下別府拓生君のページ

■本当の対話                 高校2年(平成9年当時) 下別府拓生

■「SB君ありがとう」     (「こころの便り」第119号2000年12月12日) 渋沢 久

■下別府 拓生君へ  2000年11月30日 有限会社 エルピダ 代表 中村 亮太 


本当の対話                     高校2年(平成9年当時) 下別府拓生  

「ピッ、ピッ」試合終了の笛がフィールドに鳴り響いた。平成9年9月第1回電動車椅子サッカー関東選手権大会決勝。4対1の負け。その瞬間、副キャンプテンでありゲームリーダーでもある僕は、まわりを見渡した。そこには、敗戦にもかかわらず、堂々と胸を張り、満足そうなほほえみをたたえた、わがゴール電ファイアーズの11人の仲間達がいた。このとき僕は、本当にチームのみんなの心が一つになったんだなあ、と強く感じた。しかし、ここまでの道のりは、けっして、平坦なものではなかった。

ゴール電ファイアーズの結成は4年前。当時のメンバーは、今の半分にも満たない5名で、1チーム4名で行う電動サッカーのチームとしては、ぎりぎりの人数だった。でも、そのころは、へたくそなりにも和気あいあいと、月2回の練習や、都内の似たようなレベルのチームとの練習試合をみんなで楽しんでいた。しばらくしてくると技術もどんどん上達して、結成2年目には、大阪で初めて行われた全国電動サッカー大会にも、参加した。このころから、メンバーも徐々に増え、第2回全国大会では、ついに全国大会初勝利をあげ、まさにゴール電ファイアーズの前途は、順風満帆のようにみえた。しかし、そのころから僕はチーム内に、ある違和感を感じるようになった。チームが強くなるにつれ、「そんなに、勝とう勝とうじゃなくて、もっと楽しくやろうよ」という声がでてきたことだった。確かに、よくチーム全体を見渡してみると、レギュラー選手と控え選手の間に大きな溝ができていた。大会に出るからにはどうしたって勝ちたい、となれば試合に出る選手はどうしても固定されてしまう。そうすると必然的に半数以上の選手は試合に出る機会がほとんどなくなってしまう。スポーツは、やはり試合に出なくてはおもしろくない。練習でも、みんなあまり声も出なく活気もなくなっていた。こんな重苦しい状態のまま、第3回全国大会(平成9年6月)が、目前まできていた。目標は、もちろん前回以上、あわよくば優勝を……と僕はひそかに思っていたが、今のチーム状態ではとてもとてもである。僕は、ミーティングで思い切ってみんなに「楽しくやることも確かに大事だと思うけど、やっぱりサッカーで1番の喜ぴはなんといっても勝ったときじゃないか。でもこれは、俺がレギュラーだから言っているんじゃなくて、たとえ控えになってもフィールドにでているとき以上に声を出してベンチからも戦うつもりでいる。だから、チームが一つになって全国大会にのぞもう」と言った。僕は、心から控え選手一人一人の気持ちになって話したし、みんな僕の気持ちをわかってくれたように思った。

いよいよ名古星で大会の幕が切って落とされた。ぼくは、燃えに燃えていたし、勝ち進む自信もあった。しかし、いざフタをあけてみると、1回戦はからくも2対1で勝ったもののチームの雰囲気は相変わらず重苦しく、2回戦は前半から一方的に攻められて、4対Oとなったところでメンバーが大幅に入れ替わり、僕もベンチに引っ込んだ。僕はふがいなさと、ベンチに下げられた悔しさとでなかぱ放心状態のまま、気がつくと6対0で試合終了の笛がなっていた。

暗く沈んだ東京への帰り道、僕は、大会前にミーティングで、みんなに言ったことを思い出していた……レギュラーも控えもみんな一つになって戦おう……と。ところが、自分がペンチに下げられたとたん、なかば試合を投げ、味方に一言も声援を送らなかった自分がいた。控え選手の気持ちもわかるなどと偉そうなことを言っておきながら(本当にわかっているつもりだった)、いざ、ベンチにさげられたとたん……。結果的には、口先だけだったということだし、事実チームメイトもそう思ったに違いなかった。

全国大会後、練習が始まってからもチームの雰囲気は最悪だった。僕も、腹を割って、自分が反省したことをもう1度みんなの前で話すべきだと思ったが、あえてなにもいわなかった。しかし、自分の中で、ひとつだけ決意したことがあった。「そのこと」は、簡単なようで、いざやってみると目分にとってかなり大変なことだった。しかし、なんとかがんばって1回1回の練習や試合で「そのこと」を続けていくうちに、チームに少しずつ活気がよみがえってきた。さらには、控えのメンバーのやる気が目に見えてでてきたのだ。そうすれば、レギュラーも、うかうかしてはいられない。チームがどんどんいい方向に回転し始めた。

そして、あの全国大会での苦い経験から4ヶ月後、第1回関東選手権でゴール電ファイアーズは、破竹の快進撃で勝ち進み、冒頭に記した結果を納めたのである。そこで、この4ヶ月間僕が決意して行ってきた「そのこと」とはなにか(などと大げさにいうのも恥ずかしいほどのことなのだが)。それは、「練習や試合で、最初から最後まで誰よりも声を出そう」ということだった。プレーしていても休んでいても、試合に出ていてもベンチにいても、である。やってみるとかなりきついことだったが、全国大会前にみんなに言ったことを、遅まきながらではあるが、まず、本当に自分からやってみようという気持ちだった。

口でいくら真剣に対話してもダメだったことが、たった4ヶ月の間に、しかも、口で何も対話しなくとも、自分がそれを先頭になって行うことだけで、みんながそれに答えてくれた。自分が声を出し、元気を出すことによって、少しずつみんなの声や元気が出始め、そして、チームにも勢いがでてきた。チームの姿勢というのは、元を返せば、リーダーの姿勢だったんだなあ、と思った。逆にいえば、チームに活気がなかったり、チーム内に溝ができてしまったというのも、勝つことや自分のプレーだけに執着していた自分のせいだったのだと感じた。

結局、本当の対話とは、口先だけで話し合うのではなく、お互いの態度や行動、姿勢によって伝え合うものなんだなあと、ぼくは深く心に刻み込んだ。


「SB君ありがとう」            (「こころの便り」第119号2000年12月12日) 渋沢 久

知らせがあった日(11月29目)
SB君が亡くなった。昨夜、十時半のことだという。
学校の吉沢先生から電話連絡を受けて、わたしは彼が中学三年の時に書いた「十年後の自分へ」という作文をすぐに思い出した。彼はその中で十年後の自分を、他人のことを考えてあげることの出来る人間として描いていたのではなかったろうか。内容はほとんど忘れてしまったのだが、彼が十年後の自分に期待を持って書いていたことは確かである。わたしは彼の病気を考えて、この願いの実現することを祈ると同時に、その時から彼の時間の推移についていつも張り詰めた緊張感を持ち続けてきたのも事実であった。
今日はその緊張がぷっつりと切れた。妻が東大病院に行って、家にはわたし一人なので、声を出して賛美歌を歌って心を紛らわそうとしたのだが、歌い始めるとすぐに涙が出るし、先ほど挙げたSB君の作文を学校から持ち帰ったはずだと思い、箱の中の資料をひっくり返して探している間も涙が出てきてたまらない。作文を見つけ出して、「まだ、五年だよ。十年後には作文の君に成れるように天国で頑張ってね」と言ってあげようとしてわたしは懸命に探した。涙を拭きながら探した。

SB君はわたしの生涯においてなんと大事な存在だったことだろう。SB君も体の不自由故に自分では出来ないことがたくさんあったし、わたしはまた担任をしながらその彼のお世話をすることができなかった。しかし、それゆえにこそ、わたしと彼の周囲には助け手がたくさん現れ、出来ないことの多い二人を中心に新しい世界が開けていったのだ。こんなすばらしい[出来事」を生み出してくれたSB君だが、彼はそんなことは意に介せず、電動車椅子サッカーの全国組織を作ることに夢中だった。未来を夢を持って待っていたのだ。

ここでわたしが彼にしてあげることが出来た小さな事を思い出させて欲しい。それは学校の屋上で週に三回行われる朝の体操でのことだ。SB君は電動車椅子に乗っているし、体もあまり動かすことが出来ないから、体操といっても実質体を曲げたり伸ばしたりはしないのだが、しかし体操の時間に間に合うと冬の寒い朝でもみんなのいる屋上に現れた。その手には携帯用の懐炉を持ってである。わたしはそんな時音楽に合わせてよろけたりしながら賑やかにやっているみんなの後ろにいるSB君のところに行ってその手をわたしの両手の中に入れたのだ。懐炉を持っているとはいえ、SB君は冷たい手をしていることをわたしは知っていた。わたしのなすままにさせてくれるSB君の手は、あまり筋肉で覆われてはいなくて、指は細かった。しかしそれは艶々として、長く立派だった。わたしはどうしたわけかいつも熱いわたしの手でさすったり、包んだりして一時を過ごした。二人とも話もせず、他の仲間の動きを見ながらそうして一時を共にしたのだった。

明るいやさしいお母さんの愛と、無口だが誠実に私たちにも応対してくれたお父さんの世話を受け、親の愛を弟にたくさん譲ってくれたお兄ちゃんといっしょに生きたSB君は突然肺炎を起こしてその家庭から天に行ってしまった。支えを失った御両親はどうするのだろう。立っていられるだろうか。できれば、いやぜひお別れの会には行きたい。SB君としばしの別れをし、お母さんと共に泣こう。それが苦しかった担任時代を助けてくださったお母さんへのわたしのできる唯一の返礼だから。

お別れの式(12月1日)
SB君の告別式に行ってきた。妻が昨夜から咳がひどく、喘息のように続くので、もう出席は取りやめようと決意した。しかし、気丈な彼女は朝になって「大丈夫だから行こう」と言ってくれたのだ。
会場の彼の住まいしていた団地の集会室の玄関を入ると、壁にSB君が書いた絵が数点展示してあった。やさしい観賞用の植物を描いた絵もあった。そうだ、わたしはすっかり忘れていたが、中学一年生の作文では「忙しい一日」と題して、絵の教室に通っていることを書いていたっけ。こんな懐かしさを抱きながら部屋に入ると、御家族が見守る中、SB君は沢山の花の山のすそ野にお棺を用意されて眠っていた。
二年半ぶりに彼に接し、SB君がすっかり青年になっていることにわたしは気づかされ、またその顔の美しさに打たれた。白い布で覆われた献花台の上にお花を供え、お別れを告げたのだが、わたしはお母さんの意外に平静なお姿に安堵した。しかし、お母さんの姿は場面ごとに変わり、わたしの手を取って「育てていただいて有難うございます」と言う時になると目からは涙が溢れたし、わたしもこらえきれずに泣いた。そして「わたしこそどんなにSB君からいただいた物が多いことか分かりません」とお母さんにお伝えしたのだった。お父さんとも手を握って共にSB君の逝ったことを哀しんだ。お兄ちやんも以前に比べ丸くなった、人のよさそうな顔を涙でぬらしながらわたしと握手をしてくださった。
こうしてご挨拶を一通りして、外に出るとテント張りの休憩室の外側にはSB君の小さい時から現在に到るまでの写真や作文が並べられていた。小学校時代の作文には、お父さんは酔っ払って帰ってくるから入浴の介助はして欲しくありませんなどと書いてあったし、わたしが担任している時の作文も幾つか見られた。このように彼の記録を紹介してくださる御家族の行為はSB君の生涯を誇っているようにも思えてうれしい。
テントの周囲には中学部時代に一緒に過ごした友達やその親御さんたち、また電動車椅子サッカーの仲間たち、そのほかSB君に連なる人たちが献花を済ませて語らいの時を持っていた。皆、まだ若い青年たちである。
そうしているうちに一時近くなって、出棺が迫った。もう一度SB君にお別れをどうぞ、という案内で部屋に取って返し、SB君の納まっている棺をみんなでお花で満たしてあげた。わたしも、もう胸も顔の周りも花でいっぱいのそのなかにまた花を挿した。そしてSB君の顔と髪に触れて最後の別れを告げた。お母さんが、こらえきれなくなって、「Tちゃんありがとう」、「ありがとう」と言って鳴咽した。お母さんは一夜の間SB君の寝返りの世話を何度したことだろう。お母さんにとってトイレやお風呂のときの彼の体の重さはどんなにきつかったことだろうか。そんなふうに夜も昼も体の世話を受けなくてはいられないSB君だったのにその世話をしたお母さんが、「ありがとう、ありがとう」とお礼を言って、自分の息子と別れを悲しんだのだ。これは最後のお父さんの挨拶で解ることなのだが、どんなに世話になっても、苦労を掛けてもSB君はそれにも勝る喜びを御両親に与えていたのだった。「明朗、快活」と自分でも自己紹介をするSB君は例えば車椅子サッカーに夢中になって全国大会に出るようになったり、サッカー協会の組織作りに情熱を傾けたりして、自分の人生を生き切ったのだった。自分の子供がこうして喜びの人生を送っている、その姿を目の当たりにしてお母さんはきっと沢山の励ましをSB君からもらっていたのかもしれない。SB君はお母さんにとって喜びの存在だったのだろう。
気がつくと、部屋の中には徳永英明という歌手の≪Positions of Life≫が流れていた。SB君の一番好きな詩と曲だという。わたしにはまったくなじみのない歌手だ。ここでわたしは、わたしがかかわったSB君はもう五年も前のSB君であり、彼は今ではわたしの知らないSB君に成長してしまっているんだということを認めざるを得なかった。そしてそれは当然のことだとも思った。

最後にお父さんが会葬御礼の挨拶をしてくださった。お父さんの挨拶は悲しみに打ちひしがれるものではなく、SB君と生きたことを誇るものだったと言ってもよかった。地元の幼稚園から小学校に入り、五年生からは桐が丘で高等部まで過ごすことになったが、SB君はこの下赤塚の「ゆりの木北五号棟」が大好きだったと言う。だからここで皆とお別れの式が持てたことを喜んでおられた。また、桐ヶ丘を終ってからはチャリティープレート協会でパソコンの勉強をしていたのだが、ゆくゆくは自宅でその技能を生かして仕事をすることを夢見ていたともおっしゃった。しかし、先月体調を崩し、お母さんの心配を押して大阪で行われた全国車椅子サッカー大会に出て、ついに肺炎を起こすことになり、心不全で亡くなったとのことだ。お父さんもおっしゃったようにSB君は自分の性格を人に聞かれると、「明朗、快活」といつも言っていたのだが、その持ち前の明るさでどんなに人を元気づけたことだろう。お父さんは最後に、皆さんがTの生きた姿からなにかを受けとって下さったら嬉しいという意味のことをおっしゃって、挨拶を終えられた。
子供への愛と感謝に満たされたご挨拶であった。

すべて終わって天を仰ぐと空は澄んで、葉が少なくなった大きな木々が枝を真っ直ぐに伸ばしていた。
≪Positions of Life≫が大きな波のように空間を満たし、高層の住宅に囲まれたその一隅は何時の間にか美しい人間賛歌の場になっていることに気づいた。わたしは風邪の妻と共にこの式に参列できたことに感謝しながらSB君の棟に近く停めた自動車へと歩いて行った。


下別府 拓生君へ          2000年11月30日 有限会社 エルピダ 代表 中村 亮太 

突然、お別れの時が訪れてしまって、ビックリしています。
上手く気持ちの整理がつきません。
拓生君との出会いは電動サッカーの試合が在った王子の体育館でした。
1999年3月から電動車椅子を作ることを通して、拓生君とお母さんとの出会いがスタートしました。
私としても拓生君との出会いが
ユーザーの願いを少しでも形にしよう!可能性を引き出せるようにと、そのことに集中して一生懸命大改造に取り組んだ大きな節目となる仕事でした。
改造の仕事は、何度も工房にお母さんの運転で足を運んでもらって5月の全国大会の予選会にギリギリ間に合いました。
国立の障害者スポーツセンターまで試合を見に行きました。
試合は拓生君がゴールを決めて、PKも決めて大活躍でゴール電ファイアーズが勝利しました。お母さんも飛び上がって大喜びで・・・
この仕事に巡り合って、本当に良かったと思えた瞬間でした。
私も、そのような出会いに支えられて、この仕事で今年の5月に独立することになりました。
そして、今年の2000年は、予選突破できずに全国大会に行けなかった昨年の雪辱を果たして、堂々と予選突破して全国大会出場!本当に頑張りましたね。おめでとう!
そんな気持ちで一杯でした。
全国大会も終わって、来年の目標に向かってまた、頑張るんだろうなと思っていた矢先の出来事で・・・
本当に残念です。でも拓生君との出会いは私の人生にとって大きなものでした。肉体は誰も有限ですが、心は永遠です。君との出会いがもたらした志は私の心の中に生きつづけます。そして、障害者の夢を叶えてゆくでしょう!
出会えたこと、本当にありがとう。決して忘れません。
最後に、お母さん、本当にご苦労様でした。
素晴らしい親子です。これからの人生も拓生君の分も幸せに力強く生きて下さい。


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