かなり昔の話になるけど、雪崩でツアーの客が死亡してガイドの責任が問われた裁判の判決が確定したというニュースが流れていた。今回は山スキーとは切っても切れない、”遭難”の事後処理について触れる。 例えばこの事故が、ガイドによるツアーではなく、山岳会等のグループツアー中であったら?。雪崩に限らず死亡遭難事故では、生存者が記者会見の席上で、カメラの放列の前に立たされ罵詈雑言にひたすら耐える。その姿は封建時代の”さらし首”そのもの。ましてその生存者がリーダー・サブリーダーであれば、マスコミにとってはますます”絵になる”。そして彼はその後一生、針の筵の上で死ぬまで十字架を背負って生きる と言うのが一番ありがちなパターン。果たしてそんな状況が正しいのか否か?。 一昔前の学生山岳会の封建制度のように、”リーダーの決定は絶対で、下級生はそれに従うのみ”のクラブであれば、それもしかたがない事である。リーダーは、下級生を絶対服従させる権力を得る代わりに、全責任を追うのが当たり前。
たとえ引率され連れていって貰った初心者であったとしても、自分のレベルは自分が一番良く知っているのだから、人任せにしないで自分からその山行の情報収集を積極的にすべき。そして自分にとってそのレベルに不安を感じた場合、率直にそれを主張しなければならない。たとえその事で、その場がしらけたとしても、他の同行者には物足りないレベルの山行になったとしても、自分だけがパーティーから除外されたとしてもである。”自分の身は自分で守る”、そして”自分の命を人任せにしない”、それが”大人の社交場”の”マナー”。 さて、ガイドによるツアーの場合はどうか?。”雪崩の発生を確実に予測する事は無理だし、ガイドはその場で最前の処置を尽くしたのだから無罪”と主張していたが。今回は、”雪崩危険区域”と立ち入り規制している区域内での”プロ”の引率による事故であり、そんな屁理屈は逆立ちしても通らない。 ただもしこの場所が、一般的には雪崩のリスクの極めて少ないとされる場所であったなら、ちょっと条件は違ったかもしれない。また”美味しい斜面=雪崩のリスク”なのだから100%安全という判断というのも絶対不可能。でも、客の安全を預かる代わりに代償として金を取る”プロ”であれば、刑事訴訟上はともかく最低民事上では、最善の判断をした結果責任としての事故の際には潔く非を認め、最大限の謝罪・賠償をする義務がある。 しかし例え賠償金額が確定しても当事者に支払い能力がなければ、賠償命令はまさに絵に描いた餅で、亡くなった人にとっては、”犬死に”以外のなにものでもない。現在”雨後の竹の子”のように、ガイド業が増えてはいるが、はたしてそのガイドや組織が、それだけの支払い能力(当事者能力)があるか?、あるいはガイド料金に客の山岳保険代までちゃんと含まれているか?等、今後ガイド業の”質”も問われるところだが、ガイドに”うちはちゃんとしてますから”と言われれば客はそれまで。税務署員でも会計士でもない客に、それ以上調査出来る訳もない。 規制は極力最小限にと考えてはいるのだが、でも人の命を預かるガイド業に現在なんの資格・認定もないのはちとまずい。私だってやろうと思えば、このHPに紹介しているルートを、人から金を取ってガイド出来るかも?(相場の半額位で請負いますからご連絡下さい〜嘘!)。でも最低でも、一定の担保能力とか、強制保険加入とかの条件を満たしていない営利行為は、いかがなものか?。
しかし嘆かわしい事に、先の”私は無罪だ!”の例に限らず、国や地方自治体を動かす高級官僚や政治家、果てまた日本を代表する一流大企業のトップから、飲酒検問に引っかかったオッチャンや万引きで捕まったオバチャンに至るまで、とにかく皆言い訳の達人で、絶対に自分から非を認めようとせず、あくまで黒いモノを白と言い張るこのご時世。もしかして、”言い訳するのはただ!”だから、ダメもとで言っているのか?。でも結局そんな屁理屈が通るはずもなく、最終的には頭を下げる所に行き着くのだが。 しかし過去には、たとえ結果責任であっても罪は罪として、言い訳せずに認める度量と潔さを持った”侍”が、かつてこの国にいた。別に”死の美学”を賞賛する訳じゃないけど、当時としては最も明確で、またこれ以上はない、という責任の取り方をするのが、”侍”のつとめでもあり最後の誇り。わずか100年ちょっと前までの時代の話。 そのなれの果てがこの現状。西郷どんが現世を見たら、なんと言うだろうか?。 PS〜 これでようやく終わりかって?。実は最後にこのシリーズの総括ってモノがあと一話だけある。もう飽きた?。
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