音を立てないように慎重にドアを開ける。真正面は壁だが、左右に廊下が延びている。明かりが灯されていたが、薄暗く、先ははっきり見えない。
「右から来たんだから左に行けばいいのよ」
「わかってるよ、そんなこと」
人気が無いのを確かめると、二人はできるだけ足音を立てないように左に進んだ。大きな建物の割には、あまり人がいないのだろう。夜ということも手伝って、辺りはしんと静まり返っている。
無意識のうちに二人は身を寄せるようにして歩を進めていった。
「もう少し……」
傍らにいる青年がポツリと呟く。
「もう少しで、時は満ちる……」
ソルは黙っていた。黙って青年の顔を見詰める。
「やっと……やっとのことで、私の願いがかなう……」
窓から差し込む月明かりで照らされた顔には、恍惚とした表情が浮かんでいた。目は窓の外を向きながらも、どこか別のところを見ている。空の彼方か、それとも昔日の思い出か……
ソルは無表情のまま、心の中で思考を巡らせていた。宣戦布告したはいいが、これといって具体的な方法が思い付かないのだ。一体この青年の目的は何なのか、何が狙いなのかはっきりしないので、対策を立てようにも立てられない。
だが、今晩の彼はどこかおかしい。今までは飄々としていて、まったくつかみ所が無かったのだが、今眼前にいる彼の顔には、表情がありありと表れている。しかもそれを隠そうとしない。いや、隠す気も無いのだろうか。
言葉から、何か長年の念願がかないそうだ、ということはわかる。もちろんその内容は分からないが、もしかしたらそこにつけ込むチャンスがあるのではないか。
じっと顔を見ていたソルに、青年がふとこちらを向いた。
「あなたにもわかっているでしょう、鍵が近づいてきていることを」
「鍵?」
うすうすは感じているが、ソルはあえて聞いてみた。
「今更呆けなくてもいいじゃないですか。時間の無駄というものです」
青年がかすかに唇の端をあげる。嬉しそうな、それでいてどこか残虐な笑み。
「……アレフに手を出したら、僕はあなたを許さない」
人間の、こんな笑みはすでに見慣れている。昔は恐怖を覚え、夢にまで出てきてはうなされていたが、今はまるで何も感じない。ソルは少し自虐的になりながらも、きっぱりと言い切った。
「許さない、と言われましても、こちらにも事情というものがありまして。残念ながら、彼の無事を保証するわけにはいかないのですよ」
不吉なことを言いつつも、彼の口調は先ほどから喜びにあふれている。彼の言葉を聞く度にソルは嫌悪と怒りが湧き起こるが、それをぐっと押え込んだ。ここでこちらが冷静さを失うわけにはいかない。チャンスはまだあるはずだ。
「ですが、もう少し……機が熟すには、ほんのもう少しだけ時間が必要です。それまで、彼らには少し遊んでいてもらいますか」
不意に彼の口調が元に戻った。
「申し訳ありませんが、少々お待ち下さい。舞台の準備には時間がかかるものなのです」
「監督としては、ちょっとずさんですね。待たされている観客の身にもなって下さい」
「観客? とんでもない。あなたは出演者ではないですか」
「最後まで演じきる技量も意志もありませんよ」
「ミスキャストはありません。すでに幕は上がりかかっています。覚悟を決めていただかないと」
「やれやれ、緊張しますね」
「楽しませて下さい。私は監督兼唯一の観客なのです。成功するかどうかはあなたがた次第です」
「……あまり気乗りしませんが、やるしかなさそうですね」
「ほう、やる気になってくれましたか」
「ハプニングが起こるかもしれません。監督の思い通りのストーリーにならないかもしれません」
「きちんと進行させるてみせます。監督としての腕の見せ所ですね」
夜はふけていく。窓の外には、変わらず三日月が輝いている。
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