戻る
アウレシア雑記

1 竜都(トルティア)大宮殿

著 (パピリオン)


 栄光(アウレシア)帝国の第一人者であり、工芸(ディクス)神の後継者である皇帝陛下がいまし、この大陸をささげられた工芸(ディクス)神が祭られる大神殿をかねる大宮殿。山のような灰色のその威容を轟かせる大宮殿。五百年の時をかけてつみあげられ、五百年前に完成したその大宮殿の堅固な玄武岩の壁に、五(センチ)に満たない、なれど明確な傷痕があることを知る者は、少ない。
 竜都(トルティア)に行ったならば、その大宮殿の南東隅から、西へ向かって百歩歩き、やや上目に顔を上げよ。そこに人は、白くかすかにえぐれた小さな石の傷を見るであろう。

 栄光(アウレシア)帝国暦350年当時、大宮殿を巡る道には市も立ち、今よりもはるかに活気にあふれていた。大宮殿北側の壁は、まだ完成していなかった。
 その北側の低い壁の通用門から、忍ぶようにすばやく出てきた緑衣の男。門番の「はて」と思う間もなく、男は黄昏どきの暗さに紛れて見えなくなる。
 ――半刻(一時間)ほどのち。大宮殿南東角のその場所に。すでに昼間群れをなしていた商人たちは姿を消し、暮れ落ちた日の光を追うように走る最後の商い馬車のその後ろ。懐手しながら、緑衣の男は寒そうに歩いていた。
「そろそろか」
 つぶやき、三丈(十メートル)を優に越える、大宮殿の高い壁に、そっと身をもたせかける。
 闇が訪れた。大宮殿の周囲には、今でさえ街灯が立っていない。夜は、早い。
 キン!……パシッ。
 前方から。石がくだけるような音が、聞こえてきた。
「そこかっ」
 シャッと男は腰の剣を抜くと、走った。
 高い壁にはりつくような小さな影。闇にぎらりと光る短刀、星に似たかすかな目の光。
「おりろ、そこへなおれ!」
 男は剣を突きつけた。
 影は聞かず、短刀を壁にたたきつけた。
 キン! バッと火花が散って、パシッ、と石のかけらが飛び散った。
「おのれ!」
 男が剣を振り下ろすと、影はとんぼを切って地に降り立った。
 ぎろりと、暗く光る目が男をにらみつける。
 闇に浮かぶその姿は小さく、男の腰ぐらいまでしかないようだった。
「われこそは栄光(アウレシア)帝国第八代皇帝アレクサス・オルソトス・ダンガ! 夜な夜なわが大宮殿を傷つける不逞の輩め! 皇帝自らが調べに参った! そこへ直って名を名乗れ!」
 フッ。
 かすかに笑う相手の声を聞いて、緑色の衣の皇帝、後に炎の征服者として知られるアレクサスは逆上した。
「答えねば、たたっきる!」
 アレクサスの一の太刀は空を切った。
「われに伝承の宝玉を破壊されたウェルー人か! それとも王を処刑されたミンディア人か!」
 わめくアレクサスの剣を転がるようにしてよけていく。
「自治権を取り上げられたハルシアの貴族か? わが軍と戦い、一族がことごとく戦死したオルソトスのカナイ族か?」
 問いながらアレクサスが次々繰り出す二の太刀、三の太刀を影はゆらり、ゆらりとかわした。
 そのとき雲が晴れ、かすかな月の光が相手の横顔を照らした。目はするどく、顔は剛毛に覆われ、口が耳まで避けている。
「もしやイキリアの獣人、レニ族?」
 アレクサスは驚きの声を上げた。穴居して群をなし、アウレシア帝国軍を苦しめる剽悍な部族。しかし、はるか南方で現在戦っている相手が、こんなところにいるだろうか。
「えいっ!」
 次のアレクサスの神速の一撃は、あやまたず獣人の胸をつらぬいた。
「皇帝……」
 はじめて獣人が言葉をしゃべった。
「われ人にあらず。クレド丘最後のムカシネズミなり。初代皇帝ハイラルスわれらがこの丘で住むを認むるも、やがて約定破らるる。去る年この大壁、われらが住まいの最後の一穴を埋め、われらついに死に絶える。これを恨み、人の姿を取りて壁を崩さんとすれども、ここに皇帝にとどめをささるるは、痛恨の極みなり」
 最後のムカシネズミが、く、とうなると、その体は雲散霧消し、あとには何も残らなかった。
 アレクサスは、幼少のころ、石畳のしきつめられた大宮殿の中庭で、どこからともなく現れた愛らしい顔をしたムカシネズミを見かけて追いかけたことを思い出した。
 この大宮殿がクレド丘と呼ばれる丘だったはるか昔からここに住んでいたムカシネズミの一族が滅んだことを痛み、アレクサスはここに小さな碑を立てた。北方人大侵入によりこの碑は失われたが、最後のムカシネズミの精が穴を開けようとした壁の傷痕は、今でもここに残っている。

(予告なく、内容を変更することがあります。また、無断転載を禁じます)