隠れ家でコーヒーブレイク 後編 |
< 5 > 「このあたり一帯、ファッションビルになるんだ。今ある商店はほとんど中に入るらしいけど、うちのオーナーが引き続き賃貸するかどうかは知らない。どっちにしろ、今の内装の面影もない、ビルの中の喫茶店になるだろう。 明彦先生との思い出の店だったのに、ごめんね。 ボクはただの雇われマスターだから、何の力もなくて 。 ボクもまた雇ってもらえるかもわからない。とにかくビル建ててる1年間は失業の身。近所のビデオ屋かコンビニでバイトするつもりでいるんだ。 ここは、ボクにとっても隠れ家だったんだけどね 。」 何もないさら地に、雪が積もり始めていた。 商店街の中のビル予定地の建物はすべて取り壊されて、コンクリーの塊が所々にころがる空き地に、ポツンとクレーンが置いたままになっていた。 わかっているのに 。見れば切なくなるのに、つい足はここへ向いてしまう。 『珈琲画廊』があった土地の前に、歩勇美はたたずんでいた。 どれくらい立っていたのだろう。 雪は、いつしか雨に変わっていた。 「濡れちゃうよ。」 差し出された傘と、懐かしい声。 振り向く前から晴臣だとわかった。 「マスター 。」 「久し振りだね。 なんだか、ついここへ来ちまう。よく、ここでぼーっと空き地をながめてる。 じじいみたいだよなあ。」 「私も、つい、来ちゃうの。空き地を目の当たりにすると悲しいだけなのに。」 「 ・・・。歩勇美ちゃん、どれくらいここのに居たの?寒かっただろ? 鼻が赤くなって涙目になってら。」 「えー、やだあ。」 と歩勇美は頬を両手で覆った。 晴臣が歩勇美の手を触ると「げ、冷たい手。」と真面目な顔になった。 「 随分長いこと立ってたんだね。 温かい飲み物でもごちそうするよ。ボクんち、すぐ近所なんだ。」 歩いて2分ほどのところにある、1階がコンビニのマンション。 「ここなんだ。」 エレベーターに向かいながら、歩勇美が「近場で仕事してたのねえ。」と言うと、 「今はここのコンビニでバイトしてる。」という返事が返ってきて笑った。 「雨が降るようになるってことは、春も近いな。」 傘をたたみながら晴臣が言った。 501号室。 晴臣はこの部屋の前で立ち止まり、鍵をあけた。 「むさ苦しいところだけど、どうぞ。」 「お邪魔しまーす。」 ドアを開けると、 この匂いって? 微かに墨の匂いがするのに気づいた。小学生の頃よくかいだ匂い。 「どうぞ。今、お茶入れる。 そのへんに座ってて。」 晴臣はエアコンのスイッチを入れた。 3畳ほどのキッチンのついた結構広い部屋だった。 製図机と本棚とソファベッド、小さなクロゼット。小さなTVとステレオ。あんまり何もない部屋だが、そのせいか意外にきれいにしていた。 晴臣はヤカンを火にかけながら、くすっと笑った。 「歩勇美ちゃん、『珈琲画廊』に初めて来た時も、そうやってきょろきょろ見回してたよね。」 「えっ?あ、ごめんなさい。 きれいにしてるから、少し驚いちゃって。」 「いいよ、別に。見られるのがヤだったら呼ばないもの。 コーヒー、インスタントしかないんだけど、いい? 君はお砂糖なしのミルクありだよね。」 「うん。」 晴臣が入れたコーヒーをすすりながら、歩勇美は可笑しくて笑ってしまった。 「なんて不思議。マスターの部屋で、インスタントコーヒーをいただく機会があるなんて。」 白い大きなマグカップに入れられたコーヒーは、温かくて苦くて、美味しかった。 「ごめんね、インスタントでさあ。 家では面倒だから豆引いたのなんて飲まなくて。器具も豆も置いてないんだ。」 と晴臣も自分用のカップでコーヒーを飲んでいた。 「ううん、そんな。私、面白がってるの。だって おかしくない?」 歩勇美はクスクス笑っている。 晴臣も「そう言えばそうだね。」と苦笑した。「なんかヘンだよね。」 「この部屋って何畳?家賃どれくらい?」 「お父さんって何科のお医者さんなの?」 「あ、ピチカートのCDがあるー。」 「歩勇美ちゃん、髪のびたよね。」 まるで古くからの友人のように、とりとめのない話を次から次へとした。 不思議な、極上の時間だった。 そして、2人とも決して触れようとしなかった。今は無きあの店の話題には。 「 ねえ、マスターってまた絵を描いてるの?」 「なんで?あまりにヒマをもてあましてそうだから?」 「そんなあ。」と歩勇美は笑った。 「 部屋に入ったら、墨の匂いがしたわ。ちょっと稟とした毅然とした匂い。 墨の匂いって、ちょっと特殊だから。」 晴臣は「バレたか。」と苦笑した。 「あまりにもヒマをもてあましてたんでね。」とまた苦笑して言った。 そして少し真面目な表情になった。 「どんなに時間がかかっても、仕上げたい題材があったから。 まだ途中だから、プロとしては本当は見せてはいけない状態なんだけど。」 下書きのスケッチブックと、ペン入れの最中の原画を歩勇美に差し出した。 「これ 『珈琲画廊』だあ。」 スケッチには、店の外観、それからいつも晴臣の目から見える内装 店の中の様子が描かれていた。原画はその中の1点にペンを入れたものだ。 それは、晴臣のいた、カウンターから見える景色だった。 白い壁と、モノトーンのイラスト。茶色の木枠の曇りガラスの窓。並んだテーブル。コーヒーを前になごんでいる2,3人のお客。 「この1番はじのテーブルにいるの、私?」 歩勇美がよく座っていたテーブルだった。 「 そうだと思う。思い出しながら描いてて、漠然とそういう絵になったけど。 もう、ボクの記憶の中には、その席には君って刻みこまれてるもんなあ。」 「モノトーンなのに、暖かい絵だよね。」 「 以前みたいなシャープな線が描けないんだ。ゆがんでにじんでるだろ? 暖かく見えるのは、そのせい。 お笑いだよな。」 「マスター 。そんなこと。」 「それだけのペン入れで、丸5日かかってんだ。冗談じゃないよな。」 泣いているみたいな笑いだった。 「・・・ 。」 いや、泣き始めたのは歩勇美の方だった。 晴臣は笑顔を作った。 「歩勇美ちゃん。 ゴメン、愚痴っちゃって。 そんなこと言いたかったんじゃないんだ。もっと前向きな話だよ。 ドイツにいいお医者さんがいるんだって。この右手も、今よりもっと何とかしてくれそうな名医だそうだ。 以前お世話になった本の編集の人の紹介で、手術してもらえることになった。 友達やら以前の仕事仲間やらに借金して、まあ殆どが店のオーナーからの借金なんだけど、来月1ケ月間ドイツに行ってくる。イラストの仕事をこなせるようになってからの出世払いってことで返済する、とんでもない話だけど。」 「マスター 。」 晴臣は笑顔だった。 「少し描き始めたら、やっぱりもどかしくってさあ。前みたいとはいかなくても、もう少し自由に動いてほしいよ。 描きたいんだ。もう、この気持ちは止まらない。 つまらないプライドなんか捨てて、昔の恋人にも頭下げた。例の編集者の。 いや、もう本当はこだわってなんかいなかったけど。 彼女は、イラストが描けなくなったボクを捨てたんじゃない。すさんで荒れてたボクに嫌気がさしたんだ。今ならそれを素直に認めることができるよ。」 「すごい、マスターって。すごい立派。」 歩勇美はさかんにまばたきしながら微笑んだ。 晴臣は照れて、 「そんなことないよ。 こうするのが遅すぎるくらいだ。ボクは弱虫だからね。」 「マスターは、ちゃんと、隠れ家から出て来ようとしてるね。」 歩勇美はぼろぼろ泣き出した。 「歩勇美ちゃん 。」 「ごめん。私、うれしいの。マスター、頑張ってね。負けないでね。 私も、頑張ってみるから。 いつまでも隠れてばかりいられないよね。 私、この春から、短大行くことになってた。一応合格したの。 でも、迷ってた。すごく迷ってた。 もう1年、浪人生としてきっちり勉強して医学部を受けようかどうか。 明彦先生がいなくって、私一人じゃ頑張れないと思った。自信なかった。 それにたとえ来年合格しても、人より2年も遅れちゃうわけだし。 今まで迷ってた。たぶん、ぐずぐず迷いながら、このままなら楽な方へ流れていたと思う。春になったら綺麗なかっこしてお化粧して女子大生して。 でも、決めた。今決めた。私も自分の夢に向かって本気で努力してみること。」 < 6 > 暖房のきいた室内からは、窓の外は曇っていてよく見えなかった。 少し夕暮れの色に染まってきたようだが。 「雨、やんだみたいだね。」 「そろそろおいとまします。長居しちゃって。」 と歩勇美は立ち上がった。 「また遊びにおいで。今月中は、部屋かコンビニかどっちかにいるし。」 晴臣は笑いながら言った。 「さ来月には帰国してるし。手術が成功してれば、だけどさ。 この絵のペン入れ、出発する前に仕上げるつもりなんだ。 出来上ったら、ヤじゃなければ歩勇美ちゃんにもらってほしいんだけど。 不自由な手で描いてて線がガタガタだし、こんなもん価値も何もないけどね。」 「えっ。そ、そんな。貴重なものだし、いただけないわよ。私なんかにくれたら後悔するわよっ。それに遠井晴臣の絵ってすごく高いんでしょ?」 「これは 遠井晴臣の絵じゃなくて、素人の、『珈琲画廊』ってサテンのマスターが下手の横好きで描いた絵だよ。 でも味があっていい絵だろ?店への愛情がこもってる。歩勇美ちゃんだから、渡しておきたいんだ。あの店を覚えていてほしいから。 完成したらもらってよ。いいだろ?」 「 うん。」 ピンポーン。 歩勇美がうなずくのと同時にチャイムが鳴った。 「あ 。ちょっとごめんね。」 晴臣がガチャリとドアをあけた音が聞こえた。 「チャオ。」 「あ 。やあ、どうも。」 女性の声だった。晴臣の声が動揺してるのもわかった。 「 店に飾ってあった絵、全部さばけたわよ。 ちょっとー、中に入れてくれないの。」 少し年配の女性の声だった。 「今、お客さんが来てるんだ。」 「ふうん。 おんな、ね。」 「そうだけど、そんなんじゃないよ。」 「パトロンのあたしより大切なひとなわけ?」 「もう、おとなげないなあ。」 「マスター、私、もう帰りますから!」 中から歩勇美は精一杯の声で言って、バッグを抱えて玄関へ向かった。 「どうも。」と、2人の顔を見ないようにしてあわてて靴をはいた。 「じゃあ、マスター、ごちそう様でした。」 ドアをすり抜けようとして、廊下側に立っていた声の主に腕をつかまれた。 「『マスター』って、あなた、うちのお客だった子?」 「えっ。あ、はい。」 『珈琲画廊』のオーナー? 歩勇美はその女性をちらっと見た。ブランド服を着込んだ40歳くらいの、化粧は濃いがそこそこ美人だった。身につけているアクセサリーも、靴やバッグも、すべて高級品だ。晴臣のパトロンだと言っていたっけ。 ・・・そう。そういうことだったのね。 「晴臣、あなた店のお客に手を出してたのっ?」 「よしてよ。彼女に失礼だろ。 ごめんね、歩勇美ちゃん。」 「いいえ。」 笑顔を作ろうとしても氷ついてしまった。 ・・・お願いだから、涙腺、こらえてね。 こんな場面で泣いたら、あまりに自分がみじめでみっともない。 「じゃあ、これで。」 -- これで、さよなら。-- 歩勇美は心でそうつぶやいて、ドアの前から小走りに走り去った。 自分の靴音が廊下に響いている。 エレベーターに乗らずに、脇の階段を駆け降りた。 もう、涙は止まらなかった。 2階まで駆け降りて、歩勇美は踊り場にうずくまった。 ・・・汚い。不潔だよ。マスター、あんまりだよっ。 「歩勇美ちゃん!」 晴臣は、歩勇美を追いかけて、1階までエレベーターで降りて来た。歩勇美を見つけると階段を昇って来た。 「やめてっ!来ないでっ!マスターなんて、不潔よ。」 歩勇美は膝をかかえてわんわん泣いていた。 「 ・・・。」 晴臣は途方に暮れて、歩勇美の前に立ち尽くした。 「歩勇美ちゃんに軽蔑されるだろうけど、ボクはウソはつかない。 今の女性は、あの店のオーナーで、本業は画廊の経営者。都内の幾つかの画廊を仕切ってる。 ボクがケガして収入の道が閉ざされてから、ずっと世話になってる。」 「世話になってるって 愛人やってるってことね。」 しゃくりあげながら、歩勇美がやっと言った。 「うん 。」 晴臣は悲しそうに微笑んだ。 「道楽みたいな店まかされて給料もらって、マンションの家賃も払ってもらってる。 ドイツへ行けるのも、彼女からの借金のおかげ。 絵を描けなくなったボクには、何の力もなかった。経済力も気力も、すべて無くしていて、もう、どうでもよかった。楽な方に流れて行った。 隠してたけど、手術の成功率って20%なんだ。失敗したら、右手はまったく動かなくなる。ずっと、手術する勇気なんて起きなかった。」 「・・・20% ?」 「ボクは、君から見たら不潔で汚い生き方をしていると思う。ののしられても仕方ないよね。 ごめんね。せっかく、もう一度ペンを持とうとするボクを『立派だ』って言ってくれたのに。ほんとは、こんなオトコです。 でも、どんなに汚い手段だと言われても、もう一度頑張る決意は本当だよ。もし、手術が失敗しても、今度は左手でペンを持つつもりでいる。 君も、自分の夢に向かって頑張って行きなね。」 歩勇美は首を振った。 「もう、いや。もう、なにも信じられない! 私がもう一度頑張ろうって思ったのは、マスターが頑張ろうとしてたからよ。 すごいと思った。刺激されたわ。なのに 。 もう、いやだよ。何も出来ない気がする 。」 「甘えるなよ。」 晴臣は歩勇美の頬を叩いた。自由でない右手の方でだった。 「いたーいっ!ひどいっ。」 たいして痛いはずもなかった。でも、涙はまた頬をつたった。 「 ボクがヒモやってることと、歩勇美ちゃんが自分の夢に向かうこととは、全然別の問題だろ?君にショックを与えたのは悪かったと思ってる。でも、自分が決意したことを他人事でぐらつかせるなよ。しっかりしろよ。」 晴臣は「 わかってるのか?」と肩を揺すった。 歩勇美は目をそらした。まだ涙は流れつづけた。歩勇美は膝をかかえた。 「 君がいつまでも、その階段の踊り場でうずくまっているつもりなら仕方ないよね。ずっとそうしてろよ。ボクはもう行くから。 じゃあね。」 晴臣はそのまま階段を上に昇って行った。 -- すごい冷たい言い方。ひどすぎる。すごい意地悪。-- また涙が出た。 晴臣は、昇ってる途中、3階の踊り場で立ち止まった。そして下に向かって、 「覚えておいてよ! ボクを、もう一度描く気にさせたのは、歩勇美ちゃんだよ!」 と叫んだ。階段に晴臣の声が響いていた。 歩勇美は思わず覆った手を離し、顔を上げた。 ・・・マスター 。 「君の居る『珈琲画廊』の風景を残しておきたいと思ったんだ。」 -- だって、そんな、パトロンがオーナーの店のくせに。-- それでも、心には優しさが差し込んで来た。さっきの絵が、晴臣の暖かい視線に満ちていたのを思い出す。晴臣が絵でウソをつくとは思えない。 歩勇美はやっと立ち上がって、 「手術の成功祈ってる。個展があったらきっと見に行く。」 と涙声で叫び返した。 「ありがと。」 そして晴臣はまた階段を昇って行った。 歩勇美も、涙をぬぐって階段を降り始めた。 さよなら、マスター。さよなら、『珈琲画廊』の楽しかった思い出。 マンションの外へ出ると、辺りはもう夕暮れだった。雨は止んでも地面はまだ濡れていた。歩勇美の頬もまだ乾いてはいなかった。 帰り道、歩勇美はこの前の本屋の前で立ち止まった。 正直言って、今はもう、再び受験をする気力などなかった。 短大出て、見合いして。流されてしまおう。もう、どうでもいい。 -- 裏切られて傷ついて そのうえ苦労して浪人した挙げ句に不合格になって失墜するのはごめんだわ。-- 『もう、どうでもよかった。楽な方に流れて行った。』 さっきの晴臣の声が、耳で響いていた。 ・・・自分も、マスターのように流されてもいいの? ふらっと、店の中に入って行った。 目は大学受験の参考書のコーナーを探していた。 『ボクのことと、歩勇美ちゃんが自分の夢に向かうこととは、全然別の問題だろ? 自分が決意したことを他人事でぐらつかせるなよ。』 ・・・何言ってるのよ、自分のこと棚に上げてさあ。 歩勇美は、もう気がついていた。晴臣を好きだったことに。だからこんなにショックだったということに。 歩勇美は、くすっと笑った。 「またここで挫折したんじゃあ、明彦先生の時と全然成長ないわよね。」 そして、ゆっくりと参考書へと手を伸ばした。 < 7 > 春になり、歩勇美は予備校に通い始めた。 あのあと、晴臣のマンションの前を通ることもしなかった。今頃は、もうドイツにいることだろう。 ブランクが長かったこともあって、勉強はきつかった。でも、かえって晴臣のことを考えないですむので助かる。 桜もそろそろ散り始める頃、エアメールの小包が届いた。 「明彦先生かな。なんだろう。タイで安く買ったブランド服とか?」 ていねいに包みをほどいていて、歩勇美の手は止まった。 ・・・これ 。マスターの絵。 あわてて送り主を確認する。ドイツの晴臣からだった。 中身は、完成した『珈琲画廊』例のイラストだった。手紙が添えてあった。 『歩勇美ちゃん、お元気ですか? きっと、大学受験の勉強をしていることと信じています。 完成したら君にもらってもらう約束だった絵が、やっと昨日できたので送ります。 日本にいる間には間に合わなくて、こっちへ持ってきて描きました。 東京にいる知人に、君の姓と住所を調べてもらった。勝手にごめんなさい。 明日、手術します。 ボクは、弱虫だから、怖くてね。今でも逃げ出したいくらい。だからこうして、歩勇美ちゃんに手紙を書いて、勇気を奮い起こしています。 珈琲画廊の跡には、もうビルの土台くらいは立ったかな。 ビルの中にはどんなサテンが入るのでしょうね。 あの店やってて、いろいろ楽しかったな。君とも会えたし。 体に気をつけて、頑張って勉強してください。 晴臣 』 読みづらい字だったが、晴臣がそんな手紙を書くのもこれが最後になるだろう。手術は成功すると歩勇美は信じていた。 歩勇美は勉強の合間にペンをとった。 『マスターへ。 手術は成功してこの手紙を読んでいると確信しています。 絵、届きました。ありがとうございます。 でも、やっぱり、ただでいただくなんて、悪いです。値段をつけてください。買い取ります。すごく高かったら、医者になってから払いますから。 1年間遊んでたから、勉強はきついです。勉強する習慣が無くなっていたし。 でも、あの1年は私にとって貴重な時間だったと思っています。 今は勉強に専念しますが、受験が終わったらまた手紙書きますね。 1年も先の話だから気が遠くなるけど。 その頃はマスターもきっと雑誌等でご活躍されているでしょうね。 どうぞ、お元気で。 歩勇美 』 歩勇美はその手紙を晴臣のマンションの郵便受けに突っ込んで来た。1階のコンビニで缶コーヒーを買って帰り、夜中の勉強の合間に飲んだ。晴臣の入れるコーヒーの味が懐かしくて、涙が出そうだった。 受験が済んだら告白しよう。愛人はいるし、大人だし、派手な職業だし、相手にされなくても当たり前。でも、この想いだけは伝えておきたかった。 夏頃から、ポツポツと、白黒の、懐かしいイラストを見かけた。歩勇美は勉強が忙しかったので雑誌をチェックしてる暇もなかったが、それでも本屋の店頭で晴臣のイラストが表紙を飾る本を見つけて買ったりした。マスコミのイベントのポスターや駅のマナーポスター。文庫の表紙と挿絵。かなり精力的に仕事をこなしているようだ。 ・・・何年も、描きたくてうずうずしてたのだろうしなあ。 レストラン・チェーン店の、クリスマスメニューのイラストを見た時は、つい盗んで帰ってしまった。教会と雪だるまと女の子の描かれた可愛い絵だった。 そして、春。 努力の甲斐あって、歩勇美は国大の医学部に合格した。ただし、関東近辺は無理だったので、四国の新設大学ではあったが。 家に合格を知らせる電話をもらうと、歩勇美はすぐに外へ駆け出した。晴臣のマンションの向かってまっすぐに。 蕾の桜の木が視界をよぎっていた。走っているせいだけじゃなく、心臓がドキドキしていた。晴臣に朗報を告げれる喜びは大きかった。 コンビニの前を通り、マンションのドアを押し開ける。 と、1階の郵便受けの501が代わっているのに気づいた。前は晴臣のイラスト入りネームだった。近づいて見ると筆ペンで『河野』と書いてあった。 -- うそお。引っ越しちゃったの !?-- 指先も爪先も、体のすべてから力が抜けて行くのを感じた。 「管理人さん、501の遠井さんはいつ引っ越されたのですか?」 「そう、去年の暮れでしたねえ。年末の慌ただしい時期でしたよ。」 「どこへ移られたかわかりますか?」 「さあ、こちらでは。市役所か郵便局ならわかるんじゃないですか。」 「はあ 。」 ・・・そういうところって、親族でもない者に簡単に教えてくれるのかぁ? 歩勇美はその足で市役所と郵便局にも行ったが、案の定『お教えできません』だった。 「特にマスコミ関係のお仕事の方のものは。そういう方は本人からの希望もあって。」 気分はすっかりめげてしまった。 ・・・やっぱり、ダメだって運命だったのかなあ。 わざわざ告白して恥かくより、綺麗な思い出だけ抱いて、静かに忘れていく方が幸せなのかもしれない。 いや、そんなことがいい場合なんて、あるわけがない。 歩勇美は、晴臣がイラストを描いている雑誌の編集部にも問い合わせた。しかし、やはり教えてくれなかった。 あとは、いつ本人に届くかわからないファン・レターという形で、合格した旨を伝える手紙を編集部に出しておいた。晴臣が連絡をくれてとしても、歩勇美はもうこっちにはいないだろうが。でも、運命が呼べば、いつかきっと会える。歩勇美はそう信じようと思っていた。 4月に入るとすぐ、四国に出発する予定だった。むこうでアパートを借りて、一人暮らしを始める。 本当はもっと早く出発して慣れたいのだが、今日、高校時代の友人の結婚式があるので延ばしていたのだ。 私が足踏みしてる間に、短大卒業を待って挙式、なんて奴もいたわけだ。 ・・・あーあ。ウォーミングアップ期間が長すぎたなあ、ちぇっ。 美容院で髪をやってもらって、家に着替えに帰って来たら、例のファッションビルのオープンセールのチラシをテーブルで目にした。 「ママ、駅の向こうのビル、今日オープンなんだあ?」 「そうよー。今日の11時から。あら、もう開店したわね。 あ、歩勇美、どこ行くの、そんなかっこで。 そろそろドレス着て用意しないと間に合わなくなるわよー。」 歩勇美は、霞草とピンクサテンのリボンを編み込みした髪型で、下は普通の白いシャツとGパンというとんでもないかっこで外へ飛び出していた。 駅の反対口へ降りて2,3分歩くと、華やかな音楽と呼び込みのテープの女性の声、たくさんの人のざわめきが聞こえてきた。 色とりどりの風船、立ち並ぶ生花の花輪の数々。 入るのに、並ばなくてはいけないほどだった。 エレベーターまでたどりつき、横に張りつけられた各階のインフォメーションで喫茶店を探す。 ・・・やっぱり『珈琲画廊』はないわね。 もしあっても、マスターがマスターしてるはずもないけど。 喫茶店は、地下のレストラン街と、2階と6階に3店あったけれど。 行ってみる?でも、行って見てみてどうするつもりなの? 鏡みたいなエレベーターの前で、深刻な顔してこんな突飛なかっこして立っている自分の姿を見て、吹きそうになった。夢中で、すごいかっこでここまで来てしまった。 ・・・バカみたい、私って。 ため息ついて、ふと反対の壁を見ると そこには、大きな、モノトーンのイラストのポスターが額に入れられ飾られていた。それはこの街とこのビルの完成図を描いたもので、見間違うはずもない、晴臣の手によるものだった。 歩勇美はその場に釘付けになった。金縛りにあったように、動けなくなってしまったのだ。歩勇美はずっとその絵を見つめていた。 「久しぶり。」 その声が後ろからした時は、信じられなかった。 懐かしい、あまりにも懐かしいその声。 歩勇美はゆっくりと振り返った。まばたきすると涙がこぼれた。 晴臣はGパンにラフなジャケットをはおり、サングラスをしていた。 「そのかっこ、結婚式か何か? まさか歩勇美ちゃんのじゃないよね。」 優しい声。サングラス取って、笑ったその目。眉。 どれほど恋しかったことか。 歩勇美は涙をぬぐって笑顔になって、 「高校のクラスメートの。さっき美容院が終わったところ。すごいかっこでしょ。」 「いやあ、アバンギャルドで。」 「もう!」歩勇美は晴臣をぶつ真似をした。晴臣は声をたてて笑った。 「最初に話したのも、結婚式の・・・あれは帰りだったな。」 「 ああ、明彦先生の。」 あまり愛想のいい方でない晴臣だが、さすがにあれはほっておけなくて声をかけてしまった。 「今だから言うけど、あのまま電車に飛び込みそうな雰囲気だった。」 「 ひどいわ。」と歩勇美は苦笑した。 「大学、合格したの。」 「手紙、受け取ったよ。おめでとう。 きっと君はここに来ると思ってた。新しい住所を連絡するより早いから。」 「今はどこに住んでるの?」 「やっぱりこの近所。」そう言って晴臣は笑った。 「 バリバリ仕事して、借りてた金返して、借りてもらってたマンションも引き払って新しいところへ移りました。」 「そうよ、手術、成功したのよね。おめでとうございます。去年の夏くらいから、ご活躍は拝見してました。」 「なんだよ、あらたまって。」と晴臣は笑いながら「 ほら。」と右手を出した。 結んで、開いてを3回した後、親指から順番に指を追ってみせた。 「こんなこともできる。」と歩勇美のほっぺたをつねった。 「痛い。 ひどーい。」 「はははは。 どこ大学の医学部に受かったの?」 「徳島大。来週発つの。独り暮らしとかしちゃうんだから、すごいでしょ。」 「 そうか。四国かあ。遠いね。 でも、一人でも頑張れよ。」 「うん。」 「寂しくなったら、ボクが泊まりに行ってあげるから。」 「ヤーネ。マスターのス・ケ・ベ。それに、美人でお金持ちのパトロンさんに叱られるわよ。」 「“マスター”はよしてよ、もう。 『晴臣さん』って呼んでごらん。」 「えーっ。」歩勇美は照れて赤くなった。「はる おみ、さん?やだな、照れ臭いわよ。『遠井さん』でいいじゃないの。」 「ヤだ。『晴臣さん』。何なら『晴臣』でもいい。 『遠井さん』なんて他人行儀で気に入らないね。」 「だってそんな、まるで恋人みたいに 。」 「パトロンのお姉様とはきちんとお別れしました。・・・ボクたち、とっくに、お互い好きだったろ?」 ・・・えっ? 晴臣の言葉に、歩勇美はまばたきをくり返して彼の顔を見た。 「あの店が好きで、あの空間が好きで、そしてお互いを好きだった。 それともボクの独りよがりかな? いや、ボクがオトコ妾してたこと、まだ許してもらえないでいるの?」 「そういう卑下するようなこと、言わないでよ。悲しくなるじゃない。 でも、そう、オーナーと別れたんだあ。」 「それでマンションも出たんだ。 世話になったし、支えてくれて感謝はしてる。いい人だったよ。 わかってくれた。大人です、彼女は。」 「マスター、私、あの時『不潔』とか『汚い』とか口走ってしまったけど、本気でそう思って言ったんじゃないの。マスターがヒモやってたことよりも、恋人がいたショックが大きかったの。 あの時は『やっぱりもう受験やめる』なんて言ったけど、それじゃあ明彦先生の時と同じだって思い直して、もう一度トライしてみることにした。 でも やっぱり、ごめんなさいね。」 晴臣は笑って首を振った。「またマスターって言ったあ。」 歩勇美も笑って、「『遠井先生』、あの絵には値段をつけてくれましたか?」 「やるって言ってるのに、強情な女だよなあ。 で、4万円でどうですか?100回払いでいいですよ。 ボクんちでコーヒーを1杯飲んだら、『珈琲画廊』と同じ400円を払う、というのは。」 「マスター ・・・晴臣さんの入れたインスタントコーヒー?」 歩勇美はおかしくて笑い出した。 「あれは確かにおいしかったけど、100回もマスター・・・晴臣さんちに通えって? 私、四国へ行くんですけど?」 「時々は、ボクもそっちへ行くよ。いいだろ?飛行機に乗って、コーヒー入れに。」 晴臣はそう言うと自分で笑った。 「あ、私、これから支度して出なきゃいけないんだ。そろそろ帰らなきゃ。」 「とりあえず、今晩、第1回返済をしに、コーヒーを1杯飲みに来なさい。新しい住所はこれ。」と晴臣は笑顔で名刺を渡した。 「ラジャー。」 受け取った歩勇美も笑顔で、そして小走りに駆け出した。 < 8 > 朝の8時。 晴臣は、徹夜でイラストの仕事を仕上げて、コーヒーを飲みに仕事場からのっそりキッチンへ出て来た。お湯を沸かしていると、寝室のドアが開いて、パタパタとスリッパの音をさせて歩勇美が起きて来たのがわかる。 「おはよう。」 「えーん、起こしてよぉ。寝坊しちゃった。」 パジャマ姿で、くしゃくしゃの髪をかきあげている。 晴臣がパシャマでないのに気づいて、 「あ、晴臣、徹夜だったんだ。ごめん。ごくろうさまでした。」と敬礼した。 「いえいえ、ボクはこれから寝れる身ですから。 コーヒー飲むだろ?」 「うん、もっちろーん。入れておいて。」 歩勇美はあたふたと洗顔や着替え、化粧をすませて再びキッチンに現れた。 「ちぇ、化けるよな。」と苦笑する晴臣。 「え、なあに?」 「別に。 コーヒー入ってるよ。」 「サンキュ。 あーおいしい〜。 晴臣の入れるコーヒーに魅かれて結婚しちゃったもんなあ。」 「よく言うよ。 ほら、歩勇美先生、遅刻すると院長先生・・・お義父さんに叱られるぞ。」 歩勇美は腕時計を見て「あ、いけない。」とコーヒーを飲み干し、キッチンのドアを開けて出て行った と思ったらすぐ戻って来た。 「忘れた。はい、400円。」とテーブルに置いた。 「あと3杯で、いよいよあの絵は君のものだね。」 と晴臣はクスクスと笑っている。部屋にはコーヒーの香りが満ちている。 ここは、まるで、あの空間。 でももう、2人にとって隠れ家ではない。 今は、2人は、胸を張って背筋を伸ばして きちんと前を見据えていた。 時々落ち込むことはあるけれど、いつまでも部屋の隅で膝を抱えることはない。 どちらかがめげている時には、どちらかが手を差し出す。そして最後は自分の力で浮上する。地に足をつけてたくましく歩くことのできる大人になっていた。 でも、時々歩勇美は懐かしく思い出すのだ。 現実から逃げて、すみっこの席でうずくまるように座っている弱虫の自分と、それを見守る世捨て人のような枯れた優しい晴臣の目を。 静かに流れる洋楽と、だれかのくゆらす煙草のけむり。あそこの時間は止まっているようだった。 今は無い、愛すべき喫茶店、『珈琲画廊』。 でも、今も傷ついた誰かが逃げ込もうとしているような気がする。 チリリン。 涼やかな風鈴の音を響かせて。 <END> 93.4.25 「隠れ家でコーヒーブレイク」表紙へ |
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