明智光秀は源氏の名門土岐氏の一族明智氏の出身であり、
有職故実にも通じた知勇を兼備した名将です。
かたや織田信長は尾張守護斯波氏の守護代織田大和守家の家臣にすぎない家の出身ですが、
父信秀、そして信長の二代でのぼりつめた、いわば成り上がり者です。
明智光秀は伝統を重んじ、信長は伝統を破壊するという二人の個性が
この家系からもわかります。
この二人のキャラクターの違いが衝突を招いたという説が有力ですが、
明智光秀が大恩ある織田信長を殺す理由がそういった浅いところにあるとは
思えません。
やはり明智光秀は織田信長ににらまれ、織田家の重臣林通勝父子、佐久間信盛父子のように
追放の憂き目にあうことをおそれて、いちかばちかの謀反を企てたものとみられます。
ではなぜ織田信長は明智光秀をにらむようになったのでしょうか。
信長は「あだ名」をつける名人だということが知られています。
たとえば秀吉の「猿」が有名ですが、秀吉には他にも「ハゲネズミ」「中村の黒ヒョウ」「安打製造機」
「怒りながら笑う人」「遠藤周作」「松田優作」等のあだ名がついています。
光秀にももちろんあだ名がついています。「きんか頭」(ハゲ頭のこと)のほかに、
「仮面ライダーBLACK」「8時半の男」「ゴルゴダの丘でキリストを磔刑にかけた13番目の男」などが
ありますが、これくらいで謀反を起こすとは思えません。
光秀の小学校時代のあだ名は「あだ名をつける価値のない男」だったのですから
どんなあだ名も彼には十分すぎるというものです。
問題はなぜ信長があだ名をつけるのが大好きだったかということです。
精神病理学的にあだ名をつけるのが大好きな人間は自分の名前にコンプレックスを
持っているという説があります。
この説を唱えた高橋秀成教授(あだ名・腐れメロンパン)は
「あだ名をつける人間には、その相手の人格を自分だけの基準で再定義したがる、
つまり他人や他人の価値観に一切配慮しない、破綻した人間であり、
同時に自分を定義されることをたいへん恐れている、自分に自信のない人間」 と位置づけています。
信長のコンプレックス、それは「織田」という姓にあるとみられています。
「織田」。信長がここまで有名になったからみんな「おだ」と読みますが、
知らない人が見れば「おりた」としか読めません。いえ、そうに決まってます。
信長の戦いはいわば「織田」を「おだ」と読ませる戦いでした。
父、織田弾正忠信秀は尾張の一大名であった頃に朝廷に多額の献金をしています。
そして京都中で「尾張ノオタノ弾正トイフモノ」と評判になりました。
「おだ」までもう一歩です。
信長はこの父の志を継ぎ、「織田」を「おだ」と読ませるべく戦いました。
しかし当時は「おだ」といえば関東の名門、元常陸守護の「小田」氏でした。
小田氏は後北条氏に滅ぼされたものの、名門宇都宮家の分家で、一説には源頼朝の弟が
先祖であるともいわれ、関東きっての名家です。北畠親房の「神皇正統記」が書かれたのが
小田氏の居城、小田城であったことから、「おだ」といえば「小田」であるというのが当時の
幕府、上級武士、僧侶等に共通した認識でした。
信長に敵対した大名等は駿河守護今川氏、越前守護朝倉氏、甲斐守護武田氏、関東管領上杉氏、
管領細川氏の家宰であった三好氏、そして足利将軍足利義昭と、
いずれもどちらかといえば「織田」よりも「小田」との付き合いが長いのです。
信長は自分の姓の読み方を広めるために孤軍奮闘しました。
キリスト教の布教を認めたのもローマ字で書けば「ODA」と「ORITA」を間違えることはないという理由です。
比叡山の焼き討ちも名前を全国に知らしめるためにほかなりません。
このように自分の名前を広めるのに四苦八苦した信長にとって、光秀の「明智」という姓は
どう映ったのでしょうか。
明らかなる智、その名は秀才光秀そのものにふさわしく、すごくかっこつけているように思えます。
江戸川乱歩が名探偵の名に「明智小五郎」とつけたのはそのイメージです。
乱歩の本名は「平井太郎」です。きっと明智の姓がうらやましかったのでしょう。
信長も今となっては目立つ名前のようですが、実は地味な名前です。
織田氏は本来藤原氏の一族で、彼もはじめは「藤原信長」を名乗っていました。
しかし、平安時代に藤原道長の孫に「藤原信長」がいることが発覚し、
それ以来平氏を名乗っています。それほど地味なのです。
彼は自分の地味さを呪い、他人の姓を呪いました。
武田氏をつぶし、朝倉氏をどつき、足利氏をしばき倒しました。
しかし、自分の家臣の姓がどうも気にさわります。
もともと姓の無い秀吉には「羽柴」というてきとうな姓を与えたからいいものの、
問題は明智です。明らかな智が光って秀でている。
自慢のかたまりです。
それにひきかえ、織って田んぼで信じて長い。
意味がわかりません。
そんなこんなで信長は光秀にいろんな嫌がらせをするようになりました。
ゴミを決められた日に出さない。
他のみんなは呼び捨てなのに光秀だけ「君付け」で呼ぶ。
家の前で新聞の四コマ漫画を声に出して読む。(擬音も)
元宝塚だと言い張る。
光秀の家のすべてのネジをプラスに替える。
しかし、光秀はそんな陰湿ないじめにも耐えぬき、
立派に仕事をこなしていきました。
腹を立てた信長は「明智」の姓を「惟任」に変えさせました。
「これとう」と読みますが、予備知識無しではまず読めません。
そのうえ同じ家臣の丹羽長秀の姓を「惟住」に変えさせました。
「これずみ」と読みます。
その結果、「惟任光秀」と「惟住長秀」という、遠目で見たところ
まったく違いがわからない二人が出来上がってしまいました。
これにはつけた本人もわからなくなってしまい、
「お前らわかりにくすぎじゃあ!」と逆切れすること十数回におよび、
ついに光秀もちょっとだけ信長がいやになってきました。
そのうち、信長は光秀のことを忘れてしまいました。
うってかわって地味な名前になったのですから無理もありません。
そうしてもう誰も光秀のことを思い出さなくなってから数年、
同盟関係にあった徳川家康が浜松からやってきました。
そしてその接待役として光秀が任ぜられたのです。
しかしここに重大な落とし穴があったのです。
浜松の田舎で毎日うなぎばかり食っていた家康はついこう言ってしまったのです。
「あ、どうもお世話になります、明智さん。」
明智さん。
明智さん。明智さん。明智さん。明智さん。明智さん明智さん。明智さん。
明智さん!?
そうだ、おれは明智光秀であって惟任光秀などというわけのわからない名前ではないっ!
明智光秀なのだ!!
それを信長め勝手に名前変えやがって、許さんぞー!!
ああ、家康が光秀の姓が変わったことを知ってさえいれば、
光秀の中で眠っていた”明智”が目覚めることも無く、
そして本能寺の変は起こる事は無かったのです。
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