|
「決心」
オフィスには彼と私の二人しか、もう残っていなかった。
コンピューターのなんとも表現できない断続的な低音とカタカタというキーボードの軽い音が、響いていた。
いつもはあまり気にしないそれらの音が、静寂をよりひきたててもいたし、その音があるからこそ、今のこの自分の気持ちも紛らわせていられるのかもしれなかった。
彼は、むこう5年間の海外勤務を来週に控え、仕事の引継ぎや営業先への挨拶などで、連日、遅くまで仕事をしていた。彼と同期入社だった私は、彼の頑張りをいつも側で見ていたし、彼がどれほど海外勤務をしたがっていたかを知っていたから、それが正式に決まった時は、私も嬉しかった。でも、それを本当に心から望めない自分もいた。
そんな自分の気持ちを見透かされそうで、自分の決心が鈍りそうで、私は彼を避けてきた。できるだけ彼と顔を合わせないようにしていた。今も、できるだけさっさと仕事を片付けて帰りたかった。
ガタッ。彼が突然立ち上がり、私のデスクに向かい、歩いてくる。
気付かぬふりをして仕事を続ける私に、彼は少し怒り気味に話しかけた。
「おまえさ、俺のこと避けてるだろ。なんで?何か気に障ることした?」
「ううん、別に。」
「別にって、そのそっけなさ、何何だよ。」
「別に、そっけなくなんかないよ。いたって普通。」
「そうか?そうは思えないけどな。」
彼は思案顔で一瞬、黙ったかと思うと、何かひらめいたように、手をたたき、言葉を続ける。
「わかった、本当は淋しいんだろ〜、俺がいなくなって。減らず口たたけるのも俺だけだからな〜。」
私は彼の言葉を聞き流し、さえぎるように、仕事の邪魔をしないでと言わんばかりに言い放った。
「早く自分の仕事しなさいよ、あと1週間しかないんだから。」
私の目の端に映っていた彼の顔が、一瞬、曇った。
「そうだよ、あと1週間しかないんだよ。あと1週間しか・・・」
彼はそうつぶやくように言いながら、自分のデスクに戻っていった。
お互い素直になれずにいた。そんな気がした。
5年は長かった。
たとえお互いにお互いを想う気持ちがあったとしても、5年、待っていられるか、わからなかった。
何年も付き合った恋人同士ならともかく、まだお互いの気持ちも確かめ合っていないふたりが、1週間という残された短い時間で、5年間、お互いを想い、信じ、待っていられるだけのものが育めるのか、自信がなかった。
だから、私は決めていた。
この気持ちは伝えずに、私のなかにしまっておこうと。
そのほうがお互いのためだと。
5年後、笑って再会できるためだと。
ガタッ。少し乱暴に彼が立ち上がる。
使っていたコンピューターの電源が落ち、彼のまわりに新たな静けさが広がる。
そして、彼はオフィスを出ていった。
一言もなく、彼は私に背を向け、オフィスを出ていった。
「これでいいのだ」とつぶやきながら、新たな静寂に押しつぶされそうながら、私はひとり、進まぬ仕事と自分の気持ちをもてあましていた。
流 遙夏
2001.2.12
|
 |