流れ星を見た

 

 ベガが死んだ。
 ソファの下の奥の方で丸くなっていたので、 気づかなかった。イルクが見つけた時は、嘔吐した様子も、痛み等で暴れた様子もなかった。少し大きめの黒い石という感じで、手足を折りたたんで冷たくなっていた。
 それとも、猫でさえ、ここで暮らしているおかげで、苦しみを感じる感覚がとうに消滅 していたのかもしれない。ベガは老衰などと いう年齢ではないし、眠るように死ぬには若すぎたはずだ。イルクがジェンラを妻にした 時、二人だけでは静か過ぎるような気がして、 イルクから言いだしてペットショップに買いに行った子だ。まだ、数歳だった。
「ベガが死んでいる」
 返事はなかった。
 ジェンラはすぐそばのテーブルに座っていた。イルクが床にうずくまり、タオルでベガの屍を包み込んでいる、その時も、夕飯の食 卓でフォークを握ったまま、ティービーニューズの画面から視線をはずすことはなかった。
 ジェンラが言った。
「いるく、今日ハ随分砂ガ動イテイルワヨ。 見テゴ覧ナサイ」
 モニターには、イルクらが住むナンバーエイトのドーム天井が映し出されていた。それを背景にして、今夜のニュースの項目が紹介されている。
 イルクの声が聞こえなかったわけではない だろう。「死」という言葉を、無意識に拒否 したのかもしれない。それとも、妻はもう、 ベガには・・・ イルクにも・・・ 興味のカケラも持っていなかったのかもしれない。
 イルクは、ジェンラの方に会話を合わせた。 「地上は風が強いのかな。雨が降っているの かもしれないね」
 透明な屋根に押しつけられた、灰色のよう な銀色のような砂が動めいている。龍に似た模様を作りながら、きらきらと、街の明かりを反射して流れて行く。

 地球は北極・南極圏を除いて既に百%砂漠 化した。人類は砂の中に潜って生活している。 世界各地に散らばるドームは、グラスファイバーの屋根で蓋をされて砂から守られていた。
 透明な観察ケース。
 昔の小学生は、土を入れたプラスチックの容器にアリを入れて観察したそうだが、まるでそれのようだ。
 砂の中は地球の表面上の外気の温度が伝わ りにくい。地表は砂漠化しているので温度の 差が激しいが、砂の中なら温度調整もさほど 必要なく、快適に過ごすことができる。大気のクリアシステムの発展が、我々に半永久の 清浄な酸素を供給し、第四電力の発明による電力の自家発電機システムが、安全なエネル ギーを約束している。
 企業や工場や店、住宅。街がそっくり砂の中に潜っただけで、我々の生活には何の支障 もなかった。菜園では、人工の太陽光線を浴 びて、野菜や果物がたわわに実をつける。  人類がいつまでも地表での生活に執着しているようだったら、たいへん暮らしにくかっただろう。
「本物ノ外ノ、天ノ川ッテコンナ感ジナノカ シラ」
 モニターをうっとりとみつめるジェンラは、 外の世界を全く知らない。星も月も太陽も、 ビデオでしか見たことはない。都会の子供であったジェンラは、ものごころつくかつかないかという年齢で、まっさきに金魚鉢に入れられたのだ。テストケースの一番目の都市だったという。
 イルクは田舎育ちだった。少年の頃は砂丘 を駈けて遊んだ。近所のみんなと砂のもぐりっこをしたり、サソリや甲虫を捕まえたりした。本物の星のひやりとした輝きも、直に見たことがあった。
 それに、イルクの父親のおかげで、見ようと思えば、今でも本物の星を見に行くことができた。この家には、死んだ父親が道楽で買 った、地表へ出る為のクルマが残っているの だ。昔のSFアニメに出てくる宇宙戦闘機・・・ 地上も走れて地面を掘れて海にも潜れるご 都合主義の。形はあんな乗り物に似ていた。
 たいへん高価なので、今では警察や機動隊・環境庁等の公的機関か、よほどの金持ちしか持っていない。イルクは父親のもの持ちのよ さに感謝していた。
 ベガを土に埋めたい。
 イルクが閃いた考えは、最初馬鹿げたものに思えた。それに、『土』でなく、もう砂しかない。ベガが『土』に返ることはないし、 花や作物の実りの役に立つということも、既 に無くなってしまった。だが、白い冷たい陶器の壺に詰め込んで、書類の整理ケースのようなペットの墓に納める気にはなれなかった。  死んだら星になる。子供の頃、そんなおと ぎ噺を聞いた気がした。星の見える場所に埋めてあげたい。
「久しぶりに、上へ行ってみようかな」
 イルクの提案に、ジェンラはやっとフォー クの手を休めた。人工太陽を浴びて真っ赤に熟したトマトが、青白い唇の手前で止まって いた。
「エッ? 外ヘ出ル気ナノ?」
「興味があるなら、君も一緒に外へ出てみるかい?」
 何気なく出た言葉だった。微かに残った砂時計の砂。その砂を見つめる時みたいな気分で、次のジェンラの言葉を待った。
「嫌ヨ、怖イモノ」とジェンラは微笑む。薄 い唇の皺が、ヒビみたいに見えた。砂は一粒 も残さず下の器へ落ちていく。
「アンナ危険ナ場所ヘ、アナタハヨク出テ行 ケルワネ」
「まあね。でも、生で見る星はとてもきれいなんだよ」
 このままここにずっとうずくまっている方 が、イルクにとっては危険かもしれなかった。 ソファの奥で丸くなっいても、誰も気づいてくれないという思いがあった。

 そしてイルクは、久し振りに車を出した。 デジタル時計の、時刻の横にお義理のように表示された日付を見て初めて、今夜が七月七日、七夕であることに気づいた。砂の中は暑いも寒いもないので、今が何月かとかいう意識が希薄だった。ドームの中での日々は、砂 時計を繰り返しひっくり返すように、夜と昼 が行き来するだけだ。
 七夕というのは、遠い昔の星の伝説に基づ いた祭りだ。この日に雨が降らなければ、普段天の川を隔てているベガとアルタイルは近づいて出会うことができる、というのだ。星間の距離が変わるわけはないのに、宙を見上げた昔の人は、輝きの大きな二つの星が恋人 同士に思えたのだろうか。
 隣の座席のタオルのかたまりに視線を落とす。『ベガ』は恋人に会えるだろうか。
 クルマを普通に走らせて一時間ほどで、ドーム境のゲートに着いた。身分証明書と運転許可証を見せて外に出してもらう。他のドー ムへは幹線が繋がっているので、旅行者もここから旅立つようになっていた。
 イルクは乗車したまま指定のスペースに入 り、ラインの所で停車させた。前の壁に青ラ ンプが点いた。軽い衝撃があって、ずずっと沈む。クルマの真下にある扉が開いたのだ。 蟻地獄に落ちるように、静かにかすかに下へ落ちていく。
 車体が全部建物から出たら、砂を掻く機能 を使って前後左右、上でも下でも進むことができる。クルマは潜水艦のように銀の砂の中 を泳ぎ始めた。
 上へ、上へ、上へ。少しずつ少しずつ浮上 していく。

「ありがたい、晴れてる」
 クルマは、砂の上へぷかりとあがった。
 その夜、織姫と彦星は逢えただろう。空は晴れていた。
 狭い座席の中で保温服を着るのは厄介な仕 事だった。腕がつりそうになる。だが、ごわごわした宇宙服みたいなこれを、家から着てくる気にはなれなかった。イルクはヘルメッ トのベルトの金具を確認し、タオルに包まれたベガを抱いた。そしてドアをゆっくりと開 けた。
 砂の中に立つのは不思議な感覚だ。ブーツの足元を、さらさらと砂が攫っていく。海を見たことはないが、砂浜に立つとこんな感じだったのかもしれない。ブーツの形を残して回りの砂だけが風に流れていく。
 月は十二夜くらいなのだろうか。丸でも半円でもない歪んだ形の月が、錆びのように赤茶けた水平線の上に浮かんでいた。月がなければ、右も左も北も南もわからないだろう。 見渡す限りの砂の海だ。振り返るともう波は形を変えている。
 満天の星だった。
 地上に人類がいなくなったおかげで、大気もきれいになり、ネオンも無くなり、昔より星がよく見えるようになったらしい。
 あれが、七夕の星。甘い光を放つベガと雄々しく輝くアルタイル。そして、黒いうねりに銀の飛沫を散りばめた天の川が、二人を隔 てている。宙の滴を凍らせたような、鋭利で冷たい輝き。
 体が浮き上がって吸いよせられていくよう だ。風の音以外、何の物音もしない。
 地球が星に見入っている。息を止めて、目をこらして。ため息まじりに。
 地平線にも、瓶からこぼれ出たビーズのよ うな星。かつての文明の人々が決して見ることの許されなかった三百六十度の星空だ。  ゆっくり時間が動いて行く。ゆっくり星が動いて行く。
 銀の砂の地平線に、星たちが落ちて行く。 この砂の下では、人間達が、こんな輝きには無縁にただ生きてただ生活している。
 宇宙の他の生命体が地球を観察していたと したら、この地球はもう滅びたと思うだろう か。
 白い砂が風に吹かれて動くだけの星。
 イルクはタオルをはずし、静かにベガを砂の上に置いた。夜の色より黒い毛足が、さらさらと風になびく。少しずつ、体が砂にまみれていった。砂は、闇にこぼした天の川の星のように、ベガのからだを飾っていた。

「明日も会社だしな。あまり夜更しもしてら れないな」
 明日も、何も瞳に映さないような同僚たちに囲まれ、無意味な数字をキー入力するのだ。  イルクはクルマに戻ると、イグニッションキーを差した。
・・・ !・・・
 動かない。ええい、もう一度。
 だめだ。故障のようだ。
 イルクは参ったなと思った。少しのメンテの道具なら入れてある。しかし、ボンネットを開けて見ても、車の中身は旧式すぎて彼の手におえなかった。
 仕方無い、値段は高いがレッカー車に来てもらおう。
 携帯電話でJAFの番号をコールする。
『ただいま磁気の影響で回路が乱れています。 しばらくたってからおかけ直しください』
 何回かけても同じだった。二時間もリダイ ヤルボタンを押し続けていたら、指が痛くな ってしまった。
 朝になってからにしよう。せっかくの夜空 だ。朝になるまで星でも見ていよう。ムキになって電話してるのなんてつまらない。
 そうして、二回朝が来て、三回目の月が昇った。
 電話は通じない。車も、いくら試みてもエンジンがかからなかった。
 イルクは、大海で漂流したようだ。ベガは すっかり砂に埋まり、どこにいたのかわから なくなった。クルマも少し沈んだような気も する。
 たぶんジェンラが警察なり救助機関なりに連絡しているはずだが・・・。ジェンラが、イ ラクが『居た』ことを、忘れずにいてくれたならば。
 夜は砂に寝ころんで星々を見ていた。車の中には一本のミネラル・ウォーターがあるだけだった。ぬるい水を大切になめながら、イルクは渇きへの恐怖を忘れるように努めた。 はるか昔のギリシアの羊飼いのように、星だけを眺めていた。
僕は、ここで死ぬのかもしれないな・・・。
 イルクは漠然と思った。星に抱かれて死ぬのか。それも悪くない。
 人類は本当なら砂の世界で・・・星のもとで滅びるはずだった。それを無理な形で不自然に生き延びた。風を頬に感じることも、夏の陽をうなじに感じることも、ひんやりした星の冷たさを瞳に感じることもなく。
 イルクひとりが、こんな最期を迎えてもいいかもしれない。
 わかっていた気がする。これを待っていたに違いない。
 気が遠くなっていく。目をつぶると、目の奥にも天の川が残っていた。

 目が覚めた時は、病院のベッドの上だった。 合わせの寝間着を纏い、腕には点滴があった。
 覗き込むジェンラの顔と目があった。
「気ガツイタノネ。今、先生ヲ呼ンデ来ルワ」
 ガラス玉のような何も映さぬ瞳が、イルクを見ていた。星の瞬きの方がもう何倍かは、 心を持っているように思えた。
「衰弱以外ニハ特ニ体ニハ問題ハ無イソウヨ。数日ハ点滴ノ生活ダケド」
 ジェンラの声が耳をすり抜けていく。
   白い壁。白い天井。四角く仕切られた壁。 空気を清浄化する機械。室温を一定に保つ機 械。人工の栄養を補給する機械。
 イルクはがばっと起き上がると、両手の拳を脇机に叩きつけた。ガチャンと大きな音が して、点滴のビニールホースが波うった。血が微かに逆流し、腕のそばの管がピンクに染まった。机に置かれた水差しが、カラカラと揺れていつまでも音をたてていた。
 ジェンラは何も見なかったように、平然と 部屋を出ていく。最初に言った通りに医師を呼びに行くのだろう。
 地球は今、人類は今、大きな病院の中で生活している。砂漠になってからずっと、我々人類は入院し続けているのだ。もう助からない心を抱えて。
 病室の天井では、永遠に星は見えない。
☆ END ☆
 
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