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たいていの人は、うるさそうに無視するか、「知らぬ」と一言言っておのおのの仕事に戻ってしまうだろう。 歌の都 酒飲みカダフがこのあたりにいたのは、 カダフは南方の人で、馬貸しを商いとしていた。しかし、酒好きが高じてやがて各地の酒を扱うようになり、通りのなかばに立派な蔵を立て、使用人を働かせ、自分はひがな一日飲んでいた。 カダフの親は酒、兄弟は酒、友は酒、妻も酒、子も酒、と人々は噂した。 一人で飲むのにあきると、カダフは大きな体をゆすって中心街の大酒場にでかけていって、 「おれの酒蔵と100デナリウスとをかけて酒飲み勝負するやつはあるかあ」 と大音声を発した。 たいてい、酒自慢の旅人や兵隊、商人がこれにのった。 カダフは相手を自分の酒蔵の前に連れていってワインの大樽と二つの杯をならべ、通り中の観衆が見守る中で、飲み比べをした。 カダフは底無しだった。どんな酒自慢を相手にしようが、カダフは平気な顔で杯をあけていく。酒飲み勝負の相手はぶっ倒れるまで飲んで、100デナリウスを置いていき、カダフはまた新しい酒を仕入れた。 「ワインだろうが、ビールだろうが、 カダフは豪語した。 これを伝え聞いて腹を立てたのが、 アラゴンは闇の神デーノイーノバモスに生み出されて、酒の神ペール様の元で修行したこともあるという、齢六百歳にもなる酒の精。各地を放浪しては、弱き者を酒の道に引きずりこむのが、仕事だった。 アラゴンはぼろに身を包み、浮浪人のふりをして、聖ブリクス門から 今でこそ各地方からの輸送馬車がいきかい、瀟洒な問屋が立ち並ぶブリクス門周辺であるが、まだ戦中のこと。門もなく、しかつめらしい倉庫が並ぶばかりである。威勢のいいかけごえを上げながら南部からの物資を下ろす人夫たちを横目に、アラゴンはカダフの住む通りを北に向かった。 カダフ カダフ 酒飲みカダフ あんたの胃にゃ底がない 飲んで飲んで飲み尽くせ そしたら酒蔵また一つ増やせ 小さな酒場の前で歌う少年の首根っこを、アラゴンはふんづかまえた。 「やい、カダフはとやらどこにいる。連れてきて、このアラゴンさまと早々に勝負させろい!」 騒ぎを聞いて、通り中の人が集まってきた。最後にやってきたのが、当のカダフ。 「おい、やめとけやあ。おれはここにいるぞう」 カダフはでっぷりした腹をたたきながら、やせこけたアラゴンと向かい合った。どう見ても富豪と浮浪人。カダフの方がアラゴンより何十倍も貫禄があった。 「てめえがカダフか」 アラゴンは少年の首根っこを離して、ふんと笑った。 「明日正午、この場所で、このアラゴンさまと飲み比べだ」 「よかろう」 カダフは鷹揚にうなずいた。 「酒はまじりけなしのメルシアワイン」 「心得た」 「おれが勝ったら、神しかしらない秘蔵の酒の造り方を教えてやるよ」 「アム・デ・テーウスかあ!」 カダフの目が輝いた。カダフでさえ一度も飲んだことのない、純度が高く、火をつけると燃えるといわれる蒸留酒である。 「そのかわり、おれが勝ったら、この通りをもらう」 「この通りを?」 カダフはまゆをしかめた。 「ああ。てめえの小ぎれいな酒蔵なんぞ三日でたたきつぶされるような、うらぶれたきたねえ酒飲みたちが集まる、くら〜い通りにしてやるよ」 アラゴンはにやりとした。仮にも神を名乗ることもある酒の精だ。それくらいのことは平気でできる。 「おいカダフ!」 通りの人たちが、心配で声をかけた。 「なあに、おれが負けるわけないよ」 カダフはにっこり笑って、みんなの不安を打ち消した。 「明日正午だ」 アラゴンは、風のように去っていった。 夜。カダフは中心街の行きつけの酒場で、物憂げにビールをすすっていた。 いつも酒飲み勝負の前には心が浮き立つのに、今度に限っては、どうも心が晴れない。 そんなカダフの横に、黒マントを着た人物が腰をおろした。 「分が悪いぞ。カダフ」 女の声だった。夏の暑い夜だというのに、カダフは背筋がぞくりとした。いずれその女も神の世界に住む者に違いなかった。 「アラゴンは下級神といえども、錬磨の酒の精。たかが五十年も生きていないおまえが勝てるわけがない」 カダフは冷や汗を流した。いかに傲慢なカダフでも、自分が負けて通りがいいように汚されることを考えると、気が気ではなかった。近所の気のいい 「私が」 黒マントの女はふところに手を入れた。 「助けになるものをやろう」 小さな、黄色がかったガラスびん。カダフの目の前につつっとすべらせる。 「消酒酸」 はじめて聞く名前。カダフが手にとってかたむけると、中の液体がとろりと動く。 「 女は言い捨て、つと立っていった。 カダフは額の汗をぬぐうこともせず、その後ろ姿を見送った。マントの下の鮮やかな橙色の衣。透き通るように涼しげな目。酒の神ペールの母、化学の神ケームの妻、料理の神であるマアリに違いなかった。人の世に悪しき酒を蔓延させているアラゴンを疎ましく思っているのだ。 ――相手を消すなど……。 カダフは何とも言えないいやな感じを胸に抱いて、一夜を明かした。 近隣の会堂、神殿から正午の鐘が鳴り響く。 立ち会い人がどの樽にも異常がないことを確認して、勝負は始まった。大きな杯をまるで水を飲むように、いや、それよりも早くあおってはあけ、あおってはあけていくカダフ。これまでにも見たことのないような早さに、見物人たちは目をむいた。 しかし、アラゴンの飲みっぷりは、それをはるかに上回っていた。 両手に杯を持ち、カプカプと一口で食べるように酒を腹の中に入れていく。両脇に立って酒をつぐ助手が追いつかないほどの早さだ。 「ばかやろう! もっと早くつげねえのか!」 アラゴンの怒声が飛ぶ。 「――途中経過を申し上げます。カダフ二百九十五杯。……アラゴン六百三十五杯!」 おお、と観衆がざわめく。 「くくくっ、カダフどうした!」 アラゴンが笑う。 カダフは、限界が近いのを感じ始めていた。すでに一樽半のワインをあけている。そして、過去今までの勝負で、二樽以上飲んだ経験はなかった。 アラゴンがあけた樽は、三。さらに差は、じわじわと広がり始めている。 負けるのか。 カダフの体中から汗が滝のように吹き出している。この多量の汗でカダフは 「カダフ四百五杯、アラゴン、八百九十五杯!」 樽数でいえば、二対四。アラゴンがあと百五杯飲む前にカダフが五百九十五杯飲まなければ、負けである。 だめだ……。 カダフは絶望した。 目の前がゆがんで見える。 酔ったか……。 酔ったことなどないカダフには、新鮮な経験だった。 使うか? 心の中の声が問いかける。 消酒酸を。 どうする……。 このまま負けては、汚名を残すだけでなく、この通りをアラゴンの言うような飲んだくればかりのうらぶれた通りにしてしまうことになる。 カダフは、ぼうっとする頭で考えた。 時間が、止まっていた。本当に、止まっていた。 「考える時間をやっているのだ、人間よ」 声が、聞こえた。 頭にターバンを巻いた色の黒い、目の鋭い老人が立っていた。奇妙な幻惑を誘う模様の衣をまとっている。 酒の神ペール。 「愚かなる人間よ、おまえが酒に飲まれることはあっても、おまえが酒を飲み尽くすことなど、できない。さあ、決心して消酒酸を用いよ」 「アラゴンも、神ではありませんか……やつを消せとおっしゃるのですか」 「この六百年、やつのしたことは、悪しき酒の飲み方を全アウレシアに伝えたことのみ。もはや、天界に帰るときだ」 「……」 カダフは、震える足で立ち上がった。 日差しが、痛い。空気が、まとわりつく。本当に、時間は止まっている。 小瓶のふたをあけ、すべてをこれからカダフとアラゴンが飲む樽にそそぎこむ。 ふっと時が、動いた。 カダフは元の場所にいた。樽からつがれたワインが目の前に出てくる。カダフは思わずぐっとあけた。 機械的に飲み続けていたアラゴンは、その新しい樽から出てきたワインの匂いに、かすかに顔をしかめた。しかし、手は止まらなかった。 ぐぎゃあああ……。 この世のものとは思えぬ叫び声が、同時に響き渡った。 アラゴンは口をおさえた。火が、体内から燃え上がる。目から、鼻から、耳から、炎が吹き出す。やがて全身に火がついて、その姿はどんどん薄れていく。 「はかったな、神々のじじいどもが……おれはまだ、この ぶっ、とアラゴンの姿と声は、青白い火の中にかき消えた。 うおおおおお……。 まだ別の悲鳴が続いている。 長い年月、酒飲みカダフを支えてきた カダフは何度も何度も血を吐いた。むごたらしい風景に、人々は、目をおおった。 黒々とした頭が真っ白になり、でっぷりとした腹がやせていく。 そこに、一陣の白い風が吹いた。カダフの体が、その中に消えていく。 「医術の神トマスさま……」 だれもその姿をはっきりと見た者はいなかったが、人々は口々につぶやいた。 同時にまた強い風が吹き、酒飲みカダフの巨大な赤レンガの酒蔵が、ばらばらと崩れていった。 そしてカダフは、通りには二度と戻って来なかった。 「カダフ」 後に残ったのは、その名と、無事に守られた通りのみ。 人々はカダフを救い主として、その名を通りに冠した。 しかし人は増え、昔を知る者は少なくなり、今ではカダフが何者だったかを知る者は、誰もいない。 (予告なく、内容を変更することがあります。また、無断転載を禁じます) |