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vol.30


口の中の空洞


         奥野 雅子

   1   
  
  
顔を洗ったあと
歯をみがこうとくちびるを開くと
歯が抜けてた
下の歯が二本
上の歯が三本
 
いやだ、こんな歯じゃ
朝ごはんのトーストが食べられない と
ヨーグルトをすする
こんな顔で学校に行ったら
 
みんなに笑われるよね。
私にしつこく問いつめられても
「いいから、とにかく学校に行ってらっしゃい」
としか、家族は答えようがない
 
凍えるような朝
私は帽子をかぶって
今日は一日、なるべく口をあけないですみますように、と
心のなかで唱える
学校が終わったらとにかく
歯医者に行かなくちゃ
 
石だたみの寒い路上には
牛乳をあたためた湯気が
あふれている
 
ダッフルコートにつつまれて歩く私の
前後を靴音がいそぎ過ぎる
 
街灯の背後に息をひそめて
坂沿いにつづく家々の中
いま 何人の人が
ホット・ミルクを飲みながら
朝ごはんを食べているだろう
 
うわの空の私の
眠たいような気持ちが
路上にぐずぐずとひきとめる
 
こんなことしてないで
はやく電車に乗って
授業を受けなくちゃ
 
黄色い市電が路面をこちらに向かって
視界いっぱいにひろがってくるのを
待ちうけながら
私は
 
歯が抜ける夢って
確か
悪い意味があったことを思い出している
 
建物の輪郭がくっきりと
ふぞろいなラインで
浮かびあがる
切りとられた青空
 
家々の梁を突き上げて
街灯は
灰色の空洞を抱える
  
 
   2
 
 
揺れる吊り革につかまって ときおり
倒れそうになりながら
 
太陽の光が
淡く
ぱらぱらと 窓の枠にろ過されて
落ちる のをながめている
 
目の前の座席が
いつもよりちいさく感じるのは
口の中にちいさな
空洞があるせいか
 
口もとを手でさわる
私に
髪を薔薇色のスカーフでおおった
となりのマダムが
「伏せて」
と言った
 
不意に
 
床の空白に
倒れこむ
 
激しく
音が散った
 
機関銃
 
黄色い車両が
不自然な場所に停止する
 
迷彩色の人々がとびこんでくる
マダムと二人で非常口に体ごとぶつかって
とびだした
 
路地にもぐりこんで
そこからはたぶんひとりで
ひた走る
 
とにかく
脇の水路にとびこめば
助かるだろう
 
歯医者には行けない
 
あのアーチのところに階段がある
そこまで
たどりつければ
水路にとびこまなくても
 
階段を駆けおりて
 
汚れた水が
きらきらと
呼吸する
 
水路わきを走りながら
 
しばらくは
歯医者に行けそうにない
 
アレ、
見たことのない木の船が
水路をいそぐ
ながれる木の葉のように
見なれない家族連れの人々をのせて
 
 
難破船を
いましがた脱出したかのように
流れていく
 
そもそも
ここは
どこの国なのか
 
きょうの朝とつぜん
分からなくなってしまった
 
街は
水路の上方にそびえたち
さっきより倍の高さで
大きく
膨れあがっている
 
私は
はげしく
息切れしながら
 
前方に見つけた
薔薇色のスカーフのマダムに
追いつこうとしている
 
朝焼けのように
薔薇色が
美しく目の前に焼き付いて
燃えあがる

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