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                   別れの日〜父の死に臨んだ記録

 この文章は、もともと2009年9月の独想録として書かれたものです。この月、父が亡くなりました。入院から、亡くなって火葬にするまでのことを書きました。この文章は、読者の方々から「参考になった」との声が寄せられたので、独想録から独立させ、ひとつの記事として紹介することにしたものです。「別れの日」というタイトルをつけ、2009年の9月2日から始まり、9月29日で閉じられています。




 9月2日 水曜日
 おととい31日の昼過ぎ、母から電話があった。
 父が入院したという。そして、ドクターが息子である私に話があるというので、これから来てくれないかということだった。
 そのひとことを聞いて、「ついに来るものが来たか」と思った。
 そして、大雨のなか、カッパを着て、バイクで20分ほど乗って病院に行った。
 もうすぐ76歳になる父の体調がよくないということは少し前から聞いていた。父は、いわゆる「過敏性大腸症候群」をずっと患っていた。要するに、神経性の大腸炎で、腹痛や下痢などをするが、それで病院に行っても、精神的なものだから、薬もでないで帰ってくるというようなことを、長い間繰り返してきたのだ。
 なので、今回も「またいつもの病気が出たのだな」と思って気にもとめずにいたし、父も同じ理由で様子を見ていたらしい。しかし、どうも今回は様子が違う。だんだん腹部の痛みや違和感が強くなり、ついに病院にかけこんだのであった。
 診察室に通され、MRIの写真を見せられて説明を受けた。
 直腸に大きなガンが出来ており、ほとんど閉塞状態であった。そして、ガンは肝臓に転移しており、もうほとんど全部がガンで侵されていた。しかも異常に腫れており、腹水もかなりたまっていた。

 以前、心理カウンセラーとして、ガン患者のためのホスピスに勤めていたことがあったので、その状態を見て、およそのことがわかった。そして案の定、医師は、もう手の施しようがないこと、危機的な状況であり、余命はせいぜい一ヶ月くらいではないかといった。また、ガンで侵された肝臓が破れる可能性があり、そうするといっぺんに大量の内出血がおきて、すぐに死んでしまう可能性もあると。それはいつ起こるかわからない。いまそれが起きてもおかしくない状況だといった。
 なので、もし会いたい人がいるならば、すぐに会うようなことをしておいた方がいいと。
 私は、いつかこういう日が来ることを、ずっと前から覚悟していた。
 私が考えていた通りだった。いつか、電話がかかってくる。ドクターから私に話があるといわれる。話を聞くと、もう手遅れだといわれる・・・・。まさに、予想していたシナリオそのものだった。
 ただ、別れの日が一ヶ月くらいだというのは、ちょっと予想していなかった。せいぜい半年くらいの余命がある時点で病名がわかるかなと、なんとなく思っていた。

 母は、あまりにも突然のことなので、この現実をどう受け止めたらいいか、わからない様子だった。「私は元気になるような予感がする」といっていた。
 父の方は、詳しいことはあまり知らされていないようだったが、うすうすよくない病気であることは気づいているようで、「俺はもう思い残すことはない」といった。
 といっても、もちろん、何の不安もないわけではないと思うが、しかし父は、こういう点については妙にいさぎよいところがあり、かなり本気で、もう未練なく死んでいく気持ちを持ったようである。
 私もたくさん末期の患者さんに接してきたが、父のようにさっぱりとした人は珍しいと思う。自分の父親ながら、さすがだなと思った。

 なので、私もあまり妙に隠し立てをしたり、ごまかしたりしないようにした。そして、「ドクターの様子から、ずいぶん厳しいような感じだったので、一応、覚悟を決めておいた方がいいかもしれないね」といった。
 末期の段階でなければ、代替療法やその他の療法などを試して希望を見いだそうという考えも出たかもしれないが、ほとんどガンに浸食された肝臓を見せられては、そういう望みというか、発想も湧いてこなかった。
 父のことを考えると、気持ちがつぶれてしまいそうなので、考えないようにした。いまはとにかく、本人が少しでも楽になるように、全力を尽くさなければならないのだ。悲しむことはあとだってできる。いまは、自分がやるべきことを、ただ淡々とやっていくだけだと自分に言い聞かせた。

 もちろん、欲をいえば、父も母も、90歳くらいまで生きて欲しかった。さすがに90歳にもなれば、死んでも、ある意味ではおめでたいという気持ちにもなれたかもしれない。
 だが、75歳という年齢は、日本人の平均寿命からすると、少し低い。その点で、もっと長く生きて欲しいと思わなかったらうそになる。
 ただ、私は、ホスピスに勤めていた頃、それこそ30代や40代や50代でガンで亡くなっていった患者さんをたくさん見てきたので、75歳という年齢は、むしろ恵まれていると思わなければならないと思った。若くして亡くなっていった患者さんやその家族の方を思うとき、もっと長く生きて欲しかったと思うことは、ぜいたくなのかもしれないと。

 ただ、親孝行が何もしてあげられなかったことだけは悔いが残る。私は父にいった。
「いつか、お金を貯めて家を買って、親子で同居して一緒に暮らそうと思っていたのに、それをしてあげられなくて申し訳ない」と。
 すると父は、首を振りながらいった。
「いや、これでいいんだ。一緒に住んだら、たいていつまらないことで仲が悪くなってしまうものなんだ。今は親子みんなで仲がいいじゃないか。仲がいいままで死んでいった方が幸せだよ。だから、(死ぬには)ちょうどいいときだと思っている」
 そして、続けてこういった。
「しかし、ひとつだけ頼みたい。どうか、お母さんをよろしく頼む。こんなすばらしい人はいない。おまえにもわかるだろう? お母さんだけは頼んだぞ。あとは、思い残すことはない。けっこう好きなことをやってきたし、人生になにも悔いはない」
 私はたったひとこと、
「わかった」 と答えた。



 9月3日 木曜日
 直腸ガンのため、これまで大量の出血をしていたようで、父は、昨日から輸血をしていた。ドクターがいうには、生存ぎりぎりの血液しか残っていなかったという。確かに、最初に病院に運ばれてきたときは、顔は蝋燭のように白かったが、今日はなんとなく赤みが戻ってきたような気もして、本人もだいぶ体調がよくなったといっていた。ただ、輸血のためなのか、微熱があり、また息苦しさがあるということで、鼻にチューブを当てて酸素を吸入していた。

 連日、さまざまな検査があり、それが苦痛だともらしていた。その反面、「人生、なにごとも経験だ。経験すれば、それだけいろいろな人の気持ちを理解できるようになる。こうなったら、ありとあらゆる検査を経験して死んでやる」ともいっていた。
 それを聞いて、私は一瞬「もうすぐ死んでしまうのに、人の気持ちを理解できるようになっても意味がないのでは」と思ったが、それはともかくとして、その前向きな姿勢はたいしたものだと感じた。
 また、「こうして寝ていると、むかしのことがいろいろ思い出されるよ」といった。
 私は、具体的にどんなことを思い出すかと尋ねた。すると、「東京に大工の見習いにやってきて、あちこち住み込みで丁稚奉公したことだな」といった。そうして、「そのとき、世の中にはいい人もいれば、いじわるな人もいるのだということがわかったよ」といった。
 父は、東北の宮城県に生まれ、そこで大工の見習いをしたが、あまりにも厳しい生活なので、家出同然に東京に逃げてきた。そこでしばらく大工の丁稚奉公などをしたようだが、やがて双眼鏡を組み立てる職人となった。しばらくして結婚して私が生まれたのだが、その後、父は離婚した。したがって、現在の母は、私にとっては育ての母である(産みの母がその後どうなったのかはわからない)。
 ホスピスで心理カウンセラーをしていたときにも気づいたことなのだが、人が死ぬ直前に懐かしい想い出として語るのは、意外にも、苦労した体験が少なくない。父も、このときはずいぶん苦労したようだが、死を目前にして、そのような苦労の体験を、あたかも楽しい出来事であるかのように思い出すところが面白いなと思った。

 父のその話を聴いたとき、私が懐かしく思いだしたのは、一軒家に住んでいたのに、突然におんぼろアパートに引っ越し、母親もいなくなり、しばらく父と二人で暮らしたときのことだった。夜、おなかが空いたので、ごはんでも焚こうと思って米びつをあけたら、なかにゴキブリが走っていたのを見てご飯はやめようということになり、たったひとつあったインスタント・ラーメンを作って、ふたりで分けて食べたのを思いだした。私がまだ幼稚園に行く直前だったかと思うが、このときのことはなぜかよく覚えている。私にとっては、母親もなく、貧乏のどん底で、普通に考えればもっとも悲惨な状況なのだが、なぜかほんわかと楽しい想い出なのだ。

 父はいった。「とりあえず、今の苦しみが落ち着いて、あとはだんだんと衰えていき、いつのまにか意識を失って苦しまずに死ねればいいんだがな・・・」と。私は、ドクターはそのような方向でいろいろ考えてくれているようだから、まかせようと答えた。
 そして続けて、「ガンになったから寿命がきたのではなく、寿命がきたからガンになったのだと、こう考えた方がいいと思う」と私はいった。
 そうしたら父は、ひとこと、
「そうだな」
 と答えた。



 9月4日 金曜日
 今日も、朝と夕方の2回、父を見舞いにいった。朝いったときは、父は眠っていたので、私だけ自宅に帰ってきた。母はそのまま残り、下の世話などをはじめ、あれこれと世話をしていた。
 夕方にいったとき、状態はとりあえず安定しているようであった。
 ただ、「眠いのでうとうとしていると、すぐに体温だ血圧だと看護師さんが検査にやってきて、起こされてしまう。そのために疲れてしまう」と言っていたので、私は看護師さんにそのことを相談した。そうしたら、夜中は原則として検査なし、昼間も、眠っているときは起こさずに、起きてから検査をするというように配慮してもらえることになった。

 体力がないわりには、父はよく話をする。今日は、自分より不幸な人の話をしていた。
「○○さんはもっと若くしてガンになった。△△さんのご主人はガンでなくなり、それからまもなく、息子さんも病気で亡くなった。世の中にはかわいそうな人がたくさんいる。そういう人に比べれば、俺はまだいい方だ」
 などと。
 そして、今日は珍しく、「眠いのでもう帰ってくれ」というので、少し話をしただけで、母と私は帰った。

 私は、死ぬ前に、父に対する感謝と尊敬の気持ちを伝えておきたいと思った。
 これは別に、父の気持ちを安らかにさせたり、喜ばせたりするための、ある種の意図的なものではない。第一、そのようなわざとらしいことを言っても、父は見抜くだろうし、そのようなことは望まないだろう。
 私の父に対する感謝と尊敬の念は、前から思っていた素直な感情である。
 私が結婚するまでは、父はどちらかというと苦手な存在だった。短気で気むずかしく、しばしばうんざりするようなこともあった。しかし、私が結婚してある程度の距離をおくようになり、その後、いろいろなことで相談などをすると、父も円熟をしたのだと思うが、頭から「こうしろ、ああしろ」的なことはいわなくなり、非常に深いところまで私を理解してくれたうえで、実に的確なアドバイスを与えてくれるようになった。とりわけ、どんなこともまず、私の苦しみを理解してくれるようになった。
「おまえも、ずいぶんコツコツとがんばってきたからな」
「おまえがそういいたくなる気持ちもよくわかる」
 といったように、まずは理解と共感を示してくれるようになったのだ。そのうえで、必要なら私にいろいろと注意してくれるようになった。
 私はそのことで、父、そして母には、心からありがたいなと感謝できるようになった。また、懐の深さというのか、弱い人間をあたたかく理解する姿勢に対して、尊敬の念を覚えるようになった。
 そして今回、死を目前にしたときの父のいさぎよい態度を見て、この尊敬の念がますます強くなった。そんな気持ちを、死ぬ前に伝えておきたいと思った。

 ただ、面と向かってそのようなことを口にするような関係ではなかったし、いきなりそんなことを言ったら、不自然というか、お互い居心地の悪い、こそばゆい思いをするのではないかと思う。なので、どうしても面と向かってはいえそうもない。
 しかし、帰りのクルマのなかで、ふと会話がそのような流れになったので、私は母に、父には感謝しており尊敬しているということを、はっきりと言った。そのことを、母から父に伝えてくれとはいわなかったが、母の性格から、おそらくタイミングをみて、伝えてくれるだろうと思う。
 母は、私のその言葉を聞いて、ひとことこういった。
「それは、とてもいいことを聞いたわ」



 9月5日 土曜日
 今日は、私が主催するカウンセリングの勉強会が都内で開かれるため出かけなければならず、父とは朝だけ面会に行ってきた。
 腹部のはりや違和感、吐き気のため夜も眠れないらしく、元気なく具合が悪そうだった。

 死ぬこと自体は、父も私たち家族も受け入れる気持ちではいるが、苦しみだけはなんとしても避けたい。患者の立場からいえば、昼夜を問わず拷問を受けているのに等しい。それはしばしば容赦のないものとなり、これは残酷なことではないだろうか。
 世界や人間は神によって造られたのだとしたら、なぜこうも苦しんで死ななければならない存在として、人間を造ったのだろうか? なぜ、寿命が来たら、眠るように安らかに死んでいくように造らなかったのだろうか? なぜ、何日も何日も、肉体的にも精神的にも拷問に近い苦しみを味わいながら、死んでいくように造ったのか?
 そのようなことを考えるとき、一部の宗教が説くように、神は全知全能であり愛であるということは信じられない。全知全能なら、人間をそのような苦しみに合わせないようにできるはずである。愛であるなら、このような苦しみをほうっておくはずがない。それなのに、現実としてこのような苦しみが存在するというのは、神は全知全能ではないか、あるいは愛ではないかのいずれか、あるいは両方でさえないと思わざるを得ない。
 苦しみによって人間は磨かれるという意見もある。そのために神は人間を苦しむように造ったという考えもできるかもしれない。確かに、それには一理あると思う。しかし、苦しみにも限度というものがある。あまりにも過酷な苦しみは、人間を磨くよりはむしろダメにすることの方が多いように思われる。父も気の毒だが、そんな父につきそっている母も気の毒でならない。母は80歳に近い。80歳にもなった弱々しい老人に対して、いまさら人間性を磨くために、このような過酷な苦しみを与えなければならない理由がわからない。それはもう、ある種の虐待であるとしか、私には思えない。

 ああ、しかし、こんなことを論じたところで、いったい何の役に立つというのか?
 今回の父の件に限らず、たくさんの人たちの最期の苦しみと死に接してきた私は、こうした人生の不条理について、どれほど神に訴えてきたことか。しかし、神は依然として沈黙したままであり、納得のいく回答は得られていないのだ。
 父はどう考えているかわからないが、もし私が父の立場だったら、「人間はなぜ苦しむのか?」などという哲学なんかより、いまこの痛み、この苦しみを取って欲しいと願うことだろう。神よりもモルヒネの方がずっとありがたく感じることだろう。

 街に出かけると、自然に、父と同じくらいの男性に目がいくようになった。そんな男性が元気よく歩いているのを見かけると、羨望と悲しみの入り交じった、なんともいえない気持ちになってくる。



 9月6日 日曜日
 今朝、父のもとに行くと、昨日とはうって変わって調子がよさそうだった。
 話を聞くと、お腹が張って苦しくて仕方がないので(腹水がかなりたまっているせいか?)、看護師さんに、「なにがあってもすべて自分の責任ということで、利尿剤を増やしてください」と頼んだという。そうしたら、尿がかなり出て、お腹のはりもかなり緩和され、久しぶりに何時間もよく眠ることができた。それで、今日は調子がいいのだと。
 昨日も、看護師さんに「眠っている父を起こさないようにしてください」と頼んだが、やはり希望があれば遠慮せず、訴えてみた方がいいと思った。おかげで父は眠ることができるようになり、多少なりとも元気を回復したのだ。あのまま我慢していたら、今頃はもっと悪くなっていただろうし、なによりも苦しみが増していたであろう。

 とにかく、体調がよさそうな父を見て、母も私も安堵と喜びがこみ上げてきた。昨日は、父の具合が悪いので、私も一日中沈んだ気持ちになったが、今日はうって変わって気持ちが楽になり、一週間ぶりに、つまり、父が入院する以前の気持ちが戻ってきたような気がした。なんとなく、病気が治ったような錯覚さえ感じたが、あまりそのような気持ちになると、また体調がダウンしたときのショックが大きいので、あまり喜ばないようにした。今は小康状態を保っているだけで、依然として状況は厳しいことは避けられない事実なのだ。

 昨日、私の友人が、私の父のためにと、花を贈ってくれた。ありがたいことだ。このような配慮は、実に心強いものを感じる。現実には、友人は、いや、私たち家族でさえ、患者のために物理的な支援をしてあげることは、ほとんどなにもないのだ。母は下着の交換などを手伝ってあげているが、私はせいぜい母を病院に連れてくるだけで、なにもしてあげていない。物理的な支援ができるのは、医師と看護師だけだ。
 しかし、精神的な支援は、患者にとっても家族にとっても、非常に大きな力を与えてくれる。患者も疲れているし、家族もケアや面会などのほか、精神的なストレスによって疲れている。これは非常に辛く、精神的なダメージによって体調も悪くなる。体調が悪くなれば見舞いにも行けなくなる。見舞いに行けなくなれば患者のストレスになり、患者がストレスにさらされれば、免疫機能が落ちて病気も悪くなる。なので、間接的には、友人からのあたたかい支援は、患者の治癒に貢献しているといえるのではないかと思う。

 他にも何人かの友人が、励ましの言葉やメールを寄せてくれた。とても感謝している。このような状況におかれたとき、友人の意外な一面を知って驚かされることも多い。実は友情や愛情を寄せてくれていたことを知り、見直したり、感謝したりすることもある。クールに見えて本当はやさしかったんだなとか、そんなことに気づかせられる。

 花を持っていくと、父はこういった。
「ありがたいことだ。苦しいときにこそ、人の情けのありがたさというものがよくわかる」

 今日は元気がよく、少し眠れそうなので、もう面会は来なくていいと父がいったので、夕方は母も私も病院には行かなかった。



 9月7日 月曜日
 今日も、父は比較的元気そうな様子であった。ただ、ふと腕をまくったとき、棒のように細かったので驚いた。そういえば、入院してから食事はまったく摂っておらず、点滴だけで過ごしていたのだ。もっとも、それ以前に病気のためかなり痩せてはいたが。

 今日は、一週間ぶりに入浴をさせてもらったらしく、さっぱりした様子だった。
 また、胃カメラの検査もした。軽い胃潰瘍が見つかったらしいが、ガンはなかったということで、嬉しそうだった。そして、「少し希望が湧いてきた。とりあえず日常生活ができるくらい元気になって家に戻り、好きなものを食べ、あとは徐々に弱くなって死んでいけたらいいな」ともらしていた。

 また、(寝ながら)排尿するとき、専用の器具に尿を入れるのだが、こぼしてしまうことがあるというので、こぼさないように、ホースを30センチくらい切ってもってきて欲しいと頼まれた。どうも、そのホースを使って、うまく排尿するアイデアが閃いたらしい。そこで私はすぐに実家に行き、いわれたようにホースを切って持ってきた。
 父は、むかしからアイデアや創意工夫をするのが好きであった。家の中は父が作った便利な棚や道具や、さまざまものに満ちている。既製品を買ってきても、自分なりに使いやすくするために改造する。双眼鏡を能率よく組み立てる機械を発明して(といっても構造的にはそう複雑なものではなかったが)、それを自分で作り、同業者に売ってちょっとした副収入を得たこともあった。私が小学生のとき、狭いアパートに住んでいて私の寝る場所がなかったときは、なんと、天井のすぐ下に畳一枚分くらいの寝室というのか、ベッドというのか、そんなものを作ってもらって、そこに寝たりした。不便なこと、使いにくいものがあれば、とにかく便利なように、使いやすいようにアイデアを考えて、手先の器用さにまかせて改造したり、なにか作ったりしてしまうのだ。
 そんな習性(?)が、病院に入院しているときにも出たと思い、父らしいなと微笑ましく思った。学歴は中卒で本も読まず、その点では決してインテリではなかったが、ある種の頭のよさや鋭さがあった。どんな状況におかれても、少しでも現状をよくしようと頭を働かせ努力を怠らないその姿勢は、たいしたものだと感心した。

 明日は、午前中に手術をすることになっている。直腸の腫瘍を取り除き(可能ならばだが)、人工肛門をつける。当初、手術も厳しいかもしれないといわれていたので、とりあえず手術ができるということで、父も母も私も安心し、嬉しく思った。
 ところが、母と私が家に戻ろうとしたとき、ドクターが巡回に来て、病状的には悪化しているという意味のことをいった。私自身は、ガン患者さんと接してきた経験から、それを聞いても意外なものは感じなかったが、昨日から少し元気になり、病気そのものがよくなったのではないかと感じていた(らしい)父と母は、ショックを受けたようだった。
 明るい雰囲気で家に帰ろうとしていたのだが、いきなり暗く沈んだ雰囲気となり、父も元気のない表情で、「それじゃ、またな」というと、額に両手を乗せて目を閉じてしまった。



 9月8日 火曜日
 今日は、午前9時30分から、父の手術が行われた。
 手術はもちろん、入院さえしたことがない父だったので、さすがに手術前は少し緊張と不安の表情を浮かべており、口数も少なかった。手術室に入る前に、「それじゃ、お父さん、がんばってね。いや、別にがんばる必要もないか。気楽にやってください」と私が声をかけると、父はだまって手でOKサインをした。

 私と母は、手術室前の待合室で、手術が終わるのを待った。
 母は、「なんでこんなことになったのかしらね。食べていたものでも悪かったのかしら。もっと早く病院にくれば、助かっていたかもしれない」といった。私は、「いまさら原因を考えたところで、なにがどうなるわけでもない。落ち込んで暗くなるだけだから、やめよう」といった。

 12時を少し過ぎた頃、手術室からドクターが出てきた。見ると、切除した患部の肉片が入った鉄の容器を持っている。血を見るのさえ嫌いな母には見せたくなかったので、待合室で待っていてくれといって、手術室のドアの前で、私だけがドクターの説明を受けた。
 肉片はこぶし大2つくらいの量があった。グロテスクで不気味であり、人によっては卒倒してしまうようなものだが、私は自分でも意外なほど冷静に、その肉のかたまりを観察することができた。
 説明によると、直腸を閉塞していた腫瘍はこうして切除したが、腸のあちこちにガンが転移しているとのことだった。また、肝機能がかなり低下しており、ぎりぎりの状態で、もしかしたら抗ガン剤を使って多少は延命できるかもしれないが、それも今後の状態しだいで、今はなんともいえないとのことだった。
 そうしてドクターは再び手術室に入っていった。父が手術室から出てきたのは、それからさらに1時間ほどしてからだった。意識はほとんどなく、そのまま集中治療室に運ばれていった。それから看護師さんの処置が30分ほどあり、ようやく面会することができた。
 麻酔のため、意識はまだ朦朧としていた。口には呼吸マスクがつけられていた。声をかけると父は目をあけていった。
「無事に(この世に)戻ることができたみたいだな」
「そうだよ。ここはあの世ではないから安心してください」
 私がそう返事をすると、看護師さんがクスッと笑った。手術そのものは成功したというと、嬉しそうな顔をした。そのうち、また意識が遠のき、眠ってしまったので、私たちは家に帰った。



 9月9日 水曜日
 集中治療室に行くと、父は何本ものチューブにつながれており、まさにスパゲッティ状態だった。このような状態を見て、私は少し複雑な気持ちになった。ある意味では、これは医学の偉大な進歩の姿である。自然のままなら、とっくに生理機能が失われ死んでいたり、苦痛に見舞われていたであろうが、人間の知恵と技術によって肉体の状態をコントロールし、命をつないで苦痛を和らげているのだから。
 しかしその一方で、人間をこのような状態にさせてしまうことが、不気味というのか、気の毒というのか、なんともいえない違和感を覚えた。
 いずれにしろ、父は顔色も悪く、あまり元気がなかった。
 午後に再び見舞いに行ったときは、水を飲んでもいいといわれて、少し元気になっていた。腹部の違和感を除けば、とくに苦痛はない様子であった。ただ、時間がたつのが遅く、それが苦痛だといっていた。また、早ければ今日にも一般病棟に戻れるかもしれないということで期待していたが、どうもそれはあさって頃になりそうだといわれ、少しがっかりしていた。
 やせ我慢なのか本心なのかわからないが、手術をしてこうして集中治療室で過ごしていることについて、「苦しかったが、面白い経験をした」といっていた。



 9月10日 木曜日
 今日の父は、昨日よりもまた少し元気になり、新聞や雑誌などにも少し目を通していた。心拍計や血圧計などもはずされて、やや一段落したような印象を受けた。ただ、無意識に点滴などのチューブを抜いたりしないよう、眠るときは大きな布製のグローブのようなものを両手につけなければならない。どうも、父にはそれが不愉快なようであった。
 集中治療室から一般病棟に移る見通しがまだたっていないところからすると、見た目は元気そうでも、体調的にはあまりいいとはいえないのかもしれない。食事もまだできない状態だ。
 明日から三日間、私はある代替医療の学会に招かれて京都で講演をすることになっており、父には会えなくなる(なので、この日記も月曜日まで書けない)。その間、小康状態を保ってくれていればいいと思う。



 9月14日 月曜日
 昨日の深夜、京都から自宅に戻った。
 そして、今朝、病院に行った。すでに母がいた。聞くところによると、母は昨夜、父と同じ部屋に寝たということだった。というのは、父が布製のグローブをしたままだと、どうしようもなく不愉快となって眠れない。しかし、だれかが同じ病室にいれば取ってもいいですよといわれ、母が泊まることになったらしい(チューブを手で抜いてしまうのを見張っていろというのだ)。
 おかげで、父はぐっすり眠れたようであったが、母の方は、病室に泊まって熟睡できるはずがなく、ただでさえ、これまでの疲れがたまっているのに、これでは母もまいってしまうと思った。まさか、このまま毎晩、病室に泊まるわけにもいかないだろう。母が泊まらなければ父は眠れないということになる。
 私はこれではいけないと思った。
 しかも、昼夜を問わず頻繁に、体温だ、血圧だ、採血だ・・・と検査にやってきて、眠りを邪魔されてしまう。どうも、以前に看護師にお願いしたことが、守られていないようだった。
 拷問のなかには、眠らせない拷問というのがある。実際、父がいった。
「これでは拷問だ。これでは殺されてしまう」

 医療というものは、どうかしていると思った。眠れなければ人間は衰弱してしまう。衰弱を避けるために、点滴やらなにやら、いろいろな処置をしているのに、その過剰な処置が父を衰弱させていることに気づかない。医師も看護師も、まるでマニュアル通りに杓子定規にしか動かないロボットのようだ。患者の状態を総合的に判断し、臨機応変に柔軟に対応するということができない。ただ検査データだけを見て、点滴の量を増やすとか、薬を飲ませるとか、そんなことをやっている。なぜそんなことより、今の父にとって安眠させることが最優先であるということに気づかないのか?
 便通を促進させる強烈にまずい漢方薬も飲まされる。父はそれを飲むと、しばらく吐き気がして具合が悪くなるといっていた。だいたい、吐き気がして具合が悪くなるというのは、どこか体に合っていない、体が拒否しているということなのだ。

 私はこれではいけないと思い、今までは医師や看護師となるべく仲良く円満な関係を築こうと思ってきたが、そういう考えはやめにした。
 そして、とにかく死ぬまで安楽にさせることを決意した。辛い思いをして少しくらい長く生きるよりは、少しくらい短くても、苦痛なく安楽に生きた方がいいはずだ。それなのに、なぜ医療者は、そのような見方や考え方をせず、ただ長く生きることだけを目的とするのか? 第一、患者に苦痛とストレスを与えるこんな処置をして、果たして長く生きることさえできるのか?
 私はまず、飲むようにいわれていた漢方薬をその場で捨てた。そして、父にはもう飲まなくていいといった。
 次に、看護師がやってきて、肝臓ガンの治療剤だとか、抗生物質だとか、利尿剤だとか、そういった点滴をしようとしたので、私は、毅然とした口調で、「もうそのような点滴はやめてください」といった。その気迫におそれたのか、看護師は怪訝な顔をして、「では、とりあえず今はやめておきます」といって、出ていった。
 そして、口頭でいっても、しっかりと対応してくれそうもなかったので、家に戻り、以下のような文書を作って看護師長に渡し、私たちの要望をはっきりと述べた。

−−−−−−
取り決めごと

以下、
・「患者」を斉藤茂男とする。
・「病院」を○○病院とする。

1.患者は今後、緩和ケアのみを行い、治療もしくは延命のためのいかなる処置も行わない。

2.今後のさまざまな処置は、医師や看護師と、患者もしくは患者の家族代表が相談の上、患者と家族の責任で決定する。その結果としていかなる事態が生じても、患者および患者の家族は、病院にその責任を問うことはしない(以下同様)。

3.患者のQOL(生活の質)を妨げる検査(体温、血圧、採血など)は行わない。ただし、緩和ケアを行うために必要な場合は、事前に患者の家族代表と相談の上、個別に対応する。

4.夜間(夜9時頃〜朝7時頃)の入室は、患者の安眠を妨げないために、容態の急変や患者からのナース・コール以外は、原則として行わない。

5.上記に変更の必要が生じた場合は、病院と患者および家族代表が相談の上、あらたに取り決めることにする。

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 さすがに、こうした文書にすると、看護師も真剣に対応するようになったようで、別の看護師などにも情報が伝えられていたようである。
 そういうわけで、今夜から父は、グローブをつけて眠らなくてすむようになった。ただし、それで万が一、チューブなどを取って死んでしまったとしても、それは私たちの責任であり、病院を訴えるようなことをしないとはっきりといった。
 父は、「よかった、よかった、これで助かった」と喜んでいた。
 また、「実は、このグローブをすぐにはずすための道具を発明し、看護師が来たらすぐにつけてごまかすことができないかということを考えていた」などと、またしても父らしいことをいっていた。

 ところで、そのようなこととは別に、朝、父に、ホメオパシーのレメディ(アピスという、ミツバチから作られたレメディ)を1粒、飲ませてみた。少しでも腹水などが軽くなればいいと思ったからだ。いくらホメオパシーといえども、ここまで悪化したガンを治すことは不可能である。ただ、気休めにでもなればと思っていた。
 次に、死ぬときはいっさいの苦痛はなく、甘美なすばらしい感じがすること、そして、霊界という場所に行き、そこもすばらしいところで、死ぬということは、実は非常に幸せでおめでたいことなのだということを話した。父は、あまりこういうことは考えない人で、そんなものかという感じで聞いていた。
 その後、私と母が自宅に戻ると、父は次のような不思議な体験をしたと、夕方に再び訪れたときに語った。
 すなわち、それから父は眠くなり目を閉じたのだが、普通、目を閉じると黒い闇が見えるが、そうはならず、目を閉じても、目の前に一面の純白が見えたという。そして、眠っているのでもなく、起きているのでもない状態のまま、その純白をずっと見つめていた。そして、表現できないほどものすごい安らかな、すばらしい心地がして、それが4時間近くも続いたのだそうだ。
 「別に、おまえが話したあの世のことを意識していたわけではないんだが、なにか、あの世をかいま見たような感じだった。この世の欲望や汚いことを捨てて、純白な魂になったのかな」といった。
 私はひそかに、これはホメオパシーのレメディの作用かもしれないと思った。というのは、レメディは、人を霊的に導く作用があるらしいということを、実は昨日の学会で知ったからだ。
 
 それと、父と母で行われた、こんな会話も印象に残った。
 母がいった。
「人間は、どうしてこんなに辛い思いをしなければならないんでしょうかね」
 すると父は、ひょうひょうとした顔つきで、
「それは、生まれてきたからだろ」といった。そして、
「金持ちだろうと、貧乏人だろうと、みんなこの世にきて苦労して、人間を磨いていくのさ」
 などと、まるで私が本で書きそうなことをいった(笑)。

 それと、今日はじめて、食事をとった。食事といっても、重湯と、薄いみそ汁、ほんの一口だけのプリンではあったが、父にはそれが、まるで人生の大きな出来事のようであった。



 9月15日 火曜日
 昨夜の食事は、重湯のようなものが出たらしいが、底の方に米粒があったので、それを口に入れたら、その米がガリガリしていたそうだ。
 つまり、まだ生の状態だったらしい。
 普通、重湯とかお粥というのは、一度焚いたご飯から作るのではないかと思われるが、父のいうことが本当なら、生の米を沸騰させて作ったようである。別にどのような手段で作ろうと、きちんとしたものが与えられるならかまわないが、十分に加熱していない、いい加減な食事を出すというのは、あきれてしまう。調理の担当者は、自分が作ったものを、チェックしていなかったということだ。
 父はその米を食べたら、胃が痛くなったといっていた。胃痛との因果関係は慎重に結論を出さなければならないとしても、少なくても不愉快な気持ちになったのは確かだ。

 また、ドクターと看護師、また看護師どうしの間の連絡がきちんと為されていないという問題もずいぶんとある。たとえば、ドクターが「今日は食事を出さないで様子をみましょう」と言っていながら、しばらくすると看護師が「はい、食事の時間ですよ〜」などとやってきたという。モルヒネを使用している患者は、しばしば事実誤認の傾向があるから、この点については一方的に父の言葉を信じることはできないかもしれないが、しかし私自身も先日、受付の女性に「○○看護師に話があるので、もし連絡がついたら病室に来ていただけませんか」と頼んでいたのに、いつまでたっても来ないので受付に行ってみると、その○○看護師が受付にいるではないか。連絡が伝えられていないのである。こういうところを見ても、父のいうことはおそらく事実ではないかと思われる。

 もちろん、人間だからついうっかりということはあるだろうが、それにしても、ずいぶんずさんだなあと感じることも少なくない。
 ただ、私は父の入院している病院が、特別に悪いとは思っていない。おそらく、これが、大なり小なり、現在の病院で行われていることなのだ。
 父は、病院というものの、あまりのいい加減さに、「世の中というものは、こんなふうになっているんだと、この年になって初めて知った」と嘆いていた。

 残念なことだが、病院にすべてを任せていたら、ろくなことにはならないと思う。医者や看護師に逆らうことは、ある意味で自分の肉体や家族を「人質」にとられているような感じで、抵抗を感じるものだ。
 しかし、そのような医療の悪しき流れを変えるためにも、患者は自主性を持たなければならないと思う。そのためには、ある程度の病気や治療の知識を勉強しなければならないだろうし、医師や看護師のやり方を常に把握し、適切ではないと判断したら、はっきりノーという勇気を出さなければならない。
 医者や看護師といってもピンからキリまでいるし、それに、なにもかも把握した万能の存在ではない。とくに、精神的な領域に関する無知や無神経さには、しばしば驚くことがある。だが、精神が肉体に大きな影響を与えることが事実として認められている現在、患者の心を理解できない医師や看護師などは、肉体のケアに関しても無能であるといえるのではないか。

 現在は多少は流れが変わってきた(と信じたい)が、むかしは医者には逆らえなかった。医者は自分のやり方が絶対に正しく、自分の思うようにしたがり、自分に逆らうなら出ていけといわんばかりの傲慢なところがあった(もちろんすべての医師がそうだったとはいわないが)。セカンド・オピニオン(他の医師に相談してみること)などを求めたら、露骨に嫌な顔をされたりしたのではないだろうか。いや、セカンド・オピニオンという考え方そのものも、むかしはなかったようだ。患者は、医師を神のごとく敬い、信じなければならなかった。暗黙のうちに、そのように強制させられていたのだ。

 私は、父は病院の食事はもう食べたくないというので、父の希望で、子供が食べるようなビスケットを近所のスーパーに行って買ってきて、それを食べさせた。父は、この方がよほどマシだといって、ビスケットをちびちびと食べていた。

 病院から戻り、家族と夕食をした後で、中学一年になる娘が、最近、新しいゲームソフトを買ったのでそれを楽しんでいた。そして、いつまでも妻と一緒に、キャーキャー嬉しそうな声をあげているのを見て、私は思わず腹が立ち、大きな声で怒鳴り散らした。
「おまえのことを大切にしてくれたおじいちゃんが、苦しい、苦しいといいながら、いまも夜ひとりで我慢しているんだぞ。そういうことを少しは理解しろ!」
 娘は泣き、妻はだまり、家の中は暗くなった。私は疲れているのかもしれない。いや、確かに疲れている。だが、私は間違っているのだろうか?
 私は、もし私が父のように病床に伏しても、いま私や母が父に対して行っているほどの献身さは、娘や妻からは得られないだろうと思う。

 かつて、ホスピスに勤めていたとき、たった一度も家族が面会に訪れなかった男性患者さんのことを思いだした。死んだときに家族がぱっと来て手続きをすませ、「本人の遺品はすべて捨ててください」といって帰っていった。聞くところによると、この男性患者さんは頑固で、家族から嫌われていたようだ。実際、病院の至らない点などにも、よくクレームを言っていて、看護師からも煙たがられていた。
 私はいままで、家族から嫌われていたこの男性患者が悪いと思っていた。詳しい事情はわからないのでなんともいえないが、しかし今日、必ずしもこの男性患者が一方的に悪かったと決めつけていたことは、間違いだと気づいた。
 今の私は、この男性患者が行っていたように、病院に対してクレームを述べ、また家族に対しては頑固な父親であり夫となっている。私は自分のしていることは間違っていないと信じている。あの男性患者さんも、間違ってはいなかったのかもしれない。しかし、病院も家族も彼のことを理解できなかった。彼はだれからも理解されず、孤独に死んでいった、ということなのかもしれない。病院のいうことにはなんでも素直に従い、身内が苦しんでいるというのにキャーキャー嬉しそうにはしゃいでいても怒鳴ったりしなければ、私は病院からも家族からも大切にされながら最期を迎えることができるかもしれない。
 しかし、私にはそんな生き方はできない。そんな生き方をしたら、真実と人の道を尊重する哲学の道を歩んできた自分は、自分ではなくなってしまう。

 私は、だれからも理解されず、孤独に死んでいくことを覚悟した。



 9月16日 水曜日
 今朝、父の見舞いに行ったとき、たまたま食事が配給されたので、内容を確かめてみた。重湯にみそ汁、卵豆腐にヨーグルトが出た。昨日、父が言っていた問題がないかどうか重湯を調べてみたが、問題はなかった。父は重湯とみそ汁を、「おいしい、おいしい」といって飲んでいた(といっても、ほんの数回、すすっただけだったが)。胸焼けがして、あまり食欲がないらしい。

 また、父の話によると、昨夜、ナースコールで看護婦さんを呼んだところ、その看護婦さんが部屋に入ってきたとたん、へなへなと倒れ込んでしまったという。おそらく過労が原因かと思うが、このようなところを見ると、病院のサービスや対応がしっかりしていないというのも、あながちスタッフのモラルややる気だけの問題ではなく、医師や看護師のかかえる過重労働といった、制度そのものの問題もあることは否めないと、あらためて感じた。
「俺もかわいそうだが、看護婦さんもかわいそうだな〜」
 父はそういっていた。

 父は日に日にやつれているのがわかる。特にここ二、三日くらいから、ろれつがまわりにくくなり、言葉が聞き取りにくくなった。また、ボ〜ッとしたかと思うと、そのまま目を閉じて5分間くらい眠ってしまったりといったことを繰り返すようになった。もはや、上半身を起こす力もない様子であった。

 そんな父に対する母の献身ぶりは、痛ましいほどである。背中をさすってあげたり、口を拭いてあげたり、やさしい言葉をかけてあげたり、タオルを首の下に敷いてあげたり、食事を食べさせてあげたり、眠っている間も、ずっと横に座っていてあげたり、その一方で、役所に行って介護申請をしたりと、今度は母の健康が心配になってきた。

 父は、孫(私の娘)に、自分が死にゆく姿を見せた方がいいかもしれないなといった。そうして、人間はいつか死んでいくのだということを学んでもらおうと。

 一度は自宅に戻って療養したいと考えていたが、体力は衰える一方であり、「やはり、このまま病院で息を引き取った方がいいかもしれない。その方がいざとなったとき安心だし、家族にも迷惑がかからないから」と、つぶやくようになった。その一方で、「ああ、自宅の庭をのんびり眺めながら、タバコを吸いたいな〜」といった。



 9月17日 木曜日
 昨日あたりから、父が少し意味不明なことを話すなと感じていたが、今朝も見舞いに行くと、父がいうには、夜中に目が覚めて、とても空腹を感じたので、こんなに空腹では死んでしまうと思い、重湯を食べるために看護師を呼んだという。そして、重湯を食べるから母に(手伝ってもらうために)病院に来るように連絡して欲しいと頼んだのだそうだ(このことは看護師さんにも確認した)。
 しかし父は、看護師は母を呼んだと言いながら呼んでいない、自分を年寄りだと思ってウソをつき、バカにしていると、憤慨していた。その後で、「編集というものはせいぜい10パーセントくらいであり、大部分はカットされてしまうのだ・・・」などと、意味不明なことをブツブツいっていた。
 このような痴呆的な状態の原因はなにかと看護師にたずねてみると、長い間、病室にいると、まともな人でさえ、このように頭が混乱してくることがあるという。まして高齢なので仕方がないでしょう、ということだった。ちなみに、モルヒネはまだ使われていないらしい。ただ、睡眠導入剤が点滴に入っているようなので、そちらの影響が関係しているのかもしれない。

 たしかに、寝返りもできない状態で、来る日も来る日も見えるものといえば病室の壁や天井であり、ときおりテレビも見ているようだが、24時間、ほとんど狭い牢獄に幽閉されたのと同じなわけだ。それだけでも精神的にはかなり辛いものといえるだろう。ある心理学の実験によると、人間は五感からの刺激を長い時間にわたって遮断されると、しだいに頭の中の考えと現実との区別がつかなくなり、妄想や幻覚に襲われるという。父も、そのような感じになってしまったのかもしれない。

 ほかにも、自分の言っていることがうまく母に伝わらないとイライラしたり、子供のようにわがままな振る舞いが少し目立つようになった。

 だが、それにもかかわらず、母は腹を立てたり感情を乱したりせず、まるで子供を相手にするように、献身的に世話をし介護をした。父と母はむかしから仲がよかったが(といっても、気むずかしい父に対して母が追随するような形ではあったが)、とりわけこういうところに、夫婦愛というものが現れるのだろうと思った。
 しかも、夜中に自分を呼んだという父の言葉を聞いて、母は今夜、病室に泊まるといった。80歳近い高齢であり、これまでの世話や心労でかなり疲れやストレスがたまっているだろうから、その点で私も看護師さんも心配したが、そうした方が、父が亡くなったときに後悔することはないだろうと思い、母には泊まってもらうことにした。



 9月18日 金曜日
 心配していた通り、母は体調を崩し、明け方頃に病院から自宅に戻ったらしい。たいしたことはないようだが、目眩がするようだ。しかし、少し休んで昼には病院に行くという。
 そのため私は、朝、父を見舞いに行き、そのまま午前中、母が来るまでずっと父の病室に一緒にいた。餅米が食べたいというので、近所のコンビニでお赤飯のおむすびを買ってきて食べてもらった。ほんの数口をかじり、「うまいうまい」といって食べていた。

 今日は、昨日のような意味不明なことはそれほどいわなくなったが、しだいに滑舌がうまくいかなくなっており、言葉がずいぶん聞き取りにくくなった。
 時間の感覚のズレの大きさはあいかわらずで、「今は何時だと思う?」と聞いてみると、「午後3時くらいかな」などという。そして今は朝の8時半だというと、驚くのである。

 また、数分の断続的な眠りを頻繁に繰り返すようになった。たとえ、話をしていても、しばらくすると目を閉じ、口をあけて、ガ〜、ガ〜という音を立てて眠る。それが3分から10分ほど続くと、ふっと目をあけて「いま、眠っていた」というのだ。
 私が思うに、これは死ぬ練習をしているのではないだろうか。人間は、突然の事故などで急激に魂が肉体から離れなければならない場合もあるが、病気などで徐々に肉体の生命力が弱まっていくような場合には、魂が肉体との連結を少しずつ切り離していくといわれる。その方が、いきなり肉体を離れるよりショックが少なく、死後すんなりと霊的な世界になじんでいけるらしい(突然に死ぬと、自分が死んだということがしばらくわからない場合もあるようだ)。

 むかしのことをいろいろ思い出すようで、今日は、こんなことをいっていた。
「俺が田舎から東京へ行くとき、○○のおばあちゃん(父の姉の夫の母)が、“茂男さん、あなたならがんばれば、どんなこともきっとうまくやれるから心配はいらないよ”と、やさしい言葉をかけてくれた。その言葉は本当にありがたかった。今でもその恩は忘れない。人にやさしい言葉をかけてあげることは本当に大切なことだ」と。

 テレビのリモコンがすぐに取れるように、ティッシュの箱を改造したものがテーブルに設置されていた。またしても発明好きな父らしい行動が見られた。こんな状態になっても創意工夫をやめないところは、もはや驚きを禁じ得ない。

 昼になって、母がやってきた。思っていたよりは元気で、いつもの調子と変わらなかった。それを見て安心した。

 明日は個人的に主催した集まりがあるため、一日じゅう外出しなければならない。しかし、父の口から肉体上の激しい苦痛や、精神的な煩悶といったことは聞かれないので、それだけでも私としては安心して出かけることができる。



 9月20日 日曜日
 昨夜、9時近く、東京でのセミナーを終えて帰宅してみると、「父は腰が痛くて調子が悪いので今晩は泊まるかもしれない」と母から連絡があったそうだ。
 私はとりあえず夕食をかき込むと、病院に向かった。私は、さまざまなチューブが差し込まれていて寝返りも満足にできない状態のまま寝ていたので、腰痛でも起こしたのだろうくらいの認識でいた。
 病室に入ってみると、父は体を横に向け、両手でギュッとベッドサイドのパイプをつかみながら、顔をゆがめて「痛い、痛い」とうめき声をあげていた。そして、背中を母が懸命にさすっていた。その苦しそうな光景は尋常ではなかった。
 すでに、湿布薬のように皮膚に直接貼り付けるモルヒネを使用し、さらに点滴で痛み止めを入れていたが、いっこうによくならない。母によれば、夕方の4時半からずっとこのありさまだという。私は看護師のところへ行き、どうにかならないかと相談すると、さらに経口の痛み止めを飲ませてみましょうということでそれを服用してもらった。
 そして、背中をマッサージするようにさすると楽になるらしいので、母とバトンタッチして私が脇腹や背中をさすった。そうして2時間近くたった頃、ようやく痛みが治まってきて、ひと安心した。父はこのまま眠れそうだというので、母と私は帰宅した。

 この痛みは、ガンによるものなのだろうか? 実は、脇腹にこのような激痛が走るという経験を、むかし父は2、3度経験している。原因はどうもストレスによる神経性のものらしいのだが、とにかく本人は怖ろしいほど痛いようだ。そのときも、誰かに腰や脇腹をしばらくさすってもらううちに、薬など飲まなくても痛みが治まった。
 今回も、それと似ていたので、もしかしたらガンによる痛みではない可能性もある。あるいは、痛んでいる時間が今回はずいぶん長かったので、やはりガンの痛みなのかもしれないが、いずれにしろ、入院してからこのような激しい痛みに襲われたのは初めてだったので、本人も母も私もびっくりした。もしこれがガンによるものだとすると、ガンの痛みというのは拷問のようであり、本人はもちろん、それをはたで見ている家族からすると、いたたまれないものがある。

 そして今朝、心配しながら病院に行くと、昨夜のような痛みはない様子であった。しかし、あまり元気はなく、気分もすぐれないようだった。
 日ごとに衰弱している様子は否めず、とりわけ顔色というか、からだ全体がずいぶん土気色になってきた。そしてガリガリに痩せ、痩せたために皮膚がしわだらけなので、まさにミイラのようになってきたような感じがする。

 昼に再び病院に行くと、看護師さんから、無線の心拍モニターをつけませんかといわれた。これは、患者の胸のあたりに電極を貼り付けて、心拍を無線でナースセンターに送信する装置だ。そのため、看護師は病室に行かなくても、ナースセンターで父の心臓の鼓動をモニターすることができる。
 これは、頻繁に父の様子を見にいって安眠を妨げないようにとの配慮であったが、同時に、それほどまで危ない状態になってきているのだなということを暗に伺い知ることができた。

 音楽を聴くと気晴らしになるかなと思い、母はCDラジカセを持ってきて、私は父のリクエストである田端義夫というむかしの歌手のCDと、「コンドルは飛んでいく」のCDを、アマゾンのお急ぎ便で注文してすぐに持っていったが、「今は音楽を聴くような気分ではない」といって、神経質にからだの位置を直したり、酸素チューブなどをいじっていた。

 それでも、昨夜、私が背中をさすって楽になったことで「おまえのおかげで救われた」などといっていた。
 また、今日はこんなことをいっていた。
「昨日は大変な思いをした。しかし、大変な思いをすることのなかにはいいことがあるのだということに気づいた。つまり、(いずれは)大変な思いが消えてなくなるといういいことが・・・」

 父は神経質なので、頭と肩が快適な高さになるように、タオルを微妙な位置に敷いたり、風通しをよくするために窓を開けたり、明るすぎず暗すぎない照明をしたりと、要求が多い。とうてい看護師さんに頼めるものではないので、母がそばにいてくれると助かるようだ。
 なので、今夜もまた、母は病室に泊まることになった。
「お父さんもがんばっているんだから、私もがんばらなくては」
 と母がいうと、父がいった。
「でも、一番辛いのはおまえなんだよな」
 それを聞いて母は、
「そんなやさしい言葉をかけてくれて・・・」
 といって、涙を流していた。



 9月21日 月曜日
 今朝、病院に行くと、父は昨夜はよく眠れずに元気がなかった。母は病院で一晩を過ごしたのだが、意外に元気な様子であった。もっとも、気を張ってがんばっているのだとは思うが。
 父は私に対して、さりげなく「病人の顔を見に来たって仕方がないぞ」といった。特に他意はなく、なんとなくそういったのだと思うが、それに対して母は、父に対して「そんなこといわないで。家族じゃないですか。心配して来てくれているのよ。仕事もあるというのに」と、たしなめるように言っていた。

 父と私との関係が感情的に濃かったのは、高校生か、せいぜい大学生くらいまでで、社会人になってからは、お互いに淡泊になっていった。父が私の生き方に干渉したり口出しをするといったことは皆無になった。ただ、私が困っているときには力を貸してくれたけれども。とにかく、社会人になってから、とりわけ私が結婚してからは、感情的にはけっこう距離が出てきた。そのため、他人どうしとまでは言わないにしても、けっこうそれに近いものがあったかもしれない。
 しかし、それでいいのだと思っている。親子というものは、あまり近すぎてもむしろ不満やいさかいの方が強く出てしまいがちだ。それならば、多少、他人行儀であっても、仲がいいほうがいい。そして、父が危機的な状況である今も、おかげで、私は感情的に取り乱すことなく、冷静に対処することができているのだと思う。

 私が父を見舞いに行くのは、父のためというよりは、母のためである。父は私に精神的にも物質的にもほとんど何も求めていないし、また、私が父にしてあげられることもほとんどないのだ。しかし、母はひとりで父を見舞うのは心細いらしく、私がそばにいると心強いようだ。なので、私は母のために、今は病院に見舞いに行っているようなものである。

 父は母に、夜もいて欲しいというので、母は今日も病院に泊まることになった。夕方、私は病院に行き、母のために近所のコンビニでおにぎりなどの夜食を買ってきて渡した。ある意味で、このように献身的な配偶者がいてくれる父は幸せである。実際、父も母にこういっていた。「おまえさんには悪いが、俺が先に死んでいくことになって幸せだよ」と。



 9月22日 火曜日
 深夜の2時半頃、枕元に置いてあった携帯が鳴った。父と一緒に病室に泊まっている母からだった。先日のように痛みが起こって苦しんでいるからすぐに来て欲しいという。私は急いで支度をして原付バイクを飛ばして病院に行った。
 病室に入ると、先日のような、まるで拷問部屋のような光景を再び目にした。父は両手でベッドサイドのパイプをぎゅっと握りしめ、痛みで全身を震わせながら苦しそうにうめき声をあげていた。12時頃から痛み出したらしく、すでに痛み止めの点滴と経口薬を服用したが効果がなかった。そこで、もう一度点滴をし経口薬を服用してもらい、私は先日のように脇腹や背中をさすった。
 この痛みの原因がなんなのか、単なる神経によるものなのか、いまだにわからないが、痛みが肝臓を中心として腹部前面と背部に広がっていることから、やはりこれはガンによる痛みなのかもしれない。人工肛門に取り付けられたビニール袋のなかには血液が少したまっていた。
 そうして2時間近くさすったが、あまり痛みは緩和されない。すると父が、背中に湿布薬を貼ってくれといったので、看護師さんに頼んで、湿布薬を貼ってもらった。すると、だいぶいいらしく、痛みは急速に緩和されていった。湿布薬が効いたのか、あるいは点滴や経口薬の効果が出てきたために痛みが緩和されたのか、そのへんはわからないが、とにかく痛みは耐えられる程度におさまった。
 私は母に眠るようにいい(簡易ベッドがおかれていた)、その間、私が父の様子を見守ることにした。母は横になるとすぐにいびきをかいて眠った。よほど疲れていたのだろう。しかし父の方は、息苦しさや体全体の違和感のためか、ほとんど眠れず、ときどき意味不明の寝言(?)を口にしたりしていた。
 それから2時間ほどたって朝になると、父は私を見て少し不愉快そうな顔をして「おまえがいると気になって眠れないんだよ。もう行ってくれ!」といった。
 そこで、私は病室を出ていった。出るとき母が「ごめんね」といった。
 6時半頃帰宅し、朝食を取り、部屋の掃除をしてから、疲れてベッドに横になった。結局、午前中は眠ってしまった。

 その後、母は午前中に家に帰り、休んでいたらしいが、昼頃に病院から電話があり、父が来て欲しいと言っていますといわれ、すぐに出かけたらしい。
 そして、夕方に私のところに電話が来た。
 それによると、父は今晩も母に泊まるように要求をしたという。しかし、さすがに母も疲労がピークに達しており、私の口から今夜は自宅に戻るように説得してもらえないかと頼んできた。私はクルマで病院に行った。
 そして、父に、今日は母は自宅に戻ってもらうからねというと、父は「わかった。もう限界だからな」といって素直に納得した。ところが、それからしばらくすると、「やはり、今日はここにベッドを用意して泊まっていってくれ」といった。私がはっきりと、今日は帰って寝てもらうというと、父も納得した。

 母に泊まってもらいたいという父の気持ちはわかる。母は、看護師では対応できない細かい世話をしてくれる。とくに下の世話を看護師にしてもらうのはすごくイヤがっていた。また、いつあの痛みが襲ってくるかわからない。なので、母にそばにいて欲しいという気持ちは理解できる。
 そして、母の気持ちもよくわかる。母だって、できれば父のそばにいたいのだ。しかし、ほとんど眠らずに徹夜で父の看病をし、からだをさすったり看護師を呼んだりして、もう疲れきっているのだ。私でさえ今日はすごく疲れたのだから、80歳に近い母はなおさら疲れているいるはずである。母が倒れてしまったら父も困ることになる。
 少し考えればすぐにわかることだが、病人だけでなく、病人を介護する人のことも配慮しなければならないことを、今日は身に染みて知った。病人も苦しいだろうが、介護する人も苦しいのである。



 9月23日 水曜日
 今朝、クルマで母の住む実家に行き、母を乗せて病院に行くつもりだったが、朝、母から電話があり、「体調が悪くて今日は病院に行けないから、お父さんをよろしく頼みます」といわれた。
 ついに怖れていたことが起きたが、しかし少し疲れただけで病気になったわけではないようなので、ひとまず安心した。
 そのため、私はひとりで病院に行き、朝の7時から11時くらいまで、父の身の回りの世話をした。今日は比較的調子がよさそうで、上半身をを起こしてベッドに腰かけ、その姿勢で自分で朝食を食べた。といっても、重湯とみそ汁を数回すすっただけであったが、それでも、上半身を起こして食べたということは、ここ最近なかったことで、それだけでも嬉しいものを感じた。髭がだいぶ伸びていたので、電気カミソリで髭を剃ってあげた。

 午後4時に再び病院に行った。
 父の大きな悩みは排尿であった。これまではオムツをしたり尿道カテーテルをしたりなど試したが、オムツは尿をした後が気持ちが悪いし、かといって排尿のたびに看護師に交換してもらうのも抵抗があったようだ。尿道カテーテルは、うまく尿が出ないのと、違和感があったり、また尿道を傷つけて出血したり痛みがあるという欠点があった。しばらくオムツをしていたが、午後に行くと、尿道カテーテルをつけられていた。

 夕方になり、「調子がよくなったのでちょっとだけ病院に来た」と母がやってきた。そして1時間ほど身の回りの世話をして帰った。

 入院して3週間くらい過ぎたが、なんだか父を見舞い世話をすることが、ある種の習慣というか、生活の一部になってきたような気がする。今までは突然のことで、まるで悪夢を見ているような気持ちで毎日を過ごしてきたが、最近は、これを現実として受け止め、まもなく父が亡くなるという運命も、淡々とした気持ちで受け入れることができるようになった。



 9月24日 木曜日
 今朝、母を連れて父の見舞いに行くと、父はまた一段と弱っている感じがした。もはや自分で寝返りをうつ力もない。ただ、なぜかよくしゃべる。話すことはそれなりのエネルギーがいるはずだが、とにかく、驚くほど話す。しかし、日ごとに聞きづらくなっており、何を言っているのかよくわからないことが多くなった。しかも、ときどき意味不明のことをいう。入院するまで父はボケてなどいなかったが、ここ数日はずいぶん痴呆的になった。といっても、全面的にボケたわけではなく、ときどきしっかりとしたことを言う。
 母は、今夜も泊まる予定だ。父がいった。「俺はあと3日くらいで仏さんになるから、それまで毎日泊まってくれ」と。また、「こんなに辛いんなら、早く死んだ方がいい」とも言っていた。母もこっそりと私に、「お父さんがこんなに辛い思いをするなら、早く逝って欲しいと思っている」と言った。

 午後、自宅にいると、病院にいる母から電話があり、「病院から出ていってもらいたいようなことを看護婦長に言われたから、早く来てくれないか」と、不安そうに言ってきた。母は高齢であり、少し耳が遠いということもあって、しばしば事実誤認の傾向があったので、まさかそんなことはない、何かの間違いだろうと思いながら、とにかく病院に行ってみた。すると、看護婦長から声をかけられ、個室に呼ばれた。
 婦長が言った。
「もうすぐ在宅(退院して家に戻る)をしていただきます」
「それについては、本人の状態を見ながら臨機応変に対処するということになっているはずですが」
 このように私がいうと、婦長は「そんなこと聞いていない」という。
 私が、「どうも、コミュニケーションがうまくいっていなかったようですね。私は確かにそう言ったつもりでしたが」と言うと、婦長は「そんなこと聞いていない」の一点張り。そして、「うちはホスピスではないんです」という。「そちらの希望通り、検査などもなるべくしないようにしてきました。しかし、この病院はホスピスではないんです」と。だから退院して出て行けといいたげなニュアンスであった(婦長は、私がホスピスに勤めていたことを知っている)。
「検査をしないでくれという私たちの要望が気に入らなかったのですか?」と私が尋ねると、そうではないという。

 ホスピスではない、というのは、いったいどういう意味なのだ?
 病院というところは、患者を安楽にさせることも、大きな役割ではないのか? 病院というところは、治療の方針を、患者と相談しながら進めていくところではないのか?(事実、この病院の方針として、そのことが待合室に掲げられている)。
 昼も夜も、寝ているところを血圧だ体温だ採血だといって安眠を妨げられ、「拷問だ! このままでは病院に殺される」とまで父が苦しそうに訴えていたので、私たちは「すべて責任はこちらが持つから、緩和ケアに必要のない検査はしないでください。寝ていたら、時間をずらして起きているときに検査をしてください」と頼んだだけなのだ。ただ、それだけのことなのだ。こんなことは、ホスピスだろうと普通の病院であろうと、関係ないのではないか?

 常識的に考えて、健康な人だって、寝ているところを起こされたら調子が悪くなるだろう。病人ならなおさらである。具合を悪くさせ、「拷問だ。殺される」というほどの苦痛を与えてまで検査をしなければならないほど、重要な検査だとでもいうのか? いくら検査をしたって、そのために具合が悪くなったら、そもそも検査に何の意味があるというのか? 検査をする目的は元気になってもらうためであろう。これでは本末転倒ではないか。仮に検査が必要だとしても、決められた時間にきっかりとしなければならないのか? 寝ていたら、少し時間をずらして起きているときに検査をしてはいけないのか?

 現在の医療のあり方が、まさに患者不在で、物事を総合的に判断することなく、ほとんど機械的な手順にしたがって、役所的に処理されている実態がしみじみと感じられた。私が「これは医療そのものに関する問題だ」というと、婦長は、またしても「そうではない、そうではない」と一点張り。
 仮に百歩ゆずって、私が在宅をすると決めていたとしても、現在の父の様子などを考えて、「在宅というようにいっておられましたが、現在のお父様の状態などを考慮すると、あるいはこのまま病院にいた方がいいかもしれません。もう一度、お考えになってみてはいかがですか?」くらいの言葉があってもいいのではないだろうか?
 それなのに、「在宅するといったでしょ。うちはホスピスじゃないのよ。だから出ていきなさい!」といわんばかりの、威圧的で、傲慢ささえ感じられるようなものの言い方を、なぜ私たちが言われなければならないのか?

 さすがに私も腹が立ったので、こういった。
「私たちだって、父が歩けるくらいになれば、在宅をするつもりでいましたよ。そちらだって、当初は、父の歩行訓練のような計画があるということを言っていましたよね。だから、私たちも在宅を考えたんです。しかし、歩行どころか、どんどん弱くなっていくばかりではないですか」
 すると婦長は、「私たちは、そのつもりで、検査をしてきたんです。それをあなたがやめろといったんですよ」
 私たちが(安眠を妨げ、患者が「拷問だ。殺される」といっているほどの)検査を拒んだから、歩けるようにならなかったのだと言わんばかりの返答である。
「ならば、そちらのいう通り、素直に検査をしていたら、歩けるようになったのですか?」というと、「それはわかりません」という。
「その通り。わからないんですよ。だから、患者の様子を臨機応変に見ながら、対応を決めていかなければならないんじゃないですか? それなのに、在宅しなければならないような、そんな言い方をなぜするんですか?」
 そのように言い返した。本音をいえば、検査などあのまま続けていたら、歩けるようになるどころか、今頃はもう死んでいるとさえ、私は思っている。実際、父もこういっていた。「あのまま昼も夜も検査をされて起こされていたら、今頃は死んでいたよ」と。
 婦長は、「結局、あなたはどうしたいんですか?」というので、「あくまでも正式に決定したわけではないが(また言ったとか言わないとかいわれるとイヤなのではっきりとこう断ったうえで)、今の私の考えでは、もう体力もないし、痛みが来てもすぐに対処できなくなるから、在宅は無理だと考えています」といった。そして、正式には、明日、ケアマネの人が来るので、その人の意見も聞いてその後で表明します、と答えた。
 すると婦長は、「わざわざ病院に来てもらうのも悪いから、いま、在宅はしないと決めた方がいいのではないですか」と言った。もちろん、わざわざ病院に来てもらうのは申し訳ないと思うが、こういうことは重大なことなのだ。あとで「やっぱり在宅を希望します」などということはもうできないのだ。だから、慎重に判断すべきことであるはずだ。なにも3日も4日も待ってくれといっているのではない。一日だけ待って欲しいと言っているのだ。このような普通の状態では考えたことがない状況を考えなければならないのだ。それなのに、なぜ結論を急がせるのだ?
 なぜこの婦長は、「ご足労をかけてしまうのは悪いから、今すぐに決めて、明日は来なくていいようにいま電話をかけましょう」などと急ぐのだ?
 そのへんも、私にはとうてい理解できないものであった。
「父は、このままこの病院で最期までめんどう見てくれるのですか?」
 このように尋ねると、婦長は、「このまま病院でケアをするか、退院してもらうかは、ドクターが決める」といった。
 だったらなおさら、なぜ在宅をキャンセルすることを急がせるのだ? もしキャ ンセルして、そのあとでドクターからこの病院では見とれないから出ていけといわれたら、いったいどうするというのだ。このへんの対応も、まったく無責任としか思えなかった。
 とりあえず、この件については、明日ドクターと相談するということで話は終わった。

 私もかつては病院の側にいた人間であるから、病院側の苦労や事情というものも、それなりに理解できているつもりだ。いくら医師や看護師が人間的にいい人でも、システムや制度上の問題で、まずい対応をせざるを得ないという場合もある。
 また患者は、病院や医師や看護師に過剰な期待や理想を抱く傾向もある。医師や看護師だって聖人ではない。欠点もあるし、弱さもある。重労働で疲れていたり、個人的な悩みなどで、ついイライラしたり、不適切な振る舞いをしてしまうことだってある。そういうことは、お互いに人間として許し合っていかなければならない。

 しかし、謙虚さと向上心だけは忘れないで欲しい。なぜ「あなたは在宅をするといいました」と、一方的に決めつけた言い方をするのか? 自分は間違っていたかもしれないという発想がなぜ浮かばないのか? なぜ「そうでしたか。それではお互いに誤解があったようですね。では、これからどうするか、あらためて相談することにいたしましょう」といえないのか? なぜ私が「これは医療そのものの問題だ」といったときに、頭から「そうではない、そうではない」などというのか? なぜ「それはどういう意味なのですか?」と、私の言おうとしていることに耳を傾け、お互いに理解しようという姿勢が取れないのか?
 なにも、患者を一般のサービス業のような「お客様」扱いしろなどと言っているのではない。しかし、もう少し理解があってもいいのではないか?
 このようなことは、システムや制度の問題ではなく、結局は個人の人間性の問題であると、私は思う。

 このようなやりとりをして、私はこの病院に対する不信感が強くなり、疲れてしまった。母には「出ていかなくても大丈夫だよ」と答えて、今の婦長との会話については知らせなかった。母は安心して「よかった、よかった」といった。母の理解力にも問題があるのかもしれないが、しかし80歳にもなろうとする年老いた女性に、たとえ誤解であったとしても、そのような不安な誤解を抱かせるようなことを言った病院にも問題があるように思う。あんな弱々しくなった自分の夫に「出ていけ、家に戻れ」と言われたら、どれほど心細く不安になってしまうことか。そういう配慮があれば、誤解を招くような言動などしないはずである。
 あるいは、このような仕打ちを私たちが受けたのも、病院に「余計な要求」をしたための、ある種の「報復」なのだろうか?

 事実かどうかはさておき、患者の家族の側からすれば、患者はある種の「人質」である。医師や看護師の気分を損ねたら、ケアに手を抜かれるのではないかという懸念をどうしても抱いてしまう。そのため父も私に「余計なことはいうなよ」といっていた。そんなことはないのだと信じたいが、世の中にはいろいろな人間がいる。すでに述べたように、医師であろうと看護師であろうと聖人ではない。とくに、今回のような対応をされると、ますますこの懸念が強くなってくる。
 患者の家族は、ただでさえ不安や悲嘆と戦い、介護と戦い、あるいは経済的な悩みと戦い、その他、さまざまなことと戦っているのだ。
 さらにそのうえ、本来なら味方であってくれるべきはずの病院と戦わなければならないのか・・・・。



 9月25日 金曜日
 今朝、父を見舞いに行くと、また一段と衰えた様子で、しかも、認知の障害もまた一段とひどくなっていた。言葉が聞き取りにくいということもあるが、とにかく話すことの大部分が意味がつかめないようになってしまった。いったいなぜこのような認知障害が生じてしまったのか、不思議である。
 それでも、ときどきまともな受け答えもする。私が質問した。
「人生で、楽しかった想い出は何ですか?」
 すると父は、「慶子(母の名)と、なんとか山へ一緒に登ったことかな」
 と答えていた。
 母は、病院に泊まっていた割には元気であった。
 その後、私もすぐに自宅に戻り、母もしばらくして自宅に帰ったようだ。

 そして、午後3時に、再び病院に行き、市の高齢介護課で認定調査員の人と会い、父の介護認定の度合いを調べてもらった。手足を伸ばすことはできたが、起きあがることはできない状態だった。また、認知障害が強く、生年月日は言えたが、自分の名前を言うまでに少し時間がかかり、「今の季節は何ですか?」という質問には答えられなかった。そして、調査の人が私を指さして「この人は誰ですか?」と質問すると、父は私を見てニヤニヤし、「小さい頃にむにゃむにゃむにゃ・・・」と言っただけで、結局、私が誰なのか、答えることができなかった。ただ言葉が出てこないだけなのか、それとも本当に私が誰なのかわからないのか、そのへんははっきりしない。ただ、私が病室に行けば、「あなたは誰?」とはいわれず、知っている人のように接するので、ある程度はわかっているのだと思う。
 いずれにしろ、私が誰であるかはっきりと答えられなかった様子を見て、いったいどうしてここまで認知障害が進んでしまったのか、驚いてしまった。
 調査に来た人がいうには、高齢の人が入院すると、急に認知障害が進行することがあり、そう珍しいことではないという。自宅に戻って普通の生活をするようになるとよくなることも多いらしい。それにしても、いったい父の頭のなかではどのようなことが進行しているのか? 脳細胞が空洞化しているのだろうか? それともあくまでも心理的な要因なのだろうか? 入院して一ヶ月もたっていないのというのに、この急激な変貌ぶりは信じられないくらいだ。

 その後で、ドクターと面会するために、私は病室で待っていた。
 もしドクターが、昨日の看護婦長のように「うちはホスピスではないから、病院から出ていってもらう」などと言ったら、私は本気で病院を告訴するつもりでいた。そのための資料として、会話を録音しておこうと、こっそりと胸ポケットにICレコーダーをしのばせていた。告訴するのは、自分たちだけのためではない。誰が見たって搬送するのが危険なくらい弱っている患者を、ホスピスではないなどというわけのわからない理由で患者や家族の希望を無視して退院させるような病院であるならば、他の患者さんも苦しんでいるに違いないし、これからも苦しむ患者さんや家族を出すことになるだろう。そのためにも、ゆるすことはできないと思ったからだ。こんなことはしたくはないが、私はやらなければならないと決意した。

 ところが、ドクターから呼ばれて個室に入ると、開口一番こう言った。
「もうお父様は、自宅に搬送できるような状態ではありません」
 そして、このまま病院で看取ることになるという前提で話が始まった。
 なんだ、ドクターはよくわかっているではないか。
 いったい昨日の看護婦長の話は何だったのか?
 どうも、ドクターと看護婦長の見解はバラバラで意思が疎通されていないようだ。というより、昨日のことは、どうも看護婦長の独断的な見解であったと思われる。医師と相談して私にあのようなことを言ったのではなく、看護婦長が勝手にあんなことを言ったようなのだ。
 あの婦長はわけがわからない。とても自宅に搬送できる状態ではない、もしそんなことをしたら患者の寿命を縮め、しかも非常な苦痛を与えるであろうことは、素人の私が見てもわかることなのに、いったいなぜ一方的に、あんなことを言ったのか? 正直なところ、少し頭がおかしいのではないかとさえ疑いたくなる。

 ということで、ドクターの理解を得て私も安心し、告訴をする必要はなくなった。ただ、あのような婦長と今後もかかわっていくことになる患者さんとその家族、また、あのような婦長のもとで働く看護師さんは、気の毒だなと思った。

 ところで、ドクターは、父の寿命は、あと二、三日くらいではないかと言った。もしかしたら今夜にでも亡くなる可能性もあると。
 そのことを母に伝えると、母はもう覚悟はできており、少しも動揺せず、早く楽にしてあげたいという思いの方が強くなっていたので、むしろそのことを歓迎しているような感じでさえあった。

 そして、葬式などはどうするかを、簡単に話し合った。この点については、父は葬式もなにもいらないと言っていたし、母も、私も、家族全員が同じ意見だった。すなわち、葬式も通夜も告別式もなし。坊主の読経だとか戒名などもなし。墓もなしである。死んだら法律で定める24時間が経過した後で火葬にし、とりあえず骨は母の住む実家でしばらく保管する。そして死んだことを親戚や知人にはがきで報告する。それですべておしまい、ということで一致した。母も私も、自分が死んだときもそうして欲しいと語った。

 母は、今夜も病院に泊まると言った。昼に自宅に戻ってしばらく休んだから大丈夫だという。私は母の健康も心配ではあったが、あと二、三日なら、多少体調を崩すようなことになったとしても、父の最期を見取った方が後悔はないだろうと思い、病院に泊まるという母の意向を尊重することにした。



 9月27日 日曜日
 昨日の土曜日の朝、父を見舞いに行くと、比較的状態は安定しており、元気とまではいわないにしても、穏やかな感じだった。
 ところが、一度帰宅して、午後に見舞いに行こうとしたとき、病院から電話がかかってきて、父は血圧などがかなり低くなっており、できれば早く会いにきた方がいいでしょうといわれた。
 そこで、妻と娘と一緒に急いで出かけ、病室に入ると、朝の状態とはうってかわり、父はベッドの上で「あ〜、あ〜」とうなりながら、譫妄状態で横たわっていた。両手を、まるで手話でもしているかのように盛んに動かし、ときおり腹部や胸のあたりを押さえたりさすったりしていた。その様子がしばしば苦悶に満ちて辛そうなので、看護師に、鎮痛剤や安定剤の点滴を打ってもらうように頼んだ。すると、しばらくして、痛みはなくなったように見えたが、呼吸は苦しそうだった。呼びかけに対しても、もはやほとんど反応しなかった。看護師が、心拍、血圧、血中の酸素濃度、呼吸数などをモニターする機械を部屋に運んできた。血圧は最高が50から60くらい、心拍数は70から90くらいを刻んでいたが、痛みなどで苦しそうな表情を浮かべるときは、心拍数が120を超え、瞬間的には200を超えることもあった。酸素濃度は98くらいで問題はなかったが、呼吸数は警報ブザーが何回も鳴るほど異常値を示していた。
 夕方、母に様子を見てもらって、妻と娘と近くのファミレスに夕飯を食べに行った。母は近くのコンビニで買ったおむすびを部屋で食べた。一時間ほどして戻ってみたが、状態は変わらず、半眼で苦しそうに「あ〜、あ〜」とうめいている。看護師がいうには、本人は意識が朦朧としているので、はたで見ているほど本人は苦しんでいないのではないかと。また、「あ〜、あ〜」という声は、苦しみの声ではなく、呼吸をするために力んでいる声ではないかとも言っていた。
 しかしいずれにしても、家族からすると、なんとも気の毒で、なんとかしてあげたいと思ってしまうような状態に見えた。
 私は、「多少、死期を早めることになったとしても、モルヒネなどを使って苦痛を緩和してください」と頼んだ。すると看護師は、モルヒネの使用は医師の許可がなければ使えない。また、モルヒネは薬局にあって病院にはない。しかも休日なのですぐには手に入らないという。私はそれを聞いて唖然とした。このようになることは十分に予想できたはずなのだから、すでに医師の許可を得て、いつでも使えるように準備されているものと思っていたのだ。
 そこで仕方なく、モルヒネ以外の鎮痛剤を繰り返し点滴で投与してもらった。幸い、それがまあまあ効いたようで、苦悶に満ちた表情は少しずつ消えていった。
 そして、とりあえず今夜は大丈夫だろうと思い、母は病院に泊まることにしたが、私たちは自宅に戻っていった。ところが、自宅に到着する直前に母から携帯に電話があり、やはり血圧が非常に低くて危ない状態なので、今夜はやはり付き添っていた方がいいでしょうといわれたとのこと。
 そこで、私たちはすぐに病院に引き返した。そして父のベッドの脇に座った。
 しかし、改めて血圧を測定してみると、少し上昇していたので、今夜は大丈夫ではないかと看護師が行ったので、11時頃、母と私はそのまま病室に残り、妻と娘だけ家に帰すことにした。

 そして、母と私は、ほとんど眠らずに、父の看病をした。点滴を打つように頼んだり、体をさすったり、声をかけたりした。また、うちわで顔をあおぐと、なんとなく気持ちよさそうな表情を浮かべているように見えたので、何回もうちわであおいだりした。明け方頃、猛烈な眠気に襲われ、それと戦うのに苦労した。父は何時間も同じように、「あ〜、あ〜」とうなりながら、両手を動かしたり、ときおり腹部や胸のあたりを押さえたりさすったりしていた。
 翌朝の8時に、妻と娘がやってきたので、バトンタッチということで、父を見てもらい、休憩するために母を実家に送っていき、私も自宅に戻ってシャワーを浴び、1時間ほど眠った。
 そして、11時くらいに再び実家に行き、母をクルマに乗せて病院に行った。
 父はあいかわらず、意識が混濁したまま「あ〜、あ〜」と声を出していたが、苦しそうな感じではなかった。また、両手もあまり動かさなくなっていた。
 私は母に、たとえ意識がないように思えても、手を握り、顔を見つめ、声をかけてあげるように言った。母はそのようにして、「今まで辛かったね。でも、もう大丈夫ですよ」と、父の顔を見ながら声をかけていた。それに対して父の反応はなかったが、私は完全に知覚能力が失われてしまったとは思っていない。たとえわずかでも、母のことや母の言葉を知覚している意識を持っていると思うのだ。私も手をつかみ、「お父さん、ありがとうございました。そして、お疲れさまでした」と言った。

 父は、強く瞬間的に息を吸い、ゆっくり吐くという呼吸を繰り返していたが、その呼吸の間隔がしだいに短くなっていった。脈拍は、看護師がうまく測定できないほど低くなっていた。酸素濃度も80を下回るくらいになった。
 午後、3時を過ぎる頃、心拍数は40から50くらいになり、心電図を見ると、そのストロークの大きさが非常に小さくなり、不規則になっていった。もはや「ドキッ、ドキッ」という心臓の鼓動ではなく、「ポツッ、ポツッ」といった感じになった。
 そしてついに、息をしなくなった。モニターを見ると、心臓の鼓動はなおも微弱ながら動いていたが、血液を循環させているような感じではなく、父は動かなくなった。ところがしばらくすると、痙攣するように口を動かし、息を吸うような反射的な運動を見せた。なので母も私もまだ生きているのかなと感じたりもしたが、心電図はほとんどフラットになっており、呼吸数もゼロを示していた。
「お母さん、お父さんは亡くなったよ」
 私がこういうと、母は目頭を押さえて静かに泣いた。まもなく看護師がやってきて、瞳孔に光を当てて瞳孔が開くかどうかのチェックして、亡くなりましたねと言った。そして次にドクターがやってきて、同じように瞳孔の検査をした後で、「9月27日、午後3時37分、ご臨終です」と言った。それを聞いて再び母は涙を静かに流した。
 すぐに妻と娘がやってきて、父と対面した。中学一年生になる娘も静かに涙を流した。

 まもなくして、看護師二人がやってきて、「これから(遺体の)体を拭きます。(遺体に着せる)着物を持ってますか? え? 持ってない? それでは困ります。一階に売ってますから、買ってきてください」といった。そのつっけんどんな態度、たったいま家族を失った者に対する配慮のかけらも感じられない事務的で横柄な言葉に一瞬ムカッと来たが、ここでへんに不調和な雰囲気を作っても父も母も嬉しくないだろうと思ってじっと我慢した。

 遺体を拭いて着物を着せてもらっている間、私はインターネットで調べておいた葬儀会社に電話をした。すると、今から遺体を引き取りに来るという。待っていると6時に葬儀会社の人が来て、父の遺体をクルマに乗せた。本来なら火葬する祭儀場の霊安室に保管するのだが、もう受付の時間が過ぎてしまったので、とりあえず会社で持っている霊安室に保管しますということで、父の遺体を運んでいった。

 その後、私と妻と娘、そして母の4人でファミレスで食事をした。母は思いのほか明るかった。父の死は、母にとっては父が苦しみから解放されたことを意味しているようだった。なので、これでよかったという意味のことを言っていた。食事のときは笑顔さえ見られた。また、「それにしても、人間はあっけないわね。ほんの一ヶ月前までは元気だったのに」とも言っていた。

 食事の後、母を実家まで送っていった。実家には、父の手作りの鶏小屋、花壇、物置、愛用の椅子や道具、その他、父の手によって作られたさまざまなものがある。それを見ると父を思い出さないではいられない。「ああ、もうこの庭に父の姿を見かけることはないのだ」と思った。すると、今さらのように、とても寂しい気持ちがこみあげてきた。



 9月29日 火曜日
 おととい、父が病院で亡くなり、葬儀屋が父の遺体を仮の安置所に引き取っていった。そして昨日、葬儀屋が地元の斎場の安置所に遺体を移し、そのあとで自宅に来て、火葬の打ち合わせをした。
 すでに述べたように、父は、葬式も墓も、僧侶の読経も戒名も、何もいらないと言っていたので、火葬だけをしてもらうことにした。
 遺体の搬送費、一泊ぶんの遺体の安置料金、火葬料金、骨壺、棺桶、死亡届および火葬許可証の手続き代行費用すべてを含めて、料金は18万8千円だった。私はこれでも少し高いかなと思ったが、葬式をすると最低でも40万円もするみたいなので、それに比べれば安いといえるだろう。

 そして本日、午前10時に、母と妻と娘の4人で地元の斎場に行った。そこではほかの家族が盛大な葬式をしていた(偶然にも娘の小学校時代の先生の親戚だった)。火葬だけというのは、私たちだけであったが、葬儀屋がいうには、こういう人は最近とても増えているという。

 以前、僧侶が書いた本をたまたま読んでいたら、「葬式をしないとか墓を持たないという人はけしからん」みたいなことが書かれていた。
 しかし、そのようなことをいう方がけしからんと私は思う。その僧侶によれば、先祖を敬う日本古来のよき風習を無視するのはよくないというのだが、先祖を敬うことと、盛大に葬式をしたり墓を作ること、読経をし戒名をつけ、あとは飲み食いしただけで、平均的なサラリーマンの一ヶ月分か、それ以上の報酬をもらう僧侶を呼ぶこととは、何の関係もない。むしろ、こういうのを悪しき風習というのだと、私は思う。
 たいていの場合、遺族の人は、ただでさえ治療費やら入院費やら、その他あらゆることで大きな出費に苦しんでいるのだ。そのうえ、家族を失った悲しみを抱えているのだ。そんな、人の死につけこんで、社会常識上、法外ともいえる金を要求するとは、いったいどういう神経をしているのか? そんなに日本古来のよき風習が大切だというのなら、ボランティアでやればいいだろう。これはもう、風習や伝統という名目をかさにきて金を巻き上げようとする、ある種の悪徳商法であるとさえ思いたくなる。私たちはこれがずっと当たり前のことのように“洗脳”されてきたからおかしいと思わないだけで、たとえば今までこんな風習が日本に存在せず、新興宗教などがこういうことを始めたとしたら、たちまちマスコミや社会から大反発をくらうであろう。
 そもそもお釈迦様は葬儀をする事は否定し禁じていた。それなのに、仏教徒を名乗る坊主が葬式に関わる(というよりほとんど葬式しかしない)というのは、どういう事なのか? 仏教の根本からしても間違ったことをしているのである。葬儀のありかたについても、チェンジするべき時代が来ているような気がする。

 それはともかくとして、火葬だけで葬式をしない、僧侶も呼ばない、墓も作らない事を、先祖を敬っていないとか、反社会的であるとか、日本古来の風習を無視したけしからん事だと決めつけるべきではない。故人が葬儀を望み、家族も望むならすればいいし、望まないならしなければいい。それだけのことだ。故人も家族も望まないのに、風習だから、世間からへんに思われるから、という理由でする必要はないし、そのような気持ちにさせてしまう風潮を作り出すべきではない。

 炉に入れる前に、棺桶に眠る父の遺体に、家族で花を添えた。
 そして、炉に入れて、待つことおよそ1時間。次に私たちが見たものは、金属製の台車の上に乗せられた白い骨の小さな山だった(頭蓋骨のかけらだけは他の骨と分けられていた)。これが父の骨のすべてかと思われるほど少ないもので、どれがどの骨か見分けがついたのは大腿骨の一部くらいなもので、あとはどの骨かわからないほどだった。
 そして、金属の箸を使い、骨をふたりでつまみ、骨壺に入れた。頭蓋骨のかけらは直接に手でつかんで入れた。
 すべての骨を入れると、骨壺を木製の箱に入れ、その箱を白い布製のカバーで包んでもらい、私がそれを持って、斎場を後にした。
 これで、すべて終了だった。時間にして2時間くらいだった。このシンプルさがなんともいえず、すがすがしかった。まさに質実剛健だった父の生き様にふさわしいものだと、母も私も思った。

 その後、テイクアウトのお寿司を買って家族全員で実家に行き、一時的に設けられた質素な祭壇に骨壺を置いて、その前で昼食をとった。ようやく父は家に帰ることができた。母がまぐろといかを小皿に取って祭壇の前に置いた。
 そして私たちは、父の死がすでに遠い過去のものであるかのように、明るい雰囲気で、和気あいあいと歓談しながらお寿司を食べた。私は午後から、仕事のために外出した。悲しみや寂しさがなかったわけではない。しかし人間は、どんなときも前を向いて生きていかなければならないのだ。母も私も、そのことを自覚していた。それは父の望むところでもあるだろうから。

 この一ヶ月、父の死を通して、いろいろなことを学んだ。人間が死ぬときに後悔しない生き方、また、家族の死に対して悔いのない最期のケアについて、さらには現代医療の問題点なども学んだ。家族の病気と死をきっかけに、家族全体の絆が深まっていくこと、また深まっていかなければならないことも学んだ。
 おそらく、死んでいく者がもっとも強く望むことは、残された家族がこれからも仲良く助け合って生きていくことであろう。

 霊感のあるらしい、私の女性の友人から、「お父様から斉藤さん宛にメッセージを受け取ったのでお知らせします」というメールが来た。
 そこにはこう書かれていた。

 もう大丈夫だから・・・痛くも辛くもないから・・・安心していいから・・・。
 息子を本当に本当に誇りに思っている。
 親子として生まれてきたこと、一緒に人生の時間を過ごせたことがとてもとても嬉しい。
 お母様のことを大事にしてねということ。
 大丈夫だからということと、ありがとうという言葉・・・何度も聞こえてきました。


   −おわり−
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