おわり
まめちしき 「とんちこぞう」として有名な一休こと一休宗純(1394−1489)は、その特異な行動と言動ににより、伝説的な人物として知られる。第100代天皇後小松天皇の子とも言われるほど、神秘性をもかねそなえている。
彼の逸話としては、杖の先に髑髏をさして街を歩いたとか、木刀をぶら下げ、「今の坊主はこの木刀のような物だ。見かけは立派でも、中身がともなっていない。」などと言ったとか、師から授けられた悟りを開いたと言う証明書を焼いたとか、禅僧の妻帯が認められていない中、盲女を妻としたとか、このような彼の行動には、当時の社会に対する激しい抗議者としての姿勢が伺える。
当時の社会は、南北朝の兵乱こそは終結したものの、応永の乱、上杉禅秀の乱、永享の乱、嘉吉の乱、そして応仁の乱と、戦いに明け暮れ、また、幕府の厚い庇護の下、仏教界の腐敗が進み、悟りの証明書となる書物の売買まで行われるほどであった。そんな社会に対し、正長の土一揆、山城国一揆など、幕府に反抗する動きも出てくるなど、体制に対する反抗が始まった時期でもあった。一休の姿が、彼らのヒーローとしてとらえられたのも、うなずかれる。
彼の幼少時代にとんち小僧として活躍した逸話は、江戸時代に成立した物がほとんどである。また、昭和になってからは、テレビアニメをはじめ、さまざまな児童向けの物がある。吉四六、彦一などのとんち界でも、傑出した存在である。やはり、彼の反抗者としての姿勢が、広く親しまれていると言うことであろう。
しかし、テレビアニメは、子供向けにわかりやすく作られたため、多少の誤弊がある。一休がいた安国寺は、安国寺利生塔として、幕府が一国に一寺を建立した物であり、一国の禅宗寺院を統括する立場の寺であり、貧乏寺などではない。また、寺社奉行として蜷川新右衛門が登場するが、当時の室町幕府の職制では寺社奉行と言う役職はなく、寺家奉行と社家奉行がそれに相当する物である。また、蜷川氏は、政所代を世襲する家柄であり、奉行職に就くことはない。足利義満が将軍として金閣寺に住んでいるが、金閣fは、義満が将軍職を子の義持に譲った後の、山荘として建立した北山殿の一部であり、「将軍」足利義満は住んではいない。ときおり、足利義満(声、キートン山田)が「金閣寺」などと口走ってはいるが、鹿苑寺として禅宗の寺となったのは義満の死後である。また、当時の民衆、武家は必ず烏帽子をかぶっており、マゲむきだしである彼らはいわばちんこ丸出しで歩いているようなものである。
しかし、そのようなことは些事であり、たいして取り上げることではない。一休が幼少のころ周建と呼ばれていたこともどうでもいいのである。むしろあのアニメで注目すべきは、足利義満と、蜷川新右衛門、一休、桔梗屋の関係である。
足利義満が一休をたびたび呼び付ける姿勢はただ事ではない。ここにいわゆるホモセクシュアル的な関係を嗅ぎ取るのは容易である。現に、和尚に「一番好きな物を断ってお祈りをしなさい」と言われた足利義満は、「余の好きな物・・・それは一休殿とのとんち比べかのお」などと言っている。妻を天皇の准母とし、太上天皇の地位をもねらった足利義満の一番好きな物、それは一休なのである。この話の後半で足利義満は、だんだん元気が無くなってくる。見かねた蜷川新右衛門が、せめて遠くから一休を見せようと言うと、豪雨の中馬に乗り、足利義満は一休をそっと見つめるのである。この帰途、雨に降られた義満は高熱を出す。そこで一休が現れると、足利義満はたちまち元気を出す。この話を聞いた、さよちゃんは、「まるで将軍さまと一休さんて、恋人どうしみたいね。」と一休さんをからかう。その時の一休の反応が、顔を真っ赤にして、「ち、違うよお。」
寺の小坊主が、「色小姓」として貴人の用にされるのはよくある話である。さらに最終回で、修行の旅に出る一休を陰からそっと見送り、「一休さん、拙者も必ず追いかけて行くでござる。」と、つぶやく蜷川新右衛門も、一休に思いを寄せていたと考えられる。
桔梗屋があれほど一休に対抗心を燃やしていたのも、一休に対する嫉妬があいまったものであるのではないか。
一休さん。それはわれわれに愛の奥深さを教えてくれる文部省推薦アニメである。
追記 関西地方で、よく一休さんと続けて再放送されていたアニメは「パタリロ」である。