西オーストラリアってどんなとこ
2001年2月   


ウエスタンオーストラリアの特徴 

 ウエスタンオーストラリア州は、通称WAと略されます。 オーストラリアで一番大きな州で、土地によって 様々な特徴を見せます。
 パースのような都会的な街もあれば ゴーストタウンと化したゴールドラッシュ時代の街もあり、 キンバリーのような荒野もあれば、ナラボーのような圧倒的な 平原もあります。サウスウェストのような森林もあれば、赤茶けた 土剥き出しの不毛の土地もあり、断崖絶壁の海岸もあれば、 真っ白な鳴き砂のビーチもあるといった具合です。
  シドニーやメルボルンといった東側の都市とは、砂漠や山脈で隔てられ、 一つの国のように違った特徴を持ちます。実際にパースなどからは、 東海岸に行くよりも安く東南アジアへ出かけることができます。
DATA
面積:2525500sqkm(オーストラリアの3分の1を占める。)参考、日本の面積約380000sqkm
最高地点:標高1245m(Mt.MeHarry)、最高落差の滝;80m(King George falls)、最長川:760km(the Gascoyne)
人口:180万人(138万人が州都パースに住む)

ウエスタンオーストラリアの歴史

アボリジニの起原
 アボリジニがオーストラリア北岸に住み始めたのは、60000 年前頃と考えられています。その頃は海面が低く、現在は海底 になっている大陸棚がかなり露出していたそうです。このことから、アボリジニが東南アジアからやって来て 海面の上昇とともに、大陸に隔離されたと考えられています。 そうであれば、アボリジニはオーストラリア北岸から、タスマニア島に まで活動地域を広げたことになります。
  西オーストラリア各地にもアボリジニの集落がありました。 彼らは、ヨーロッパ人の植民と共に迫害を受け、現在でも差別が 無くなったとはいえないようです。

アボリジニと外国人との接触 
 アボリジニの人々が最初に、接触した外国人は、ヨーロッパ人と考えられ がちですが、現インドネシアの貿易商人たちでした。しかし、影響を与えたのは限られた沿岸部のみでした。
  15世紀、インド洋を渡って貿易活動をしていたポルトガル人が最初に 西オーストラリアを見たヨーロッパ人かもしれません。 1600年代初頭にはオランダ人が西オーストラリアに上陸したという 記録が残っています。1622年にはイギリス人も沿岸にやってきます。 1700年代にはフランス人もやって来るようになり、オーストラリアの 地形も明かにされていきます。
植民地化
  1770年にはクックによりオーストラリア東南岸の領有が宣言され、 1829年には西オーストラリアの領有も宣言されます。
  植民地化の際に、西オーストラリアでも地元のアボリジニとの 対立が起こり、たくさんのアボリジニが殺されたそうです。
  WAに住んでいたアボリジニは狩猟と採集をもとに遊牧生活を 行っていました。パースのスワン川流域にも土着のアボリジニ たちが英国の植民地化以前から生活を営んでいました。 植民者はカンガルーなど、アボリジニにとっての食料資源を殺し、かわりに牧畜を行いました。
  アボリジニたちはヨーロッパ人のやり方が盗みに相当すると感じ、植民者 との関係は泥沼化してしまいます。 パース近辺でのアボリジニの抵抗は組織化されるようになり、 1834年10月には抗争がおこり、たくさんの人々 が殺されてしまいます。
 
  1850年代、西オーストラリアでも流刑者たちがパースやフリーマントルといった町に連れて来られ公共建物や、道路建設 などに携わりました。

シンデレラ植民地
  もともと、西海岸の植民地は東海岸に比べ、貧しいところでしたが 探検家たちが、西オーストラリアの地形をあきらかにし、植民できる 地区には道路や、鉄道、電話が建設されました。 1877年にはロンドン、アデレードへ電信することができるように なります。

ゴールドラッシュ
  1880年代数々の、金鉱脈がWA内で発見され、人口増と経済力を もたらします。ただし鉱脈の枯渇した都市はゴーストタウンと化し、 現在、他都市と違った趣をみせています。中にはかつて人口、数千人規模、鉄道もしかれた街が、全くの砂漠になってしまっているところもあります。

連邦制
 金の発見は、WAに富をもたらし、ひとり立ちを可能にしました。
 WAの人々は連邦制がしかれた場合、東海岸が、遠く離れた西側を、相手にするのか疑っていました。 しかし、連邦加入の投票が行われたとき、東から来た多数の金採掘者たちが それを支持したのです。
  その後のデフレ不況などを経験する中、1930年代、連邦離脱議論が巻き起こりました。 1930年の投票では連邦離脱支持が大多数を占めますが、実現しませんでした。
  WAには連邦法のもとで合法的に連邦離脱する権利がなかったからです。 しかし、この投票は連邦に対して重大な意思表示にはなったようです。

戦争、戦後
  西オーストラリア北岸の町は、日本軍に爆撃され、死者を出しています。 当時、日本軍に対して多くのオーストラリア人が恐怖を抱いていました。 この記憶は今でも忘れ去られたわけではなく、私が訪れた時期にも、 TVニュースで爆撃を受けた何周年かの式典の模様が流されていました。
  戦後、鉄鋼資源の発見などを機に発展し、日本との関わりも深くなっています。

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