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                    エゴからの脱却

 結局、私たちが地上に生きている目的というのは、<ニセの我>であるエゴから脱却することなのです。それがすなわち、覚醒、悟り、解脱、霊的成長といったことになるわけです。これは、私が主催する哲学&瞑想の教室「イデア ライフ アカデミー」の基本理念でもあります。

 心の奥に潜む<ニセの我>
 今までさんざん間違った生き方、悪い生き方をしてきて、そのことに気づき、心の底から反省したとき、その気持ちを、こんな言葉で表現することがあります。
 「我にかえった!」
 我にかえった、ということは、今までは<本当の我>ではなかった、ということになります。いわば、<ニセの我>で、生きていたということです。ニセの我が、間違った生き方をし、悪い生き方をしてきたことになるわけです。
 それまでは、あくまでも自分自身、つまり<本当の我>で考え、決断し、行動していたと思っていたわけですから、人間の心とは不思議なものです。本来はひとつの<我>しか存在しないはずですが、<ニセの我>とでも言うべきものが、自分の中に潜んでいると感じられる経験を、ときに私たちはすることがあるのです。

 誰もがみんな<ニセの我>で生きている
 ところで、あなたは今、<本当の我>で生きているでしょうか?
「自分は何も間違ったこと、悪いことはしていないから、本当の我で生きている」
 このように思われるかもしれません。
しかし、ここで注意しなければならないことがあります。
 それは、「正しい」とか「善い」という評価は、あくまでも相対的なものだということです。
 つまり、絶対的な正しさとか、絶対的な善といったものは存在せず、何かと比較して「正しい」とか、何かと比較して「善い」と言っているにすぎません。ある状態が正しいと思っても、さらに正しい状態が存在し、さらに善い状態が存在するのです。
 ですから、さらに正しく、さらに善い<我>が存在する、ということになります。
 そして、さらに正しく、さらに善い<我>から見たら、正しくて善いと思っていた今までの<我>は、正しくない、善くない<我>に変わってしまうわけです。
 そのとき人は、より本当の<我>に気づいて、「我にかえった!」と叫ぶのです。
 したがって、たとえ今あなたが、本当の我で生きていると思っても、それは錯覚にすぎません。さらなる<本当の我>が存在し、その先にもさらなる<本当の我>が存在するからです。この連鎖が、永遠に続いているのです。より本当に近い<我>から見たら、今あなたが本当の我と思っているものは、<本当の我>ではないのです。
 要するに、誰もがみんな、程度の差はあれ<ニセの我>で生きているのです。

 人間が地上に生きている目的
 <ニセの我>のことを、「エゴ」という言葉で表現することもできます。
 人間というものは、エゴを脱ぎ捨てて「我にかえる」という経験を、何回も何回も重ねながら、<本当の我>へと近づいていく存在なのです。
 たとえるなら、ヘビが脱皮を繰り返しながら成長していくようなものです。いつまでも古い皮をまとっていたのでは、からだは大きくなれません。成長・進化し続けるために、エゴという皮をどんどん脱ぎ捨て、<本当の我>にかえっていくこと、これが、人間が地上に生きている目的です。
 この「我にかえる」という経験が、いわゆる「悟り」とか「覚醒」と呼ばれているものです。すなわち、より本当に近い<我>を悟り、覚醒していくために、私たちは生きているのです。
 悟りや覚醒に「ゴール」は存在しません。<本当の我>というものは、永遠に進化し続ける生命だからです。「永遠に進化し続ける」のですから、悟りも覚醒も永遠に続きます。悟ったと思ったら、さらなる悟りが待っているのです。目覚めたと思ったら、さらなる目覚めが待っているのです。

 エゴの典型的な働きのひとつ「妬み」
 ところで、<ニセの我>、すなわち、エゴとは、そもそも、何なのでしょうか?
 ひとことで言うと、エゴとは「衝動の複合体」のことです。
 すなわち、衝動とは、私たちを特定の感情・思考・行動へと走らせる、通常はコントロールできない「力動的な反応」のことをさしますが、その衝動が、いくつも集まって複雑に絡み合った構造をしたもの、これがエゴです。
 したがって、エゴというのは、しょせんは単に反応するだけの、基本的にはパターン化された機能しかもたない、いってみれば機械のようなものにすぎないのですが、複雑な構造をしているために、人格を持っているかのように作動するのです。しかも、無意識層に寄生しているため、通常はその存在を自覚することはできません。そのために私たちは、エゴの働きを、まるで自分自身の人格、すなわち<本当の我>だと錯覚してしまうのです。
 ひとつ例をあげてみましょう。
 いわゆる「妬み」というものは、エゴの典型的な働き(反応)のひとつです。
 妬みとは、自分より何らかの点で恵まれている人に向けられた、ある種の攻撃的な感情です。そのため、妬みに支配されると、言い換えれば、エゴに支配されると、人の不幸を願うようになり、意地悪をして困らせてやろうと考えたり、実際にそうした行動をとったりするわけです。
 私たちは、そのような願いや考えや行動は、自分自身の意思に基づいていると思っていますが、そうではありません。エゴによって”そうさせられている”のです。言い換えれば、あなたが妬んでいるのではなく、エゴが妬んでいるのです。
 その証拠に、妬みというのは、ある種の衝動的な感情です。すなわち、「妬むことにしよう」と考えて妬むわけではなく、自分の意思とは無関係に、勝手に心の底から湧いてくるものです。まさにそれは、衝動で構築されたエゴの仕業だからです。
 エゴ(衝動)には、合理的な計画性も、意味のある目的もありません。そのため、人がエゴに支配されると、不合理で無意味な思考や行動に走ってしまうのです。ひらたく言えば、愚かな行為、さらには、妄想や狂気へと駆り立ててしまうのです。
 考えてもみてください。
 自分より恵まれている人を妬み、その人を困らせたからといって、何か得になることがあるでしょうか? 自分が恵まれるようになるでしょうか? 幸せになれるでしょうか?
 何もいいことはないはずです。せいぜい、気持ちがすっきりするだけでしょう。
 しかし、たったそれだけのために、相手を困らせるのに費やす時間や労力、また、そのことでトラブルを招く危険性などを考えると、妬みというものは、まったく理に合わない、知性も合理性も欠けた、単なる盲目的な反応にすぎないことがわかるはずです。ただ自分を苦しめる結果を招くだけの、愚かなものだということです。

 不幸災難の原因のほとんどはエゴである
 そもそも、妬むこと自体が、すでに苦しみであると言えるでしょう。
 妬んでいるときの気持ちというのは、穏やかではありません。非常に不愉快であり、苦痛です。世の中には、自分より恵まれている人など限りなくいるわけですから、そんな人を見るたびに妬んでいたら、いつも苦しんでいなければなりません。それはまるで、地獄にいるようなものです。そのうえ、妬んでいる人を攻撃でもしたら、あらゆる災難を自ら招き寄せることになります。最悪の場合、犯罪に走って罰せられるかもしれません。
このように、エゴは、あなたを苦しめるような、さまざまな反応をします。妬みの他にも、強欲、支配欲、不安、恐怖、怒り、依存、利己主義、虚栄、傲慢、悪意、嫉妬、嘘、打算、ごまかし、怠惰、気まぐれ、無鉄砲……、数え上げたらきりがありません。
 エゴは、一時的には、幸運と感じられるものをもたらすこともありますが、最終的には苦しみをもたらします。たとえるなら、魚釣りのようなもので、エサにありつけたと思ったら、次の瞬間には水のない陸に引きあげられて苦しむ魚と同じです。
 人生における不幸災難の原因を突き詰めていくならば、ほとんどの場合、そこにあるのはエゴなのです。犯罪も基本的にはエゴによるものであり、戦争、飢餓、環境破壊といった、人類の不幸災難の原因も、そのほとんどはエゴの仕業なのです。
 私たちは、エゴによって苦しめられ、支配され、自由を奪われているのです。エゴの奴隷になっており、エゴに振り回され、エゴに操られているのです。
 私たちは、自分が思っているほど自由ではないのです。自覚がないだけで、人生の大半を、エゴに操られているのです。
 これでは、本当の意味で「生きている」とは言えないでしょう。
 機械的な反応をするエゴに支配されているということは、自分も機械的に反応しているということです。それでは「生きている」とは言えません。「生きている」とは、あくまでも自らの意思で自由に選択し、決断し、行動をしているときのことを言うのです。
 その意味では、私たちは機械人間、すなわちロボットと、そう変わらないのです。
 これは、決して大げさな表現ではありません。まぎれもない事実なのです。
 しかし、ほとんどの人が、この重大な事実に気づいていません。
 そのために、自ら不幸災難を招き寄せるパターン化された行動を繰り返すだけで、本当の意味で生きた経験をすることなく、そのまま一生を終えていくのです。
 人間のそのような悲劇性を、骨身に沁みて理解したとき、エゴの奴隷から解放され、自由に生きたいと、真剣に願うようになるはずです。
 そうしたら、エゴと闘わなければなりません。
 エゴこそが、人類の本当の敵です。しかも、最強の敵です。他者と争ったり、他国と争ったりするよりも、まずは、自らのエゴと闘わなければならないのです。すべての人がエゴとの闘いに勝利すれば、他者や他国と争うこともなくなるでしょう。世界平和は、人類がエゴとの闘いに勝利したとき訪れるのです。

 エゴとの闘い
 しかしながら、エゴとの闘いは、生易しくありません。いつ終わるとも知れない、過酷で辛く、忍耐を要する危険な闘いです。
 エゴを<本当の我>と錯覚している私たちにとって、エゴとの闘いとは、自分との闘いを意味します。エゴを脱皮させていくことは、古い自分を捨てていくことになるわけです。私たちは、今まで築き上げてきた自分を捨てることなど、簡単にできるでしょうか。自分(だと信じているもの)を捨てることは、非常に怖ろしく、過酷で、少なからぬ苦しみを伴います。
 それよりも、エゴの奴隷でいた方がいいと思うかもしれません。
 実際、エゴがもたらすさまざまな苦しみを、娯楽や気晴らし、仕事、あるいは宗教などで、うまくごまかすことができるなら、エゴと闘うよりも、エゴの奴隷に甘んじていた方が、ずっと楽だと言えるかもしれません。たとえるなら、野生動物よりも、家畜の方が安全で楽なのと同じです。
 エゴの奴隷として、一生を<ニセの我>で生きるか、それとも、<本当の我>に目覚めて自由に生きるか、私たちは、いずれかの道を選ばなければならないのです。
 もしも、自由に生きる道を選ぶのであれば、人生に安全や安楽を期待する気持ちはきっぱりと捨てなければなりません。そして、傷つくことを怖れない勇気と、いかなる苦しみも受けて立つ覚悟が必要です。要するに、自分を捨てる勇気と覚悟が必要だということです。それくらいでないと、エゴとの闘いには勝てないからです。
 とはいっても、一部の人にしか実行できないような、難行苦行というわけではありません。真剣さと意欲、忍耐、そして適切な知識さえあれば、誰でもエゴを弱体化させ、エゴから自由になっていくことは可能です。
 いずれにしろ、人生というものは、エゴの奴隷として生きても苦しみがあるし、エゴの奴隷から解放されて自由に生きようとしても苦しみがあるのです。人間という存在は、どのみち苦しみから逃れて生きることはできないようになっているのです。
 問題は、どちらの苦しみを受け入れるか、ただそれだけです。

 「本当に生きた」と言える人生を送るために
 エゴの奴隷として生きる苦しみは、強制的に与えられる「受動的な苦しみ」であり、エゴから解放されるための苦しみは、自主的に追い求めていく「能動的な苦しみ」です。
 受動的な苦しみは、ただ苦しみで終わるだけです。たとえば、エゴの反応によって人を妬んだら、妬みに伴う苦しみを味わうだけで、後には何も残りません。
 しかし、エゴから解放されるために、自ら苦しみを引き受けていくという、能動的な苦しみの後には、「歓喜」が待っています。
 たとえるなら、登山のようなものです。登山家は、自ら望んで険しい山を登ります。苦しみや困難が多いほど、頂上に到達したときに大きな喜びが得られます。楽に征服できる山に登っても、大きな喜びは得られません。
 同じように、歓喜は、苦しみを能動的に耐え抜き、エゴを征服して、自由を手に入れた者だけが、手にできるのです。エゴを脱ぎ捨てる苦しみを引き受けたとき、歓喜が訪れるのです。エゴの奴隷のままでは、歓喜を味わうことはできません。
 もちろん、人生において、歓喜よりも、安全や安楽を重視したいのであれば、それもまたひとつの生き方なのかもしれません。他人がとやかく言う筋合いのものではないでしょう。
 しかし、これだけは言えるでしょう。本当に「生きている」という感覚は、歓喜を味わったときにのみ得られるということです。
 もしもあなたが、歓喜に満ちた一生を送り、死ぬ直前になって「私は本当に生きた」と言える人生を送りたいのであれば、エゴから脱却する道を選ばなければなりません。
 エゴとの闘いという、険しい登山道を歩まなければならないのです。

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