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                   うつ病を克服するヒント

 この文章は、2001年3月から6月に、「独想録」に収録された「鬱病を克服する」をまとめたものです。うつ病はだれもが程度の差こそあれかかるものですが、特に軽度から中度のうつ病に悩まれている方、少しでも気持ちを楽にしていただければ幸いです。なお、重症の方は、まずは医師に相談することをお勧めいたします。


 1.うつ病は苦しい
   だが、うつ病のおかげで精神的に成長することも確かだ 


 昨日、ふとテレビを見ていたら、NHKの教育放送で「鬱病」のことが紹介されていた。鬱病になる人は多いらしい。ここ最近、年間2万人以上の人が自殺しているといわれるが(一日に60人も!)、そのうちの何割かは鬱病が原因なのだろう。鬱病は「心の風邪」といわれ、程度の差はあれだれもがかかるといわれる。確かにだれもが絶望感や生きる気力をなくし、重たい気持ちになることがある。もっとも症状が重いと、ただ横になって動けなくなってしまう。
 実は、私も昨年の初夏に鬱病になって病院に行った。鬱病になった原因としてあげられるのは、このとき出版した本の評判がよくなかったこと(後になって高く評価されたのだが、最初に知人に見せたらあまりよい評価を受けなかったのである)に対する失望、また私的な人間関係でのトラブル、さらには定期的に徹夜して休まずに仕事を続けるといった過労が重なったことがあげられると思う。そうして、にわかに朝、目覚めると耐え難い絶望感に襲われ、あまりにも苦しいので病院に行ったしだいである。
 医師は思ったよりも私の話を長い時間きいてくれて、とりあえず2種類の抗うつ剤と1種類の睡眠剤をもらって服用した。ただし効果は2,3週間後に現れるというのである。飲んだら、頭がボーッとして、複雑なことが考えられなくなり、きわめてシンプルな思考となった。もっとも、普段から余計なことをゴチャゴチャ考える傾向のある私にとって、単純な思考になったことは、必ずしもデメリットばかりではなかった。たとえば、人に何かを頼むとき、「こんなことを頼んだら迷惑かな」とか、いろいろ思いを巡らしてから、おそるおそる口を開くといった調子だったのだが、抗うつ剤を飲んでいる間は、頼みたいことがあると、そのままダイレクトにその要求が言葉に出た。そうしたら、相手もそれに対してシンプルに応じてくれることがわかり、今までいちいち神経を使ってものを言っていたことが、実は無用のことだったかもしれないと思った。
 ところが、薬を飲み始めて5日ほどたったときだろうか、突然、ものすごく気分が悪くなり、冷や汗が出て、まるで体中の細胞が焼かれるかのような、たとえようもないほどの苦しみに襲われた。救急車を呼ぼうと思ったが、急に便意を催してトイレに行くと、ひどい下痢をして、飲んだ薬がみんな出てしまったようであった。すると、それがよかったのか、苦しみは急速におさまった。これは薬の副作用なのだと思う。とにかく、今までの人生で、あれほど苦しかったことはない。
 こんなことがあって、もう薬はこりごりで、思い切って3日間、何も考えずにひたすら横になって寝ていたら、3日目には嘘のように快復してしまった。
 しかしながら、鬱病の原因というのは、今までの人生で受けてきた、さまざまなトラウマが根本の原因だといわれる。事実、その後も、寝込むほど重篤にはならないが、ひどい絶望感や落ち込みと戦う日々が始まった。もう薬には頼るつもりはない。あまりにもひどい絶望感や落ち込みがあるときは休息をとることにしているが、なかなか休める状況にあるとも限らない。そのため、精神的に、あるいは信仰のような支えを必死に模索しながら自分を励ましていくしかないのである。そうして毎日のように、私は自分自身を励ますような言葉や教訓を探し求めている。よく、鬱病の人には「がんばって」といってはいけないといわれるが、私の場合、常に自分自身に「がんばれ」といって励まし、その通りに毎日を必死に生きているといった感じだ。それはあたかも細い糸のようなもので支えられている感じで、もしもちょっとでも、このがんばりの気持ちの糸が弛み、切れてしまったら、本当にどうなってしまうかわからないと思うことがある。だから私はがんばり続け、この緊張の糸を緩めないようにせざるを得ないのだ。もちろん、このことが果たして適切なことなのかどうか、私にはわからない。だが、たぶん鬱病に悩む人にとっての最大の不幸は、この世界に「安住の地」がないことだと思うのだ。安心して心の底からくつろぎ、警戒心を解くということができないのである。
 とはいえ、人間というのは面白いもので、このような苦しい状況におかれているときほど、精神的に成長し、人生のさまざまな価値ある出来事に目覚め、さらには神との交流ができるように思われる。私は毎日、貴重な発見をし、思索が深められている。神からの啓示と思えるような体験もしている。もしも鬱病に苦しむことがなかったら、このような貴重は教訓は決して学べなかったであろう。


 2.うつ病に苦しんでいるときは
   このように考えて希望をつかんでいよう


 鬱病患者の脳は、何らかの内分泌物質が不足しているらしい。だが、純粋に身体的な原因の場合は別として、内分泌物質の不足がすなわち鬱病の原因なのではない。それは結果である。さまざまな精神的要因が、脳内物質の異常をもたらしたわけである。抗うつ剤は、その不足する物質を分泌するように、あるいは補うように作用する化学的な手段である。当然、それで気分はよくなるかもしれないが、根本的な原因を解決しなければ、おそらく鬱病は再発するだろうし、あるいはずっと抗うつ剤に頼らざるを得ない状態になってしまうかもしれない。
 そこで、鬱状態を克服するためには、その原因となる外的要因と内的要因を解決しなければならない。たとえば、家庭内のいざこざや仕事上のトラブル、経済的困窮といったものが鬱病の原因であるとはっきりわかっている場合は、そうした外的要因を取り除くことが、当然のことながら治療の上でめざしていく方向となるだろう。
 しかしながら、こうした外的要因は、そうやすやすと解決できるとは限らない。むしろ、なかなか解決できないからこそ鬱病になってしまったのであろう。そこで、外的要因の解決をめざしながらも、むしろ内的な要因の解決こそが、鬱病を克服するポイントになるといえそうだ。たとえば、仕事や家庭の問題に対して、物事を肯定的にとらえる視点だとか、あるいは不合理な恐怖心や心配といった偏見を除去するといったことである。そしておそらく、最終的には、宗教的な信仰ないし霊的な自覚による実存的な変容こそが、最後に待っている救いなのだと思う。ひらたくいえば、この世のあらゆることにも心を動じない、生死を越えた心境の確立である。
 さて、具体的にはどうすればいいのだろうか?
 私は、鬱状態になったら、まずは「眠ること」を勧める。休養することだ。内的な秩序をもたらすために模索することは、まず休んでからにした方がいい。というのも、物事を考えるにしても、考えるのは脳であり、その脳が、鬱状態のひどいときには化学的に冒された状態にあるからである。これではまともな思考ができるわけがない。精神力だとか人格の問題ではなく、生理的な問題なのである。
 眠れば、自然治癒力が作用して、少なくてもある程度、まともな思考ができるまでに、脳内の化学的な状態が回復する。数日、あるいは数週間かかる場合もあるかもしれないが、休めば鬱病は軽減されるというのが、医学的な定説である。だから、とにかく脳を休めることなのだ。ひたすら眠れば、それほど深い精神的なトラウマが原因でなければ、案外、それですっかり治ってしまうかもしれない。
 とはいえ、そう長いこと休める時間が許されていないのが、現代人である。
 そこで、内的な心境の確立が求められるようになる。
 私が経験的に思うには、この苦しい状態が、いつまでも続くのではないかという思いが、鬱病を重くさせているようである。たとえば、この苦境は、あと一ヶ月したら解決できると確実にわかっていれば、たぶん、そう苦しまないだろう。人間は、どのような苦しみであっても、「一日だけ」なら我慢できるだろう。ところが、その苦しみが、明日もあさっても、そのまた次の日も、もしかしたら一生続くと思ったら、どんなにタフな精神の持ち主だってまいってしまう。鬱病に苦しむ人は、この苦しみがいつまでも続くのではないかと思っている傾向がある。すなわち、「絶望」しているのだ。
 そこで、今は確かに苦しいけれど、この苦しみはいつかは必ず終わるのだという「希望」を見いだすことが、鬱病と戦う人にとっての、最大の心の支えになってくれることは間違いない。どんな戦いだって、そこには希望があるからこそ耐えられるのだ。この苦しみはいつまでも続かない、必ず終わる、そう遠くない将来終わりがくる、そういう希望を、何とかして見つけることである。
 では、いかにしたら、そうした希望を見つけることができるのであろうか。


 3.今日一日だけを生きることに徹しよう

 鬱病の苦しみは、経験してみなければわからないと思う。私の場合は、鬱病の他に「閉所恐怖症」の気が少しあると(自分では)思う。といっても常にあるわけではなくて、ときどき鬱状態と一緒に併発するのだ。
 閉所恐怖症というのは、狭いところが怖いのだが、正確にいえば、狭いところに「このままずっと閉じこめられるのではないか」という恐怖である。この発作が起きると、たとえば家の中にいられない。まるで周囲の「壁」が悪魔のように思えて圧倒され、呼吸は苦しくなり冷や汗が出て、いてもたってもいられなくなる。たとえば、こう想像してみていただきたい。ふと目覚めると、地中深く埋められた棺桶の中にいることに気づいたとしたら。あなたはどう思うだろうか。身動きできず、真っ暗で、いくら叫んでもだれにもその声は届かない。これほど恐ろしいことはないと思うだろう。気が狂いそうになるだろう。だが、普通の人は、この恐ろしい気持ちを実際に体験しない限り味わうことはない。ところが閉所恐怖症の人は、実際に体験しなくても、その恐怖と苦しみだけを味わってしまうのだ。
 鬱病も同じである。特に生活の上で、これといって悲劇的なことが起きているわけでもない。だが、普通の人が最愛の人を亡くしたときに覚える悲しみや絶望感を、鬱病の人は、そのような経験なくして感じるのである。あるいは北極の中で遭難して、ひとりテントの中で過ごす人の孤独感を、経験なく感じてしまう。
 しかしながら、「いつだってすぐに逃げ出せる」と確信していれば、どんなに狭いところに入ったって閉所恐怖は感じない。同じように、「この苦しみは、時間がくれば必ず解決するのだ」という確信、あるいは希望があれば、鬱病もそう重くはならない。したがって、鬱病を克服するには、とにかく全力を尽くして希望を見つけることが大切である。可能性を励ましてくれる本を読みあさってもいいし、励ましてくれる友人とつきあうのもいい。たとえ可能性は薄いとしても、あるいはほとんどダメだというような場合でも、ほんの少しでも希望があるならば、その希望を抱くことだ。経済的な危機が鬱病の原因なら、たとえ莫大な借金を抱えていたとしても、その借金から逃れれるための、ありとあらゆる希望を見つけだして列挙してみるのだ。たとえば宝くじに当たらないとも限らない、自分の体験を本にして、それが大ベストセラーになるかもしれない、アイデアで特許をとり、ロイヤリティで大金が入るかもしれない、あるいは金持ちと友達になって援助を受けられるかもしれない、、、このように、可能性がいかに薄くても、まったく希望がないよりは、たとえ少しでも希望があった方が、鬱病を軽くする上では大切なことである。
 あるいは、「今日一日だけを生きるのだ」という心構えを養うことも大切だ。明日のことは考えない、明日もあさっても、そのまた次も苦しい日々が続くと思ったら生きられない。だが、「今日一日だけ」なら生きられると思うだろう。
 したがって、明日のことは決して考えずに、とにかく今日一日だけを生きるのだと思って生きるのだ。先のことは何があるかわからない。キリストがいったように、「明日の苦労は明日の自分が耐えればいい」のだ。明日の苦労まで今日背負うことはない。今日の自分は今日の重荷だけを背負い、一日が終わったら今日の自分は死んで、またあくる日になったら、新しく生まれた「今日の自分」で生きるのだ。
 そのような心構えで、とにかく一日、一日とひたすら耐えて生きていくのだ。そうすれば、いつのまにか周囲の状況も変わり、希望も生まれて好転の兆しが訪れてくるかもしれない。
 もしもあなたが鬱病なら、私はいいたい。何もがんばらなくていい。立派でなくてもいい。かっこうよくなくてもいい。善人でなくてもいい。無能でも馬鹿でも醜くてもいい。だが、とにかく生きよう。いかに自分の人生が無意味で無価値で、だれからも愛されず認められず、空虚で孤独で、生きていても仕方ないと思えても、「今日一日」だけ、理屈抜きで無条件に、無心に生きよう。今日一日だけでいいのだ。たとえ魂の抜けたような生であってもかまわない。とにかく呼吸をして、何かを食べよう。そしてあしたになったら、昨日のことはいっさい忘れよう。昨日のことは忘れ、明日のことも決して考えずに、また今日だけを生きるようにしよう。


 4.苦しいときは神様に祈ろう
 
 鬱病の苦しみは、自分一人だけが苦悩のすべてを背負っていかなければならないという、その重圧感によって、ますます煽り立てられてしまう。鬱病の原因となったその悩み、それが何であれ、この悩みをだれかと一緒に背負い、一緒に解決していくのだという状況であれば、それほど鬱病もひどくはならない。どんな苦悩でも、仲間がいれば、それはかなり軽減されるものだ。
 だが、鬱病に苦悩する人は、この悩みを自分一人だけで背負っている。すると、実際はたいしたことがない悩みや問題でも、それが非常に深刻なことのように思えてしまう。発泡スチロールの箱が、鉄の箱のように見えてしまうのだ。そして、自分だけではとてもその箱なんか持ち上げられないと思いこんでしまう。
 たとえ、実際に苦悩をともにして一緒に解決してくれる仲間ではなくても、自分の苦しみをうち明けて、同情してくれたり理解してくれる人がいるだけでも、かなり心の負担は軽減する。もしもあなたが、そのような人がいるのであれば、ひとりで悩まないで、その胸の苦悩をうち明けることを勧めたい。そうすれば、苦難に立ち向かう勇気と冷静さが取り戻せるかもしれない。
 しかしながら、そのような人に恵まれているとは限らないのが、この人生なのだ。というより、最初からそのような理解者がいてくれたら、鬱病なんかに苦しまなかったともいえるだろう。
 そこで、苦難を分かち合ってくれる仲間も理解者もいないで、孤立無援でひとり苦難を背負っているとして、話を進めてみたい。
 まず、とにかく自分は、一人で戦っているのではないという自覚を持つことが必要である。そのためには、過去に自分と同じような苦悩を背負っていて、それを見事に克服した人の伝記や著作を読むといい。すると、たとえその人が過去の人であり、空間的に自分のそばにはいないとしても、精神的に共鳴するものを感じるので、孤独感が薄くなってくる。いわば、時空を越えてその人と結ばれるような感覚が芽生えてくる。「この人も自分と同じ苦しみを味わい、それを克服したんだ。私もがんばってみよう」という気持ちに(自然に)なれるかもしれない。
 そしてもうひとつの道は、神に祈ることである。
 神に祈るといっても、特定の宗教や信仰の門に入るということではない。何の神であっても仏でもかまわない。要するに、私たちには、神や仏と呼ばれるような超越的な存在が常にそばに寄り添っていてくれて、私たちを見守り、導き、助けてくれようとしているのだという自覚を持つことである。
 そうして、困難を自分ひとりだけで抱え込むことをやめ、素直に神に助けを求めて祈ることである。神に助けを求めることは、恥ずかしいことでも卑しいことでもない。ただしこの場合、「神と取引」することはやめた方がいい。たとえば、「助けてくれるのであれば、タバコはやめます」とか、そのようなことである。神は、そういう小賢しい策略を嫌う(と思う)。むしろ、「神様、苦しいので助けてください」と、子供のように無心に祈る方がいい。大切なのは、真剣に祈ることだ。というより、本当に苦しければ真剣になるだろう(真剣に祈れないうちは、まだその苦しみは自力的に解決できる余力があるということなのかもしれない)。
 本当に苦しいときは、人は見栄も体裁もプライドも捨てて、神に祈るものである。「存在しているのかしていないのかわからない神に祈ったって、助かるのかどうか疑わしい」などという理性的判断や思考は顔を出したりしない。神がいるとかいないとか、祈りに応えてくれるとかくれないとか、そんなことはもはや考えず、とにかく反射的というか本能的に、真剣に神に祈るものである。
 すると、私たちが思っているよりもずっと、本当に神からの救いがもたらされることが多いのである。祈ることによって苦難から救われたという人は意外に多いのだ。もちろん、絶対ではない。しかし、祈ることによって奇跡的な展開がしばしば生じることを考えると、これだけはいえると思う。それは、願いが叶えられるか叶えられないかは別として、少なくても神は、私たちの願いを聞いてくれている、それを理解してくれているということだ。つまり、神は常に、神に祈るところにはすぐ近くに存在してくれているということだ。換言すれば、人は決して孤独ではないということだ。仮に、願いが叶えられないのなら、それは、その願いを叶えるのにもっとふさわしい時期がまだ先であるとか、もっと別の、もっとすばらしい計画が神にはあって、そちらの方に導こうとしているのかもしれない。いずれにしろ、何らかの理由があるのだと思う。
 だから、もう自分ひとりだけで苦難を背負い込むことはやめよう。その苦難を、神にまかせてしまおう。苦しいときには「神様、助けてください」と祈り、あとは神の救いが訪れるのを、安心し信頼して(完全にそういう気持ちにはなれなくても)、待っていよう。神におまかせしてしまおう。


 5.神様の救いはどう訪れるのか

 神は人間の祈りを聞き入れ、それを叶えてくれる。絶対とはいえないが、しかし人間の思いもつかない救済の策略が神にはあるかもしれない可能性を考えるなら、神の救いは絶対に叶えられるといえるのかもしれない。
 さて、神がいかにその祈りに応え、どのように救いの手をさしのべるのか、それを一般的に図式化することはできない。神は大胆かつ奇抜であって臨機応変、ユーモアもあり、やや皮肉っぽくいえば「へそまがり」なところもあるからだ。神の救いは、私たちの想像だにしないやり方で、画期的な斬新さをもって訪れることも珍しくない。そのアイデアのすばらしさは後になって「なるほど、そうだったのか」という驚嘆となる。それでもなお、そうした救いの土台となっているのは、人間のとうてい及ばない誠実さと忍耐強い寛容さと懐の深さと愛なのだ。おそらく。
 とはいえ、ある程度の傾向というか、「お得意のやり方」というのがあるようなので、それを書いてみたいと思う。
 まず、神に祈りや願いを捧げると、それは内的な直感やひらめきとなってメッセージが与えられる場合と、何気なく開いた本だとか、他人のいった言葉といった、外的な手段を通じてメッセージが与えられるようである。これは、すぐに与えられる場合もあれば、時間がかかる場合もある。また、言語的メッセージではなく、実際に救済されることもある。たとえば生命の危機的状況に関することであれば、救援者がやってきたり、経済的な問題であれば、実際に何らかの道が開けてお金が入るといったことだ。
 しかしながら、ここでひとつの注意が必要である。常にそうだというわけではないが、神の地上への顕現は、しばしば矛盾対立して現れる(「探求の光」を参照していただきたい)場合が多いということだ。私が「へそまがり」というのは、そういう意味である。具体的には、神に救いを求めたのに、かえって事態が悪化するかのような不運が訪れる(ように見える)とか、何のメッセージも与えられず、いくら応答を呼びかけても何も感じない冷たい沈黙だけが支配しているといったことだ。
 ところが、神に祈って、その願いとは反対のことが訪れたとしても、実はそれは「偽装された幸運」であることが多いようなのだ。すなわち、一見すると不運と思えるその皮肉な悲しみのなかに、幸運が宿っていることがあるのだ。その場合、その外皮の渋さを我慢してひとくちかじってみるならば、すぐに甘美な幸福の果実が口のなかに広がってくるのである。
 また、いくら神に呼びかけても沈黙しているというのは、実は「沈黙という応答」をしていることが考えられる。沈黙が何を意味するのか、ひたすら考えるプロセスにおいて、何か見いだせるのかもしれない。
 では、いったいなぜ神は、このような皮肉な手段によって、しばしばアプローチしてくるのだろうか。事情を知らない人間にとって、こうした応答は非常に傷つき、失意をもたらすものである。また、神への不信につながるものである。もっとわかりやすく、ストレートに自らを表現したらどうなのかと思う。この理由を考える前に、神の救いを得られた人の体験から、ひとつの共通した傾向を知る必要がある。
 さまざまな苦境に立たされて、苦悩の嵐が吹きすさぶ気持ちで神に祈った人たちは、祈っているうちに「今までになかった平和な気持ちに満たされた」と語っている。これは、努力でそうなったのではなく、自然に平和な気持ちに満たされたというのだ。そして、その瞬間から事態が劇的に好転していったというのである。このときに、彼らはこうも思ったという。「もしもこの苦しみが神のご意志であるならば、どうぞそのようになさしめたまえ」。
 つまり、今までは救われることばかり欲していたし、それは変わらないのだが、もしも私が苦しむことが神の意志であるならば、それを受け入れましょうという心境になったのである。
 これは、矛盾した境地ではないだろうか。「救われたい、だが、救われなくてもいい」といっているのだから。
 だが、このような矛盾対立は、まさに神のやり方と同じではないのだろうか。言い方を変えれば、それは神の心に接近したともいえるだろう。そして救いというものは、常に神の心に接近したときに訪れるのだと思う。
 そして、そのような境地に目覚めてもらうために、神はしばしば人間からすれば皮肉な不運や沈黙、すなわち神から見れば「偽装された救い」でアプローチしてくるものと思うのである。私たちは、こうした「神のトリック」にだまされないようにしよう。全身全霊で救いを求めよう。だが、同時に苦しみを受け入れる覚悟ももとう。換言すれば、祈った後の結果は、すべて神におまかせしよう。
 いずれにしろ、神の心に接近することが、救いの近道であるのだろう。ならば、神の心とは何であろうか?
 それはいうまでもなく「愛」であろう。
 私は思う。神が私のような者さえも愛して救ってくれるのであれば、つまり、そのような愛をもっているのであれば、私もまた、どのような人であろうと愛を持って接するべきであると。自分さえ救われればいいというのであれば、それは神の心に反している。自分が救われたいのなら、同時に人を救うこと、人に奉仕することも考えなければならない。神の矛盾対立した資質を考慮するなら、自分の救いと他の救済とは、常に同時に進行しているということになるからだ。


 6.小さな達成感を大切にしよう

 鬱病の根元的な、生物学的な原因として私が考えるに、それはおそらく、生物の自己防衛本能によるのではないか? すなわち、生き物が外敵から身を守るための、ひとつの手段の現れではないのか? 生物が身を守る手段としては、威嚇したり、周囲の模様と同化するような擬態(葉っぱそっくりな昆虫やカメレオンのように)、あるいは死んだマネといったことがあげられる。死んだマネは簡単にできるが、他の防衛的手段を実行するには、それなりの能力が必要である。だが、必ずしもそのような能力をもっているとは限らない。そのため弱者にとってもっとも簡単にできる防衛手段は、「死んだマネ」なのだ。だが、それはなるべくリアルにしなければ効果はないだろう。そこで本能的に、自らを死んだような状態にさせるため、心理的にも身体的にも、その活動エネルギーを遮断してしまう。これがすなわち鬱病の症状なのだ。
 以上の理由から、鬱病となる生活上の原因には、何らかの自信喪失が大きく関与しているに違いない。すなわち、「自分は無能な弱者だ」という思いこみを誘発するような体験(挫折、失敗、失恋といったこと)を重ねてきた結果なのかもしれない。あるいは幼少期に「おまえはダメな子だ」というように育てられたことも原因となるかもしれない。いずれにしろ、そのような無力感が意識にこびりついているために、換言すれば「自分は弱者であり、身を守る能力に劣っている」という思いこみがある。これはもちろん主観的なもので、はたからみれば有能な人なのに、本人は無能だと思いこんでいるといったことは稀ではない。
 したがって、鬱病を克服するには、「自分は無能な弱者だ」という思いこみを消すような方向にもっていくことがポイントであると思う。早くいえば「自信をつける」ということだ。
 どんな小さなことでもいい。日常生活において、何かをやり遂げたという「達成感」を重ねるとよい。それは個々の体験としては「自信」を養うほど大きなものではないかもしれないが、しかし繰り返すことによって、小さな力も大きな力と同等になる。小さな達成感でも、それが常習的になれば、「いつだって私はうまく物事をやり遂げられるんだ」という自信になる。この自信が鬱病の苦しみを軽減してくれる。


 7.コントロール感覚を何としても取り戻そう
 
 鬱病を克服する大きなポイントとしては、「自分が状況をコントロールしている」という自覚を養うことがあげられると思う。つまり、何らかの苦しい状況におかれて、自分では手足もでないような無力感が、鬱病を悪くさせている元凶であると思われるのだ。
 たとえば、クルマの免許を取るために、初めてクルマに乗って路上を走ったときの経験を思い出すとわかりやすい。そのときは、わずか時速10キロか20キロくらいだったかもしれない。自転車よりも遅いスピードであったにもかかわらず、とても緊張し、あるいは怖かったに違いない。それは、「自分はまだ十分にクルマをコントロールできない」という自信の欠如からくる恐怖心である。自分はクルマを思うようにコントロールすることができるという自信があれば、たとえ100キロ以上のスピードが出ていようと、何の恐怖も感じない。
 鬱病を誘発することになった具体的な状況は人それぞれであろう。仕事や経済面の悩み、人間関係や病気などの悩みが鬱病を招いたのかもしれない。だが、それがどのような種類の逆境であれ、まったく完全に手も足も出ないという状況は、そうあるものではないと思う。必死に探せば、必ず、ほんのわずかでも、自分が状況をコントロールできる面が見つかるはずである。それは、どんなにささいな、小さなことだっていい。
 たとえば、仕事がうまく評価されなければ、どんな小さなことでも、これだけは評価されるという何かを見つけ、すぐに実行に移すのである。貧乏に苦しんでいれば、たとえばどんなに安いアルバイトでも内職でも探して働いてみる。その賃金がどんなに安くても、それは自分の力で多少なりとも状況を変化させたという自信がつくからだ。人間関係がうまくいかなくて悩んでいたら、たとえばこちらから挨拶をして相手の反応を引き出すといったことでもいい。たとえ相手がどのような反応をしても、自分の力が相手に何らかの影響を及ぼしているのだという自信がつくからである。病気でも、体調が少しでもよくなるような工夫をしてみる。
 このようにして、「自分は状況をコントロールしているのだ」という感覚を養うことが大切だ。いかにそれが小さなことであっても、鬱病の人は、善いことであれ悪いことであれ、過剰なものと思いこんでしまう傾向をもっているので、たとえ小さな実績でも、鬱病に苦しむ人には大きな自信ともなり、その自信が一度でもはずみがつくと、どんどんと快方に向かっていく可能性もでてくるからだ。


 8.ユーモアも、うつ病の特効薬となる

 ナチス強制収容所の生活を描いたヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読むと、極限状態に耐えるには、生きる意味が必要であると書かれているが、一方で「ユーモア」の重要性も訴えられている。なんでも、囚人仲間と毎日必ずひとつ、笑い話を各自が考えて発表し合うようにしたというのである。
 これは、おそらく鬱病で苦しむ人についてもいえるように思う。鬱病の人というのは、自分の不運や逆境を、現実以上に悪く解釈してしまう思いこみが強いようである。他人からみれば、それほど絶望的ではないのに、本人は「もうダメだ」と思ってしまうのだ。ところがユーモアというのは、いわば心のゆとりをもたらしてくれるので、自分の置かれた状況を、ゆとりをもって見つめられるきっかけを与えてくれるものである。

 おわり

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