鏡の中のさくら 後編 |
< 7 > 本格的な雨の季節になった。 教室の窓から、桜たちはぼんやり外をながめていた。 「どうする、今日のコンパ」といずみ。 「雨だからパスしたい」 「桜は出なきゃ。彼氏がいない奴は、こういうのどんどん出なきゃダメ」とかおる。 と、教室の入口で「桜いるー?」と梅の声。いずみ達はきゃーっと色めきたつ。「う、梅クンよっ!」 そして梅が入って来て、隣に立つと二人ともしーんとしてしまう。 ・・・すごい人気だわね。 「桜が見たがってたおやじの画集、持ってきた」 「わあ、ありがとう」 「けっこう重いし、雨だし、学校においといていいよ」 「ううん、梅が雨なのに重いのに持ってきてくれたんだもん、ちゃんと持ち帰ります」と桜が言うと、梅は照れて笑っていた。 「ひかりさんにも見せたいし」 「山野さんはあまり見たくないかもしれないけどねえ」 二人の世界の中、かおるが話に割って入った。 「ちょっと、桜ってばそれ持ってコンパ来るおつもり?」 「えっ? ああ、だからパスするってば」 「桜ったら、そんなことだからいつまでも彼氏ができないのよ。 あんまり当日パスばかりしてると、もうお声もかからなくなるわよ」 「僕がカツラかぶって桜のフリして出ようかー。きっとバレないよ、ははは」 梅の冗談に、かおるの目もいずみの目も輝いた。 「それ、いい!」「面白そう。演劇部からカツラ調達してくる」 「ちょ、ちょっとー!」と梅が止める声も聞かず、いずみは教室を出て行った。 「ウソだろー。 僕、逃げるから。あとよろしくね」 梅はいずみが戻らぬうちにと、さっさと自分の校舎へ逃げて行った。 桜とかおるは顔見合わせて吹き出した。 「『ジュン・ジュネいずみ』にも困ったもんだ」 「でも、いずみちゃんでなくても、梅クンの女装は『見たい!』と思うよ。ほんとに綺麗なんだもん。妖艶で雰囲気があって、少し毒があって。 きっと鼻血ものだよ」 「兄をあまりおもちゃにしないでよー。 あーあ、こんなに似てるのに、なんで男の梅だけがあんなに綺麗なんだろ」 「やっぱ、大画伯のモデルとして審美眼に耐えてきたひとなんだよ。おまけに家族だから、常に見られているわけじゃん。二十四時間、どこから見られても綺麗でいなきゃいけなかったんじゃないの?」 「うーん。それも息がつまりそうでヤだな。 平凡な女の子でも、桜はひかりさんの娘でよかったわ」 桜は早めに帰宅して、シチューを煮ながら春田憩の画集を開いた。 大空なら詳しいのだろうが、桜は日本の現代の画家についての知識など皆無に等しい。春田憩の名前と、和服の美人画で有名なことしか知らない。父の絵を印刷物で見るのさえ初めてだ。 絵は、圧倒的な強さだった。 和服の美人画というので、もっとはかなげで繊細な絵を想像していたが、黒と赤、藍と白、常に強いコントラスト。光と影。 どのモデルの女性も、線の細いひとだったが、しっかりとどこかを強い視線で見据えているような。そうだ、梅の目もこんな目だった。 すごい 。すごい人だったんだわ、おとうさんって。 絵のことなんてわからない桜にも、春田憩の偉大さはわかった。涙が出てきた。 こんなすごい才能のある人が自分の父親だなんて、うれしかった。 「あ 。ママだわ、これ」 今の桜くらいの年齢だろうか。浴衣のもの、晴れ着のもの、ヌードのもあった。 どれも、初々しい表情の中に意志の強そうな瞳が輝いている。 ママ、きれい・・・。 母は桜や梅とはあまり似ていず、洋風でパーツの大きい顔の美人だった。 声が大きくて、よく笑った。 叱る時の声も大きくて、ひかりが怒るよりずっと怖かった。 桜が覚えている母は、あまり化粧もしないで、いかにも学校の女事務員という地味ななりで仕事に出かけていたし、家では男の子みたいなパジャマを着ていた。こんな妖艶でつやっぽい母を、桜は知らなかった。見知らぬひとみたいだ。 「これは 梅ね」 梅のは、今までのどのモデルの時よりも、迫力のある絵が並んでいた。 梅が一番綺麗だった。もちろん梅のはヌードもないし、いつも襟元もきつく、帯もきっちり結ばれていたが、梅が一番色っぽかった。 最終ページには、春田憩の写真が載っていた。亡くなる年に撮ったものらしい。 「 ・・・。」 桜は父の顔を覚えていなかったから、初めて見たようなものだ。 やせて尖ったあご、神経質そうにくぼんだ目。五十七歳という歳より少し老けて見えた。 ・・・ママとは随分歳が離れていたのね。 でも、たぶん、梅も自分も顔は父親似なのだという気がした。 「ただいまー。お、この匂いはシチューだな」 ひかりの声に、桜はあわてて本を閉じて元の袋に入れようとしたが、ちょっと考えてそのままソファのテーブルに置いた。 「雨、ひどかった?はいタオル」 「サンキュ」 居間に入ってきたひかりは、「なに、これ?」とすぐに本を見つけた。 「梅が貸してくれたの。春田画伯の画集だよん」桜はわざとおどけて言った。 「ママの若い頃の絵もあった。すごい綺麗だよ。」 「ちぇっ、前の亭主が描いた女房のヌードなんて見たかないよ」 「 半分くらいは着物着てるわよ」 「 ふん」 桜はおかしかった。 ・・・ひかりさんったら、子供みたい。 ソファに座ったひかりは、しかし、ああ言いながらも画集を開いていた。 「ね、ママ、綺麗でしょ」 「綺麗だけどさあ、緑は、オレと結婚してからの方がずっと綺麗だっただろ?そう思わないか?」 「思う思う。わかったわかった」と桜は笑った。 「本気にしてないな。 だって、どの絵の緑もあんまり幸せそうじゃないじゃん」 キッチンに立っていた桜は、はっとしてひかりを振り返った。ひかりは下を向いて本を見たままだったけど。 ・・・ひかりさん。 。 桜は、ひかりのこういうところがたまらなく好きだと思う。 ひかりさんったら、そういう事って他の人に言ったら大顰蹙だよぉ。 でも、二人にだけわかることがある。あの時間を共有した二人にだけ。 「梅君は、まるで女だなあ。オレが間違えたのも無理ないだろ?」 「うん。髪が長い梅を見たことがあるのはひかりさんだけだもんね。貴重よ、それ。 桜も見たかったな」 「 この絵なんてすごい顔するよな。思わず息を飲むよ。やっぱりモデルの才能があるんだろうな」 挑戦的な瞳、伏目がちだが誘うような瞳、『あんたを刺してあたしも死んでやる』みたいな殺意のある瞳。梅が男と知っているひかりが見ても、背筋がぞくっとする。 『魔』が棲んでる、って感じだな。 「ねえ。桜と同じ顔なのにね。 かおるが言うには、常に春田憩の目にさらされてたから、より綺麗になったんだろうって。外国の映画監督でもいたじゃない、奥さんの女優さんを家では常に裸でいさせて美しい肉体をキープさせたって人」 「おう、おまえも家では裸でいていいぞ。常にオレが見ててやるから」 「ひかりさんのどスケベ!」 「そう言えば、春田邸の部屋の一方の壁に全面に鏡が張ってあったな。あれも、常に自分をチェックするっていう訓練の一つなんだろうな」 そんなことを言いながら画集をぱらぱらと見ていたひかりだが、最後のページをめくった彼の手が止まった。春田氏の写真を見たのだ。ひかりは、しばらくその写真を見ていた。 そして、ぽつりと「おまえは、おやじ似だな」とつぶやいた。 < 8 > 梅雨の真っ最中の日曜日。こんな日にぽかんと晴れたのは、 「桜の日頃の行いがいいから」と自分で言って笑う。 今日は、ひかりの車で鎌倉の梅の家を訪れる約束になっていたのだ。 だが晴を喜んだのもつかのま、山野家の電話が鳴った。 「 ひかりさん。会社の部長さんから」 「仕方ないだろ、山野のおっさんのせいじゃないよ」 ひかりの代理を頼まれた大空が、クルマを出した。 「だって、なんでひかりさんが客の運転手をしなきゃいけないわけ?ハイヤーでも頼めば充分じゃない。今日は前からあんなに約束してたのに」 助手席で桜はまだふくれている。 「あれ、絶対わざと逃げたのよ。わかるのよ。梅を避けてるの。 ひかりさんの気持ちもわかるけど、逃げてばかりいて済まないこともあるわ」 「やれやれ。 オレじゃ役不足で申し訳ないけどさ、久し振りに晴れた日曜に、こうして付き合ってやってるわけだけど」 「うそよ、大空ちゃん、ふたつ返事だったじゃない。春田憩のアトリエだったら、興味あるに決まってるもん」 「ばれたか。恩に着せようと思ったんだけどダメか」 海に向かう道路は、半端じゃなく混んでいた。春田邸に着いた頃には一時を回った。 黒塗りの鉄の門が高くそびえていた。 「すごい家だな」と大空が口笛鳴らした。 門から車で屋敷の入口まで付けた。 庭の広さも計り知れないが、手入れが殆どされていず、雑草がぼうぼうと生え放題だ。屋敷の外見は、年季の入った洋館という感じで、昔の映画に出て来そうだ。 「いらっしゃい。遠くまでご苦労さま。渋滞してた?」 玄関に出迎えてくれた梅は、GパンにTシャツで、この屋敷の空気とは全然掛け離れた世界の人に見えた。彼だけが現実に見えた。 「少し混んでたかな。遅れてごめんね。 あの、ひかりさんが仕事で呼びだされちゃって。大空ちゃんが代わりに来てくれたの」 「大空さん、こんにちわ。一度お目にかかってますよね」 「あの時は失礼。こうして見るとすっかり男の子なのに、なんで間違えたのかな」 「さ、どうぞ。食事の支度が出来てるんだ。おなかすいたでしょう」 玄関の扉が開いて、桜はまぶしさに目がくらんだ。 ・・・なに? あっ。鏡かぁ。 廊下の壁の一方に、ずっと一面鏡が張ってあり、光が反射したのだ。 居間に通されると、そこも一つの壁は全面鏡になっていた。 「座っててよ。 ああ、鏡に驚いた? おやじが、僕をモデルとして育てるための一種のスパルタだよ。大リーグ養成ギブスみたいなもんさ」 梅はケラケラッと笑った。 「全部の部屋、こうなんだからヤになっちゃうよ。浴室までだよ。 この屋敷、いつでも連れ込みホテルに変えれそうでしょう」 大空が梅と初めて会った時に比べて、彼の表面的な印象は随分変わっていた。 男っぽくなったし、明るくなったような気がする。 だが、大空の目には、『毒のかくし方を覚えた』ように見えていた。かえって妖気を感じたくらいだった。 「大空さんはクルマなんだっけ。でも、ワイン一杯くらいなら平気だよね」 「アップルパイを焼いて来たのよ。よかったら一緒に食べましょう」 と桜は笑顔でおみやげを差し出した。 「ありがとう」 梅は笑顔を返した。大空には、桜の笑い方を真似しているみたいに見えた。 ・・・ひーちゃんが梅を避けるのは、立場からではなく、本能的に奴が怖いんだ。 そのことにここで梅と会って気づいた。梅は、何か、危険な匂いがする。 梅の作った料理は、和風の、料亭で出て来そうな手の込んだものばかりだった。 「わあ、おいしい。すごく上手ね。桜なんかよりよっぽど上手」 「桜は五年間主婦やって来たって言ったけど、僕も同じような境遇だったから。おやじは人嫌いで、家政婦を雇うのも嫌がった。僕が小さい頃は仕方無くお願いしていたけど、中坊になった頃には僕が家政婦していたよ」 「ふうん。梅の方がずっと大変だったんだよねえ」 桜は、白身魚の天麩羅をほおばりながら、無邪気に言う。 「でも料理とか色々身についたし、自分の為によかったよ。将来奥さんに頼らなくても全部自分でできるじゃない。とりあえず、今ひとりで生きていくのに困らないし」 「ほら、大空ちゃん、聞いた?おばさまに何でもやってもらってちゃダメよ」 「はいはい」 アップルパイをシナモンティーでいただいた後、「さあ。アトリエが見たくて来たんだものね」と梅が立ち上がった。 そこは、光の洪水だった。 二十畳はあるかという板張りの部屋。 片側は全面窓。ベランダになっている。レースのカーテンと暗幕が付けられていたが、全開になっていた。 天井には大きな天窓。光の線が上から斜めに降りて来ているのが見えた。 そして窓の反対の壁には、鏡。窓の光を反射して、目をあけていられないほどの眩しさだった。 「まぶしすぎるよね。カーテンしめるね」 「まだ油絵の具のにおいが残ってるね」と大空がつぶやいた。 「ほんの7,8ケ月前まで、春田憩はここで描いていたんだものなあ」 「まだまだ描きたい物がたくさんあったはずだから、怨念が残っているかもよ」と梅が冗談で脅かした。 だが大空は「本当にそうだと思うよ」と微笑んだ。 「全然整理してないから、そのままなんだ」 梅は、父親のカンバスを引っ張り出した。十五,六枚あるようだ。 「完成品もあり、手直し中のもあり、だけどね」 「うわ、見ていい?」大空が身を乗り出した。 桜は、いっしょに置いてあったアルバムの方を熱心に見ていた。 「桜にはそっちの方が面白い?資料用の写真だから、桜のうちみたいな家族旅行や運動会のはないけどね」 それは、梅が食事をしたり、歯を磨いたり、庭に洗濯物を干したりしている、日常の動作を撮影したものだった。 「ほんとにこんなに髪が長かったんだー。和服着て生活してたんだね」 「この写真は、鏡と同じさ。ちゃんと『女』のしぐさになってるかどうか、チェックされてんだよ。カメラ向けられて瞬間的に気持ちを作れるかとか。 桜んちの、幸せな家庭の思い出のピンナップとは、全然種類の違うものだよ」 「 ・・・梅 」 「ははは、どの写真もぶーたれた顔して仕事してら。怒られたよなあ。これなんか、しっかり外股になってるしさ。 あ、この当たりは結構いいでしょう。気を抜いてなくてちゃんと女に見える」 「 ・・・。」 梅は明るく笑っていたけれど。まるで楽しい思い出話でもするように。 でも、あの写真の表情。一枚一枚のあの表情。 まるでカメラを向けた相手を 春田憩を憎んでいるような目。 どれ一枚取っても笑っていなかった。笑顔の写真はなかった。 ・・・梅は、幸せではなかったの? < 9 > 黄昏が雨に追いつかれた。梅の家を出て少ししたら、雨が降り出した。 「渋滞したら、遅くなるかもな。先にひーちゃんに電話いれとけば?」 「えっ?ああ、うん、平気」 桜はぼんやりしていた。 「疲れたか?」 「少しね」 「鈍感な桜でも、さすがにあの鏡の屋敷の毒気に当てられたらしいな」 「なによ、それ。梅の家のこと、そんな失礼な言い方しないでよ」 「 オレが来てよかったよ。ひーちゃんは優しいから、きっと耐えられない」 大空の言葉が引き金になって、桜は急にぽろぽろと泣き出した。 「お ・・・おいおい」 「梅は、あの家で、あまり幸せではなかったのよね。 二分の一の確率で、あの家の子供は桜だった。山野家のアルバムでひかりさんにだっこされて笑ってるのは、梅だったのかもしれな いのに 」 桜は顔をおおって泣き出した。 「桜ってばー」 「梅があの家で寂しい思いをしているのに、桜は梅の存在も知らずに、今の家でぬくぬくと幸せそうに笑ってたのよ。こっそり様子を見に来た梅は、どんな思いで帰って行ったんだろう 。 桜は 自分で自分を許せないよ 」 「泣くなってば! それ以上泣くと、クルマごとここへはいるぞ!」 えっ?と顔を上げると、目の前は派手なネオンのモーテル。 「きゃーっ!やめてよっ!何考えてんのよっ!」 「いや、大画伯の娘と交われば、オレにも才能が授かるかと思って」 「ばかっ」桜は思わず吹き出した。 「よしよし、笑ったな」 大空も笑顔になって、まともな道へのハンドルを切った。 「梅君が不幸だったかどうかなんて、桜が決めることではないだろ。春田憩のことを話す時の彼っていうのは、何か独特の美しい雰囲気があったし 。『想い』っていうのは、他人にはわからないよ。 桜んちだって、他人から見れば特殊な家庭だけど、幸せなんだしさあ。 桜が母方の親に引き取られたことで、負い目を感じる必要はないと思うけど?」 「 う、ん」 しかし、大空は運転しながら、言葉とは裏腹に、モデルが必要だった春田氏が、何故梅の方を引き取ったのだろうという疑問を消せずにいた。 『春田憩・バイセクシャル説』っていうのは本当なんだろうか。確かに芸術家には美しければどっちでも好きって奴も多いが、名のある人にはいい加減な噂が付いてまわっていたし、いまいち信憑性に欠ける。突飛な説で本でも書いてひと儲けしようとする評論家だって多いし。 ・・・や〜めた、やめた。こんな下世話なこと考えてるんじゃ、桜んちをとやかく言う近所のオバサンと変わらないよな。 「大空ちゃん、うちで夕飯食べていく?」 「いいよ、隣なのに。おふくろに怒られるよ、うちで食えって。 今日は、春田憩の絵を間近に見れて、オレの方が感謝してるんだから、気にしないでよ」 家に着いたのは七時くらいだった。ひかりはまだ帰っていない。 ・・・夕飯、いるのかな。きっといらないわよね。 十一時近くなって、家の前に車が止まった。 やっとひかりが帰って来たのだ。 「ただいま。今日はごめん、約束果たせなくて」 「遅くまでご苦労様でした。お風呂わいてるよ」と桜は熱いお茶をテーブルに置いた。 「うん、サンキュ。 あーあ、疲れた。部長にはめられた」 「何かあったの?」 「車で案内する大切な客って、客先の社長の娘 。つまり、ていのいい見合いだったわけ。まいったよー。それもすげーブス。ふざけんじゃねえよなあ」 桜はケラケラ笑った。 「ひかりさんにお似合いなんじゃないの」 「言ったな、こいつ。 そっちは?疲れた顔してるけど」 「えっ、そう?クルマが混んだしね。 今日は大空ちゃんには大感謝だわ。あんなにいい人だとは思わなかったもん」 「 何かあったのか?」 ううん、と桜は首を振った。 「ただ、二分の一の確率で桜がここにいるとしたら、神様に感謝したい気持ちと、梅に申し訳ない気持ちでいっぱいなの 。 ひかりさん、お願いだから、梅を桜と同じように愛してあげてほしいの。梅から逃げないで 」 「どうしたんだ、桜?」 ひかりは、あの家で梅を見た時の影を梅が持つ孤独の影を思い出していた。桜が今更ながらそれに気づいたのだろうか。 「ママは、梅の話を一言もこの家ではしなかったけど、忘れていたわけじゃないよね? 梅のこと、きっといつも思っていたよね?」 「桜 ・・・。 桜のバースディに、緑がいつも四個ケーキを買って来たのを覚えてるか? 『桜は二個くらいペロリなんだもの』って言い訳してたけど、オレにもそれは言わなかったけど、たぶんあの一個は梅君の分だったんだよ」 桜はこらえきれずぽろぽろ泣き出した。 「うん。覚えてる。四個買って来たよね」 ママは忘れていたわけじゃないよね。 きっといつも思ってたんだよね。 「 風呂はいって来るよ。いつまでもガキみたいに泣いてるんじゃねーよ」 とひかりは笑った。 ひかりが風呂から上がると、桜はまだ起きていて、家族のアルバムを見ていた。梅が来た時見ていたやつだ。 「なんだ、まだ寝てなかったのか」 「 ねえ、ママと春田憩は何故離婚したの?」 ・・・おいおい。どうしたんだよ、今日は。 あの屋敷には何かが巣くっている。桜は何かに取り憑かれ始めている。 「オレも知らないんだ、実は。 緑は言わなかったし、オレも聞かなかった。 結婚したいきさつだって知らない。 そんなこと、オレにはどうでもよかったからね。 ・・・どうした?梅君から、何か聞いたのか?」 ううん、と桜は首を振った。 「でも、梅はきっと知っているんだわ」 「・・・桜 」 鏡の迷路が桜をつかまえに来る。入り込んだら、もう出られない迷路。 鏡に閉じ込められたらもう出られない。 < 十 > 雨が降っていた。 サラリーマン姿で、大学の校門で桜を待つのは、結構恥ずかしい。 ・・・ちぇっ、早く出て来いよな。 ひかりは、深めに傘をさして顔を隠して待った。 ・・・ほっ。来た。 「さ 」 声をかけようとして息が止まった。違う、桜じゃない。 ・・・梅だ。 フード付きパーカーを羽織った梅は、振り向いて、 「髪が短いのに、男のかっこしてるのに、どーして間違えるわけ?」と皮肉っぽく笑った。 「フードかぶってて髪が見えなかった」 「ヘンな言い訳。桜への愛情が足りないんじゃないですか。 父の葬儀の時以来ですよね。いつも逃げてるのに、こんなところで会うなんてね」 「・・・ 。」 ひかりはむっとしていた。だが、逃げていた事を否定もしなかった。本当の事だから仕方ない。 「今日は、会社を早退してまで、桜とデート?」 「そんな楽しいものじゃないよ。 梅君、桜の代わりに来るか?ホテルの豪華な料理が食えるぜ。 どうせおやじには見分けはつかないだろ」 「自分だって今、桜と間違えたくせに。 ふーん、桜とホテルへ行くのぉ」 「どうしてそう人聞きの悪いことを。 おやじの誕生日でね。どでかいホテルのナントカの間というのでやるんだ。 桜と二人で、ちょこっと顔見せに行くだけさ」 「もしかして、ひかりさんって、いいとこの坊ちゃんなの?」 「まさか。 お妾さんの子、ってやつ。 おふくろは今の家で囲われてたんだけど、おふくろが死んだらおやじがぽんとあの家をくれやがんの。金持ちは違うよなあ」 「 ・・・。」 「で、まあ、おやじはまだ生きてて、一年に一回だけこうして挨拶に行くのさ」 「 ひかりさんて、大人だね」 「えっ?そんなこと言われたの、初めてだぞ」 「僕もあと十五年くらいしたら、そんな風にさらっと、自分の生い立ちを人に話せるようになるのかなあ」 「さらっと、って。オレのなんて大袈裟に話すようなスゴイことでもないだろ。 世間様じゃよくある話さ。別にオレが特別じゃないよ」 ひかりの答えを聞いた梅は苦笑いして、 「 手強そうだな、ひかりさんて。僕が思ってたよりずっと」 と挑戦的に微笑んだ。妖しい目の光は、葬式の時の梅を思い出させた。 「あんまり話をすると、ひかりさんの人柄が好きになっちまいそうで、困るな。 ひかりさんから、桜を奪うつもりでいるのにさ」 ・・・なんだって!? 「桜は家へ遊びに行った日から、少しおかしいんだ。 おまえ、桜に何か言ったのか!?」 「別に何も。嘘だと思ったら大空さんに聞いてよ。 ほら、桜が出てきたよ。 僕は退散するからね。 ひかりさんが、他人行儀じゃなくて普通の口調で話してくれてうれしかったな。 じゃあね」 「あ、おい。傘持ってけよ! 行っちまった」 オレから桜を奪うって?どういうことだ? 「ひかりさーん、お待たせ。 ・・・今、誰かと話してなかった?」 「梅君と会った」 「えっ。何話したの」 「季節の挨拶と世間話」 「もう!ちゃんと仲良くしてよね」 ・・・そりゃあ、無理だよ。宣戦布告されちまったもんな。 「ほら、濡れるぞ」 ひかりは桜を引き寄せて歩き出した。 桜が家に帰って来た時、雨はもっと土砂降りになっていた。 玄関の軒先の下、梅が座って待っていた。 「梅!どうしたの?」 「ひかりさんとホテル行ったんじゃなかったの?」 「えーっ?ひかりさんがそう言ったの?相変わらずねえ。 ホテルのパーティーに行っただけよ。ひかりさんは会社に戻ったわ」 「そう 」 「どれくらい待ってたの?雨に濡れたでしょう、さあ入って」 桜が玄関の鍵をあけようとすると、梅はそれを止めた。 「僕はここの家に入れてもらえるような人間じゃないんだよ。汚れてるんだ。 桜は、僕らの親の離婚の理由を知っている?おふくろが何故出て行ったか」 「ううん。何も聞いてない。ひかりさんさえ知らなかった」 「聞きたい?」 コクリ、と桜はうなずいた。 「聞いたらショックだと思うけど、後悔しない?」 もう一度桜はうなずく。 「私にだってわかるわ、子供のいる夫婦が離婚するなんて、よっぽどの修羅場だったろうってこと」 「じゃあ、教えてあげるから。桜にも知る権利が絶対にあるんだから。 辛くても、最後までちゃんと聞いててよ。 一つは、おやじはおふくろにもあの鏡の生活を強要した。おふくろはノイローゼみたいになっちまった。 二つ目は、おやじは何人ものモデルの女性と関係を持っていた。モデルに惚れてるからああいう絵を描けるんだけどさ。当然おふくろには、耐えられなかった」 「 ・・・。」 「おふくろに去られても、おやじは懲りもせず、僕がモデルが出来る年頃になると同じことを要求した。 鏡の生活と 。僕もモデルだった 。だから 。・・・わかるだろう?」 「 梅 ?」 「汚いだろ?君の双子の兄が、こんな男でごめん。 おやじがこんな奴でごめん 」 チャリン! 桜は手に持っていた鍵を落とした。手が震えている。拾う事も考えつかないほど、茫然としていた。 ・・・何を言ったの?今、梅は何を? 「僕は あんな生活を強いられながら、死にたいと何度も思った。でも、いつかきっと桜に会える、それまでは負けるもんかって我慢してきた。 あんなにあっけなくおやじが死んで、自由になれて、桜と同じ大学に入ってこうして会えたけど。手放しで喜ぶ事なんてできなかった。桜は 真っ白な天使みたいな女の子に育っていた。じゃあ、僕は?僕のしていたことは?僕は、桜の兄として相応しいの?」 「やめて!梅、自分を責めないで! だって、梅のせいじゃないでしょう?梅は何も悪くないのに 」 梅の腕にすがり叫ぶ桜に、彼は悲しそうに首を横に振った。 「もう、いいんだ。君とも会えたし。 ひかりさんと幸せにね。 会えてうれしかったよ」 「梅 !!」 ・・・きゃぁ! 梅は、桜にキスをした。冷たい唇だった。桜を抱きすくめた腕も、濡れたシャツの胸も氷みたいだった。 桜の背中は、玄関の扉に押しつけられていた。もう後ろは無いのだ。 自分と同じ顔がまっすぐにこっちを見ていた。自分と同じ目が、おまえを愛していると告げていた。 桜は足が震えた。 「またどこかで会えたらいいね」 そう言って梅は雨の中駆け出した。 ・・・梅っ! 桜はその場に泣き崩れた。 「ひどい 。・・・神様、ひどすぎます 」 電柱の陰に立って、一部始終見ていた人影があった。 大空である。覗くつもりはなかったが、あんな修羅場に出ていけるもんじゃない。 と、玄関から駆け出した梅は、ちょうど大空の脇をすり抜けて行った。 彼は人影が大空だと気づいて、見上げた。そして、なんとニッと笑ったのだ。 その時の不敵な目。 ・・・こいつは・・・。 桜、あれは罠だ。梅の仕掛けた罠。 はまってはいけない。 桜! < 十一 > 次の日も、その次の日も、梅は授業を休んでいた。 彼のクラスメートに尋ねても、「さあ、風邪らしいけど 」と曖昧な返事だ。梅には特別親しい友人もいないらしい。 実は、あの屋敷では電話を引いていない。今時信じられないが、あの洋館を見れば妙に納得がいくわね、と桜は思う。 直接尋ねるしかないかあ・・・。 大学を出る頃、空では雷が鳴っていた。いよいよ梅雨も明けるのかもしれない。 鎌倉の家の当たりでも、稲妻が黒い空を走っていた。雷が光るたびに、うす白い洋館が光に浮かび上がった。 ・・・えーん、怖いよお。大空ちゃんにでも付いて来てもらえばよかった。 最悪のことも覚悟していた。 梅が手首を切っている。首をつっている。クスリを飲んでいる。 ・・・でも、梅の気持ちを思ったら、一人で 来なくちゃよけい傷つける。 呼び鈴を押す手が震えた。膝ががくがく言っていた。 ガチャリ とゆっくり扉が開いた。 「こんな嵐の日に、無謀にもよく来たよなあ」と梅は笑った。 「・・・梅 」 梅は病気でもなさそうだし、幽霊でもなかった。この前の雨の日の、思いつめた暗さはなく、いつもの梅だった。 「よかった、いたのね」 「入る? ここは『魔』の棲む館かもしれないけど?」 「『魔』ってあなたのこと?それなら怖くないわ」 桜の言葉に、梅はくすっと笑った。 「では どうぞ」 梅は大きく扉を開いた。 「アトリエで、酒をかっくらってた。付き合う?」 アトリエの大きな窓は、カーテンをいっぱいに開け放してあった。黒く暗い空を、亀裂が走るのがしっかりと見えた。 「まるで花火大会の特等席だろ? 雷を肴にワイン飲んでたんだー」 二十畳の床には、いたるところにごろごろと十数本の空瓶が転がっていた。 「もしかして、あの雨の日から三日間、ずっとこうして飲んでたの?」 「そうでーす。 はい、グラス。桜も飲もうよ」 梅は桜にグラスを押しつけると、赤いワインをとくとくとついだ。 「ほんとに来たもんなあ」と梅はまたくすっと笑った。 「手首でも切ってたら とか思わなかったわけ?」 「思ってたわよ。他にも色々」 それを聞いて、梅はますますゲラゲラ笑った。 「それでも来てくれたんだ。感激だなあ」 桜もワインを飲み干して、 「心配してソンしちゃった。風邪でさえもないんだもん」 梅は床に落ちている毛布をかぶって「ほんとは少し風邪なんだ」と笑う。 「 ほんとに来てくれてうれしいよ。 賭だったんだ。九十%はダメだと思ってたけどね。 ワインがあと三本になってた。 全部飲み干したら、ホントに手首切ってたかもしれない。でもその前に酔っぱらって眠っちゃったかもしれないけどさ」 「梅、やめてよ、悲しいこと言うのは。梅のこと、誰も汚れてるなんて思わない。少なくても桜は絶対思わないから」 「・・・ありがとう」 窓の外の闇を、また稲妻が引きちぎった。 「・・・きれい 」 「怖くないの、カミナリ?」 「綺麗なものは好きよ」 「僕と同じだね。 おやじともね。血かな」 梅はかすかに笑った。 「このアトリエで、僕は何度もおやじに抱かれたんだ」 「やめて!」耳を覆う桜。 「二分の一の確率で、桜が同じことされてたはず。梅だけが、そんなつらい目に 」 「二分の一? ・・・違うよ。 僕が取り替えようって言ったんだ、僕らの服を」 窓を稲妻が走った。 「 ・・・今、なんて?」 「おやじは、モデルに使える女の子の桜を引き取ることにしてた。でも、僕は桜がここに残れば不幸になるのが直感的にわかってた。 おふくろが出ていく寸前に、僕らは服を取り替えた。君は、わけがわかってなかったから、ゲームか何かだと思ってたよ」 「・・・そんな」 「おやじにバレた後は、『ここに居たい、パパと居たい、何でもするからっ!』って嘘ぶいて。すごく殴られたけどね。おふくろと話し合った結果、正式にこのままってことになったのさ。おふくろも桜を残すのは危険だと感じていたし、僕の意見を尊重するって形でね。それに、離婚が成立してもう二度と会わなくていいとほっとしていた相手に、お互い、もう一度会うのが嫌だったんだろ。 僕は自分の意志でここに残ったんだよ。確率じゃないんだ。 桜の幸せだけ願っていた。君さえ幸せなら、僕はよかったんだ」 雨が激しく窓を叩いた。外の景色が見えないほどに。 反対の壁の全面を占める大きな鏡にも、窓の雨が全部に映っている。 鏡でも雨が降っているように見えた。 鏡の面を隔てて、二つの雨と、二人の桜と、二人の梅。 「いつも、桜の幸せを願っていた。いつも、桜のこと考えていた。 ・・・ほら 」 梅は鏡の自分と向かい合った。 「僕は、和服を着て髪も長くて『女の子』だったろ?ここにはいつも、女の子の僕が映っていたんだ。それが僕の桜だった。僕だけの桜。 この鏡だらけの家で、僕は君といつも一緒にいたんだ。 十五年間、片時も離れず 。 食事の時も、モデルしてる時も、家の仕事してる時も、ね。 こうして向けば、いつも君が微笑んでくれた」 「だからわざと左利きにしたのね。鏡の自分が右利きに見えるように 」 「その方が、ほんとに桜と食事してるみたいでしょう? 鏡の中の桜が、僕の生きるすべてだったんだよ。 愛してた。ううん、今も愛している。 でも こうして手を触れても、桜はとても冷たいんだ」 梅は自分の右手を鏡に触れた。鏡の梅も、いや『桜』も同時に左手を合わせて来た。 「キスしても 」 梅は鏡に唇を触れた。 「頬に触れても 」 梅は鏡に頬を触れた。 「冷たいんだ 。 抱きしめたくても、出来ないんだ。手が届かないよ、むこうの世界には 」 梅は鏡に向かいながら、流れる涙をぬぐった。 「梅!私は 。桜はここに居るわ!」 桜は梅の手を握った。 「あったかい 。生身の桜の手だ 」 「私はここに居るから 」 「君は、鏡から出てきてくれたの?それとも僕が鏡の中に入っちまったのかな 」 ・・・ううん、梅。鏡の世界に入ってしまったのは、この私の方かもしれない。 「鏡の中の僕は、そろそろ、骨格も背も、もう青年っぽくなっていた。 もう、桜じゃなくなってしまっていた。 そして、僕はほんとの桜に巡り会った。 僕の話にあいづちをうち、笑ったりベソかいたり。 生きている桜に会ってしまった。もうこの恋は止まらない 」 右手と左手を 。 唇と唇を 。頬と頬。肩と肩。胸と胸。 鏡で合わせるように 。 ・・・つかまってしまった、鏡の精に。 鏡に閉じ込められたのは、桜。 私が背負うはずだった不幸を、自分からしょってしまった少年 。 十五年間も鏡を友達にして 。 ・・・あなたの寂しさを償うには、どうしたらいいの? < 十二 > 朝 。 雨がやんでいた。アトリエには光が満ちていた。 はだかでひとつの毛布をかぶった梅と桜。 桜が頭をあげた。 「 ママのおなかの中でも、桜たちはこんな風だったね、きっと」 梅の唇が優しく桜の頬に触れた。 まだ午前中なのに、腕が痛いほどに日射しが強くなっていた。 桜は家へ帰る途中、近所の飲食店街のラジオから、気象庁が梅雨明けを発表したことを告げるニュースが流れているのを聞いた。 家の前で、これから美大へ出かけるらしい大空と会った。 「おかえり、この不良娘。 ひーちゃん、心配してるぞ。会社行かないで、まだ帰り待ってる」 「えっ、まだ家にいるの?」 今いちばん会いたくない人だった。 「電話くらい入れろよな。 若い娘を持った父親って気の毒。一睡もしてないぜ、あれ」 「だって 。梅の家って電話ないんだもん」 大空はぎょっとした。 ・・・あの家に泊まったのか? 「ただいま。 ごめんなさい」 居間では、パジャマを着たままのひかりが煙草をくわえていた。灰皿には吸殻の山。テーブルには使いっぱなしのコーヒーカップが四つ。 「別に外泊がいけないとは言わない。でも、電話の一本くらい入れろ。 どんだけ心配したことか 。はーあ」 ひかりはため息ついて煙草を揉み消した。 「でもまあ、無事帰って来てくれてよかったよ」 そう言って頭をなでるひかりの手は、変わらず、大きくて、煙草の匂いがして 。 ・・・さよなら、ひかりさん。 桜はぽろっと涙をこぼした。『女』の顔をして 。 ひかりははっと息をのんだ。 「ど、どうしたんだ?何かあったのか?」 「ううん、なんにも」 桜は微笑むと、くるりと自分の部屋に入ってボストンバッグに荷物を詰め始めた。 「 ・・・桜?」 「ごめん、ひかりさん。桜は梅のところへ行きます。 あの子の十五年間の寂しさを埋めてあげたいの。償いたいの」 「この家を出ていくのか?」 あまりに突然のことで、ひかりは動転した。 「なんで、急に、そんな」 「本当は、ママが梅を連れて出ていく予定だったんですって。 梅は、私の為に、私と服を取り替えたの。不幸をかぶったの。 私は梅がつらい思いをしている間、この家で幸せに暮らしていた。ほんとは梅がこの家の子供だったはずなのに。 私の幸せは梅の不幸の上にある 」 「 ・・・。」 「桜は、梅と一緒に暮らします」 ・・・もう、ひかりさんと一緒には住めない 。 「そうか 。桜が出ていくって決めたのなら、オレは止めない。 ずっとそれは心に言い聞かせてた。『止めない』って」 「 ・・・そう」 ・・・ひかりさんは、桜が家を出ると言い出すのを、待ってたのかな。 少なくとも、そのことを以前から何回も考えてはいたのね。 息ができなくなりそうな時があった、この家にいて。こんなにそばにいるのに、絶対に手を触れてはいけないひとだった。気持ちだって、素振りにさえ表情にさえ、出してはいけない相手だった。 何年も大切に積み上げて来た薄いトランプのカードが、桜のため息ひとつで、ふうっと崩れ落ちてしまいそうで 。息を殺して生活していた。苦しかった。 でも、そんな闘いも、もう終わってしまった。それも、こんな形で。 大切にして来たものなんて、みんな幻の上に積み重ねてきたものだったのだ。梅のトリックで作られたハリボテの幸せ。 「ねえ 。 『最後に桜を抱いてくれる?』って頼んだら、ひかりさん、どうする?」 「ええっ!? ななな、なに言ってるんだ、おまえはオレの大切な娘 ・・・」 「いいよ、もう。冗談だよ。 本当に御世話になりました。ありがとう、ひかりさん。 外食はなるべく減らしてね。あと煙草とお酒は控え目に。体に気をつけて。 じゃあね」 桜は、かすかに笑って、ボストンバッグを肩にかけて出て行った。 「この家って、こんなに静かだっけ 」 桜が家を出て行ってから、一時間ほどたったのだろうか。気づくと、テーブルの灰皿には山盛りの吸殻。ひかりは、ずっと、このソファに座ったまま、ぼんやりと煙草を吸い続けていたようだ。今揉み消したのが、最後の煙草だった。 この家で、ひとりで暮らしたことがないわけじゃない。母が亡くなってから、緑と結婚するまで、四,五年はひとりだった。器用なひかりは、家の仕事はたいていこなせた。 ・・・丈夫だよな、ひかり?いつかこういう日が来ると、覚悟はできてただろう? ちょっと突然すぎたから、とまどっただけだ。なんとかなるさ、きっと。 でも ひかりが動き始めると、家のあちこちに桜の片鱗が残っていて、しばしばひかりを立ちすくませた。 タオルを裏にたたむ癖、スプーン&フォークは大きい順に並べておく主義、丸く拭いたままの二階の窓 。 緑が死んだ時は、桜がいた。 桜まで連れていかれたら 。 甘く見ていた。ひかりにとって、桜はここまで大きな存在だった。 何日も、なかなか寝つけない夜が続いた。なるべく、桜のことは考えないように過ごした。 ・・・だらしないぞ、ひかり。 桜はいつか出て行くんだからと、心に言い聞かせてきたはずだろ? 自立するか嫁に行くかするんだ。ずっとひかりのそばにいてくれるわけじゃないのだ。 わかってたはずなのに 。 ひとりの夕食が耐えきれなくて、遊びに来いと大空を誘ったのは五日目だった。 「えーっ、桜が出て行った!?」 大空はびっくりして、ビールを吹きそうになった。 「全然知らなかった。いつのことさ」 「もう五日になるかな」と、平気なそぶりをして、自分で焼いたむら焼けのハンバーグをつつく。 「もしかして、朝帰りの日から?」 「帰って来て、すぐに荷作りして、梅君の家へ戻って行った。 別にいいんだ、それが自然だろう。 彼は本当の身内なんだし、あそこが桜の生まれた家なんだし」 「馬鹿なことを!よりによって、梅の家へなんて!」 「桜は『梅の十五年間の寂しさを埋めてあげたい。償いたい』と言った。 オレには何も言えることはないよ。 桜は、梅君への同情と負い目で行動しているかもしれない。 だけど、実の兄と暮らしたいと言うのをオレが止めれると思うか?」 「 同情と負い目で抱かれちまうなんて、桜はバカだよ 」 箸を持つひかりの手が止まった。 「 ! なんて? 」 「まさか、ひーちゃん、気づかなかったの? 朝帰りの時 。 ひーちゃんもてっきり気づいてると 」 ひかりは全身の血が抜けていくような気がした。 「 ウソだろ? 桜と梅が?あいつらは血のつながった兄妹だぞ!」 ひかりは大空の襟首をつかんだ。でも手には力が入らない。手が震えていた。 「梅が、桜に惚れているのにも気づかなかったの? 信じられない鈍感。 梅の危なさは感じていたくせに」 梅の、あの挑戦的な目。鼻で笑う笑い方。含みのある言葉の数々。 そうだ、確かに梅は、桜を愛していたに違いない。 そしてあの宣戦布告。 なぜ、今まで気づかなかったのだ。 「・・・。ちくしょう、梅の奴!ぶんなぐってやる。 桜を取り戻しに行く。今からクルマを出す」 「えーっ、本気なのぉ?」 「桜を取り戻して来る。たとえ梅と決闘してでも取り返す。 兄妹として暮らすというなら、実の兄の梅と暮らす事に、オレは反対なんてできない立場だと思ってる。でも、そういう事なら話は別だ。 大切な桜を、人の道からはずさせてたまるか!」 そう言ってひかりは立ち上がった。 桜が出ていった時のことを思い出した。 『最後に桜を抱いてくれる?って頼んだら、ひかりさん、どうする?』 ・・・あの時オレが抱きしめていたら、桜は連れて行かれずにすんだのか? < 十三 > ひかりは、クルマを飛ばして鎌倉の梅の家へと急いだ。 着いたのは十二時過ぎだった。 呼び鈴に応えて玄関に出た梅は、ひかりを見てくすっと笑った。 「桜なら、あんたに会いたくないってよ」 「おまえに話があって来た」 「へえ。桜の父親として? 説教でもしに来たの」 「一人の男として」 「へえ 。いいよ、聞こう。アトリエへどうぞ」 「遠くからご苦労さん。まあ、一杯」 梅はおどけて、ひかりのグラスにワインをそそいだ。 ひかりは口もつけずに床に置くと、 「単刀直入に言おう。桜を返してくれ」と一息に言った。 梅は、おもしろそうに横目でひかりをながめて、 「別に僕は誘拐したわけじゃないよ。桜は自分の意志でここへ来たんだ」 と赤いワインを一気に飲み干した。口許を赤い雫が一筋流れた。 白い綿のシャツをだぼっと着た梅は、男でも女でもない、不思議な綺麗な生き物のようだった。 「桜は君への同情と負い目でがんじがらめになっている。愛じゃない」 「 そう?じゃあ、桜はあんたと暮らす方が、僕と暮らすより幸せだと言うの?」 梅の問いにひかりは目をそらした。 「わからない 。オレにはわからないよ。 でも、桜を必要としてるのは君と同じだ。心の支えにして生きて来たのも」 「あんたには、今まで桜がそばにいてくれたじゃないか。 おまけに、つかず離れずして、桜には気持ちを閉じ込めさせて、苦しめて来たくせに。 今度は、僕が桜をもらう番だ」 ひかりは唇を噛んだ。痛い言葉だった。 桜の気持ちに気づかない振りをしていた。ずっとあのままでいたかったのだ。ずっとああして一緒に暮らしていたかった。でも、桜は十三のままの少女ではいてくれない。 「桜が オレよりも梅を愛しているのなら ほんとに梅と暮らしたいのなら、それでいいよ。でも、オレにはそう思えない」 「でも、桜は僕に抱かれたんだよ」 「だまれっ!」 ひかりは思わずワイングラスを投げつけていた。 梅の顔の横を通って、後ろの鏡で、グラスが炸裂した。 「同情でなんて、お互いが傷つくぞ! 今の君は、桜を不幸にする。 自分の境遇に負けて、不幸に酔ってる奴なんかが、桜を幸せにできるものか!」 パシーン!! 今度は梅がグラスを投げた。鏡に当たってひびが入った。破片がひかりの頬を切った。ひかりの頬を血がすーっと流れたのを見て、梅はため息ついた。 「ごめん。どっちも短気だね、僕たち」 梅はガラスの破片を片づけた。 「新しいグラス持ってくるよ。あと、バンソコウもね」 ひとりにされて、ひかりは割れた鏡を見つめた。 ・・・この鏡を相手に十五年も、梅は寂しさに耐えてきたのか。 ふと自分まで、鏡の魔につかまりそうになる。 自分も緑と桜に会うまでは孤独だった。梅の気持ちがわからないわけじゃない。 ・・・ええい、だめだ、しっかりしないと。 一生桜を取り戻せなくなるぞ! ・・・ギィッ 。 新しいグラスを持って梅が入ってきた。 さっきの険しい表情が少し和らいでいる。少し冷静さを取り戻したようだった。 この梅になら話ができそうな気がした。 「君が愛して来た桜は、この鏡の中の、虚構の桜だ。本物じゃない。 それに本物の桜を巻き込むなよ。 君は、自分を不幸だと思ってるようだけど、じゃあ、桜はどうだ?あいつがそんなに恵まれた環境だったと思うか? 七歳のあいつは、二十三の新しい父親を必死に好きになろうとしてくれた。初恋のひとだなんて嘘だ。好きになろうと努力してくれたんだ。 初めて会った時の、とまどいながら微笑もうとした目や、おびえながら差し出された小さな手を、オレは覚えている。 オレ達は、初めから幸せだったわけじゃない、幸せを育てていったんだ。 梅のお膳立てのせいじゃない。ましてや、梅が桜の幸せを祈ってくれてたからでもない。 二人きりになってからも、オレ達は支えあってやってきた。 他人だよ。だから、よけいにお互いを思いやって暮らした。 楽しくて優しい日々だった。 桜の幸せは、この屋敷で梅への償いをしながら暮らすことなんかじゃないよ。 桜の幸せは 」 ・・・桜の幸せは 言葉にしてみて、初めて気づいた。こんなに簡単なことだったなんて。 「桜の幸せは、オレに愛されることだったんだ 」 「・・・ 。」 「桜を失いたくない。返してくれ。愛しているんだ」 「 それは父親として?」 「さっきも言ったろ、ここへは一人の男として来たのだ と 」 梅のきつい表情がふっとゆるんで、涙をぽろりとこぼした。 ・・・! 違う、梅じゃない! 「 ・・・桜 ?」 ショートカットの髪、さっきの梅と同じ白いシャツ。 でも、見慣れた優しい表情 。 桜は、うなずいて、泣きながらひかりに抱きついた。 「桜!」 ひかりも、今度こそ、しっかりと桜を抱きしめ返した。 「いつ入れ代わったんだ?そうか、新しいグラスを持ってきた時か」 ドアの外から「ほんとに気づかなかったの?」とあきれたような声がした。 アトリエのドアが開いた。 桜と同じシャツ、同じ髪型。今度こそ梅だった。桜のボストンバッグを抱えて、桜の足元の床にドサッと置いた。 「さ、とっとと出て行ってよ。二人で消えちゃえよ」 梅も泣いた目をしていた。廊下で聞いていたのだ。 「僕の負けだよ。桜があんたを好きなんだから、しょうがないや。 ちぇ、とんだ道化だよな。単に二人のキューピットをやっちまったみたい」 「・・・梅君 」 「『桜の幸せを祈ってる』なんて言ってたくせに、桜から幸せを奪おうとした。もうその時点で僕の負けだった。 桜は、この家でもひかりさんのことばかり考えていたよ。『御飯はちゃんと食べてるかなあ』とか『寝坊しないで起きたかな』とか、桜の言葉からひかりさんの日常が浮かんで見えるほどだった。 桜はこの家へ来たせいで、自分で思っている以上にひかりさんを愛している事に気づいてしまった。ここへ来たことは、ひかりさんを諦めるための最後の手段だったのにね」 「梅、私、そんな 」 「いいんだ、別に責めてるわけじゃない。 僕だって、この五日間、本当の桜と暮らせたおかげで、すごく幸せな思いが出来たんだから。 四月から、本当の桜と一緒に大学生活を送ったことも、楽しかったな。 ・・・忘れない。夢みたいに楽しかったよ」 「・・・梅 。 一緒に大人になりたかった。一緒に、緑ママとひかりパパに育てられて 一緒に学校へ行って。梅に彼女が出来たらヤキモチ焼いて。 普通の兄妹として育ってたら、梅だけこんな悲しい思いをしなくて済んだのに 」 桜はそう言って梅を抱きしめた。 「いいんだ、行きなよ。僕はもう大丈夫だから。 ほら、抱きつく相手は、もう僕じゃないでしょう」 梅は桜の背中を押した。 桜のボストンバッグを後部座席に積み込み、ひかりはクルマを発進させた。 闇に浮かぶ白い洋館が、だんだん遠くなっていく。 「 ったく、とんだ家出娘だ」 「ごめんなさーいっ」 桜は助手席で小さくなった。 「 『魔物の屋敷』みたいだったな、ここは。 鏡の迷路の『魔』の屋敷。 この家におまえをぱっくり食われちまったような気がした。もう取り戻せないような情け無い気分だった。 でも、どうにか魔法は溶けたらしいな」 「桜にとって、迷路の家は私達のあの家だったわ」 「 ・・・桜」 「一緒に暮らしていても、ひかりさんが見えなくて、声も聞こえなくて、迷路に入り込んだみたいだった。近くに居るのに、絶対に巡り会えない迷路に 」 「・・・ 。」 ひかりはクルマを止めると、静かに桜にキスをした。 「オレたち、遠回りも逆回りもしたような気がするけど」と笑った。 「さあ、急ごう。朝になる前に家に着いてやる。 こんなスケベな男がだよ、惚れた女が一緒に住んでるのにずーっと理性と闘ってたんだからなーっ」 桜は吹き出した。「まったく、もう〜」 ・・・と、ひかりは真面目な顔になって、 「オレたちって戸籍上は親子だから、絶対結婚はできないし、子供が生まれても認知するわけにいかないってわかってるか?」 「知ってる。とっくに調べたもん」 「あーあ、梅よりオレの方が、桜をよっぽど不幸にしてるよなぁ」 「自分が『幸せ』って思ってれば、その人は幸せなんだと思うわ」 「 確かに、ね。 そう言ってもらえるオレは幸せ者ですな」とひかりは笑った。 朝日がアトリエに満ち始めた。 梅は鏡を見つめていた。小さなひびが、顔に亀裂を作っていた。 父が作らせた、この鏡の館。 いつも美しいものを求めてやまなかった、梅よりも孤独だった芸術家の憩。 憎んでいた。でも、決して愛していなかったわけじゃない。 狂気のような、耽美で妖しい年月だった。不思議な日々だった。 こんな育ち方をした自分だから、鏡の自分に恋をするのに全然違和感もなかった。恋のさなかに居る時は、ちゃんと楽しかった。幸せだったと思う。 自分はそんなに別に不幸だったわけじゃない、そう思ってみよう。 ひかりが自分の生い立ちをあっけらかんと語ったように。 桜が、他人の家庭とは違うハンデを乗り越えていったように。 ・・・バイバイ、僕の『鏡の中の桜』。 手に握っていたハンマーで、梅は鏡を思いっきり叩き割った。 ガシャン!!という大きな音がした。 大きな滝から白い水が零れて来るように、鏡の破片が光を浴びながら落ちてきた。 鏡の雨。 水滴は床に散らばった。 現れたのは、ただの壁。ガラスの向こうに桜がいるはずもないし、別の世界があるはずもない。鏡の向こうはただの壁である。 ・・・さよなら、今日までの梅。 僕は新しい人生の幕を上げるよ 床に落ちた鏡の破片のひとつひとつに、朝日がキラキラ反射して輝いていた。 <END> |
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