再びロープくぐりについて

 ロープくぐりについては、近年のオフピステブームのせいか、以前にも増して目に付くようになった。おまけに”お前、そこは○○スキー場のロープ規制区域だろ!”って所で滑っている写真・映像を無責任にたれ流すメディアすらある。また以前ならロープを張っていなかった箇所にも、近年は厳重なロープが張られる場所も増えた。

 深雪愛好者の一部からの異論・反感は承知の上、今までのしつこい繰り返しにはなるけど、今回は再びあの重たいテーマ、ロープくぐりについて。

     初めに断っておくけど、私は”なんでもかんでもルールには盲目的に従うべき”と言う規制是認論者ではない。子供じゃないんだから、アメリカ型の幼稚・過保護・規制・訴訟社会ではなく、ヨーロッパ型の成熟した自己責任社会こそが目指す姿である。ただ文化的にも歴史的にも、”お上”になんでもかんでも責任を押しつける幼稚な国民性のこの国では、なかなかねえ....。

 まずロープを張る目的を、スキー場管理者の立場で考える。第1の目的は、スキー場管理者が、どこの範囲まで管理しているかをゲレンデに明示することにより、管理区域外で起こった事故については、管理者には責任がない と主張する為。工事現場のトラロープや林道のチェーン施錠もこれと同じ理屈。このロープは管理範囲の明示であるため、バリケードみたいな厳重封鎖ではないため、たいがい容易にくぐれてしまう。

 そしてスキーヤーがロープをくぐった場合は本来”Own Your Risk"と、ここでなんども出てくる”自己責任”で話が済めば良いのだが、成熟した社会ならともかく残念ながらこの国ではそうは問屋が卸さない(?)。なにせコース脇の立木に自分からぶつかった事故ですら、スキーヤーがスキー場を訴えて、それが裁判で通るお国柄ですから(だいたいコース脇に立木のないスキー場なんてある?。暴走したあんたが100%悪いんだって!)。

 単に司法が幼稚で成熟していないだけかと思いきや、もっと根は深い。そんな判例を是認するどころか、事あればなにかと管理者や国が悪いと、自分の責任を認めない幼稚な国民性こそが諸悪の根元で、司法の判例はそんな社会構造を写しだしたに過ぎない。これじゃあ、整地してあるコースなんかより、立木だの埋木だの雪崩だの遭難だのと、遙かに訴えられるリスクが高いオフピステの締め出しに躍起になる管理者の気持ちも分からないではない。これは管理者のケツの穴が小さいと言うより、そこまで追いつめた幼稚な国民性の方がよっぽど問題。

 もっと幼稚な社会のアメリカでは、訴訟に負けたり、訴訟に備える保険の負担に耐えかねて、多くのスキー場が廃業に追い込まれたそうな。スキーヤーが自らの首を締めたとはこの事かな?。


 脱線するが、自分の責任を認めないという点では、故伊丹十三監督がかつてこのような事を書いていた。

     ”敗戦後の日本では、国民皆が”国にダマされた”と、皆被害者の立場を振りかざし、誰一人として”ダマされた方の責任”を口にしない。私はこの国の未来に対し暗澹たる気持ちになる。なぜなら、例えダマされたとしても、その事についての責任や反省がなければ、今後何度でもダマされるからである。”

     この言葉はまさに、その50年後、皆が”国・銀行・株屋・不動産屋・e.t.c.にダマされた”と国民皆が被害者の立場を振りかざした、バブル崩壊の予言でもある。自分の責任をよそに転嫁する事で、自らの痛みを紛らわす行為のあさましさ。


もう一つ脱線

     昔はどんなスキー場だって、コースロープでなんか仕切られてなんかいなかった。そして今なおオフピステを滑られる(というより、国立公園内なのでスキーコースそのものが存在しない)スキー場(?)が、北海道には奇跡的に唯一存在する。旭岳スキー場(?)、今となっては貴重な存在。なにせここはチャラチャラしたゲレンデスキーヤーが滑ってもクソも面白くない、山屋位しか来ないマニアックなスキー場だったからこそ、こうして絶滅を免れて生き続けて来た(生きた化石か?)。

     但しここでももし今後幼稚な”にわかバックカントリースキーヤー・ライダー”が大挙して押し掛けて問題でも起こそうものなら、盤の沢なんて一発でロープ閉鎖されかねない危うさも潜んでいる。近年ここもメジャーになってきて、また今年から設備・輸送力もアップした事もあり、盤の沢が今後も滑走可能かどうかは、利用者の意識レベルに掛かっていると言っても過言ではない。


 以前のあまりにくどい、7話連続シリーズの反省から、前回からは一話完結で簡潔・爽やか(?)にまとめようと思ったけど、またしても脱線続きで結局一話じゃ終わらなかった(ワッハッハ!)。と言う訳で、この続きはまた来週。
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