禅問答とは何か
禅問答とは、公案(こうあん)とも呼ばれる、悟りを開くための修行法のひとつで、ひらたくいえば「なぞなぞ」であり「とんち」である。しかし、このなぞなぞは、論理的思考では決して解けないような矛盾や不合理なものとなっている。にもかかわらず、このなぞなぞをひたすら何年も考え続けると、ついには論理の壁を破って「解答」がわかるときがくる。そのときに、悟りが開かれるといわれる。というのも、悟りは論理的思考を越えた、換言すれば、二元的思考を越えた一元的な意識の領域に属するからである。
私たちも、こうしたなぞなぞ、公案を考えることによって、悟りとまではいかなくても、人生のさまざまな問題や悩みに遭遇したときに、それらを解決する名案を得るための、頭の体操には十分になることだろう。なぜなら、人生は不条理に満ちており、その問題も、あれか、これか、という二元的な選択ではどうしようもないようなことが多いからである。

も く じ
禅とは何か/禅の根本思想 第9問「不安な心」
第0問「慧能の逆説」 第10問「一切を捨てる」
第1問「瓦を磨く」 第11問「瓶と呼ばず」
第2問「犬の仏性」 第12問「柏の木」
第3問「仏の道」 第13問「野鴨」
第4問「仏教の根本」 第14問「糞かきベラ」
第5問「太鼓を叩く」 第15問「一本の指」
第6問「南泉の猫」 第16問「枯れた木」
第7問「風になびく旗」 第17問「仏法の奇特」
第8問「窓を過ぎる牛」 第18問「無言の説法」
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禅とは何か
釈尊の思想を継承したダルマ大師が、インドから中国に伝え、その後、六代目の慧能によって確立されたのが禅である。それを日本に伝えたのが道元と栄西で、前者は曹洞宗、後者は臨済宗となった。公案と呼ばれる禅問答は、主に臨済宗で行われている。
公案は、悟りの妨げとなっている理屈、分別知、観念を打破することを目的とした質問である。そのため、いくら理屈、つまり論理で考えても解答は出ない。ある禅師は次のように述べている。
「公案は頭で考えてわかるものではない。自らの人生経験を体験して、その工夫から出たものでなくてはならない。理性や、感性を越えたところから出てくるもので、全身全霊で打ち込まねばならない。ここをあえて名づけるならば、霊性的自覚といえようか」
●禅の根本思想
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不立文字(ふりゅうもんじ) 教外別伝(きょうげべつでん)
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悟りの境地は文字で表現できない。 悟りの境地は以心伝心で伝えられる。
二元的論理思考を越えた純粋経験である。 説法はそのための媒体にすぎない。
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直指人心(じきしにんしん) 見性成仏(けんしょうじょうぶつ)
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悟りの境地は、直知として認識される。 悟りの境地は自己の仏性に目覚めること。
観念を通さずに真理は示される。 成仏とは真の自己を取り戻すこと。
第0問「慧能の逆説」
禅を確立した大鑑慧能(だいかんえのう)はいった。
「長時間座禅をして、心をひとつのことに集中させるというのは、禅病であって本物の禅ではない。ひとつのことに集中しようとすることは執着なのだ。心は動くようにできている。ひとつのことに執着しないからこそ、自由な境地でいられるのだ」
では、何によって悟りを開くのか?
「座禅ではなく、心によって悟りを開くのである。だから、迷う心に悟りなど開けるはずがない。まして、座禅が禅の目的などではないのだ」
だが、われわれは、迷うからこそ悟りを開きたいと思う。そのために座禅をする。
しかし慧能はいう。迷うから悟りが開けないのだと。座禅では、悟りなど開けないのだと。座禅ではなく、(迷わない)心によって悟りを開くのだと。
だが「迷わない心」とは、すでに悟っているということである。
こうなると、どうどう巡りである。座禅ではなく、迷わない心で悟るというが、迷わない心とは、悟っているということだ。
ならば、いったいどうすればいいのか?
第0問に対する私の考え方
→禅の開祖が「座禅では悟りは開けない」といっているのである。ご存じだったであろうか。これは実に意外な言葉である。禅といえば座禅。座禅によって悟りを開くと思っていたのだが、そうではないといっているのだ。
ならば、座禅は何のためにやっているのだろうか?
実は、この「何のために」という問いかけそのものが「迷い」なのである。
「何かのために何かをしなければならない」という発想そのものが、迷いの根源なのだ。私たちは、目的とするものを手に入れようとして、どうしようかと迷う。あらゆる方法や手段を考える。
だが、悟りとは、迷わない心そのものなのであるから、目的とするもの、それが悟りであれ何であれ、それを得ようとして手段を講じるときにはすでに、迷いがあるということであり、そのような迷う心でいくら修行しても、結局は迷いのままになってしまう。つまり、悟りは、迷いの延長線上にはないということである。
したがって、もしも悟りを開きたければ、最初から迷わない道を歩むこと、すなわち、悟りを目的として、その手段として座禅をするという方法論の発想を捨てなければならないのだ。
では、迷わない道とは、どのような道であろうか。
それは、悟りを目的にしない道である。座禅を、悟りを開くための手段にしない道である。何の手段にもしないことである。
ならば、再び同じ質問に戻ってしまう。座禅は何のためにするのかと?
何のためでもない。座禅なんかやったって、何の役にも立ちはしない。
では、あなたは、何の役にも立たない行為は、いっさいしないだろうか?
あなたの人生の行動のすべては、何かの役に立つための手段なのであろうか。あなたの人生の中に、何の役にも立たないけれども、しかし、にもかかわらず、それをやるという行為は、ないだろうか?
もしも、そのような行為があるなら、どうか振り返ってみていただきたい。その行為をしている最中に、「迷い」はあるかと。
座禅とは、迷いのない心境そのものの表現行為に他ならない。決して、何かを得るための「訓練」ではないのだ。
第1問「瓦を磨く」
馬祖道一(ばそどういつ)は毎日座禅ばかりしていた。
そこへ師匠である南嶽懐譲(なんがくえじょう)がきていった。
「何のために座禅をしているのだ」
「仏になるためです」
すると南嶽は、落ちていた瓦を拾って磨き始めた。
「師よ、何をなさっているのですか?」
「瓦を磨いて、鏡にしようとしておる」
「瓦を磨いても、鏡になるわけないではありませんか」
「ならば聞くが、座禅をして仏になるのか?」
「同じことなのですか?」
「牛車が動かなくなったとき、おまえは牛を打つのか、車を打つのか」
−宗門葛藤集−
第1問に対する私の考え方
言い忘れたが、公案には、実は正解というものはない。正解らしきものを載せたものはあるが、それは本来の禅のあり方とは違っている。もしも正解があったら、本当に公案は単なるなぞなぞであり、「頭の体操」でしかなくなってしまう。
公案は師匠によって授けられるが、その解答がどのようなものであっても、その弟子が悟りを開いたと思われれば、その解答は「正解」になる。たとえば、「犬にも仏性はあるか?」という公案に対して、ある弟子は「ある」と答え、別の弟子は「ない」と答えたが、どちらも正解であるとした例もある。
大切なのは、解答そのものではなく、その解答がどのような心境から発せられたものか、ということなのであろう。
以上を念頭においた上で、私の考え方をご紹介してみたいと思う。
さて、第1問は、第0問と、基本的には同じ種類の質問である。
「牛車が動かなくなったとき、おまえは牛を打つのか、車を打つのか」
当然、打たなければならないのは、牛の方であって、車ではない。つまり、本末転倒していることをいっているわけだ。同じように、座禅をするから仏になるのではない。仏であるから座禅をするのである。
仏になるために座禅をする人は、今の自分を否定して、「仏」という別の存在になろうとしている。だが、人間の本質はすべて仏性なのだ。だから、自分を否定するということは、すなわち仏性を否定しているということになる。つまり、仏になろうとしている人は、皮肉にも、仏性を否定しているのである。これでは、いつまでたっても悟りなど開けるはずはない。
座禅は、仏になるための手段や方法ではなく、すでに仏そのものの姿の実証である。座禅とは、自らの仏性を表現した、ひとつのあり方なのだ。
だから、座禅は悟りを開くために行うのではない。仏性という、本来の姿をただ存在せしめているだけのことだ。だから、座禅は、何の目的もなく、ただ行うのである。あたかも呼吸をするような当然のこととして、それを行うのだ。
ところが、ここで大きな落とし穴というか、錯覚に落ち込む罠がある。それは、座禅の格好をしているだけで、すでに自分は悟りを開いたのだと思いこんでしまうことだ。こうなると、幻想と自己満足の世界に落ち込んでしまう。人は、自分が悟りを開いていると思いこみたがる。高慢の罠がそこに潜んでいる。たぬきに化かされるように、悟りの夢を見てしまうのだ。これが「野狐禅」といわれるものである。「私は悟りを開いた」などといっている人のほとんどは、野狐禅であると思って間違いはない。
なぜなら、仏性にはエゴはないからだ。エゴとは、自他を差別し自分を優越的な立場に置く衝動である。悟りを開いた人にエゴはない。自分という意識はない。つまり、そこには真の意味で「愛」がある。そして、真に愛する人は、自分が愛していると意識してはいない。ただ愛する行為そのものに我を忘れている。そして「私は愛している」とはいわない。愛とは自他の区別なき一体感である。「私は」という言葉が使われることはないのだ。同じように、「私は悟りを開いた」という人は、悟りを開いてはいない。悟りを開いていれば、そこに「私」は存在しないからである。
座禅は、この「私」の存在しない姿の表現である。「私は仏になるために修行するのだ」という思いでいくら座禅をしても、それはまったく座禅にはなっていないのである。
第2問「犬の仏性」
ある僧が、趙州(じょうしゅう)和尚に尋ねた。
「犬のようなものにも、仏性(仏の性質)がありますか?」
「ない」
「なぜないのですか?」
「自分に仏性があることを知らないからだ」
−無門関−
第2問に対する私の考え方
この公案の内容は、すぐに自己矛盾を抱えていることがわかるだろう。すなわち、犬には仏性はないといいながら、最後の節では「ある」といっている。では、なぜないというのかといえば、その自覚がないからだという。
これは、本当は仏性はあるのだが、ないと思っているので、「ないのと同じ」という意味なのだろうか?
禅では、あまりこうした心理的な解釈はしないとみてよい。つまり「仏性はあるのだが、ないと錯覚している」というような意味ではない。もっと純然たる厳しい解釈をする。すなわち、仏性の自覚をもたないと、本当に仏性は存在しないのである。このことは、仏性というものは、観測されたときに素粒子が存在するという、量子力学のミステリーを思わせる性質であることを示している。いわば、仏性とは、「自己の本性の自覚」そのものである。
量子力学において、観測されるまで素粒子の存在が特定できないという理由は、測定されるまで波動的な状態として散らばっているからで、観測されたときに、その波動が収束して観測された位置に物質化するからである(この記述は厳密には少し正確さを欠くが)。
仏性も同じく、森羅万象、あらゆる生命にあまねく存在しているのであるが、それは喩えるなら「波動」的な状態としてであって、実体をもった存在としてではない。だから、それは、通常、私たちが「ある」というように定義できるような状態ではない。
たとえば、この空間には音楽が電波という形で(物理的にいえば)存在している。しかし、音楽が本当に存在するのだといえるためには、ある一定の地点で、その存在を示す現象が観測されたときである。たとえばラジオのスイッチをつけて電波を受信し、音の振動を耳にしたときである。なぜなら、音楽とはあくまでも音の振動だからである。いくら電波として空間に存在しているとしても、それが音として鳴らされない限り、音楽は存在していないのである。
そして、それが音とし鳴らされるとき(存在するとき)とは、ラジオなどで“観測されたとき”なのだ。したがって、音楽は観測されるまで存在していないのである。
仏性も同じである。自分には仏性があるのだと本当に自覚しなければ、仏性は存在しない。
つまり、悟りとは、仏性を「観測」することなのである。
第3問「仏の道」
趙州が修行中に、師の南泉(なんぜん)に尋ねた。
「仏の道とは何でしょうか」
「平常心(普段の心)が道である」
「では、平常心が目標なのですね」
「いや、目標ではない」
「目標でないなら、どうやって道を求めるのですか」
「道というのは、求めるとか求めないといった問題ではないのだ」
−無門関−
第3問に対する私の考え方
この公案も、今まで見てきた一連のものと、内容的には共通した暗示を秘めている。すなわち、目的と手段という、二元的なアプローチへの否定である。
趙州は、仏教の修行、すなわち「道」が、何かを得るための手段であると考えている。平常心の獲得を目標として、そのための手段が道であると考えている。だから、平常心を得るためには、その手段である道を求めなければならないと考えている。ところが師匠の南泉は、平常心は目標ではないというのである。道とは、求めるとか、求めないとか、そういった問題ではないといっているのだ。これは、いったいどういう意味なのだろうか?
古代ギリシアのある哲人が述べたパラドックスの話を引用しよう。有名な「アキレスと亀」である。足の速いことで知られるアキレスは、亀とかけっこをしても、決して追いつくことができないというのである。屁理屈なのだが、内容はこうだ。百メートル先に亀がいるとしよう。アキレスは、その亀がいる地点をめざして猛スピードで走り出す。だが、アキレスがその地点についたときには、亀もゆっくりとではあるが進んでいるので、彼よりも少し前のところにいる。そこで再び、アキレスは亀がいるその地点をめざして走るが、そこに到達するまでには多少の時間はかかっているので、亀はその時間だけ前に進むことになる。こういうわけで、決してアキレスは亀に追いつけないというのである。
現実には、このようなことはあり得ないのだが、この説明だけを聞くと、何となくもっともらしく感じられる。この理屈の、いったいどこがおかしいのであろうか?
それは、アキレスが、亀を目標にしているからである。走り出す時点における、亀のいる位置を目標にしているからだ。何も、亀を目標にする必要はないのであって、亀の存在など気にせず走り続ければ、亀を追い越すことができるのである。だが、アキレスは亀を目標にしているので、亀を追い越すことはできない。
同じように、平常心を目標にしたら、いつまでたっても平常心は「目標」であり続け、決して平常心を自分のものとすることはできない。
平常心への道というものを、二つの点を結ぶ直線的な概念で認識すると誤りをおかす。平常心はすごろくのゴールではない。平常心そのものが「道」なのである。つまり、道は“求めるもの”ではなく、“歩むもの”なのである。
いまこの時、この場所おいて、平常心で生きること、それが道なのである。求めるとか、求めないという問題ではないのだ。
だが、このようにいうと、次のような疑問が出てくるに違いない。
「そんなこといったって、現実には平常心なんかになれない」
その通りである。だが、なぜ平常心になれないのだろうか?
それは、「平常心になれない」という思いにとらわれているからである。
本当の平常心とは、平常心になれなくても平常でいられる心なのだ。平常心でいられなくても、それをどうにかしようとあがくことなく、平常心ではない心を受け入れる心なのである。
だが、それでもなお、続けて、次のように怒るかもしれない。
「そうなれないから苦労するのではないか!」と。
それに対して、禅の師匠はこういうに違いない。
「なら、苦労しなさい。平常心になろうとするのをやめさない・・・」
第4問「仏教の根本」
入門したての僧が、趙州和尚に尋ねた。
「私は、修行に入ったばかりの者です。どうか、仏教の根本を教えてください」
「朝の食事は終わったのか。まだか」
「はい、食べ終わりました」
「それならば、自分の茶碗を洗いなさい」
−無門関−
第4問に対する私の考え方
「仏教の根本を教えてください」と質問する新参の弟子に対して、まるでその質問を無視するかのように、朝食は済んだのかどうかと師匠が尋ねている。これは禅に特有の、観念的な心像をうち破るための直裁的なアプローチである。
この公案について、ある人は、これは象徴的な比喩だと解釈している。すなわち、食事で汚れた茶碗とは、この世の煩悩のたとえで、その煩悩を洗い流すことが仏教の根本なのであると、こういいたかったというのだ。
しかしながら、禅の世界では、こうした詩的なたとえで教えを説くことは、あまりしない。確かにたとえを用いることで、相手に微妙な感覚や強い印象を与えることはできる。けれども、しょせんは「仏教の根本とはこうだ」という知識を与えていることにかわりはなく、それならば、何もたとえを用いなくても、直接的に説明してもたいした違いはない。
仏教の根本とは、「生きる」ということである。頭で知識や理論をもてあそぶことではない。どこまでも、どこまでも、この現実のリアルな世界にしっかりと足をつけて、真剣に生きるということが、仏教の根本である。
ここでは、「仏教学」と「仏教」とは違うということを、よく知らなければならない。禅は学問ではなく、その生きざまである。仏教を学問としてとらえれば、その根本はもちろん、煩悩からの解脱ということになろう。だが、そのような知識など、仮にも仏教に入門してこようとする者であるならば、常識以前の問題としてわかっている。そのわかりきったことを、直接的にであれ、たとえであれ、答えるような師匠であれば、しようもない凡クラ坊主だということになるだろう。
寺は、学問を学ぶ場所ではない。寺はそこで仏教の根本を表現する場所である。人々が悟りを開かないのは、頭の観念で人生を生きているからである。いわば、虚妄の人生を生きているからで、本当に生きているのではないのが原因である。だから、真の仏教修行では、とにかく真実に生きるということをめざすのであり、師匠もそのことを弟子に課していく。
食事が終わったら、茶碗を洗うのが当然であり、それが「生きる」ということである。それは、高邁な仏教理論で頭がいっぱいな者にとっては、まるでつまらない平凡な作業に思えるかもしれないが、いくら高尚なことを考えていても、それは実在しない幻想にすぎない。食事をしたら茶碗を洗うという作業は、いくら平凡な作業であっても、現実であり、真実である。
頭の中で、あれこれ理屈を考えながら、うわのそらで茶碗を洗っていても、それは本当の真実の生き方ではない。これは、新参の弟子が陥りがちな傾向である。そのことを、師匠は戒めるように、いかなるたとえを用いることなく、観念の説明でもなく、きわめてダイレクトに、新参の弟子に対して、足下を見つめることが仏教の根本であることを示したのである。
ならば、読者の中には、私がいま説明したように、親切に教えてくれればいいじゃないかと思う人がいるかもしれない。妙に気取ったような、理解できないような指示を与える必要はないじゃないかと。
だが、もしも今、私が説明したような説明をしてしまうならば、これは観念の説明となってしまうのだ。その弟子は、なるほど食事の後に茶碗を洗うであろうが、その行為をするときには「この行為は、地に足をつけて真実を生きるということなのだ」という理屈で頭がいっぱいになるであろう。これでは、本当に地に足をつけて真実に生きていることにはならない。「茶碗を洗っている」ことにならないのだ。単に、観念におどらされて、茶碗を洗っている「演技」をしているにすぎない。
本当に茶碗を洗うとは、ただ茶碗を洗うことである。食事の後に茶碗を洗うこと、そのことだけに気持ちを向けて生きること、そのものなのだ。
だから、まわりくどい説明はしないのである。決して、もったいぶっているわけでも、また気取っているわけでもないのだ。
第5問「太鼓を叩く」
ある僧が禾山(かさん)和尚に尋ねた。
「悟りを本当に得るとは、どんなことですか」
禾山は、ただこう答えた。
「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
「ならば、最高にありがたいものとは」
「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
−碧巌録−
第5問に対する私の考え方
結局、どのような質問を受けても、師匠は同じことしかいっていない。「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」だけである。最初の質問はこうだ。「悟りを本当に得るとは、どんなことか?」。これに対して「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」と答えている。
いったい、太鼓を叩くと、どのような音が出るのだろうか。それは「ドンドン、ドドン」である。つまり、師匠は当たり前のことをいっているのだ。
この公案も、前回の公案と本質的には相通じている。やはり、この場合も、ある種の比喩を説いているのだと考えたくなるが、そうではない。すなわち、「太鼓」とは「仏法」のことであり、太鼓を叩くとドンドンと音がするように、仏法を行ずれば、まさにその通りの結果が出る、功徳を得られるぞといった比喩である。
だが、このようなまわりくどい説明は、たとえそれが比喩であろうとそうでなかろうと、禅ではやらない。それでは観念の説明になってしまうからだ。餅を絵に描いて説明するようなことはしない。禅では、ストレートに真実を目の前に示す。餅そのものを目の前に差し出して「これが餅だ」というのである。
そして、それに対して感応することのできる資質をもった弟子だけが、あるいは、そこまで修行を積んで準備のできた弟子だけが、師匠の示す直裁的な指示によって悟りを開くことができる。
悟りとは、当たり前のことを、当たり前のこととして、ありのままに認識する心以外の何者でもない。ところが私たちは、主観的な観念や思考などにがんじがらめにされ、物事を、そのありのままに、直接的に把握することができない。どうしても、理論や理屈、偏見などによって、いわば「間接的に」しか認識できない。換言すれば「翻訳」してしまうのである。
けれども、太鼓を叩けばドンドン、ドドンと音がするのだ。いったい、それ以外の、いかなる解釈があるというのか?「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」といわれても、いったい、これより他に、どういえばいいのか? いくら相手がどんなに偉い人であっても、他に何といえばいいのか?
いかなる翻訳をすることなく、ありのままを、ありのままに認識することが、悟りを本当に得るということなのだから。悟りを開いた心には、太鼓を叩けばドンドン、ドドンと響くのである。
「悟りを開いていなくても、太鼓を叩けばドンドン、ドドンと聞こえますよ」
このようにいわれるかもしれない。
確かに。だが、本当にドンドン、ドドンという「音」など聞いていない。私たちはただ、「ドンドン、ドドン」という「言葉」を聞いているに過ぎない。しかし「言葉」は、音そのものではないのだ。
第6問「南泉の猫」
南泉の弟子たちが、一匹の猫をはさんで
「これはわれわれの猫だ」「いや、こちらの猫だ」と言い争っていた。
そこへ現れた南泉和尚は、猫の首をつかむと、それを突き出していった。
「いまこのときに、仏の道にかなう言葉を発すれば猫は斬らない。さもなければ、この猫は斬って捨てる。さあ、どうだ!」
だが、だれも答えられる者はなかったので、猫を切り捨ててしまった。
夕刻になり高弟の趙州が帰ってくると、お前ならどう答えたかと迫った。
すると趙州は、履いていた草履を頭に乗せ、すーっと部屋を出ていった。
「ああ、お前がいたならば、ワシも猫を斬らずにすんだのに・・・」
南泉は、そういって非常に残念がった。
−無門関−
第6問に対する私の考え方
まず、どういう状況であったのかはわからないが、「この猫は自分のものだ」などと言い争いをしていること自体、かりにも仏道修行する者にとって、あまりにも低いレベルであることを認識する必要がある。これには師匠もあきれてしまったことだろう。だが、殺生を禁じる仏教修行者が、猫を殺すというのだから、よほどのことであると考えなければならない。不殺生はもっとも大切な戒律である。なのに、仏道にかなう言葉を発しなければ、猫を切り捨てるというのだ。そして、実際に切り捨ててしまったのである。
この世の中は無常であり、何一つとして「自分のもの」はない、というのが仏教の根本的な教えである。何一つ、自分の所有物ではないのだから、それが猫であれ何であれ、自分のものと考えること自体がおかしい。また、それゆえに、その猫を自分の思うようにしていいということもない。
なのに、師匠は、その猫の首をつかんで、この猫を切り捨てるぞ、といっているのだ。師匠であっても、そのような権利はない。猫は誰の所有物でもないから、猫の生命を自分の思うようにすることはできないのである。
つまり、実はこのとき、師匠も同じ間違いを(もちろん故意に)犯して見せたということなのだ。弟子は驚いたことだろう。殺生をかたく禁じる仏教の師匠が、猫を殺すというのだから。しかし、本質的に同じ間違いを自分たちがしていたということが、弟子達にはわからなかった。師匠が、実にインパクトをもったやり方で、弟子達のあやまちを身をもって示してあげたのに、その姿に自分たちの愚を発見することができなかったのである。
おそらく、このときに、「仏道の道にかなった言葉」というのは、あまり意味のないことであっただろう。おそらくどのような理屈をいっても、師匠は納得しなかったであろう。本当に師匠の姿に自分たちの愚を見たならば、恥ずかしくて言葉など出なかったであろうからだ。せいぜい、懺悔の言葉を吐くくらいであろう。懺悔の言葉を吐けば、師匠も許してくれたかもしれないが。
この話を聞いた高弟の趙州は、このような意図を理解したので、いかにおかしなことをしているか、ということを、師匠と同じように示すために、本来は足に履くべき草履を頭に乗せて、スーッと出ていった(ことで返答した)のである。
すでに述べてきたように、禅の世界では、言葉で説明するということはしない。弟子達の言い争いが、仏道の教えに反していかに馬鹿げているかということを、説明によって理解させる手段はとらない。なぜなら、説明しても、それは頭だけの観念で終わってしまうからである。禅では、とにかく、直裁に、ダイレクトに、真実を指し示す。それがあまりにも直接的なので、多くの人は理解できないのだが、しかし、師匠が身をもって示す行為から学び取れないようでは、弟子としてまだまだ及ばない、ということでもある。
第7問「風になびく旗」
風になびく旗を見ながら、二人の僧が言い争っていた。
「これは旗が動いているのだ」
「いや違う。風が動いているのだ」
そこに通りかかった慧能がいった。
「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」
−無門関−
第7問に対する私の考え方
実際の所、動いているのは旗だろうか、それとも風なのだろうか。旗が動くのは、風にあおられているからである。その視点からいえば、動いているのは旗ではなくて風である。だが、別の視点からいえば、たとえ何かによって動かされているとしても、旗が動いていることに変わりはない。
これは、「クルマが動いているのではない。エンジンが動いているのだ」という理屈と同じであろう。確かにエンジンが動いているのだからクルマが動いているのだが、「クルマが動いている」といっても、別に間違いではない。第一、エンジンだって、「動いているのは内部のピストンであってエンジンではない」といえるだろう。さらにいえば、「動いているのは内部のガスであって、ピストンではない」ともいえる。
一方、たとえ内部のガスを原動力にしているとしても、エンジンという機構がなければ回転運動とはならず、さらにはエンジンだけ回っても、それは空回りするだけで、結局、本当に「動く」といえるには、クルマという全体がなければならない、という考え方もできる。
このように、考え方によって、物事はいかようにも解釈できてしまうものである。ひとつの考え方から別の考え方に移動すれば、旗が動いているのだともいえるし、風が動いているのだともいえるのだ。
この世界は、すべて相対的である。人間は、相対世界に埋没しているのであり、そのために喜怒哀楽を経験し、喜んだり苦しんだりし、輪廻の世界を巡っているわけである。巡るのは、心があちこちと巡っているのである。
すべて、考え方、すなわち「心」が、あちこちと動いているのだ。心が動いているから、物事がいかようにも見えてしまうわけである。「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」とは、まさにこういう意味である。
悟りの境地は、はかない相対世界から解脱し、絶対的な世界に参入することである。しかしながら、それは、心を一点に固定させてしまうことではない。特定の価値観や物の見方に固執してしまうことではない。固定してしまうと、「言い争い」が生じるのである。
おそらく悟りを開いた人は、旗が動いていると見ても間違いではないが、正しくもない。風が動いていると見ても間違いではないが、正しくもない。そういうだろう。固定化された視点をあちこち移動したりしないから、言い争うこともない。要するに、「相対的な世界を相対的に見る」ことが「絶対的な見方」ということなのであり、それがつまりは「不動の心」ということになる。
第8問「窓を過ぎる牛」
「牛が窓のところを過ぎていく。角、頭、体、足が過ぎていった。しかし、なぜか尾が過ぎていかない。これはどうしてなのか?」
第8問に対する私の考え方
これは、まさに「なぞなぞ」のような公案である。牛が窓のところを過ぎていく。角、頭、体、足が過ぎていったという。これは、人が家の中にいて、窓を見ているという設定であろう。その窓の外を、牛が歩いているわけだ。そこで、最後の尾が過ぎていかないとすれば、それは単純に考えて、牛がそこで止まったからである。
だが、これで終わっては、この公案は、何の変哲も意味もない、本当に単なる「なぞなぞ」でしかない。そこで、禅問答の世界では、このようなつまらない問いに対して、“まともに(正攻法に、というべきか)”答えを述べるというのは、やや芸のないことになる。禅では、もう少し“粋な”答え方をして、そのつまらない質問を、逆に活き活きと意味あるものに変容させてしまう、ということをする。これは、日常生活の、一見するとつまらなく、平凡でくだらない事柄に対処するときにもいえることで、対処するこちら側が、粋な対応やヒネリを効かせた対応をすることで、くだらない些事に意味が出てくるということがあり、人生はそのように生きるべきだということを示してもいるわけだ。
では、どのような答え方をすればいいだろうか。もちろん、これに正式な回答というものはない。この質問は、「なぜか、尾が過ぎていかない」といっている。つまり、尾が過ぎていくのが当然だと思っている。だが、それは先入観であり偏見である。尾が過ぎていかなくても当然なのだ。この部分で、意識がひっかかってしまい、先へ進まないのだ。だから、たとえばこう答えたらどうだろう。
「尾が過ぎていかないのではない。あなたの心が過ぎていかないのだ!」
この答えは、どこかで聞いたことがあるような・・・
第9問「不安な心」
達磨のもとに神光(じんこう)が尋ねてきて問うた。
「心が不安でたまらないのです。この苦悩を取り去ってください」
「その不安でたまらない心を、ここに出してみろ。安心せしめてやる」
「出そうとしても出せません。心には姿がないからです」
「姿がないものに、どうして悩みなどあろうというのか」
それを聞いて、神光は達磨の弟子となった。
−無門関−
第10問「一切を捨てる」
趙州和尚に厳陽善信(げんようぜんしん)が尋ねた。
「私は、一切を捨てて何ももっていません。私は、どうするべきでしょうか」
「捨ててしまえ!」
「捨ててしまえといわれても、もう何ももっていないのです」
「その、捨てるものは何もないというものを、捨てるのだ!」
−趙州録−
第9、第10問に対する私の考え方
これら二つの公案は、同じ意味での心のあり方について論じている。
すなわち、「苦しみ」というものは存在しない。ただ、苦しみと受け取るか否かである。同じ物事でも、それを苦しみと感じる人もいれば、幸せと感じる人もいる。すべては心のあり方、それをどう捉えるかによる。存在するのは苦しみではなく「苦しむ心」である(もっとも、これも実は存在しない幻想である)。
ところが、私たちは、苦しみというものが、実際に存在するかのような「錯覚」を抱いており、いわば自分で作りだした幻想の世界に埋没している。したがって、必要なのは、「苦しみ」を捨てることはなく、「苦しいと思う心」を捨てることなのだ。
第10問も、同じように、捨てなければならないものは、「捨てるものは何もないと思う心」なのであった。第10問の冒頭で、厳陽善信が「私はどうすればいいのでしょうか」と尋ねている点に注意していただきたい。これは明らかに迷いである。迷う心が、まだ残っていることを示しているわけである。これこそが、本当に捨てなければならないものなのだ。本当にすべてを捨てた者は、「どうすればいいでしょうか」などとは決して問わない。自分の肉体も心も、その生きざまのすべてが、あるべくしてあるように生きる。
ところで、人間はどのようなときに、自らのすべてを“捨てる”ことができるだろうか。おそらく、それには二つある。ひとつは、死を覚悟したときである。捨て身の心境になったときだ。なぜなら、生命ほど大切なものはなく、生命を捨てたら、他には何も残らないからである。生命を捨てる覚悟が(本当に)できたら、何も恐ろしいものもない。
そして、もうひとつは、“真に愛すること”である。なぜなら、人は愛するもののためなら、生命を捨てることも惜しくなくなるからである。したがって、真に愛する者もまた、何も恐ろしいものもなく、迷いもない。
愛は無条件であり、すべてを肯定して受け入れる心である。この人生を愛する人は、この世の喜びや楽しみだけでなく、悲しみも苦しみも肯定して受け入れる。なぜなら、喜びも苦しみもあるのが人生だからだ。何かを愛するとは、自分に都合のいいところだけを取り出して愛し、都合の悪いところは愛さない、というものではない。こうした条件づけられた愛は、真実の愛ではなく、「迷う心」である。愛は無条件なるがゆえに、人生を真に愛する人は、そこで自らに起こるすべてのことを「これでよし」として受け入れる。どうしようかと迷うことはない。
第11問「瓶と呼ばず」
新しい寺の住職を決めるため、二人の僧を試験して決めることになった。
百丈(ひゃくじょう)和尚は、瓶を指さして、
「これを瓶と呼ばないで、何と呼ぶか」
最高の弟子とされた僧が答えた。
「木っ端ぎれと呼んではいけない」
次に、典座の霊祐(れいゆう)に尋ねた。
すると彼は、瓶を蹴飛ばしてさっと去ってしまった。
百丈は、霊祐を新しい寺の住職に決めた。
−無門関−
第11問に対する私の考え方
ここで登場してくる典座(てんぞ)とは、いわゆる寺の雑用係であり、主に修行僧の食事を作るのを仕事とする。こうした仕事だけをひたすら行う僧のことで、座禅だとか、そういった意味での修行はしない。そうすると、僧の中では身分が下のように思われるかもしれないが、実は、典座は、ある程度の高い境地に達した僧の地位であって、食事作りや雑用そのものを、修行として行っている。
さて、師匠は、瓶を指さして「これを瓶と呼ばないで、何と呼ぶか」と質問している。これはつまり公案なのであるが、まず、これをどう解釈したらいいのだろうか?
師匠の指さしたものは、瓶なのである。つまり、瓶と呼ぶ以外に、いったい何があるというのだろうか。それ以外の呼び名はないのである。なのに、師匠は「何と呼ぶか?」と尋ねている。つまり、「何と呼ぶか」という言葉そのものが、すでに間違いなのである(その言葉で弟子をひっかけようとしているわけだ)。何とも呼びようがないわけである。
それに対して、最高の弟子とされる僧は「木っ端切れと呼んではいけない」と答えている。
この答えは、間違いというわけではない。それは瓶なのだから「木っ端切れ」だとは、もちろん呼べないわけだ。しかし、この僧は、論理的観念の世界でのみ、応答しているに過ぎない。理屈に対して理屈で回答しており、あまりにも凡庸な回答なのである。けれども、禅の悟りは、理屈を越えた、別次元の領域に存在するのである。
それに対して、典座の霊祐は、その瓶を蹴飛ばして去っていったという。
瓶は蹴飛ばされて目の前からなくなってしまった。自分も去っていなくなってしまった。そこには、何も存在しなくなってしまった。存在しないのだから、もはや、何とも呼べなくなってしまったわけだ。つまり、見事に回答したのである。
では、「瓶以外には何とも呼べませんと、言葉で答えればいいではないか」と思われるかもしれない。ところが、禅では、とにかくダイレクトに、いわば目の覚めるような鮮烈にしてショッキングな真実を目の前に顕現させることをめざす。なぜなら、悟りの境地とは、観念的でつかみどころのない観念ではなく、リアルな生活の実感そのものだからである。「瓶以外には何とも呼べない」という答えは、観念的には間違いではないが、リアリティの視点からすると、それは間違った答えなのである。リアリティある答え方とは、実際に目の前から、いかなる呼び名も与えられないような状況を顕現させることなのだ。つまり、この場合でいえば、瓶を蹴飛ばして自分も立ち去ってしまうことなのである。
また、この公案には、修行僧と典座という二人の僧を登場させているが、ここにも、教訓的な意味合いが感じられる。つまり、座禅ばかりしている僧は、現実から遊離した観念の悟り(もちろん、これは本当の悟りではない)に陥りがちであるのに対し、生活の実践を修行にしている典座こそが、本当のリアルな悟りを開くという教訓である。
第12問「柏の木」
ある僧が趙州に尋ねた。
「達磨がインドから中国に来て伝えようとした心とは何ですか?」
「庭先にある柏の木だ」
「和尚、たとえはやめてください」
「私は、たとえなどしていない」
「達磨がインドから中国に来て伝えようとした心とは何ですか?」
「庭先にある柏の木だ」
−無門関−
第12問に対する私の考え方
今までの考察でたびたび解説してきたように、禅問答の世界では、「たとえ」というものは、基本的に行わない。常に直裁的であり、観念(という虚妄)を突き破って現実そのものに向かい合うようにする。しかしながら、その現実を見つめる目は、ある種の「詩的な感性」とでもいえるような、あるいは霊感というわけではないが、事物の本質を透視する「直感」というようなものが伴っている。
さて、この問答を見ると、「達磨がインドから中国に来て伝えようとした心とは何ですか?」という問いに対して、「庭先にある柏の木だ」と答えている。一般的な感覚からいえば、これはたとえをいっているように思われる。しかし、たとえではないというのだ。
そもそも、「達磨がインドから中国に来て伝えようとした心」とは何であろうか。これはいうまでもなく、「悟りの心」である。では、悟りとは何か? これは「仏性を開花させること」に他ならない。どのような存在にも、生きとし、生けるもの、すべてに、仏性は備わっている。自然界の生き物は、その仏性をありのままに開花させて生きている。庭先にある柏の木も、まさに仏性を開花させている存在なのである。花がその美しい花を咲かせている姿は、まさに花が自らの仏性を開花させていることであり、花はそのことを如実に表現しているわけだ。
従って、師匠は、直裁的に、その悟りの心を、つまり達磨がインドから中国に来て伝えようとした心を表現している柏の木(もちろん、柏の木でなくてもいいのだが)を示したのである。
ところがわれわれは、禅問答のこのようなやりとりが、何となく意地悪で、わざと格好をつけているかのような印象を受けてしまうこともある。つまり、「それは悟りの心である」と、言葉で説明すればいいではないか、その方が親切ではないか、わかりやすいではないか、と、こう思ってしまうのだ。
しかし、そうではない。そのような言葉の説明の方が、不親切であり、わかりにくいのである。たとえば、「三角形とは何ですか」と問われたとき、あなたはどう答えるだろうか。「内角の和が180度になる図形のことである」などと説明するだろうか。それよりも、無言で三角形を描いて、それを示すであろう。その方が、よほどわかりやすいであろう。
もしも、詩的な感性があれば、師匠の示した庭の柏の木に、仏性を開花させている姿を見ることができるのであり、師匠のいったことが、「たとえ」ではなく、まさに的確な回答であるということがわかるのである。
第13問「野鴨」
馬祖が弟子の百丈と歩いていると、野原から野鴨の一群が飛び去っていった。
それを見た馬祖が、百丈に尋ねた。
「あれは何だ」
「野鴨です」
「どこへ飛んでいったのか」
「わかりません。ただ飛んでいったのみです」
答えを聞いた馬祖は、いきなり百丈の鼻を強くつまみあげた。
「痛い!」
「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」
百丈は悟りを開いた。
−碧巌録−
第13問に対する私の考え方
禅の師匠は、あらゆる日常の機会を利用して、弟子の悟りの境地を試したり、また促すようなことをする。それはいつ行われるかわからないので、弟子はボーとしているわけにはいかない。今回の公案も、その一端を述べたものである。
さて、野原から野鴨が飛び去って行くのを見て、弟子に「あれは何だ」と質問する。師匠は、もちろん、それが野鴨であることは承知のはずである。にもかかわらず、「あれは何だ」と尋ねているのであるから、弟子ならば、そこで「来たな」と思わなければならない。ところが、後に高僧となった百丈であるが、このときはボーとしていて、これが師匠の試みであることに気づかなかったようだ。
どこへ飛んでいったのかという次の質問をされても、当たり前の、「わかりません。ただ飛んでいったのみです」などという、凡庸な答えをしている。そこで師匠は、ショックを与えるために(禅の世界では、弟子の意識に褐を入れて覚醒させるために、奇想天外な、またしばしば過激ともいえるショッキングな行動をとる場合が多い)、百丈の鼻を強くつまみあげて「飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」と述べたのである。
では、いったいこの言葉の意味はどういうことなのか?
物理的な空間という視点からいえば、確かに野鴨はどこかへ飛び去っていった。しかし、それはあくまでも「自分」という位置から見た場合の解釈である。自分という意識から、飛び去っていく野鴨を見たとき、野鴨はあたかも自分の目の前から、その存在が消えてしまったかのような印象を受ける。
けれども、野鴨の存在は消えてしまっているのではない。野鴨はどこかに存在している。たとえば、野鴨の行き先に「自分」がいたら、野鴨がどこからから飛んできて、目の前に現れたように見える。けれども、野鴨は「現れた」のではない。最初から存在していたのである。もしも野鴨の立場になってみれば、自分たちは飛び去って消えてしまったわけでもなく、突然にこの世に「現れた」というわけでもない。
つまり、野鴨の存在が消えたり現れたりするように思えるのは、「自分」という意識に閉じこめられている結果として生じる「幻想」なのである。そこで、師匠は、「自分」という限定された意識をシフトさせて、その限界をうち破ろうとしたわけである。師匠は鼻をつまんだ。弟子は「痛い」と感じた。痛みというのは、リアルな感覚である。よく、これが夢ではないことを証明するために、ほっぺたをつねるということがあるが、これと同じことだ。では、痛みを感じさせて、同時に「野鴨がここにいる」といったとき、弟子の意識には何が生まれたか? このとき弟子の意識に生まれたのは、存在が消滅もしなければ現れもしない、何も変わらない野鴨の(立場にたった)真実だったのである。
「そうか、野鴨はどこにも消え去ってはいない。そう思えたのは、自分という狭い視野から物事を見ていたために抱いていた幻想だったのだ」とわかったのだ。
悟りとは、自分が勝手に作り出している虚像や妄想をうち破ることである。このようにして、百丈は悟りを開いた、というわけだ。
第14問「糞かきベラ」
ある僧が、雲門文偃(うんもんぶんえん)に尋ねた。
「仏というのは、どんなものですか?」
「糞をかき取るヘラだ!」
−無門関−
第14問に対する私の考え方
前回で少し触れたように、禅の師匠は、弟子の意識を覚醒させるため、しばしばショックを与えるような言動をして、悟りに導こうとする。これも、そのひとつである。仏というのは、「糞をかき取るヘラ」のようなものだといっているのだ。つまり、世の中でもっとも汚らしい物だといっているのである。
普通一般の宗教であれば、このようなことをいったら、神聖な神や仏への冒涜だと非難されるだろう。だが、禅ではそのようなことはおかまいもしない。
私たちは、神や仏というものが「神聖」であると思っている。確かに、それは神聖であろう。だが、この言葉の背理としては、神や仏以外のものは神聖ではない、ということになる。そうなると、私たちの意識は、神や仏に対するときには神聖な気持ちで向き合い、それ以外の、世俗の生活や事物に向き合うときには、神聖な気持ちをもたないということになる。
けれども、神仏は神聖で、世俗は神聖ではない、と区別する、その根拠はどこから来たのだろうか? 神仏が直接、そのように教えてくれたのだろうか?
そうではないだろう。私たちが勝手に、神仏は神聖なもので、それ以外は神聖ではないという区別したのである。これは、言い方を変えれば「偏見」である。
つまり、そのような偏見によって、私たちは神や仏という存在を認識しているのである。それは砂漠の蜃気楼のようなものである。神仏そのものを認識しているのではなく、自分で勝手に作りだした神仏のイメージを認識し、崇拝し、神聖であると信じ込んでいるに過ぎない。夢幻を神仏と崇めているのだ。
この世の中には、神聖であるもの、神聖でないもの、というのは存在しない。ただ心が、それを神聖であると見なせば神聖となり、神聖でないと見なせば神聖ではなくなるだけである。あるいは、この世界は、神聖である神によって創造されたのだとすれば、この世のすべても神聖であるといってもいいだろう。同じようなことを、古代ギリシアの哲人ゼノンは、「下水、ウジ虫、性交にも神あり」という言葉で表現している。「仏とは糞かきヘラだ」という言葉の真意は、「仏とは糞かきヘラのように不浄だ」ではなく、「仏とは糞かきヘラのように“神聖だ”」なのである。
すべてが神聖である。すべてに仏性がある。物にも、動物にも、そしてあらゆる人々にも。すべての人々を「仏」として崇めることができる心こそが、悟りの境地に他ならない。
今日もあなたに送られてくるメールは、「仏様」からのもの?
第15問「一本の指」
どんな質問を受けても、ただ指を一本立てるだけの倶胝(ぐてい)和尚がいた。
寺にきた客が小僧に法の説き方を尋ねた。すると小僧は、和尚のように指を一本立てた。それを見た和尚は、小僧のその指を切り落としてしまった。
泣き叫んで逃げる小僧に、和尚はいった。
「おい、こっちを見ろ!」
小僧が首を向けると、和尚は例のごとく、指を一本立てていた。
それを見て小僧は、その場で悟った。
−無門関−
第15問に対する私の考え方
この問答が本当にあったことなのかどうかはわからないが、もし実話に基づくものであったなら、まったく禅の世界というのは、荒っぽいものである。だが、それほど真剣であったということで、指の一本や二本などよりも、悟りを開く方がずっと大切なことだったのだ。
それはともかく、どんな質問を受けても、ただ指を一本立てるだけというのは、いったいどう解釈すればいいのだろうか。
ここで問われるのは、指が一本、ということであろう。つまり、「ひとつ」ということを示していたのであろう。では、いったい何が「ひとつ」なのか? また、どのような質問でも、「ひとつ」ということを示すことで事が足りてしまうというのは、どういうことなのだろう?
この世の中にひとつしかないもの、それは「真実」である。だが、私たちはしばしば、真実を多面的に見る。象の鼻を触ったり、足を触ったり、胴体を触って「これが象だ」と勝手に思ってしまう。それらは象の一面であるが、一面は象ではない。象の真実とは、その全体のことである。私たちは、さまざまな偏見や観念、その他、自分勝手な思いこみなどにより、真実の断片だけを見て、それが真実であると思いこむ。つまり、それが「迷い」である。
悟りを開くとは、そうした断片を見るのではなく、常に全体である「ひとつ」を見ることにある。言葉によってなされた質問の一切は、しょせんは断片を見ているに過ぎない。だから、そうした断片的な質問にいくら答えたとしても、それで悟りが開けるわけではない。問題は、ひとつの全体を見ることなのだ。師匠は、そのことをただ指一本で示していたのである。
さて、そんなとき、師匠のいない間に、小僧は客に対して、師匠のマネをして、指一本を立てた。それはマネだから、「真実」ではない。いわば、鏡に映し出された真実の「幻影」である。だが、小僧は幻影だとは思っていない。師匠のマネをすれば、真実を語っていると錯覚していた。
そうして、師匠は、小僧の指を切り落とした。そして自分の指一本を見せた。それはまさに、鏡に映った虚像ではない、たったひとつの真実そのものであった。このときに、小僧は、自分の差し出した一本の指は、ただ幻想を示していたに過ぎないことに気づいたのである。それと同時に、自分が頭の中であれこれと思いめぐらせていた、すべての思考や考えや観念が、真実ではなかったことが把握されたのである。すなわち、迷妄は破られたのであり、小僧はそのときに悟ったというわけだ。
第16問「枯れた木」
ある老婆が、一人の修行僧を世話して二十年がすぎた。
あるとき少女が修行僧に抱きついて誘惑した。
「さあ、私をどうなさいます?」
僧はまったく動揺せずにいった。
「枯れた木が冬の岩に立つように、私の心はまったく熱くならない」
この言葉を少女から聞いた老婆は、激怒していった。
「自分は、こんな俗物を二十年も世話していたのか!」
そして僧を追い出し、庵も汚らわしいといって焼いてしまった。
−道樹録−
第16問に対する私の考え方
普通であれば、女性の性的な誘惑をはねつけたのであるから、これはまじめな求道者であり、清廉潔白であるとして褒められてもよさそうなのだが、そうではなく、「俗物で汚らわしい」として寺から追い出されたというのである。
仮に、これが少女ではなく、「桜の木」であったとしよう。美しい桜の木を目にして、やはりこの僧は、枯れた木のように、心が熱くならないのだろうか?
だとしたら、いったいこの僧の心は、石のように無味乾燥で冷たいということになる。桜の木は美しい。その美しいものを、美しいと思う感情こそが、まさに人間らしさであり、「仏の慈悲」につながるものではないのだろうか?
こうした、桜の木を愛でる気持ちで少女に接するならば、決して枯れた木のように冷たい心にはならない。少女への慈悲(愛)に満ちた気持ちで、もっと生き生きとした会話がそこで為されたことであろう。
おそらく、この僧は、少女を「性的対象」と見る意識がもともとあるから、「枯れた木のように心は熱くならない」といってはねつけたのかもしれない。ということは、つまりその時点で、性的な煩悩から実は解放されていないということを物語っているわけで、老婆が「俗物で汚らわしい」と嘆いた理由もここにあるわけだ。
「では、もしもあなただったら、どう対応したか?」
こう問われたら、なかなか難しい。その女性を抱いてしまったら、戒律を犯したことになるだろう。もっとも、悟ってしまえば、戒律など何の意味もないわけで、仮に少女を抱いたからといって、それは必ずしも問題ではないかもしれない。ただ、その抱く気持ちが、相手を性的対象として抱くのか、あるいは仏を抱くような気持ちで、真心の愛によって抱くのか、問われるのはここだけであろう。
しかし、禅にもダンディズムといったものがあるとすれば、そのまま少女を抱いてしまったのでは面白くない。何か他に、粋な対応の仕方はないだろうか?
私なら、こう対応するだろう(これがダンディズムかどうかはともかく)。
「また、明日も来てくれない?」
第17問「仏法の奇特」
ある僧が百丈に尋ねた。
「仏法における奇特とは何ですか?」
「私が、ここに座っていることだ」
答えを聞いた僧は、ひれ伏して礼拝した。
すると、百丈は、その僧を棒で打った。
−碧巌録−
第17問に対する私の考え方
まず、慎重にこの問答を考察してみよう。「仏法における奇特」、すなわち、仏法における偉大なことというのは、自分がここに座っていることだといっている。これはともすると、非常に傲慢な言葉として聞こえなくもない。要するに、「自分は偉いのだ」といっているようでもある。
すると、相手の僧は、そのようにいう百丈にひれ伏して礼拝する。これは、「自分は偉い」といっている相手に向けられた敬意の表現ということだと解釈していいだろう。ところが、そうしている僧を、百丈は棒で打ったのである。
この「棒で打つ」という行為は、以上の文脈でいえば、「自分を礼拝するのは間違っているのだぞ」という意味で棒で打ったと解釈できるが、そればかりではないかもしれない。つまり、必ずしも「罰を与えた」という意味ではないかもしれない。そこで、もう一度、最初から考えてみよう。
まず、百丈が、「仏法における偉大さとは、自分がここに座っていることだ」といった真意は、いったい何だったのだろうか?
仏教の目的は、すべての人間に眠る仏性を覚醒させることである。これが仏法の偉大さである。しかも「偉大さ」とは、「自分はおまえよりもレベルが高い」といった上下差別的な位置づけで決まるのではなく、むしろ、そういった差別的な意識から脱却することにある。それゆえに、本当に悟りを開いた人は、自分を偉大であるなどとは思わない。そう思うのは迷妄である。したがって、百丈が「自分は偉いのだぞ」という意味で、あのような言葉を述べたのではないことがわかる。
ところが、僧は、百丈自身が偉いのだと思って礼拝した。個人をそのように礼拝することは、まさに、差別化という迷妄からの脱却である仏法を誤解していることに他ならない。その間違いを指摘するために、彼は棒で叩いたのである。
しかし、他にも、おそらくもうひとつの意味がある。
「自分がここに座っていること」というのは、「仏性がここにあること」ということでもある。だが、仏性は誰にもある。そして、それに目覚めることが仏教の目的であり、悟りを開くということである。
その僧は、百丈を拝んだ。それは仏法の偉大さである仏性を顕現させているから、つまり、悟りを開いた高僧だからという理由であろうが、その僧が、百丈の仏性を拝んだ瞬間に、棒で叩かれたなら、彼の意識に、いったい何が生まれるであろうか?
すなわち、身体の衝撃のために、相手に向けられていた仏性礼拝の念の向きが、自分自身に向けられるのではないか?
禅では、このような手法をときどき使う(鼻をつまんだ13問、指を切った15問を参照)。ショックを利用して、意識の向きがひっくり返るのを狙うのである。棒で叩かれたその僧は、はっとして、この瞬間に「自分自身の仏性」を拝んだのではないか?
こうして、相手の仏性を拝むと同時に自分の仏性を拝んだ僧は、万人に宿っている何の差別もない仏性を、このときに「体感」したに違いない。
第18問「無言の説法」
釈尊の説法が始まった。が、ある日に限って何もいわず、そばにあった一輪の花を取って大衆の前に示した。
ほとんどの弟子たちは意味がわからなかったが、ただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう)だけは、にっこりとほほ笑んで深くうなずいた。
それを見た釈尊は、静かにこういった。
「私の説法が摩訶迦葉に伝わりました」
−無門関−
第18問に対する私の考え方
いわゆる「以心伝心」である。だが、これは単純にテレパシーのような能力であるということではない。お互いに共通して把握されているものがあるがゆえに、そのサインを示せば、それで何がいいたいのかが理解できる、というものである。では、摩訶迦葉には何が伝わったというのか?
おそらく、彼に、何が伝わったのかと質問しても、その内容を言葉でうまく説明することはできないであろう。彼は言葉で説明できないものを受け取ったのであり、釈尊も、それを伝えようとしたのである。もしも言葉で表現できるものを伝えようとしたのであれば、言葉で説明しているであろう。だが、言葉によって為される説法であっても、釈尊の伝えたかったのは、常に言葉を越えたものだったのである。
さて、一輪の花を見て、なぜ摩訶迦葉は微笑んだのだろうか?
たとえば、これが一輪の花ではなく、可愛い赤ちゃんだったらどうだろうか。
その可愛い赤ちゃんが、あなたを見て笑ったとする。あなたもそれを見て、思わず微笑まないだろうか?
では、なぜあなたは微笑んだのか?
可愛らしかったから? 確かに、そうかもしれない。ならば、なぜ可愛らしいと微笑むのか? 単純に可愛らしいという感情だけではない、もっと微妙な感情がそこにわき上がってきたために、思わず微笑んでしまったのではないのか?
普通、微笑む(笑う)という感情は、喜びの表現のひとつである。摩訶迦葉の微笑みも、それは喜びの表現であったといえるだろう。では、いったい何の喜びだったのか? 私たちが赤ちゃんを見て微笑む、つまり喜ぶのは、いったいなぜなのか?
その喜びは、人間の深い意識から、仏性から来ているものなのである。
そして、一輪の花であろうと、赤ちゃんであろうと、それを見て私たちが喜ぶのは、それは仏性を喜ばせるからである。そして、なぜ仏性が喜ぶのかといえば、それはまさに、仏性を表現している存在を見たからに他ならない。仏性と仏性どうし、同じ仲間に出合ったときの喜びなのだ。愛する人と会ったときの喜びなのである。これはもちろん、自分自身もある程度、仏性を開花させていなければ、共感としてわき上がることのない喜びであろう。
すべての存在には仏性がある。私たちの感性が高くなれば(仏性を開花させれば)、赤ちゃんだけではなく、一輪の花を見ても、喜びをもって微笑むようになるであろう。そして、そこに仏性の存在を感じることができるであろう。
すなわち釈尊は、「仏性」とは何かを、弟子たちに示したのである。仏性は、理論や理屈で把握できるものではなく、ある種の共感、体感的な感覚で把握されるものなのである。
禅問答とは、何だったのか?
さて、これまで全部で19問の公案を考えてきたが、結局のところ、こうした禅問答の考察により、私たちは何を学ぶことができたのだろうか?
一見すると、禅問答は、まるでわけがわからない。ともすると、何かもったいぶった、あるいは悟りすましたような、衒学的な印象を受けなくもない。けれどもそれは誤解であって、ここにはひたむきな真剣さ、あるいはまた、通常の私たちの感覚を越えた発想をめざしているということを、今までの考察によって理解していただけたと期待している。
それをひとことでいうなら、禅とは、「リアリティ」をどこまでも追求していく、ということであろう。つまり、現実の追求である。英語で「現実化」のことをリアライゼーション(Realization)というが、これは同時に「悟りを開く」という意味でもある。要するに「現実認識」こそが悟りを開くということであり、しばしば誤解されるように、神仏だとか霊の存在を見たり、超能力などを発揮するといったこととは、まるで関係はない。
さて、現実認識こそが悟りを開くことであるということは、前提として、私たちは現実を認識していない、早くいえば、現実ではない幻想に惑わされているということになる。仏教的にいえば、それは無知であり無明である。そこから煩悩が生まれ、そして苦しみが生まれる。これが仏教の教説である。
では、私たちは、幻想を見ているのだろうか?
幻想の中に生きているのだろうか?
通常、私たちが「真実」とするものは、少し考えればわかるように、主観的意識に映し出された概念なり情報から、そう判断している。たとえば、目の前にリンゴがあるとする。極端なことをいえば、目の前にはリンゴは存在していないかもしれない。それは非常に精巧にできた模型かもしれないし、高度なハイテクによって映し出された幻影かもしれないし、あるいは、そもそもこれは夢かもしれない。だが、ただ見ているというだけでは、そこにリンゴがあるという「真実」は、私たちの「主観」が、勝手にそう決め込んだ結果に過ぎない。
また、神というとき、私たちは、自分で勝手に作り上げたイメージや概念によって、それを認識している。たとえば、「髭の生えた老人」のようなイメージとして、あるいは、宇宙的な法則やエネルギーといった概念として。
けれども、神の実像を客観的に認識することは、私たちにはできない。したがって、「神」は存在するかもしれないが、私たちには、神が存在する、ということを、厳密な客観的認識によって実証することはできない。まして、「神とはこういうものだ」という、それが有形であれ無形であれ、いかなる規定された輪郭やイメージを抱くこともできない。要するに、神は存在しても、私たちが把握している「神」は、すべて虚像であり、幻想である、ということになる。
ところが、私たちは、主観に映し出された、こうしたあらゆる幻想や虚像を土台として物事を考えたり、感情的な反応をしてしまう。それが苦悩の原因となり、さらには、あらゆる障害、世界的な紛争や戦争の原因になっている。
そこで禅では、主観が創り出した虚像ではなく、じかに現実を認識するように仕向ける。もちろん、それでさえも、主観を脱したことにはならないが(神以外には主観を越えることは不可能であろう)、虚像への盲信からは抜け出している。ただ、目の前に存在する現象そのものを、ありのままに受け入れる。
表現を変えれば、何かの現象なり運命に遭遇したとき、余計な連想が働かない、というか、それにとらわれない心境である。たとえば「人を見たら泥棒と思え」とか「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」といったことは、ある事物に接したときに、真実ではない連想を働かせ、その連想を真実であると思いこんでしまうことを示している。ひらたくいえば「偏見」である。そして、この偏見が複雑に根深くなったものが「迷妄」であり「無明」である。
禅問答は、こうした虚実の連想にとらわれる意識を目覚めさせるためのものである。そのとき私たちは、たとえばひとりの人間を前にしたとき、本当の意味で、その人のありのままを見ることができる。その人の社会的地位だとか、肩書きだとか、外見だとか、あるいは表面的な性格といったことさえも突き破り、その人の本来の姿を、いわば透明な視力によって見ることができるのである。
では、いかなる虚像的な偏見や幻想によって曇ることのない目をもって、相手を見たとき、いったいそこに、私たちは何を見ることになるのだろうか?
それは、人間の本質である「仏性」に他ならない。
仏性を見たとき、私たちの心は“微笑む”。心が喜びで満たされるからである。では、それはどのような喜びなのであろうか。
それは慈悲の喜び、愛の喜びである。すなわち、主観的幻想から目覚めた人には、愛がある。「愛の知識」だとか「愛の概念」ではなく、愛そのものがある。つまり、悟りを開いた人というのは、ただ愛に生きる人になるということなのだ。
おわり
