誰も知らない秘湯、その響きは人をたいへんひきつけるものです。友人からその話を聞いたとき、私もついその気になって、その秘湯に行く計画を立てました。
そうやって触れてはいけないところに触れてしまい、取り返しのつかないことになってしまうことが、本当に私の身に起こるとは、その時、私は考えもしませんでした…。
その場所は、F県の山中にある小さな民宿でした。温泉マニアの友人A美がインターネットである温泉ガイドの掲示板の書き込みから見つけました。
「その民宿ってさあ、すっごく安いのよ。それに、その温泉ぜんぜん有名じゃないのよ。F県出身の温泉マニアの人も知らないって。だから、お客なんてあたしたちだけ?一人じめ?みたいな。」
F県の山中のその細い道はタクシーの運転手も知らないほどの道でした。長い長い山道で私とA美は途中で眠ってしまいました。
「お客さん、ここでしょ?着きましたよ。」
タクシーの運転手に起こされた私たちの目の前に大きなコンクリートの壁がそびえていました。古びたそのうちっぱなしのコンクリートは、温泉旅館にはあまりにも不つりあいでした。
壁は10メートルもあろうかという高さで、30メートルほどの幅がありました。その壁にそって歩くと、壁が曲がったところにいかにも温泉旅館らしい建物が見えました。壁は刑務所の壁のように、何かをぐるりと取り囲んでいます。それと向かい合うように建つ旅館はあまりにも小さく感じられました。
仲居さんに通された部屋は、たいへん眺めのよい部屋でしたが、あの壁のことを考えると、どうも不思議で仕方ありませんでした。
「ねえ、A美、あの壁なんだろね。」
「知らない。工場のあとかなんかじゃないの?あたし早速温泉に行ってこよっと。お先にー。みたいな。」
A美は一人で露天風呂のほうにいくといって部屋を出て行きました。
私は何かいやな予感がしたので壁の周りを探ってみることにしました。
壁は30メートルぐらいの四方の正方形の形にそって建っていました。その威圧的な形は、まさに刑務所を思わせました。
ぐるっとひと回りしてから、私はあることに気づきました。
出入り口も、窓もどこにもない!
私は怖くなって旅館のほうに駈けだしました。
旅館が見えたとき、私はもうひとつ恐ろしいことに気づいてしまいました。
A美は、露天風呂に行くと言っていました。しかし、見た限り、旅館の周りに露天風呂のありそうな設備、もしくは露天風呂への道が無いのです。
だとすれば、A美はどこに…。
「露天風呂?ああ、その大広間の横の通路からいけますよ。はい、地下通路になってて、露天風呂のところで外に出られるようになってるんです。」
ほっとしました。しかし、何があるかわかりません。私はA身を追って露天風呂に行くことにしました。
その通路は薄暗く、だんだん下っていくようでした。露天風呂が地下にあるはずはありません。だんだん湿っぽくなっていく廊下を私は駈けだしました。
少し走ると急に上り坂になりました。私は息を切らして、走りました。長い通路の奥にようやく扉が見えました。
やっとたどり着いた扉を開けたその時、私は急に苦しくなり、目も開けられずにむせ返り、よろよろと歩きました。
ドボン!
私のまわりをお湯が包みました。もがいて水面から顔を出して、大きく息を吐き出しました。
ツーンと、のどと鼻が痛くなりました。私は恐る恐る目を開けました。
真っ青な世界で湯気がもうもうと立ち上っています。立ち上がった私の足に何かが触れました。
あわててそれを見ると白い丸い何かの塊が無数に沈んでいます。
はっとした私の目に温泉の成分表が飛び込んできました。
『主成分 ジクロロイソシアヌル酸ナトリウム 』
『温泉に入った後は必ず目を洗おう!』
私は恐ろしさのあまり叫びました。
「プールじゃん!」
見ると、A美がビート板をもってバタ足をしています。私はそのまま気を失って倒れました…。
その温泉は、ある学校の後を掘ったところ、プールそっくりの成分の湯が湧き出してきたところからそんな恐ろしいことになってしまったのです。温泉のそこに沈んでいた白い固まり、あれこそがプールの消毒剤の成分、ジクロロイソシアヌル酸ナトリウムだったのです。
私たちは電車を乗りついで、タクシーに乗って、わざわざF県の山奥まで、温水プールに入りに来てしまったという訳です…。
観光、レジャーブームの影で、今もこんな恐ろしい罠が、口をぱっくり開けて待っているのかもしれません…。