続々々々々・智恵子(小)

はじめに

この物語はある作家(家族の強い要望により匿名)の智恵子(小)との深い愛憎の様子を作家本人が記した日記である。
作家自身は発表の場を求めていたが、家族の強い反対により、商業誌での発表は見送られた。そのため一昨年に作家の匿名、また作家を特定できるような個所の非公開を条件としてその一部をSAKANAFISHにて公表した。

今回は、作家自身の強い要望により、前回の続きの公開をするものである。

なお、前回、前々回、前々々回、前々々々回、前々々々々回掲載分をご覧になりたい方はこちらへ。


8月4日

酷暑。郊外とはいえ、この辺りも暑い。昭和が終わってからの暑さというものは格別ひどくなってきたようだ。年齢のせいもあるのではと智恵子(小が言う。まだまだ老いを認めたくは無いものの、けっして若くは無い我が身の現実を認めざるを得ない。久々に氷。

8月5日

智恵子(小)が業務用かき氷器を買ってくる。無駄な物を買うなとは言ったものの、これで暑気を払えるかと思うと悪くは無い。シロップなどをかけてスプーンで頬張ると、冷たさとともにシロップの甘味と鉄の味が口の中に広がる。少年の頃の記憶が甦る。味覚というのは衰える物だというが、それに付随する記憶というのは衰えない物だ。夕刻、抱月にて茄子の鋏み揚げ。

8月6日

智恵子(小)が朝からかき氷を掻いている。朝から氷などは体を冷やして害になると言うが、気にしてはいない。仕方が無いので食う。田舎の川で魚など突いて、焼いて食べていた少年の頃が甦る。S社の谷本君来訪。書き下ろしの相談。事のついでに以前頼んでおいた理作牛を持ってきてもらう。こっちを待っていたような物だ。理作牛は暫く置いて熟成させてから作るすき焼きが堪らなく旨い。最高の晩餐とはこれを言うのだろう。

8月7日

終日執筆。時折、縁側で西瓜をかじっていた少年の頃の記憶が甦る。智恵子(小)はダンス。

8月8日

終日執筆。時折、少年時代にした野球の記憶が甦る。

8月9日

このところ、少年の頃を思い出すことが多い。老い、とはこういうことかとも思う。そうかと思えば今日などは終日すき焼きの記憶ばかり甦っている。人は過去の思い出だけでは生きられないのだなと苦笑。

8月10日

智恵子(小)が、料理番組アシスタント批評。それを見ながらフラスコや駒込ピペットの事ばかり思い出す。抱月でレバ刺し。どうも血生臭い。

8月11日

最近、どうも冷蔵庫の中の物の減りが早い。老人には大食と小食に分かれるというが、自分がどちらかというと大食なのは面映い。終日サングラスをかけた映画監督のことばかり頭をよぎる。

8月12日

薮の橘、来訪。胃腸が弱っているようだと愚にもつかないことを言う。こんなに意地汚く食い散らかす胃腸が弱っていることなどあるものか。智恵子(小)が氷を出す。食いもせずにじっと氷を見つめている橘を見ると無性に腹が立つ。プラグプラグプラグで日も暮れる。

8月13日

すき焼きを食おうと思って冷蔵庫を開けるが、肉が無い。智恵子(小)「いつまでもあると思うな肉とシャルル・フーコーの記号論」訳の判らない事を言うな。残念だが仕方がない。また暫くかき氷ばかりの日々だ。ヒゲヒゲヒゲ。

8月14日

冷蔵庫を開けたからには冷凍庫も開けねばなるまい。開けてみると凍った牛肉や川魚やフラスコやプラグやサングラスやヒゲが入っている。成程かき氷で記憶が甦るはずだ。業務用かき氷器とは恐ろしい物だ。まったく業務用かき氷器とは恐ろしいものだ。業務用かき氷器。

8月15日

終戦の日。ひどい暑気。こんな日にこそかき氷と、業務用かき氷器を探すが見つからず。智恵子(小)に聞くと「昨日食べたじゃないの!」と半狂乱。心外。

8月16日

そういえばここ数年、盆に父母の墓参にも行っていないなと思う。盆に父母の霊が帰ってくるならわざわざ墓に行かなくても良いとは思うのだが、やはり古い人間になってしまったのだなと苦笑。墓に出かけるとわりと閑散としている。古い人間は消え行くのみ、か。花とかき氷を供えて合掌。智恵子(小)がザイルを買って遊ぶ。墓は遊ぶ場所ではない。故人の思い出に浸る場所だ。帰り道、どうにも足取りが重い。仕方が無しに近くのホテルをとる。きっと死んだ父母に呼ばれているのだ、と智恵子(小)が笑う。ホテルの料理は馬鹿に不味い。

8月17日

随分良く眠れたので体調も良かったが、ホテルを出ると足取りが重い。橘、こういう体の異変になぜ気付かないのだ。まったく藪というのには困ったものだ。途中でやたらと腹が減ったので牛丼屋に寄る。特盛。家に着くまでにひどく時間がかかる。あまりに時間がかかるのでまた腹が減る。途中の寿司屋で二十貫。深夜、帰宅。そのまま泥のように眠る。

8月18日

朝から筋肉痛。父母が迎えにきたというのも嘘では無くなりつつあるのかもしれない。墓石と無邪気に話しつづける智恵子(小)を見ると、この子にも何か残さねば、と言う気持ちになる。品田弁護士に電話。明日来訪の予定。

8月19日

下川家先祖代々之墓。なぜこんなものが家にあるのか。智恵子(小)「墓石を間違って家に持って帰ってしまいました、この場合賠償責任はあるのでしょうか、辻本相談員どうぞ。」誰がショベルカーだ。品田弁護士によると「賠償責任はある。」と言う。どんなんかな。

8月20日

終日執筆。我が家には墓石など無い。その無いはずの墓石にふやかした粟を与える智恵子(小)。

8月21日

すっかり元気を取り戻した墓石が家中を飛び回る。五月蝿いが、我が家には墓石など無いので仕方が無い。糞薮橘、来訪。墓石に当たって倒れる。ざまを見ろ。

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