こそ食べてもらうわ』
 正美もダイニングに現れ、僕の左手を掴んだ。悪魔のような力で押さえつけられ、僕は抵抗できなかった。右手が鶏肉を切り、左手のフォークが肉片を突き刺す。鶏肉? いや、白い皿の上に乗った肉は、人の腕の形をしていた。ほどよく筋肉のついた腕が、蒸されてカレー粉を振られ、綺麗に盛りつけられていた。銀の指輪。見覚えのある腕時計。…僕の腕だ! 僕の手じゃないか!
 気づくと僕の左腕は、肘の先から切断され、ハムの切り口のような傷からはワインの壜をひっくり返したみたいに血がどくどく流れていた。体は椅子に縛りつけられていた。天使のように美しい微笑みを作った正美が、フォークに差した肉片を僕の口許へと近づける。
 やめろ。やめてくれ! やめてくれーっ!
「どうしたの、うなされていたわよ?」
 カーペットにしみ込んだ汗の冷たさを感じて、僕は床でのうたた寝から目覚め、起き上がった。
 雨の音と台所の油はねの音が混じって、地獄の血の池の沸騰音を思い出させた。覗き込む妻は白いレースのエプロンをまとい、手には胸板も突き刺せそうな菜箸を握っていた。
開けたドアから、カレーの匂いが忍び寄って来る。水中の藻の動きのように居間へと広がって来た。床から上へと匂いが舞い上がり、僕の体に鎖で枷をするようにまとわりついた。
「雨がひどいから、悪いけど美智子を駅まで迎えに出てくれない?」
 僕は右手で自分の左手首を触ってみた。吐き気がしていた。皿に盛られた形まで鮮明に思い出せた。
「田宮さん? 寝ぼけてるの?」
「いや。大丈夫だよ。行ってくる」
 僕はクルマのキィをひっ掴んで、マンションの廊下へと飛び出した。カレー臭の藻を体からちぎって逃げようとでもするように。

 駅ビルのパーキングにクルマを入れ、僕は改札口で美智子を待った。人の流れを見るともなしに見ながら、僕は今日の晩餐を回避する方法を模索していた。
 美智子に相談する。・・・笑い飛ばされておしまいだろう。
 美智子には『正美が体調不良でディナーは中止になった』と言って帰ってもらい、正美には美智子が体調不良でそのまま電車に乗って帰ったと言おうか。しかしお互いに連絡を取り合えばすぐに嘘はばれる。
 このまま家出して失踪してしまいたい気分だった。
 二十分ほど待たされたが、美智子は元気そうに改札に現れた。
「迎えに来てくれたの? とっておきのワインを持参したわよ。正美は何料理を作ってくれているのかしら、楽しみだわあ」
 クルマで自宅に向かう今の気分は、死刑囚がガス室へ向けて廊下を行くのに似ていた。ワイパーが執行時間までの時を小刻みにきざんでいる。まだ胃がむかむかしていた。

 部屋に着き美智子を招き入れると、料理で忙しかった正美もちらりと挨拶をしに出て来た。ワインで乾杯をして、テーブルに用意されていた料理のラップをはがす。グリーンサラダ、白身魚のフリッター、そしてタンドリーチキン。
「まあ、おいしそう」
「どうぞ、先に食べていて」
 正美はまだ途中の料理があるらしく、台所へ戻るようだった。
「じゃあ、いただきます」
「田宮さんも先にやってていいわよ」
 耳鳴りのように女たちの会話が遠く遠く聞こえた。水中にいる時のようにぼんやり籠もって聞こえていた。
「食べないの? 田宮さん、とてもおいしいわよ」
 美智子の声に責められるようにして、僕はじっとり汗をかいた両の掌でナイフとフォークを握った。だが、吐きそうだった。気持ちが悪い。チキンにまぶしたカレー臭いスパイスが、刺激が強過ぎて咳き込みそうだ。呼吸が苦しい。
「田宮さん? 真っ青よ。気分悪いの?
 ちょっと、正美! 田宮さんの具合が悪いみたいなんだけど!」
 一瞬、目の前のチキンの皿と、夢で見た自分の腕の蒸し焼きがだぶった。すっぱい液がこみ上げた。突き上げるように胃がぎゅっと痛んだかと思うと、次にはもう僕はテーブルに胃液をぶちまけていた。手で口をおおったが間に合わなかった。指の間から汚物が流れ落ち、テーブルに溜まりを作った。
「きゃああ! 大丈夫っ?」
 僕がトイレに駆け込む後ろで、正美が騒ぎを聞いて「どうしたの?」と居間に入って来ていた。僕はトイレの鍵をかけた。
「田宮さんが気持ちが悪くなったみたいで・・・」
 美智子の困ったような声がした。
 食事前だったので胃には何も無く、胃液しか吐けない苦しみで涙ぐみながら、僕は正美の悲鳴ともヒステリーともつかぬ声を聞いた。
「あの人は、吐くほど嫌なのよ! 私の料理を食べたくないのよっ! 
 それならそれでいいわ、でも、これは美智子の為に作ったのよ! 私は何日も前から準備したのに! 楽しみにしていたのに!
 なんで私の救いを奪うのっ?」
「落ち着いて、正美。田宮さんが具合悪いって時に、何言ってるの?」
 そうだ。正美は僕の体など心配ではないのだ。嘔吐した僕の体調より、必死に作った料理を駄目にされた事の方が重大なのだ。
「正美、泣かないで。落ち着いてってば」
 陶器の割れる音がした。続けざまに、何度もした。正美が皿ごとポリバケツに叩き付けて捨てたか、床にぶちまけて割ったか、どちらだろうか。吐き気は治まったものの、今、外に出て行く気にはなれなかった。薄い新建材のドアごしに、銃声を思わせる炸裂音が続いていた。それは世界が壊れていく音に似ていた。
 芝生に敷かれたゴザ。ままごとの食器。大好きだった幼なじみの女の子。
 彼女が、水で固めた泥のおむすびを僕だけに作ってくれて、嬉しくて思わず食べてしまったのは、あれは何歳のことだったろう。
『まことちゃんのおばちゃーん! まことちゃんが砂食べちゃったぁ!』
 泣きべそで母に訴える少女と、駆けつけた母の怒声。それでもじゃりじゃりした舌ざわりは、決して不快なものとは思わなかった。
 あの少女は正美に似ていただろうか。
 食器が割れる音はまだ続いている。音が止んだ時には、世界のすべてが壊れて粉々になっているんだろう。僕はトイレにうずくまって、世界が壊れるのを静かに待っていた。

               <END>  

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