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                   人生の目的と本当の幸せ

 幸せになることが、すべての人に共通する人生の目的です。しかし、本当の幸せは、この地上人生には存在しません。この事実を明確に知ることから、本当の幸せを得る道が始まります。本当の幸せとは、地上世界ではなく、高い霊的世界に存在します。私たちはその世界をめざして生きるべきなのです。そのためには魂を浄め、鍛錬する必要があります。私たちが地上人生にやってきた目的はここにあるのです。

 すべての人に共通する人生の目的とは
 人生の目的について考えたことはあるでしょうか?
 たとえば、ビジネスを立ち上げて年収一億円の社長になるとか、医者や弁護士になるとか、何歳までに家を購入するとか、あるいは、もっとスケールが大きくて、オリンピックに出場するとか、ノーベル賞を受賞するといった目的をもっている人も、いるかもしれません。
 ただ、多くの人は、「あなたの人生の目的は何ですか?」と質問されても、すぐには答えられないでしょう。ほとんどの人は、「自分は人生においてこういうことをやり遂げるんだ」といった目的もなく、「何となく生きている」のです。
 とはいえ、はっきりと自覚はしていないにしても、すべての人が共通して持っている目的があると思います。
 それは、「幸せになること」です。
 幸せになりたくない、という人はいないはずです。「幸せとは何か」ということはさておき、誰もが幸せになりたいと思っているはずです。ビジネスを立ち上げて年収一億円の社長になろうとするのも、医者や弁護士になろうとするのも、何歳までに家を購入するとか、オリンピックに出場するとか、ノーベル賞を受賞するといったことも、要するに「それを実現できれば幸せになれる」という思いが根底にあるからでしょう。
 問題は、そのようなことで本当に幸せになれるか? です。
 この点について深く考えてみなければなりません。そのためには、そもそも「幸せとは何か?」ということを、明確にする必要があるでしょう。
 では、幸せとは何なのでしょうか? どのようなことを幸せというのでしょうか? 「幸せな人」とは、どのような人のことを言うのでしょうか?

 幸せとは「満足感」のこと
 幸せとは何であるかを定義することは、容易ではありません。これは哲学の最大のテーマです。論じたらきりがありません。なので、ここではあまり厳密なことまで立ち入らず、きわめてシンプルに考えてみたいと思います。
 幸せとは、結局のところ、ある種の「満足感」のことではないでしょうか。
 満足感の反対は欠乏感ですが、欠乏感があれば、幸せとは言えないでしょう。自分の生活、自分の人生に満足している人が、幸せな人なのです。たとえ貧しい生活をしていても、それで満足感を得ていれば、その人は幸せなのであり、たとえ大金持ちであっても、満足感を得ていなければ、その人は幸せではないのです。
 では、満足感はどんなときに得られるのでしょうか?
 それは、何らかの欲求が満たされたときです。
 つまり、満足感ということには、その前提として、何らかの欲求が存在していることになります。欲求が満たされることが満足感であり、それが一般に、私たちのいう「幸せ」ということになるわけです。

 地上世界で幸せになることは不可能
 では、満足感を、完全に満たすことはできるでしょうか?
 つまり、完全に幸せになることはできるでしょうか?
 結論から言えば、肉体をもってこの地上世界に生きている限り、それは不可能です。
 なぜなら、肉体の欲望にはきりがなく、地上世界は、そのきりがない欲望をどこまでも満たしてはくれないからです。美味しいものを食べれば、もっと美味しいものを食べたくなります。きれいな女性やイケメン男性を恋人にできても、世の中にはさらに上がいますから、もっときれいな、もっとイケメンな男性を恋人にしたくなるでしょう。そうしたら、たちまち不満(欠乏感)に見舞われて苦しむことになるわけです。
 また、肉体の欲望のみならず、精神的な欲望というものもあります。
 そのもっとも大きなものは「自分の思い通りにしたい」という支配欲と、「認められたい」という名声欲の二つです。金持ちになりたいのも、出世したいのも、「好きなものを思い通りに手に入れたい、自分の思い通りに人を従わせたい」という欲求、つまり支配欲を満たしたいからであり、成功したり有名になりたいのも、「自分が認められたい」という欲求、つまり名声欲を満たしたいためなのです。
 こうした精神的な欲望を、仮に「エゴ」と呼ぶとすると、エゴは基本的に利己主義であり、そのために支配欲や名声欲が生まれてくるのですが、多くの人がエゴの欲求を動機として行動しています。「エゴに操られている」と表現してもいいでしょう。基本的に社会というものは、こうしたエゴを土台に成り立っているのです。
 肉体と同じように、精神的な欲求である支配欲も名声欲も、きりがありません。世の中には、上には上がいます。ですから、自分より何らかの点ですぐれた人を見ると、嫉妬や羨望の感情が芽生え、不満になったり、ときには憎悪まで抱いて、上に立とうとします。そうして必死にがんばり、たとえ上になったとしても、さらに上の人間が、世の中には存在するものです。そこでまた不満になります。要するに、すべてにおいて自分が一番でなければ満足できないのですが、そんなことはどう考えても不可能です。
 ですから、人は大なり小なり不満をかかえて、悶々として生きることになるのです。
 もちろん、支配欲にしても名声欲にしても、ときにはうまくいって、満足感を得られることはあります。しかしそれは、一時的です。世の中のあらゆるものは変化しています。お金持ちになっても、いつ会社が倒産して貧乏のどん底に突き落とされるかわかりません。いつやっかいな病気に侵されて身体の自由が奪われるかわかりません。お互いに愛し合っていたはずの恋人や友人や家族なども、いつ心変わりして別れたり、冷たい関係になるかわかりません。
 仮に百歩ゆずって、このようなことが起こらなかったとしても、肉体の老化と死は必ず訪れます。いくら満足感をもたらしてくれたものを所有していたとしても、肉体が老化して寝たきりになってしまえば、もはやそのようなものは、ないに等しいと言えるでしょう。そして、最終的には、死によってすべてが失われてしまうのです。
 このように、地上世界では、せいぜい一時的な満足感(幸せ)を得ることができるだけで、いずれ失われてしまう、きわめてはかないものです。現実には、一時的な満足感を得ることすら簡単なことではありません。
 この地上世界では、完全で、なおかつ永続的な満足感(幸せ)を得ることは、できないようになっているのです。幸せであり続けることは不可能なのです。むしろ、幸せよりも苦しみの方が多いとさえ言えるでしょう。
地上世界で幸せになることは、原理的に不可能であり、この地上において、完全で永続的な幸せを探すことは、存在しないものを探すようなものです。

 ほとんどの人はそれなりに生きていけるが、しかし……
 ところが、それでもほとんどの人は、それなりに何とか生きて一生を終えています。なかには「幸せな一生だった」と語って亡くなる人もいます。
 そういう人は、人生の目的や本当の幸せなどといったことは、あまり深く考えない人なのだと思います。辛いことがあっても、酒や娯楽などでごまかしながら、一時的な満足感(幸せ)をうまくつないでいきながら、なんとか一生を終えていくわけです。
 なかには、過剰な欲望を抑え、他者と自分を比較しないようにし、「足ることを知る」を生活のモットーにして、つつましく生きる人もいます。そういう人は、欲望が少ないぶん、満足感に満たされやすくなりますので、それなりに幸せに生きることができるでしょう。こういう生き方は賢明だと思います。
 ただしそれでも、人生の悲惨な苦しみに見舞われたなら、そのような幸せさえも、はかなく崩れ去ってしまうでしょう。そして、そうした悲惨な出来事は、いつ誰に起こっても不思議ではないという点で、やはりこの人生において、完全で永続する幸せを得ることは不可能だという結論になってしまうのです。

 人は苦難に見舞われて地上人生の実相が理解できる
 大きな苦難に遭遇した時、あるいは、病気や高齢などで「死」というものが間近に迫ったような時、それをきっかけに、人生の目的や本当の幸せについて深く真剣に考え、何としてもその解答を知りたいという、非常に強い願望と探究心が湧いてくることがよくあります。
 あるいは、そういう経験がなくても、若い頃から人生の目的や本当の幸せについて深く知りたいと熱望する人もいます。思春期くらいには、誰でもこうしたことは多少なりとも考えたりするものですが、ほとんどの人はやがてこの世の物質的なものに気持ちを奪われて考えなくなります。
 ところが、少数ながら、思春期を過ぎても、いつまでも考え続ける人がいるのです。そういう人は、この世の物質的な楽しみでは慰められません。そうしたもので悩みをごまかして生きることができないのです。
 いずれにしろ、地上人生について、深く考えれば考えるほど、幸せをつかむことがいかに困難であるか、わかってきます。幸せをつかむどころか、苦しみに満ちていることがはっきりしてきて、徹底的に打ちのめされることになります。

 地上人生が苦しみであることは明白な事実
 こうした考えは、いわゆる「悲観主義」といったようなものではありません。「主義」の問題ではなく、あくまでも事実なのです。このことをしっかりと理解していただきたいと思います。
 たとえば、この地球上には、あまりにも悲惨なことが起こっています。これは誰もが認める事実でしょう。戦争や自然災害といった大きなことから、難病にかかったり、事件や事故に巻き込まれるなど、言語に絶するひどい苦しみを味わい、むごい死に方をする人が数多くいます。
 ところが私たちの多くは、「自分にはそのようなことは起きない」と、根拠のない奇妙な思い込みを持っている傾向があります。その証拠に、悲惨な苦しみに見舞われた人の口からしばしば「なんで私が!」という言葉が出てくるのです。「なんで私が!」という言葉の裏には「私がこんなめに遭うはずはない」という思いがあるからでしょう。
 しかし現実は、どんな人も、むごい死に方をする可能性があるのです。これは事実であって、誰も否定はできないでしょう。ですから、そのようなむごい死に方をする可能性が誰にも存在するという点において、この地上世界は、苦しみそのものなのだと言うことになるのです。
 それでも、こうした見解に否定的な人は、おそらく、自分は悲惨な経験をしていないか、あるいは想像力が貧しいかの、いずれかではないかと思います。実際に自分が、あるいは自分の愛する人が、むごい死に方をするのを目の前にしたならば、人生というものが持つ、容赦ない残酷さに、言葉を失うはずです。
 もちろん、人生には楽しいこともあります。しかし、あまりにもひどい苦しみを帳消しにするほど楽しいことなど、存在するでしょうか? たとえば、あなたの子供が変質者によって残酷な仕方で殺されたとします。その後、「楽しいこともあったから、子供があんな殺され方をされたけれど、まあいいや」と思えるほどの「楽しいこと」など、存在するでしょうか。
 もしあなたが人生に幸せに感じているとしたら、それは、たまたま悲惨なことが起きていないからにすぎません。言語に絶する悲惨なことが起こったら、地上人生の本質は苦しみであることを、実感として理解できるようになるはずです。この地上世界というところは、きわめて不安定で危険な場所なのです。
 想像力が豊かで思慮深い人であれば、実際に悲惨なことを経験しなくても、そのことがわかるはずです。
 いま人生が何らかのことで楽しくて仕方がない人も、理解はできないでしょう。そういう人にとって、こうした記事は不愉快に感じるかもしれません。しかし人生は、「一瞬先は闇」です。喜びの絶頂から、いっきに暗黒の絶望に突き落とされることもあります。そのときになって、人生というものの本質に気づくことになるでしょう。
 決して、あなたを落ち込ませるために、こうしたことを書いているのではありません。あくまでも事実を述べているだけです。なぜなら、まずはこの事実を悟らないと、本当の幸せに向けて歩み出すことができないからです。

 古今東西の偉人たちが説いた「救いの道」
 このように、地上世界の闇の深さを徹底的に知りぬいた人が、地上で幸せを求めることに絶望を感じてあきらめ、地上ではない領域に、救い(幸せ)を求めるようになるのです。これは、いわゆる「現実逃避」ではありません。これから展開される説明を読み進めていけば、その理由がわかってくるはずです。
 さて、この地上を越えた領域に関する問題を扱うのが、いわゆる哲学や宗教、スピリチュアルということになります。ですから、必然的に、真の救いを求めて、そうした世界に入っていくようになります(ただし、そうした世界に入っていく人すべてが真の救いを求めているとは限らず、ただ単に地上的なエゴを満たすために入っていく人も数多くいます)。
 では、偉大な哲学者や宗教者たちは、どのような救いの道を説いたのでしょうか。
 表現の仕方には若干の違いはありますが、おおむね共通していることはこうです。すなわち、
 「人間という存在は単なる肉体ではなく、その本質は魂であり、地上世界は、ほんらい魂が住む場所ではなく、魂の住む場所は、高い霊的世界である。救いとは、高い霊的世界に移行することであり、この地上世界は、そのための修行の場である」
 霊的世界においては、肉体はありませんから、魂は肉体的な欲望から解放されます。これがまず何よりの救いとなります。なぜなら、食欲や性欲といった欲望、体調の変化によるさまざまな不快な気分などに悩まされることがなくなるからです。そのため、晴天のように爽やかな気持ちになります。また、病気からも、老いからも、死の苦しみからも解放されることになります。
 ただし、地上世界に生きている間、肉欲に溺れて過ごした人は、肉体がない状態になっても、その欲望が魂の汚れという形で付着しているため、肉体的な欲望から解放されません。しかもやっかいなことに、肉体がありませんから、肉体的な欲望を満たすことができなくなります。そのため、死後には苦しみを味わうことになります。
 また、霊的世界は、「類は友を呼ぶ」法則によって支配されています。つまり、同じレベルの似たような魂が集まり、そこに、ある種の領域(フィールド)が形成されるのです。単純に言えば、悪人の魂どうしが集まって「悪人の世界」が形成されます。悪人とは「自分さえよければいい。そのためなら他者を害してもいい」という人のことですから、悪人が集まった世界をはたから見ると、奪い合いと傷つけあいという、とんでもない修羅場が展開されるのがわかります。そのために、大変に苦しい世界であり、俗に言う「地獄」というのは、おそらくこの領域のことをさしているのではないかと思われます。
 一方、善人の魂どうしが集まる世界もあります。そこでは、思いやりや愛を中心に、あらゆる美徳の行いが見られます。これがいわゆる「天国」と呼ばれる領域なのでしょう。この高い霊的世界に移行すると、もう二度と地上には再生せず、永遠に至福の生を送ることになります。
 さて、人間の救い、本当の幸せというものは、高い霊的世界に移行し、そこの住民になることです。
 なぜなら、その世界では、肉体の欲望や無常さから解放され、なおかつ、(善き)魂は、魂自身が本来もっている喜びを味わうことになるからです。言い換えれば、欲求を満たすために何らかのものを必要としないのです。そのため、完全かつ永遠なる満足感(幸せ)に満たされることになります。
 古今東西の聖人たちは、この高い霊的世界に移行することが、人間の救い、すなわち、本当の幸せであると説いたのです。地上世界で成功したり、お金持ちになるといったことを救いだと説いたのではありません。
 なお、悪人でもないし善人でもない、いわゆる平均的な人は、中間的なレベルの霊的世界で、しばらくの間、そこそこ幸せに暮らした後、やがて地上に生まれ変わってきます。「地獄」の悪人も、かなり長い間、苦しい霊的生活を経た後、やはり再び地上に生まれ変わってきます。
いずれにしろ両者は、地上世界とは、高い霊界へ移行するために、魂をきれいにする場所だということを悟り、それが達成されるまで、何回も生まれ変わりをくり返すことになります。後にも触れますが、魂をきれいにすることが、この地上世界にきた目的なのです。
 ところで、問題は、はたしてこうしたことが真実かどうかです。真実であると実証されているわけではありません。ですから、真実でなかった場合のことも考えておく必要があります。この点については最後の方で触れることにして、とりあえず今まで述べたことは真実であると仮定して、話を続けていくことにします。

 地上世界に生まれてきた目的
 魂そのものは、すべて善です。悪い魂というものは存在しません。悪人とは、魂にエゴという汚れが付着して、本来もっている善の特性が発揮されていない人のことです。エゴという汚れを完全に洗い浄めた魂が、本来もっているその善性が発揮され、「天国」に移行するのです。そして、まだ汚れが付着している魂は、霊的世界と地上世界の生を繰り返し送りながら、汚れをだんだん落としていくようになっているのです。
 ところで、「汚れを落とす」という観点からすると、霊的世界よりも地上世界の方が、いろいろな意味で効率がよいのです。そのために、霊的世界でしばらく過ごした後で、魂は自らを浄めるために、地上世界に再生してくるのです。
 どういう点で効率がよいかというと、霊的世界は純粋な精神の領域ですから、汚れのせいで精神的に苦しみます。苦しむことによって汚れが落ちていくのです。しかし、精神の苦しみというのは、非常に辛いものです。
 ところが、地上に降りて魂が肉体をまとうと、肉体の苦しみ、たとえば病気や怪我、老化、死などを経験することになります。そうした苦しみを味わうことで、魂に付着した汚れを落とすことができるのです。もちろん、肉体の苦しみも辛いものですが、精神の苦しみよりはましなのです。
 ですから、ある意味でこの地上世界という場所は、肉体的な苦しみを受けるための場所である、とも言えるわけです。こう考えるとわかるように、私たちはもともと、苦しむためにこの地上にやってきたわけです。だから、くり返しますが、この世界は本質的に苦しみということになるのです。
 ところで、肉体があれば、肉体的な欲望も生じます。それは魂にとって「誘惑」となり、その誘惑と闘う必要が出てきます。誘惑との闘いに勝つには、正義、節制、忍耐、その他、あらゆる徳を総動員しなければなりません。そのために、魂は自らの特徴である善性が鍛えられ、強化されることになるのです。善性が強化されるということは、人格が向上するということであり、そのために死後、「類は友を呼ぶ」法則によって、すみやかに高い霊的世界へと必然的に移行するようになるわけです。
 地上世界という場所は、言ってみれば「魂のトレーニングジム」のようなものです。重いバーベルを持ち上げて筋肉を鍛えるように、苦しみという重いバーベル、誘惑という重いバーベルを持ち上げることで、魂の力が鍛えられていくわけです。
 他にも、地上世界に来た目的はいろいろあります。
 たとえば、地上世界は無常ですから、悲しみや苦しみに満ちています。しかも、現在の人類の霊的レベルからすれば、低いレベルの人が蔓延していますから、裏切られたり、忘恩で報われたり、いじわるをされたりといったことが、多少なりとも人間関係を通して起こります。しかし、そうしたことを経験することによって、魂に付着した汚れを落とすことができるのです。
 まとめるなら、魂が地上世界に来た目的は、魂の浄化と鍛錬、この二つです。そして、その目的は、死後に高い霊的世界に移行するためなのです。

 本当の幸せとは
この地上人生は、浄化と鍛錬が目的なのですから、耐えられる限り、数多くの悲しみや苦しみを経験した方がいいのです。そうすることによって、魂に付着した汚れが落ちて清浄となり、また鍛えられて魂の徳が強化され、死後に高い霊的世界に移行して、そこで本当の幸せを得ることができるようになるからです。
 もし、そのように浄められ、鍛錬された魂が待っているすばらしい霊的世界の様子を、たとえわずかでも垣間見たら、この世のあらゆる悲しみも苦しみも、喜んで引き受けるようになるだろうと、多くの聖人たちが異口同音に語っています。
 高い霊的世界の幸福は、地上の幸福とは比較にならないほどすばらしく、しかも永続的だとされています。たとえば、この地上人生で「これ以上、幸せなことはない!」と思えることでも、高い霊的世界から比べれば、そんなものは幸せの名に値しない、ゴミのようなつまらないものであるとさえ感じるようです。そのくらい、高い霊的世界の幸せというものは、私たちの想像をはるかに超えた、言語に絶する幸せだということです。
 逆に、そうした高い霊的世界から地上を見るならば、地上はいかに悲惨で、深い闇と汚らわしさ、苦しみに満ちている世界であるかがわかります。何事もそうですが、他に比較する対象がないと、実体というものがわからないのです。私たちは、この地上世界しか知らないから、まんざら悪いところではない、すばらしいところだと思ったりするわけなのですが、しかし、わずかなりとも高い霊的世界をかいま見たならば、この地上世界は苦しみそのものだということを瞬時にして悟ることができるでしょう。そうすれば、こんな世界で富や名声を血眼になって追い求めることが、いかに虚しい生き方であるか、わかるはずです。

 死後に救いを求めることは現実逃避か?
 死後に救いを求めるなどというと、世間は「現実逃避をしている」と批判するかもしれません。
 しかし実際には、死後の救いをめざして生きることは、現実逃避どころか、もっとも現実的に生きることになります。なぜなら、死後の救い、つまり、死後に高い霊的世界に移行するには、この地上世界において、一生懸命に人格の向上を優先した生き方をしなければならないからです。すなわち、この世において、苦しみを乗り越えながら、果敢に徳を養い、徳を実践する生き方をしなければならないのです。一言でいうと、立派な生き方をするということです。これは現実逃避とはまったく反対の生き方と言えるのではないでしょうか。
 ただし、この世的な名声や富の獲得といった野心に燃えることが「現実を生きる」と考えている人にとっては、高い霊的世界をめざす人はそうした野心は持ちませんから、現実逃避しているように見えるかもしれません。しかし立派に生きるということが、名声や富よりも、人生において何よりも価値あるものではないでしょうか。
 さきほど地上世界をトレーニングジムにたとえましたが、魂の自由が奪われて狭く汚い地上世界に縛られるという点では、牢獄にたとえることもできます。
 しかし、牢獄に入れられても、立派な行動をして模範囚となれば、刑期が短くなり、それだけ早く牢獄から抜け出すことができます。牢獄において立派な行動をして模範囚になろうとすることは、現実逃避でしょうか? それどころか、牢獄生活において、最高に意義ある過ごし方ではないでしょうか。
 いうまでもなく、牢獄は、まともな人間が住む場所ではありません。何らかの理由があって過ちを犯した人が、罰を受けるために収容される場所です。
 同じように、この地上世界も、まともな人間が住む場所ではないのです。もしこの地上世界が、ほんらい人間が住む場所であるならば、死後の世界なんかよりも、この地上世界で成功し、富や名声を獲得すべく果敢に挑んでいくべきでしょう。しかし、くり返しますが、この地上世界は、私たち人間が住むべき場所ではないのです。異常な場所に幽閉されているのです。本来、いてはいけない場所にいるのです。このことをはっきり認識しないと、高い霊的世界をめざしている人は、単なる「変わり者」か「狂信者」にしか見えないでしょう。
 牢獄に閉じ込められた囚人が、いつかそこから解放されることを願うのが当然であるように。この異常な場所から脱出するという考え方こそが、もっともまともな考え方なのです。

 もし霊的世界など存在しなかったらどうなるか?
 とはいえ、次のように言う人もいるかもしれません。
 「本当に霊的な世界なんて存在するのか? 死んだら無になるだけではないのか」
 確かに、霊的世界の存在を証明することはできません。もしかしたら、霊的世界も、魂も、生まれ変わりも、存在しないかもしれません。
 そうだとしたら、あなたはどのように生きるでしょうか?
 この世の欲望をどこまでも味わい尽くすために、人格の向上などは犠牲にして、この世の富や名声を獲得する生き方を選ぶでしょうか?
 もちろん、そうしたい人はそうすればいいと思いますが、しかし何事も、予想や推測がはずれたときのことを考えておく必要があります。いわゆるリスク管理です。それをしなければ、予想や推測がはずれたとき悲惨なことになります。人間は完全ではないのですから、予想や推測がはずれることは少なくありません。
 つまり、霊的世界は存在しないかもしれないが、もし存在していたらどうするか、ということです。
 人を傷つけてまで自分の欲望を満たすために地上人生を生きてきた人は、霊界の低い世界に移行し、そこでかなり長い間(数百年から数千年)、激しい苦しみを味わうことになると言われています。地上人生の、せいぜい長くて百年間という短い時間、たとえ欲望を満たし得たとしても、死後に、その何倍も何十倍も長い間、激しい苦しみに見舞われるとしたならば、まったく割に合いません。悲惨もいいところです。
 しかし、逆に、長くて百年という短い地上人生が、たとえ悲しみや苦しみの連続だとしても、それにじっと耐えて人格の向上を果たした人が死後に待ち受けている、地上とは比較にならないほどすばらしい至福に、永遠に満たされることになると思えば、これほど割に合う、すばらしいチャンスはないとも言えるでしょう。この世的な表現をすれば、わずかな投資金で大金持ちになるようなものです。
 仮に、死後の生、霊的世界も魂も、そのようなものはいっさい存在せず、人間とは単なる肉体にすぎず、死んだら無になるだけだとしても、苦しみに耐えて人格を向上させる生き方をしてきたことを、はたして後悔するでしょうか?
 ほとんどの人は、後悔しないと思います。むしろ、そんな自分に満足感さえ覚えるでしょう。
 人格を向上させる生き方をし、つまりは、自分に徳が身につく生き方をして、「私は成長したなあ、前よりも立派になったなあ」と感じるとき、そのときには、魂自身がもっている喜びが、胸の奥から湧き出てきて、何ともいえない幸せな気持ちになれるのです。そのような幸せ(満足感)は、この世の名声や富などよりもずっと心を満たしてくれるものです。たとえ、この世的にはさまざまな苦悩があったとしてもです。
 ですから、人格の向上を人生の目的にせず、利己主義を発揮してこの世の物質的野心を満たす生き方をした場合、この世的な享楽は得られるでしょうが、もし霊的世界があった場合、非常に悲惨で長い苦しみが待っていることになります。
 一方、人格の向上を人生の目的に生きた場合、もし霊的世界があったら、本当の幸せが待ち受けていることになります。もし霊的世界がなくても、心の満足が得られ、後悔なく人生を終えることができます。
 つまり、人格の向上を人生の目的に生きるならば、霊的世界があってもなくても、どのみち損はないということになるのです。

 イデア ライフ アカデミーでは、「人格の向上」と、その結果である「二度と地上に生まれ変わらず高い霊的世界に移行する」という、二つの目的をもって、そのための参考となる古今東西の思想を紹介しています。正しい人生の目的にそった生き方をして本当の幸せをつかみたい方は、ぜひご参加ください。
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