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                    マルタン・グレイ物語

 偉人の人生に学ぶというテーマで、ユダヤ人の作家であり実業家のマルタン・グレイの半生を、彼の自叙伝『愛する者の名において』 ( 早川書房)をもとにご紹介いたします。ナチス強制収容所の地獄を経験したのみならず、その後、火事で家族全員を失うという悲惨な苦しみを、彼はどのように乗り越えていったのか?


 ユダヤ民族の歴史は、苦難の連続であった。イスラエルの地を追われて以来、流浪の民として、あいつぐ迫害や虐殺に見舞われてきたのである。中でもナチスによるホロコーストは、六百万を越える同胞が虐殺された、民族最大の危機であった。
 ユダヤ人の細胞には、こうした先祖たちの苦難の記憶が、まさにホログラムとして刻まれているように思われる。そして苦難に遭遇するたびに、そのホログラムをよみがえらせ、先祖たちが蓄積してきた知恵と勇気に生命を宿し、試練を乗り越え、その血筋を絶やすことなく受け継いでいったのだ。
 そんなユダヤ人のひとりを、これから見ていきたいと思う。
 一九二五年生まれの作家、マルタン・グレイ(Martin Grey)である。

 マルタン・グレイは一九二五年の四月、ポーランド系ユダヤ人としてワルシャワに生を受けた。しかしながら、自分の「本当の誕生日」は、一九三九年、ナチス・ドイツがワルシャワに侵攻した十四歳のときだったと彼はいう。「私は戦争になると同時に生まれ変わった。サイレンがうなりをたてたかと思うと、爆撃機群が屋根すれすれに飛来して車道にその影を落とし、路上の人たちは両手で頭を抱えながら右往左往していた」
 マルタンの父親は、靴下や手袋を製造・販売する工場を営んでいた。母と二人の弟と共に、楽しい食卓を囲む平和で幸せな生活は、戦争の勃発と同時に永遠に失われたのである。戦闘機が押し寄せ、爆弾が投下され、街は破壊され、火災と煙が巻き起こった。
 同時にドイツ軍は「この戦争はユダヤ人が望んで始めたもので、ユダヤ人はその代償を払わなければならない」などとラジオ放送を流し、市民の反ユダヤ感情を煽りたてた。父親は軍服に着替えてワルシャワ軍に参加していき、残された母と弟たちを守るのはマルタン少年の役目になった。街を歩くと、地に染まった担架に横たわる兵士たち、泣きわめく女や子供、崩壊した瓦礫を掘り起こす家族の姿があった。こうした惨状を見たマルタン少年は思った。
「なぜドイツ国民は、僕たちの生活を荒らすのだろう? なぜユダヤ人を憎むのだろう?」
 水道は止まり、食料も底をついた。配給をしている兵士たちに人々が群がっていった。彼も駆け寄っていった。だが、そこで耳にしたのは「ユダヤ人は抜きよ。ポーランド人が先だわ。ユダヤ人には何もやらないでちょうだい」という市民の声であった。マルタン少年は悟った。「生きるのが肝心で、動物のように飲んだり食べたりすることを覚えなければならない。私は人間の本性がわかった。人類などというものは消滅したらしい・・・」。マルタンは、家で待っている母と弟たちを養うため、争うように食料や水をつかみ取って走り去った。
 まもなくワルシャワは陥落し、ドイツ軍が街を占拠した。ユダヤ人は食料の配給を受けられないので、マルタンは父親の工場で作られた手袋をひっそり売りさばいた。零下を下回る極寒の冬が訪れると、多くのユダヤ人が道路工事などの労働を強いられた。マルタンも連れていかれた。そして、兵舎の食堂から一匹のニシンを盗んだとして、スコップでめった打ちにされたあげく銃で殺された青年、凍りつくような街路で、年老いたユダヤ人を裸にし、片足で立たせて熊の真似をさせて喜んでいるドイツ兵士と市民たちを見た。
 マルタンは、自分たちに向けられた、理解に苦しむほどの憎悪、いわれもなく生命を奪う憎しみに対して恐怖と当惑を覚えた。「人間などいなくなった。ここにいるのは畜生ばかりだ」。 まもなく、ユダヤ人隔離地域、いわゆるゲットーが作られた。このゲットーから出ようとする者は、たとえ子供でも撃ち殺されたのである。ユダヤ人たちは、疲労と飢えと寒さで次々と死んでいった。しかし十五歳になったマルタンは、ひそかにゲットーを抜け出して食料などを買いつけては、金を所有している人々に売ったり、死にそうな人には施す活動を始めた。いうまでもなく、それは一歩間違えば死に直結する危険な行為であった。
「私はこの生命を危険にさらしている。しかし、関所破りをやめ、ゲットーに生き生きした赤い血を通わせるこれらの小麦粉をもちあげる作業から手を引くことは、私にとっては死にもひとしい」
 マルタンは、自分たちを迫害して無力にしているナチスに対して自由にふるまうことで、自信を身につけていった。彼はあらゆる手段を講じた。得た金でナチス兵士や商人を買収したり、生粋のポーランド人であると証明する通行許可証などを偽造した。なかには、見て見ぬふりをしてくれたナチス兵士もいたという。
 クリスマスの頃には、気温は零下十五度まで下がった。ゲットーの街には、身体を寄せながら手を差し出すボロ服を着た孤児たちがたくさんいた。
「通行人にすがりつく骸骨のようにやせ細った子供たちや、生命が風前の灯の乞食たちや、また、笑顔をつくろいながら手を伸ばす厚化粧の女を見るにつけ気がひけることもある。それをくい止められないのがうしろめたい」
 マルタンは、数人の密輸仲間を組織して、この危ない仕事を拡大していった。ときには怪しまれてひどく殴られたり、死ぬほどの拷問にかけられたりしたが、からくも逃れてきた。逃走の途中で侵入したアパートで、人形を抱きながら餓死している少女、(母親が殺されたために)ひとり残されて泣いている赤ん坊、おかされた末に殺された女性の死体などに出会った。
 あるとき、十二歳ほどの「密輸人」が、りんごの袋を背中にかついで駆けていくのを憲兵に見つかってしまった。憲兵はその子供をつかまえ、こずきまわしたあげく、短剣を取り出して子供の頭に突き刺すのを見た。「おそらく、喉を刺そうとしたのだろうが、子供が動いたのだ。子供は朱にそまった額を押さえながら逃げ出したが、そのうちよろめいて歩道に倒れ込んだ。すると、ひとりの女が家から出てきて散らばったりんごをひろいはじめた。憲兵が狙いを定めて平然と引き金を引いた。ふたりめの死体が車道にころがった・・・」
 そしてついに、いわゆる「ユダヤ人狩り」が始まった。強制収容所へ連行するためである。
「われわれは、自分の力で逃げのびるよりほかはなかった。私は何千人という他の連中と同じように走った。はやくもザメンホファ通りで、つかまった人たちが集められ、他の通りでは、路上でユダヤ人狩りにあった避難民とか老人とか乞食とか、孤児たちが車道に押し出される。ユダヤ人警官たちが警棒をふりあげて、大声で指図する。今夜は、奴らに六〇〇〇人が必要なのだ」
 ついにマルタンもつかまり、父の所在がつかめぬまま、母親と弟と一緒に、収容所へ向かうすしづめの貨物汽車に乗せられてしまう。行く先はトレブリンカ強制収容所であった。マルタンは十七歳になっていた。
 ほぼ一昼夜の間、貨車は走り続けた。到着すると、兵士らの殴打をうけながら裸にさせられ、作業着とジャガイモの浮かんだ水桶を与えられ、男女別に有刺鉄線で囲まれたバラックに押し込められた。そして、強制労働の日々が始まったのである。
 ぐずぐずしていると顔を殴られた。顔にあざのある者はまもなく呼び出され「検疫所」に連れていかれる。死刑執行の場所である。「作業中に手をゆるめるだけで、すぐに死。運ぶ荷が軽すぎるといっては死。わずかの食べ物をほおばったばかりに死」であったという。
 だが、どのみち夜中になると、自ら命を断つ者が続出した。「箱がひっくり返る耐え難い音に続いて、身体ががくんと伸びるなり、もれてくるあの苦しげなあえぎ声を耳にした」
 マルタンは、そのたびに自分にいいきかせた。「生きなければだめだぞ。大声で叫んで訴え、復讐するために生きるのだ。おまえの同胞たちがおまえの力でよみがえるために」
 この収容所から少し離れたところに「下の収容所」と呼ばれる施設があった。マルタンはそこに連れていかれた。そこには「検疫所」と、死体を埋める巨大な穴があった。この世の地獄の中でも最低の地獄であった。マルタンは「検疫所」から次々に送り出される血だらけの死体をかつぎあげては走り、いったん死体の口の中を調べて金歯を抜く仲間のところで足をとめ、それが終わると壕の中に放り投げるという作業をさせられたのである。「いつも駆け足で、ときには子供三人の死体を担架に横に並べて積むこともある。走り方の遅い連中とか、軽い死体しか積まない者がいると、自分たちが壕の中に突き落とされる」
 疲れ果ててバラックに戻ると、今度は自殺を阻止するために活動する。「バラックの中では、自殺があいつぎ、毎晩、私はそれをくいとめようとつとめる。壕や積み重ねられた死体をこの目で見たことがあるわれわれこそ、証人として生き残らねばならないからである」
 その一方で、マルタンは必死になって脱走の方法を練った。そしてナチス親衛隊のトラックがバラックに止まり、人影が見えなくなった一瞬のすきを狙ってトラックの下にもぐりこむと、自分の身体と車体とを、数本のベルトを使って結び合わせた。これは、自殺者が首吊りのために使用したベルトをこっそり確保しておいたものである。
 何も知らずに、トラックは「下の収容所」から去り、これより少しはまともな収容所までマルタンを運んでいった。チャンスを見てトラックの下からはいだし、労働している一群に飛び込んでいって何食わぬ顔で一緒に作業を始めた。最低の地獄からの脱出は成功した。
 続いてマルタンは、貨車の荷積班にまぎれこんだ。そして貨車に荷物を積んでいるとき、監視の目を盗んで荷物の隙間に身を隠した。貨車の扉は閉じられ、貨車は動き出した。しばらく走った後、貨車の壁板をはがし、そこから飛び降りた。こうして、トレブリンカ強制収容所から脱走したのである。
 マルタンは、沼地の野原や森を歩き続け、畑仕事をしていた農民からパンとベーコンを恵んでもらう。「私はいまさらのように食べ物の味を味わいながら、おいしいこの聖餐のパンをゆっくり食べた。十分にかみしめることができる。殴り殺されないために、ただ、そそくさと飲み込むだけではないのだ。お百姓さん、ありがとう。人間らしい男にめぐり会えたのはありがたいことだ」
 マルタンはひたすら歩き続けてザンブルフの街に到着する。この街では、ドイツはユダヤ人を労働力として利用しており、迫害や強制収容所への輸送も行われていなかった。だが、まもなく、この街のユダヤ人もトレブリンカに送られることは必至だった。マルタンは街中をかけめぐり、自分が体験したトレブリンカのことを話し「逃げなさい! 逃げなさい!」と叫び声をあげた。だが、人々は耳を貸そうとはしなかった。「まさか。ドイツ軍だって狂人じゃあるまいし。おい。この男の話なんか聞くんじゃないぞ。こいつは頭がおかしいんだ」。
 そんなことをしているうち、身分証明書の不携帯を理由に司令部に連行され、ひどい拷問を受ける。そのとき、通訳にあたったドイツ兵士が「ここで殺したら、埋めなければなりませんよ。いちばん手間が省けるのは、収容所へ連れていくことでしょう」と上司に食い下がり、拷問をやめさせた。そして収容所の番兵に彼を引き渡すとき、このドイツ兵はマルタンの両手を握りしめて、耳元でこういったという。
「(この収容所から)逃げるんだよ、逃げるんだよ」。
 マルタンは機会をうかがって便所の穴に飛び降りると、糞尿のなかを首までつかって姿を隠した。そして夜中にはい出して柵を乗り越え脱走した。そして、苦労を重ねながらワルシャワに帰りつき、父との再会を果たす。固く抱き合いながら、溢れかえる胸中に思いをはせた。
「どうして、戦争やゲットーやトレブリンカがあるのだろう? 人間の狂気や、人間の顔をした動物どもの蛮行は何に由来するのか? お父さん、お父さん、どうしてなの? お父さんの生きた身体と再会できるこれほどの喜びがある反面、あの壕や死んだ子供たちがいるのはなぜなの? お父さん、この世界といい、このひどい乱暴狼藉といい、いったいどうしてなの?」
 マルタンは、父と一緒にレジスタンスに参加し、反撃の準備に備える。
 父がマルタンによく話したことは、人間が貧困や不正という傷ときっぱり縁が切れるような社会、いやしい利害関係とは縁のない、人間らしい関係の世界であったという。そして何があっても生き延びるのだと、力強く繰り返した。「生命というものはね、マルタン、それこそ神聖なものなのだよ。おまえが後に子宝に恵まれるようになってほしい。そのときには、おまえのすべてを授けるのだよ。子供は神聖なのだから」
 そして、いよいよ戦闘決起の前夜、仲間がナチス親衛隊に殺されたとの知らせを受けた父がいった。「彼は徹底的にやりぬく男だった。マルタン、おまえも男なのだから、とことんまでやりぬくのだよ」。窓際から差し込める月の光で、父の頬をつたわる涙が見えた。「どうしてこんな話になったのかな。おまえはとうに、とことんまでやったのにな。マルタン。いくどとなく。おまえこそ、とうの昔から本物の男だ」
 これが、父との最後の会話になった。マルタンは心の中でつぶいやいた。
「そこまでいってくれてありがとう、お父さん・・・」
 一九四三年四月十九日、ワルシャワのゲットーは一斉蜂起し、街はまたたくまに阿鼻叫喚の地獄と化した。レジスタンスは銃や手榴弾や火炎瓶でドイツ兵を襲撃した。火だるまとなって逃げていく兵士たち。だが、彼らは戦車や歩兵団を駆り出して激しい攻撃を浴びせかけてきた。負け戦はわかりきっていた。あちこちで建物が崩壊し、火災が発生し、黒煙が街全体をおおって太陽の光をさえぎった。武器をもたない者は素手で突進していった。頭からガソリンをかけ、自ら火だるまになって戦車にとびかかっていった女性もいた。煙と炎にまかれた建物の窓から助けを叫ぶ人々、熱さと煙に耐えられずに路上に激突していく人々がいた。銃声と悲鳴と怒号と爆音が四方から飛び交った。病院を襲撃したナチス兵士たちは、病人を生きたまま焼き殺し、赤ん坊の頭を壁でたたき割り、妊婦の腹を裂いて殺した。
 数日後、ついにマルタンの父親もナチス兵士の凶弾を浴び、手榴弾で吹き飛ばされてしまう光景を目のあたりにしていたマルタンは心の中で叫んだ。
「お父さん、さようなら。私の頬にあたる堅いごま塩まじりのお父さんのひげも、やさしく力強いお父さんの声も、私の肩にあてがわれたお父さんの手も、お父さんの言葉も、さようなら。お父さんが正しい社会や、社会の傷や泥とは無縁の人に出会うことは、もうなくなってしまった。私を一人前の男にしてくれたお父さん、さようなら・・・」
 二週間ほどたち、この負け戦が終わりに近づいたとき、マルタンはゲットーから脱出する。
「私の両親と同胞たちと家族よ、私の民族よ、みんな聞いてくれ。私の生命が続く限り、毎朝、諸君が私の心に宿って一緒に生活ができるように、諸君をよみがえらせてやるぞ!」
 事態が沈静化されたときには、ゲットーは完全にやけ落ちで廃墟となっていた。
 その後、マルタンはソ連の赤軍に加わり、中尉となってベルリンに向かった。十九歳になっていた彼は、姿をくらましたナチス党員や、ユダヤ人を迫害したりナチスに密告した民間人を暴き出す活動に従事した。あるとき、ザンブルフ近くの村に、そんな男がいた。この男は酒代欲しさに、子供を抱えて生活に貧窮しているユダヤ人家族に対し、食料を与えるといっては持ち物の一切を取り上げたあげく、最後はナチスに密告して賞金を得ていたのである。
「死んだ者が生き返るわけでもないのに、このにがにがしい復讐の念に燃えて、村から村へとまわった。将来、彼らが再びやりかねない禍のことを考えなければならない。彼らは人間社会の癌にも等しい」
 だが、マルタンは軽率な処刑を避けるべく細心の注意を傾けた。ナチス党員の疑いをかけられた青年がつかまったときも、同士はすぐに殺すことを提案したが、それを許さなかった。
「私の怒りの対象は国民全体ではなく、迫害者だけだった。私が行きづりに会ったドイツ兵士のことを思い出す。電車の中で(密輸行為を)見て見ぬふりをしてくれた初老の兵士、私をザンブルフ収容所まで送り届けた後、私の手を握って、逃げろよ、と耳打ちしながら生命を助けてくれたあの通訳の将校などである」。
 やがて、一九四五年四月二七日、マルタンの二十歳の誕生日に、赤軍はベルリンに入城し、勝利を収めることになる。そうして彼の「復讐」は終わりを告げたのであった。
 けれども、マルタンが本当にめざしていたのは、彼の中に一緒に生きている父母や兄弟、親類、民族の血筋を子孫に残すことであった。そのようにして、犠牲になって死んでいった人たちに報いるためである。「壁とコンクリートと貨車と死だけしか知らなかった弟たち、私はおまえたちをよみがえらせてみせるぞ!」
 そうしてマルタンは、唯一の家族となった父方の祖母の住むニューヨークへわたった。
 祖母のもとで、最初はさまざまな仕事をしたが、やがて持ち前の商才を発揮し、二年後には輸入業者として成功。さらに陶器にも手を出し、三十歳代前半にはすでに莫大な富を築いていた。十五年近くもの間、休むことなく、人生を楽しむこともなく、働き続けた結果であった。
 しかし、財産は出来たが、孫の顔を見るのを楽しみにしていた唯一の身内である祖母が死んで天涯孤独になってしまう。マルタンは、祖母と一緒に過ごす時間がもてなかったことを後悔した。「私が戦ってきたのは、生き残って証人となり、家族の者たちの復讐をとげ、彼らのあとを継いで、砦を築いて子宝をもうけるためだった。そのあげくが、天涯孤独の身になってしまった・・・」
 結婚相手を探していなかったわけではなかった。何人もの女性と関係もできたが、結婚したいと心の底から望む女性、彼の言葉を借りれば「生命を感じさせる女性」に巡り会えなかったのだ。自ら「野蛮人のように商売をしてきた」という彼は、まるで冷たい機械にすぎない存在だという空虚感に苦しめられた。
 しかしまもなく、友人の紹介を通して、ディナという名の、離婚暦のある女性と巡り会うことになる。初対面で「生命」を感じたマルタンは、まさに捜し求めていた女性だと確信し、ほどなくして結婚。三十五歳にして事業から手を引き、南フランスに移り住んだ。
 最初、彼女は肉体的な問題から子供は授からないと医者からいわれたが、厳格な菜食主義を実行した結果、すぐに子供ができた。一九六〇年、長女ニコルが生まれたのである。この誕生したばかりの生命を見て、マルタンは心の中で叫んだ。
「私が生き残ったのは、無駄ではなかった。すべての同胞諸君、これがあなたたちの証人であり、これがあなたたちの奇跡である。あなたたちは死んだが、ここに生命がよみがえったのだ」 続いて一九六三年、次女スュザンヌが生まれ、翌年に長男のシャルル、一九六八年に次男リシャールが生まれた。こうしてマルタンは、長い間の苦難と戦いの末に、平和と幸せを勝ち取ったのである。
「幸福な時はどんどんすぎる。家の周囲にも野原にも菜園にも桃の木が育ち、道ぞいの糸杉も勢いよく密生し、私たちも元気一杯である。シャルルと取っくみ合ったり、スィザンヌの弾くピアノの音を耳にする。私の歓喜と、時代を乗り越えてきた人間の歓喜と、すべての迫害者たちのあとに生き残った人間たちの、不滅の偉大さを鳴り響かせる澄んだ音律に耳をすます。私の娘がその指で、生命を取り戻してくれるのだ」
けれども、この幸せは、十年で幕を閉じた。
 一九七〇年十月、彼の住む家の森が火事になった。マルタンは、妻と子供たちが安全な国道の方に向かうのを見届けた後、近隣の救助に向かった。ところが、火災は予想を越えて広がり、約束の待ち合わせの場所に行っても、妻子の姿が見えない。しばらくして、ディナと四人の子供の焼死体が発見されたとの知らせを受けた。
 マルタンはまたしても、過去に何回も繰り返してきた別れの言葉を叫ぶことになった。
「さようなら、家族の者たち。さようなら。永遠にさようなら・・・」
 彼に残されたのは、現場から回収された家族の遺品、といっても、靴の踵と、火のために色のはげ落ちた数個のボタンと、飼い犬の首輪だけであった。彼は再び天涯孤独となってしまったのである。
「なぜなのだ、どうして私だけが? なぜ二度も家族を失うはめになったのか?」
 自殺だけは思いとどまったものの、絶望のどん底に暮れる日々を送った。マルタンは父の言葉を思い出した。「最後までやり抜くのが本当の男だ」という父の言葉を。
 父が求めていたのは、人間が貧困や不正という傷ときっぱり縁が切れるような社会、いやしい利害関係とは縁のない、人間らしい関係で結ばれた世界であった。
 ついにマルタン・グレイは、この絶望と苦難からも立ち上がった。
「自らの不幸を握りしめ、私が平和を見いだし、私を迎えてくれたこの国の人たちの前に躍り出て、私は“戦争”を再開した。死んだ家族のために、私の同胞たち全員にかわって」
 そして、さまざまな災厄から人間を守るための基金「ディナ・グレイ基金」を発足させ、多忙な活動を開始したのである。
「自分のために生きるつもりはない。それが何の役に立つというのだ? (私の中で)同胞たちが生き、妻や子供たちが戦いを続けるのだ。人のために行動するのでなければ、生きることに何の意味があるというのか?」
 一九七一年に出版された彼の自叙伝『愛する者の名において』は、ここで終わっている。

 追補
 その後マルタンは事業で成功し、再婚して四人の娘を授かった。まさに旧約聖書の「ヨブ記」のように、失われたものすべてが戻ってきたのである。

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