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コーヒーカップを口に運ぶ手を止めて、僕はふと思う。
そうだ。雨。雨は好きだった。
飴色の水滴たちが、街を閉じ込める。街は琥珀の中にいる虫のように、黒く暗く、じっとしている。
どこに隠れたのか、いつも見かける太った猫もいない。アスファルトには、誰かが落とした新聞紙が、腐ったキャベツみたいにしおれている。僕は、大きめの黒い長靴を持て余しながら、雨の中を歩いた。カッパは雨の空気を腕に感じられないから、好きではなかった。重くて腕が疲れても、僕は傘をさす方を選んだ。傘を直接打つ雨音を聞きたかったからかもしれない。
まわりの家からはテレビの音も洩れてこない。耳に響くのは、雨の音だけ。僕も雨の中に閉じ込められ、琥珀になり、何億年も生きてきたような錯覚にとらわれる。
僕は笑った。皮肉っぽく見えないよう、きちんと唇の両端が水平に上がるよう気をつけながら。誰が見ているわけでもないのに。
僕の思い出の風景にあるような街は、もう跡形もないだろう。どんな田舎でさえも。あれから何百年たったのだろうか。
僕はコーヒーを飲み干し、制御室のモニターをオンにし、外の星々を見た。
「雨が止まったとしたら、こんな感じなのかな」
僕は今日初めて、声を発した。
僕は5回目のフライトだった。ほかの三人に比べれば、まだ駆け出しだった。みんな二桁の経験を持つ大先輩だったが、見た目は青年で、僕と変わらない。そう言う僕も、戸籍上の年齢だけなら、100歳近かった。宇宙を仕事場に選ぶ者は、地球を捨てなければならない。 1年のフライトから帰ると、十数年たっているのだ。次に会う時には、両親は老人に、恋人は他人の妻に、息子は見知らぬ青年になっている。地球で次のフライトを待つ数カ月は、旅人が名前も知らない町に素泊まりしたようなものだった。
フライターは、根無し草の風来坊だ。それを良しとする者しかフライターにはならない。スクールをいい成績で卒業したエリートさんたちは、決してフライターになりたがらない。彼らは地球の管制塔で指示を出す方を選ぶ。毎日、妻のディナーと娘の『パパ、おかえり』の頬ずりの待つ、家へ帰る道を選ぶのだ。それを選ばずこっちへ来た者っていうのは、結局、そういう生活が・・・地球での生活が、好きではなかったってことだ。価値観が似ているせいか、フライター同士は、けっこう仲がよかったが。
植物学者の依頼でその星に降りた仲間たちは、採取した「それ」の菌に犯され死亡した。感染から一日もたたずに、三人とも死んだ。筋肉が堅くなって石のようになっていた。心臓が石になった時点でアウトだ。僕も感染したが、なぜか一命は取り留めた。足の指と右耳が堅くなったままだが、生活に支障はない。ただし、僕の地球への帰還は拒否された。
僕はゆっくり二杯目のコーヒーを入れた。地球からメールが届いていたので、前のメールから一カ月たっていることを知った。僕の中にもう時間の感覚はない。
「あれ、添付ファイルがニュースの分しかないな」
フライター事務局に頼んで、ニュースのピックアップと、小説を何編か送ってもらっているのだ。今回、NOVELSの添付ファイルは付いていなかった。そういえば、前回、もういらないと言ったかもしれない。知らない単語が多すぎて、楽しめなくなったからだった。はっきり言って、ニュースの方もよくわからないものばかりだった。もう、いいかもしれない。繋がっている必要などないのだから。
僕は中身も見ずにNEWSのファイルを削除し、ニュースも不用という返信をした。補給基地の変更などの重要な内容は、頼まなくても連絡をくれることにはなっていた。食料等の生活必需品は、無人補給基地へ取りに行けばよかった。船は普段は飛行せず漂っているだけなので、室内の日常的な動力だけではあまり燃料が減らないが、燃料の補給もそこへ行く。無人補給基地では、ロボットだけが働いていた。この船はもともと四人乗りなので、かなりの荷を積むことができて、滅多に行くこともなかった。
コーヒーに入れたミルクが、静かにカップに広がる。
仲間が死んだ時は悲しむどころでなかった。あっという間の出来事で、何が起こっているのか理解したのは、すべてが済んでから・・・三人が息を引き取り、僕が一部分だけ発病したがそこで進行が止まり、死なないとわかってから・・・だった。地球から『治療方法不明』の回答が来たのは、もっと後だった。原因は、『採取植物に筋肉を硬直させる菌が含まれていたものと思われる』とあった。そんなことは、僕にも予想できた。
宇宙葬をして遺体を外へ流した時はさすがに胸に迫ったが、その後の一人の生活が淋しいと感じることはなかった。地球に帰還を拒否された時は苦笑していた。ああ、やっぱりという気持ちだった。もともと、帰っても帰らなくても同じだったから、帰れない悲しみは全くなかった。
時々、死んだキャプテンとのやりとりを思い出す。
『おまえ、なんでフライターになった? 地球の生活を捨ててまで』
『・・・。捨てて「まで」ってほど、地球に執着はありませんから』
彼はにやりと笑った。
『人はひとりだってことを知ってる者だけが、ここに来るのに躊躇しない。地球にへばりついてる奴らは、鈍感なんだ。あそこにいたって、ひとりだってことに変わりはないのにな』
でも、雨だけは好きだった。掌でカップを包み込みながら、二度と雨に出会えないことだけが、すこしだけ、悲しいと僕は思った。<END>
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