新約聖書
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受容
種を蒔く人マルコによる福音書 3〜8,13〜20

批判
他人を裁く人(ルカによる福音書 ・37〜42


マタイ・3〜12
幸いな人(ルカ 6・20b〜26

マタイ5・43〜48
敵を愛せよ(ルカ 6・27〜28,32〜36


種を蒔く人

 種を蒔く人が種まきに出ていった。種を蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実、あるものはを結び30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった。
 実を蒔く人は、神の御言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちであつ。園には御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけのところに蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれたものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいでで実らない。良い土に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである。

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[コメント]
 よく気をつけてみると、わたしたちの周りのいたるところに種が蒔かれています大自然の動き、人の親切、人との会話、模範的行動、習い事、講演、講話、授業、アドバイス、病気、葬儀、結婚式、試練、不幸・・・。
 普段は何気なく見過ごしてしまうこれらのおできごとの中に、いろいろな語り掛けがあるのに
気がつきます特に本人の専門分野のことはそうでしょう。信仰の目、神の目、社会の目からみてもさまざまなことを語って教えてくれています。しかもそれらは、不思議に種のように生命を持っています。受け取り、養い、育てることができるのいです。
 外からの考えや方法・アイディアなどを受け入れるとき、今までの考えや、やり方に家宅と事故っもっていて、案冷静を求めてガンとして動かないのであれば、せっかくの種まきは功を奏しません。動揺は免れるでしょうが、進歩が全然閉ざされてしまします。無限の可能性を含む種の生命は無駄になってしまします。そして力強い生命力は取り入れられず、本人の活気が失われていきます。これでは、人生が生き生きとしてきません。
 いろいろ気付いたことを、寛容に取り入れるようにすれば、受け取ろうとする内容以外のことにも多くの得るものを受け取ることがたびたび経験されます。
 種は言葉の聞き手、しるしやサインや情報などをキャッチする人を示します。いろいろな情報を受け止める時の、本人の心の状態をも示します。適当に聞き流したり、心に留めなかったり、自分の考えや気持ちで圧殺してしまったりすることも良くあり案すそれが良くない種ならば、むしろそうづべきですが、天からのよい種をそのように適当に荒らしてしまっては、心が成長せず、栄養不足になってしまいます。いくら身体が大きく発達して一人前になっても、精神的なもの、人間にとっって大切な面が未熟であり、人間としてすばらしい姿に成長しません。
 苦労の多い割には収穫量の少ない、石の多い、やせたパレスチナの畑が背景になってたとえは展開しています。耕した畑に種を蒔いていくのではなく、まず畑に種を蒔いて、その後で耕す方法でした。そのため、種と苦労に無駄が多かったとのことです。
 道端、石地、いばらの中に落ちた種のところではみな「御言葉を聞くと」となっています。ところが良い土地に蒔かれたところでは「御言葉を聞いて受け入れる人は」となっています。 
 「御言葉を聞く」ということは、自分の考えや、やり方などをしっかり持ってその上で御言葉を聞いて取捨選択することです。「お言葉を受け入れる」にとは、御言自分が導かれている人です。自分より御言葉が主人になっているのです。
 「良い土地」というのは、必ずしもやわらかい地とは限りません。御言葉を聞いて受け入れると肥えた地になります。御言葉に戴すt屡態度がその結実に関わりを持ちます。畑の状態すなわち今の自分の心の有様が、種の成長を左右するのではなく、御言葉を聞き入れ、受け入れる態度がよい地をつくります。御言葉の受け入れに自分の考え、気持ち、都合、便利、楽しさなどをゆずって、場所を開けば開くほどその実りも、本人にとって信じられないほど大きな収穫を得ることになります。
御言葉を注意してよく受け入れ、それを心に留めて実行する人は、ますます心理を悟って神野恵を何倍も何十倍も受けますが、そうでない自分の空にと閉じこもる人は、心理からますます遠ざかっていきます。

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他人を裁く人

 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることはない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることはない。ゆるしなさい。そうすれば、あなたがたもゆるされる。与えなさい。そうすればあなたがたにも与えられる。押し入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」いえすはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、弟子の目にあるおが屑はみえるのに、なぜ自分の目の中の丸太には気がつかないのか。自分の目にある丸太を見ないで弟子に向かって『さあ、あなたの目にあるおが屑をとらせてください』とどうしていえるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、弟子の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

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[コメント]
 はじめにある「裁くな」とは、人を見てその人に罪があると軽々しく判断をくささないようにということであり、つぎの「裁かれない」は、すべてを事細かく見ておられる神は、人を裁かなかった人を裁かれず、処罰もくだされないということです。
 「おが屑」とは、
「わらくず」とも訳されており、取るに足りない小さな欠点のことです。「あなたのめのおが屑を取らせてくれ」ということは、自分のことは棚に上げて、人の小さな欠点や弱点をとやかく言う、ということです。
 どうして私たちは、人を厳しい眼で見ることができるのでしょうか。
 たとえば、言葉や行いだけを見て、「あの人はこうだ!決まっている!」と断定してしまうときがあります。相手が純粋な好意、善意をもっていたのに誤解してしまい、傷つけることもあるでしょう。
 わたしたちは「人には厳しく、自分には優しく」なり易い傾向をもっています。「人には思いやりを、自分には厳しく」という、姿勢をとりたいものです。
 世の中には、銀行強盗、婦女誘惑、バラバラ死体遺棄事件など、目に余る残酷な犯罪が新聞を賑わうことがあります。この犯人でさえも、私たちは簡単に「悪いやつ」と決め付けることができないと思います。同じ環境に自分がもし置かれたとすれば、わたしたちはどういう態度を取るでしょうか。もしかしたら、もっと手の込んだ犯罪をしているかもしれません。それほど人間は弱いのです。
 だからといって、強盗や人殺しはもとより、小さな罪状まで、悪は悪として避けねばならないのは当然のことです。罪を憎んで人を憎まず」ということです。
 「あの人は悪い」と死刑囚の人に対しても断言することはできません。冤罪になる可能性はいつもありますし、実際に「無罪」として釈放されて社会復帰しておられる人もいます。
 
 裁判は物的外的証拠が便りです。外的証拠がないとお手上げです。証拠が追手も間違いかもしれませんし、証拠不充分となれば裁判は正確なものにはなりません。本人の心の中では、外的な証拠の有無にかかわらず、有罪か無罪かは、はっきり知っていますし、もちろん神も心のすみずみまで知っておられます。
 際満でさえも、真相が正確につかみきれないのに、個人的に「あなたが悪い」と大胆に決めるけることができるでしょうか。
 人に対して好意的に接し、決して人の悪口を言わない人もいます。このような人は人に寛容です。悪口雑言を浴びせられても、感傷的に暴言や暴力をふるったり、逆に傷ついたといって落ちこんだりもしません。自分は神の前でそれにふさわしい者だと寛大にへりくだったり、一切のことを神に委ねます。神はそのような人を寛大に報いてくださいます。それは、親であり、父である神に全く信頼しているからです。「信仰」の偉大さです。神は正義とともに慈悲の神でもあります。

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幸いな人

自分の貧しさを知る人は幸いである、
   天の国はその人のものだからである。
悲しむ人は幸いである、
   その人は慰められるであろう。
柔和な人は幸いである
   その人は地を受け継ぐであろう。
義に飢えかわく人は幸いである、
   その人は満たされるであろう。
あわれみ深い人は幸いである、
   人その人あわれみを受けるであろう。
心の清い人は幸いである、
   その人は神を見るであろう。
平和をもたらす人は幸いである、
   その人は神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害される人は幸いである。
   天の国はその人のものだからである。


 わたしのために人々があなたをののしり、迫害し、またあなたがたに対して偽りを言い、あわゆる悪口を言うとき、あなたがたは幸いである。小躍りして喜べ。天においてあなたがたが受ける報いは大きいからである。あなたがたより前の予言者も、同じように迫害されたのである。

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敵を愛せよ

 「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられたのを、あなたがたはきいている。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、あなたがたを迫害するもののために祈りなさい。それは、あなたがたが天におらる父の子であることを示すためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる者を愛したからといって、あなたがたになんの報いがあろうか。徴税人でさえも、そうするではないか。また、自分の兄弟にだけ挨拶したからといって、何か特別なことをしたのだろうか。異邦人でさえも、そうするではないか。―だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい

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