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                未知なるものに対する私の表現方法

 神や仏、魂、霊界や生まれ変わりといった、物質次元を超えた事物、いわゆる形而上学的な未知なるものを、物質次元の言葉で正確に表現することは不可能です。無理に表現しても、実相を表現したものとはならないため、余計な誤解を与えてしまう危険があります。かといって、何かしら表現する言葉を使わなければ、そうした領域のことが説明できません。いったいどうすればいいのでしょうか?
 
 霊的なことは私たちの想像を超えている
 私は、哲学や宗教、スピリチュアルに関していろいろな本や記事を書いてきましたが、ずっと悩んできたことがあります。それは、このような世界の事物というものは、物質のように目に見えたり、実体のあるものとして計測できるものとは違い、目には見えず、実体もあるのか、ないのか、よくわからない未知なるものであるため、どのように表現したらいいか、ということです。
 いわゆる形而上学的な事柄に対する表現方法ということに悩んできたわけですが、神だとか魂だとか霊界だとか生まれ変わりといったものは、仮に実体があるとしても、私たちの想像を超えたものであると思うわけです。想像を超えたものということは、少なくともこの物質次元の言語では表現不能ということです。にもかかわらず、無理に表現しようとすると、誤解を生んでしまう危険があるということになります。
 たとえば、私はよく「魂」という言葉を使いますが、私としては、「人間の本質的意識」という意味で使っているのですが、人によっては、火の玉のようなものをイメージし、何か実体のある物質のようなものと考えてしまうかもしれません。
 霊的世界という言葉も使いますが、実際にはそこは、通常、私たちが思っているような空間的な「世界」というものではないかもしれません。私たちが使用している座標軸では表現できない、想像もできない構造をしているのではないかと思います。ですから、「世界」とは呼びますが、実際には私たちが抱く「世界」という概念とはまったく違ったものである可能性があるわけです。

 偶像崇拝を禁止する理由
 ユダヤ教やキリスト教やイスラム教などは、いわゆる「偶像崇拝」を禁じています。だから、神の像などを作って拝んだりしてはいけないのです。そんなことをしたら、単なる像(つまりイメージ)を、本当の神だと誤解しかねないからです。
 禅なども同じような考え方をしています。ですから「仏に会ったら仏を殺せ」という、物騒な言葉まで伝えられています。つまり、その「仏」とは自分が作り出した幻想(イメージ)だから、その幻想を消せと言っているわけです。禅において重要視しているのは、あくまでも現実としての「今、ここ」です。神だとか霊界だとか生まれ変わりといった話題は、ほとんど扱われることがありません。もともと仏教は一神教の神の存在は否定していますし(というより論じない)。

 人はイメージを通して物事を理解する
 私は、偶像崇拝を禁止したり、現実のありのままだけを認識して生きる禅の姿勢、すなわち、誤解を招くようなイメージを徹底的に排除することの重要性はよく理解できますし、共感もしているつもりですが、しかしそれだと、あまりにも抽象的すぎて、少なくとも初心者にとってはつかみどころがなく、いきなりこの境地に至るのは難しいとも思っているのです。
 私たちの理解というものは、大半はイメージによって促進されますし、どうしてもそこにイメージというものがつきまとってしまいます。たとえば「美」というものは抽象概念ですが、いかなるイメージを通すことなく「美」というものを理解できるでしょうか? やはり、何か美しいもの、たとえば自然とか芸術作品といった、具体的なものを鑑賞することによって美のイメージが形成され、それが理解につながっていくのだと思います。

 最初は偶像崇拝から入ってもよい
 ですから、「神」だとか「仏」といった存在は、おそらく形というものはない、ある種のエネルギーのようなものだと思うのですが、そういう抽象的な存在を、抽象的なまま理解することは、非常に難しいと思うわけです。
 そこで、大乗仏教では、数多くの仏像を作ってそれを拝んでいます。ところが、すでに述べたように、仏というものは、形のないエネルギーのような存在だと思いますので、仏像のような具体的なイメージとして認識すると、そこに誤解が生じてしまいかねません。極端な場合、単なる木製の彫り物にすぎない仏像を、本当の仏様だと思い込んでしまうかもしれません。
 かといって、たとえば学のない素朴なおばあさんに、「仏とは形のない抽象的なエネルギーである」などと言っても、理解できないでしょう。しかし、とりあえず仏像を仏様であるとして、仏像を拝むようにしてもらえば、それはイメージを拝んでいるので完全に正しいとは言えないにしても、まったく仏様というものが理解できないよりはましだと思うわけです。とりあえずそこから入ってもらって、だんだん理解が深くなってきたら、「仏像は仏様そのものではなく、仏様は目に見えないお方であり、あらゆるところにいて私たちを守ってくれている」といったように、少しずつイメージから解放していくのがよろしいのではないかと思うわけです。

 人生でもっとも優先させるべき重要なこと
 こんな感じで、魂だとか霊界とか生まれ変わりといった、形而上学的な未知なる事物を、どう表現したらいいのか、悩んできたわけです。こうした事物はイメージではないし、かといって、イメージを用いることなくしては、たいていの人にとってはまったく理解不能である、ということになるからです。
 そこで皆様に申し上げたいことは、私が魂だとか霊界だとか生まれ変わりといったことを説明するために、いろいろなモデル(つまり、ある種の偶像)を使っていますが、それはあくまでもモデルであり、イメージであって、本当の実体は、これとはおそらく違うだろうということを、頭に入れておいていただきたい、ということなのです。
 たとえば、霊界の階層について、ビルの一階、二階、三階……といった図で説明したりしていますが、これは単なるモデルでありイメージにすぎず、実際はこのようなものではないだろうということ、しかし、それを承知した上で、こうしたモデルによって、とりあえず正確でないかもしれないが理解していただきたい、ということなのです。さもないと、先に進むことができないからです。
 私が最終的にめざしているのは、神や仏とは何であるか、魂とは何か、霊界とは何か、生まれ変わりとは何か、ということを解明することではなく(それはおそらく不可能です)、あくまでも、徳を養うこと、すなわち人格の向上なのです。人格の向上こそが、この地上人生における目的であり、もっとも重要なことで、もっとも優先されるべきものだと考えているのです。そして、そのことを深く理解していただくために、神や仏、魂、霊界、生まれ変わりといったことを説明する必要があると思って、いろいろ書いたり話したりしているわけです。
 ですから、逆に言えば、人格を向上させることの重要性、そして、真剣に人格を向上させようという決意と実践に至っていただけるならば、神や仏、魂や霊界、生まれ変わりといったことなどは、どうだっていいと思っているのです。
 死ねば、そうしたことの実相が、はっきりと目の前に示されることでしょう。何も急いで今そのことを詳しく知る必要はありません。それよりも、地上人生でしかできないことをするべきです。今しかできないことは今やるのです。それが、人格の向上です。
 

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