文化人類学講座

 

「蹴り」について

講師 日本ピローエース大学 教授 躑躅ヶ岡槍三

日本人には関わりの深い「蹴り」。昨今の格闘技ブーム、Jリーグブーム等でにわかに脚光を浴びてきました。そこで、ここでは日本における「蹴り」の歴史と、これからの利用法について、学んでいきましょう。

 

1.「蹴り」の発祥

「蹴り」の発祥は、日本書紀によると垂任天皇7年の当麻蹴速と野見宿禰による角力が最初の記述である。

当時、日本最強の呼び名も高い当麻蹴速を、野見宿禰が腰骨を蹴折って倒したというものである。

これは、一般に相撲の発祥ともいわれているが、「蹴り」の歴史においても重要な事件である。

当麻蹴速の蹴速の名から見て、彼は蹴るのが早いことからこの名がついたと思われる。

しかし、親御さんが「蹴るのが早くなりますように」という願いを込めてつけた、という説も捨て切れない。

いずれにしろ、蹴るのが早いということが当時の日本社会においては、高いステータスを持っていた、ということである。

しかし、そんな蹴速をも倒してしまう野見宿禰の蹴りの威力というのはさぞかしすごいものであろう。

貴族社会において、「蹴り」というのは、相手を倒すためのもっとも重要なことであったと思われ、現在でも「ライバルを蹴落とす」などという表現が残っている。

また、相手を蹴落とすため、そして蹴落とされないための呪術として発達したのが蹴鞠である。

しかし、「蹴り」の形骸化により、貴族の勢力は凋落し、相撲でも「蹴り」を禁じ手とするなど、武家による「腕力」が台頭してき、「蹴り」は没落していくのだった。

2.「蹴り」の復権

その後長らく「蹴り」は、歴史の表舞台には現れず、わずかに、織田信長が明智光秀を蹴り落としたことが本能寺の変の引き金になったともいわれている。このことは、その後長く「蹴り」がタブーとされていたため、有職故実に詳しい明智光秀は、「蹴り」を最大の侮辱として考え、謀反にいたったとしても不思議はないのである。

また、明治期には行っても、尾崎紅葉は「金色夜叉」の中で、裏切ったお宮に対し、「金色の鬼となって」復讐を遂げると誓った寛一は「蹴り」を入れる。つまり、これからは人間でなく鬼としていきることを誓ったため、人間界のタブーである「蹴り」を意識的に寛一は使ったものと思われる。

しかし、日本の敗戦により事情が一変した。日本の占領統治を実行したGHQは、民主化政策の一環として、「蹴り」の地位向上を司令した。

日本に対するGHQの文化政策としては、歌舞伎の演目の制限、チャンバラ映画の禁止等が知られているが、この「蹴り」の地位向上は、日本のタブーに触れるため、GHQも公開司令ではなく、秘密司令の形を取ったため、一般には知られていない。

GHQの司令は、密かに実行されてはいたが、1951年のサンフランシスコ講和条約により、日本の占領が解除されると、このことは日本政府の課題となった。そこで日本政府の指導の下でNHKはTV本放送を1953年に開始、日本テレビも参加し、「プロレス」の放送を始めた。

このことが日本人の意識の中にあった「蹴り」のタブー意識を取り去った。力道山ブームに沸きかえる日本人は、ドロップキックなどの蹴り技を自然に受け入れた。そして、ジャイアント馬場、アントニオ猪木などの後継者により、日本人の意識と蹴りは深く結びつくことになったのである。

3.「蹴り」の将来

昨今のJリーグブームや格闘技ブームにより、われわれの生活に蹴りは浸透してきた。しかし、手の2倍とも3倍ともいわれている「蹴り」の威力を日本経済復興のために、オフィスや現場でもっと活用するべきではないだろうか。

たとえば、新しい企画。

たとえば、料理。

いかがであろうか。「蹴り」の威力、これこそが今、日本にとって一番必要なものではないだろうか。


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